久保田 穣 説は正しいか

1. 自称 日本を代表する弁護士 と やらが論を主張する…


図書館で何か面白い本は無いかと探していた際に、以下の書籍を見付けた

邪馬台国はどこにあったか/久保田穣/著 本・コミック : オンライン書店e-hon
邪馬台国はどこにあったか | 久保田 穣 |本 | 通販 | Amazon

これが又予想しない方向に面白いので質問でも送ろうか と思って Web を探したが、どうも 久保田氏 は自身の Webページを公開していない らしい
言いたい事だけ言って批判は聞く耳持たない と言う事か…

なお、書籍の後ろ には以下の紹介書き が添えられて あった

[著者紹介]
特許法や国際間の仲裁など知的所有権問題、国際関係問題で日本を代表する弁護士である。
弁護士活動で鍛え上げたと言う調査能力と理論能力を駆使し、「邪馬台国」論争に終止符を打つべく、本書を完成させた。

弁護士の調査能力と理論能力が どの程度のものか、本 Webページで是非を明らかに して行くと しよう



2. 久保田説の立論前提


久保田氏 の論説では、前提として里数を信憑性が無い として殊更に無視し、方角と日数は信用するに足るものと して論を進めている
氏の著書から引用して見よう
【邪馬台国はどこにあったか】 P.76

著者 : 久保田 穣

国間距離は全く当てにならない
魏使が測量したはずはないから、旅をした際の感じであろうが、この魏使は距離感知能力がなかったようである。
特に郡と女王国間の距離一万二千余里は全く信用できない(前にも述べたが、なお後でも述べる)。

この人は周髀算経や九章算術を知らないので あろうか?
いや、こう言った数学を用いずとも、古代中国では もっと実践的な測量と方位判定に ついて実績が ある

例えば以下は常に一定の方角を示す、指南車と言う代物で ある

指南車 - Wikipedia

これ自体は方位を判定するだけで あるが、これには車輪が付いているので、これを利用する事で車輪円周距離測定を行う事が可能と なる
現在では、以下の(よう)な製品が市販されている

ローラー距離計の選定・通販|MISUMI-VONA【ミスミ】

測量と言うと専門業者に よる大掛(おおが)かり な作業と言う先入観に よる陥穽(かんせい)(おちい)ってしまうかも知れないが、別に現代日本の様に測量技師が専門機材を利用して精密地図を作っていた(わけ)では無いので、測量と言う(ほど)の労力は費やしては いなかったで あろう

上記の車輪周距離測定法で あるが、車輌の車輪が一回転した際の進行距離は一定なので、古代に おける平地での測量は これで行っていたものと思われる
別にコロンブスの卵と言う程では無いが、原理を分かってしまえば どう言う事も無く、また別に指南車で ある必要も無い
それこそ以下の様なリヤカーや手押し車を人が牽引するか牛馬に()かせるか、(ある)いは人が手で押すか すれば良い

リヤカー - Wikipedia
手押し車 - Wikipedia

この程度の物で あれば船にも容易に()せられる で あろう
更に車輪の外側に一本金属棒を取り付け、荷台の車輪近くに(かね)を載せて車輪の金属棒に当たる様に して おけば、車輪が一回転する度に鉦が鳴る
これで、

車輪一周の長さ(=車輪直径 × 円周率) × 鉦が鳴った回数 = 進行距離

と なり、測量の素人で あろうと簡単に行程距離を算出する事が可能と なる
なお、陸行,水行の際に測量を行っていた文献として、夏王朝の始祖 禹 の伝承が ある
【史記】 卷二 夏本紀第二

原書名 : 太史公書
撰者 : 西漢朝 司馬 遷

禹爲人敏給克勤 其德不違 其仁可親 其言可信 聲爲律索隱:言禹聲音應鍾律 身爲度集解:王肅曰 以身爲法度 索隱:按今巫猶稱禹步 稱以出集解:徐廣一作士 索隱:按大戴禮見作士又一解云上聲與身爲律度則權衡亦出於其身故云稱以出也 亹亹(ビビ)穆穆爲綱爲紀
禹乃遂與益,后稷奉帝命 命諸侯百姓興人徒以傅土 行山表木集解:駰案尚書傅字作敷 馬融曰 敷分也 索隱:大戴禮作傅土 故此紀依之 傅卽付也 謂付功屬役之事 謂令人分布理九州之土地也 表木謂刋木立爲表記 尚書作隨山刋木 定高山大川集解:馬融曰 定其差秩祀禮所視也 駰案尚書大傳曰 高山大川五嶽,四瀆之屬
禹傷先人父鯀功之不成受誅 乃勞身焦思居外十三年過家門不敢入
薄衣食 致孝于鬼神集解:馬融曰 祭祀豐潔 卑宮室 致費於溝淢集解:包氏曰 方里爲井 井間有溝 溝廣深四尺十里爲成 成間有淢 淢廣深八尺
陸行乘車 水行乘船 泥行乘橇

集解:徐廣曰 他書或作蕝 駰案孟康曰 橇形如箕擿行泥上 如淳曰 橇音茅蕝之蕝 謂以板置其泥上以通行路也
正義:按橇形如船而短小 兩頭微起 人曲一脚 泥上擿進 用拾泥上之物 今杭州,溫州海邊有之也

山行乘檋

集解:徐廣曰 檋一作橋 音丘遙反 駰案如淳曰 檋車謂以鐵如錐頭長半寸施之履下 以上山不蹉跌也 又音紀錄反
正義:按上山前齒短後齒長 下山前齒長後齒短也 檋音與是同也

凖,繩規,矩集解:王肅曰 左右言常用也 索隱:左所運用堪爲人之凖,繩 右所舉動必應規,矩也 載四時集解:王肅曰 所以行不違四時之宜也以開九州,通九道,陂九澤,九山
令益予衆庶稻 可種卑濕 命后稷予衆庶難得之食
食少調有餘相給以均諸侯 禹乃行相地宜所有以貢及山川之便利

夏本紀第二 1

夏本紀第二 2


陸行や水行と言った語が この時点で(あらわ)れている と言う事実に驚いてしまう

大同(だいどう)の世の聖天子 禹 が測量器具と図面筆記具を離さず持ち歩いて河川や山稜を測量し恐らくは堤防を築いて治水を行っていた事が分かる
禹の活動領域や夏王朝の統治域は現時点で特定出来ていないが、仰韶村遺跡と関連が あったのかも知れない
となると禹の治水範囲は黄河と言う事に なる

縄は定規や鉛筆が無い時代に紙面に直線を引くための道具で、糸を墨に浸(ひた)して両側を持って糸を弾くと、墨の汁水(じゅうすい)が紙面に飛んで、確かに綺麗な直線を引く事が可能と なる
私も この縄と言う器具の実物画像を見て その道理を理解した
確かに これで あれば古代でも かなり正確な図面を書ける事が分かる
規は円を書く器具で、これに より古代人でも円と言う図形の基本的な概念を把握していた事が分かる
(ちな)み に山の高度を測る原始的な手法と しては、山から適当に歩いて低地から山を見上げた際の角度が直角の恰度(ちょうど)半分で あれば、山から歩いた距離と山の高さ が等距離に なる と言う ものが ある

これを読めば、陸行,水行の際に一人でも充分に測量が可能で ある事が分かる
魏使一向か、もしくは帯方郡吏が倭国に来逓(らいてい)した機会に行程を測ると言う事は可能で あった と言う事に なる
【邪馬台国はどこにあったか】 P.86

1. 日程記事

邪馬台国への行き方は、日程記事によって判断すべきである。
(1)こういうことは、第一に里程記事は考えに入れるべきでないということである。
倭人伝の里数は全く当てにならない
そしてどうしてそういう常識外の短里が出てきたか、理由も想像するだけで、よくわからない。
しかし、幸いなことに、里数を度外視しても伊都国までは大体そこに違いないというところがわかる。
そしてそこから邪馬台国への距離は水行、陸行の日数で書いてあるから(後述のように、私は魏使は伊都国から邪馬台国へ直接向ったと考える)、里数は考えなくてすむ。

これに関連して、先に紹介したように、九州論者のある人達は、郡から邪馬台国まで一万二千里で、伊都国まで一万五百里、それに奴国、不弥国までの距離を足すと一万七百里、だから邪馬台国は伊都国から千五百里、または不弥国から千三百里、そして倭人伝の「里」は短く、せいぜい百メートルだから、邪馬台国は伊都国から百五十キロ以下、あるいは不弥国から百三十キロ以下の圏内にあるはずだと言っているが(前述のように、奥野氏はもっと短くする)、私はそういうことをもって九州説の根拠とすべきではないと考える。
近畿説論者のなかで、この点を気にかけている人が多いようだが、すくなくともこれは気にする必要はないと思う。

こういう差し引き計算ができるためには、全体の一万二千里というのが確かでなければらならい。
しかし、この数値には全く根拠がない。

誰も測量などしたはずはないから、もし何かの根拠があるとすれば、魏使の旅からの推測だろうが、肝腎の魏使が、順次式なら不弥国─投馬国、投馬国─邪馬台国間、放射式なら伊都国─邪馬台国間、里数が出せずに所要日数を報告しているのである。
もし里数を出したなら、陳寿は当然、里数を書いたであろう。
つまり、重要な後半部分の里数がわからないのだから、全体の里数など言い得るはずがない。

一万二千里は、多分、何らかの想像に基づく、しばらく前からの漢人の間の言い伝えであろう(「東アジアの古代文化」八九号中の「放射式読み方再論」(二)の終りのほう参照)。
そういう想像の距離との間に差し引き計算などできるはずがない。

いやいや、里数は当然に気に かけるべき で あろう
何故なら、倭人伝には幾度と無く里数記述が現れて おり、倭人伝が現代に残してくれている貴重な情報で あるから で ある
これを ここまで否定してしまうと なると、自説に都合が悪いので見なかった事に したいと言う論者の本音が()けて見えてしまう
それに、上記に 禹 の陸行,水行と測量に関する文献を掲げている通り、魏使が測量した是非に ついては一概に断言して良い事では無い
少なくとも、水行,陸行した際に測量を行っていたと言う文献が残っている以上、魏使が倭国への行程を測量していた可能性は充分に あると言える
そして測量は一人でも可能で ある
【邪馬台国はどこにあったか】 P.88

(2)また、日程記事によって判断すべきだということは、里数が当てにならないからと言って、日数もでたらめだとは言えないということである。
旅程の日数は魏使の経験によっているはずである。
私は魏使は当然、邪馬台国へ行ったと思う。
九州説の人の中に、魏使は伊都国に留まって、それから先へは行かなかったという考えがあるが、とうてい賛同できない(第三部の(一))。
だから、特に信用できないという理由のない限り、これは正しいとみるべきである。
むしろ魏使の経験を記載した日程は、倭人伝中、信頼性の高いところである。

ただし、私は放射式読み方を採用するから、魏使は投馬国へは行かなかったと思う(後述)。
だから、投馬国への水行二十日は邪馬台国の位置とは関係がない。

また、私は邪馬台国への水行十日、陸行一月も、水行なら十日、陸行なら一月と読むが、(後述)、そうすると魏使がわざわざ両方の道を辿ったはずはなく、実際には水行しただけで(つまり、経験に基づくのはそちらだけである)、陸行の方は倭人からの伝聞、というより、魏使が倭人に、陸路を歩いたらどのくらいかかるかと尋ねたのに対する答えだと思う。

一方では日数は魏使の旅程経験を記述したもので あるから信用出来ると主張しているが、他方では倭人伝中に二箇所しか記載が無い日数記事の一つで ある投馬国への日数は魏使の旅程経験では無いと言う
随分と自身に都合が良過ぎる(ひと)()がりな論者で あり、本当に呆れてしまう
要するに、女王国への日数記事で ある水行十日陸行一月は正しい距離は全て無視したい、投馬国への水行二十日も無視したい、と言う事らしい

そして この論者は更に水行十日陸行一月の内 陸行一月も魏使の旅程経験では無いと認めてしまっている
水行二十日も陸行一月も伝聞で水行十日だけが魏使の旅程経験と(のたま)っている事に なるが、これでは頭のおかしい変人としか評価されまい
普通の思考回路を持ち合わせているので あれば、水行二十日と陸行一月が倭人からの伝聞と見做(みな)すので あれば残りの水行十日伝聞と見做す で あろう
【邪馬台国はどこにあったか】 P.95

放射式読み方の問題とは違うが、関連する「水行十日、陸行一月」の読み方について、私は榎氏のように「水行なら十日、陸行なら一月」と読む
漢文の文章としての先例はないようだが、私の知識でもそう読める
そして、ただ読めるというだけでなく、ここはそう読まなければならないと考える。
理由は、西日本の中で、まず船に乗り、目的地の近くで船から下り、それから陸行一月かかるようなところは、ないと思うからである。

いや、読めない
少なくとも私が 三国志 を読んだ限りでは 三国志 中に一例たりとも類例は存在して いなかったと思う
三国志 中に収録されている 魏略 西戎伝 や先行していた 史記 や 漢書 にも、見た記憶は無い

それでも この論者は自身の知識読めると断言してしまう(あた)り、さて何様(なにさま)なので あろうか?
これは要するに、水行十日陸行一月 を 水行十日 or 陸行一月 と読まないと自説に都合が悪いので、先例が無いのは承知の上で根拠の無い強弁を せねば ならぬ状況と言う事なので あろう
何やら不愍(ふびん)な気も するが……
【邪馬台国はどこにあったか】 P.101

前にも書いたが、私はこの二人の魏使は、おそらく初めて船に乗ったので、海上の距離の目算などできず、海を隔てた二地点の間の距離は常に千里と言うことにしたのだと考えている(倭人伝中、四回とも千余里である)。
詩的表現として、千里は普通である。
壱岐─呼子間、大河の川幅より広い。
千里と言いたくなる気持もあろう。

だから、もともと当てにならない里数にこだわるよりも、私は、全般的な状況の判断から、どこの次にはどこになるのが妥当かと考えて場所を決めるべきだと考える。
そしてその際、魏使が間違うはずがない(と私が信ずる)方角の記載は考慮されなければならない。

主張の腰を折る様で あるが、魏朝が始めて現地に赴任させた帯方郡守や楽浪郡守は黄海を渡って着任している
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 韓傳

撰者 : 西晉(晋)朝 陳壽(寿)

景初中 明帝密遣帶方太守劉昕,樂浪太守鮮于嗣 越海定二郡

船に乗った経験が無い者に黄海渡洋を命じる程 魏朝の明帝は愚帝では無い
黄海の向こう岸に ある両郡の平定を行う途中で船に酔ったり針路を取り(ちが)えたり する者が現地差遣官達を(ひき)いていては同行者も混乱するし、最悪の場合は船が目的地に着かずに難破してしまう事も考えられる
当然の事では あるが、太守任命の条件として水軍での戦闘や船舶での移動と言った要項も考慮されていた筈で ある

同様に、倭国に差遣される使者の選考条件には船舶移動の経験が要求されていた筈で ある
何故なら、倭国が島国で ある事は以前から明らかで あったからで ある
【漢書】 卷二十八下 地理志第八下 燕地

撰者 : 東漢朝 班固,班昭,馬続 等

然東夷天性柔順 異於三方之外師古曰 三方 謂南,西,北也 故孔子悼道不行 設浮於海 欲居九夷 有以也

師古曰
論語稱 孔子曰

道不行 乘桴浮於海 從我者其由也歟

言欲乘桴筏而適東夷 以其國有仁賢之化 可以行道也 桴音孚 筏音伐

[註1]樂浪海中有倭人 分爲百餘国 以歲時來獻見云

如淳曰 如墨委面 在帶方東南萬里
臣瓚曰 倭是國名 不謂用墨 故謂之委也
師古曰 如淳云如墨委面 蓋音委字耳 此音非也 倭音一戈反 今猶有倭國 魏略云 倭在帶方東南大海中 依山島爲國 度海千里 復有國 皆倭種
劉敞曰 夫字宜屬上句

註1:

有以也 夫樂浪海中有倭人 と あるが、有以也夫 樂浪海中有倭人 が正しいと註記に(しる)されている


漢書 は東漢朝に編纂された史書で あるから、魏朝から見れば直近の文献と言う事に なる
倭国の使者として立てられた者が、よもや 漢書 の倭人に関する記述を知らない訳が あるまい
にも(かか)わらず舟船(しゅうせん)に乗った事すら無い様では、使者の(にん)すら(まっと)うする事も(かな)うまい
【邪馬台国はどこにあったか】 P.156

倭人伝には「参問倭地 絶在海中洲島之上 或絶或連 周旋可五千余里」と言う文章があり、普通この五千余里は倭地の長さだとし、帯方郡から狗邪韓国までの七千余里に足して、一万二千余里になる、それは郡から女王国までの全体の距離が一万二千余里だという記載との整合性を示すと言われる。
しかし、先に述べたように、私は一万二千余里を全く信用しておらず、七千里プラス五千里の足し算なども成り立たないと思っている。
大体、この五千里は倭地の長さとは思われない。
ここで倭地のことを言ったとみるには記載が場所違いだし、内容的にもおかしいと考える。
邪馬台国の位置にはあまり関係ないが、一言述べておく。

倭国の風俗、政治状況についての記述が済んで、侏儒国が女王国から四千余里だとか、裸国、黒歯国へ航行一年で行けるとかいう後にあるのである。

そして内容的にいえば、陳寿に「倭地」の長さがわかるはずがない
「倭地」は邪馬台国(女王国)で終りになるのではない。
遠絶の国々がある(陳寿はそれ等が女王国の南にあるかのような書き方をしている)。
さらに邪馬台国の勢力下の南に狗奴国がある。
そして魏使はそれらの国を訪れていないのである。
だから「倭地」の長さがわかるわけがない

また、周旋五千里の「周も」「旋」も、「まわり」「まわる」という感じだから、「周旋」とはある地域の周囲の長さを意味していると思われる。
そうだとすると、これを倭地の端から端までの距離とし、七千里に足してちょうど一万二千里になるという算術をすることはできない。
榎氏は、周旋とはうねうねと続いていることだと言い、曲線的ではあるが、倭国地域の始まりから終りまでは、一万二千里から狗邪韓国までの七千里を差し引けば、既に直線的な行程で五千里あるから、その周囲の距離は(前述のように、陳寿は行程の周辺にも、倭に属する多くの遠絶の国のあること、すなわち倭地はふくらみを持っていることを知っている)、円周の三・一四倍ではなくても、五千里よりはもっと長く、一万里以上あるはずである。
だから、陳寿が倭地の周囲は五千里だと言うはずがない。

なお、「周旋」を直線的な辿った距離としても問題がある。
つまり、狗邪韓国を倭の一国とすれば、狗邪韓国から対馬までの距離千里をさらに引いて、倭地の距離は四千里になる。
だから五千里を倭地の長さだと見る人は、狗邪韓国を倭地と見ていることになるが、それは確定された事実ではない。

まぁ信用 する/しない は個々人の主観と言ってしまえば それまで で あるが…
しかし 12000里 と言う数値が(かか)げられている以上、それが測量値で あれ 或いは机上の算出値で あれ、何かしらの史料なり材料なりにもとづいていると見做す のが妥当かと思う
何故なら、三国志は陳寿の作文では無く撰録史書だから で ある
つまり、陳寿が勝手に夢想,想像,幻想した事を書き(つら)ねた文章では無いので あり、既に誰かが書き残した文書を撰者として取捨選択しただけなので ある
無論、序文や評文では陳寿の見解が述べられている箇所も あるが、基本的には西晋朝の史局に保管されていた文書群を利用して書かれている筈で ある

また、倭人が里程と言う概念を(かい)していたか に ついては、現時点では何とも言えない
もし度量衡に関する知識を持ち合わせていれば、倭地の周旋距離や侏儒国への距離も把握していた可能性は あろう

なお、周旋は両端間の距離では無く連環する不定形距離で あると する解釈には、完全に同意する
# 分かりにくく伝わりにくい表記で ある事は承知しているが、方円図形の一点から その一点に戻るまでの外周距離を指す

しかし、狗邪韓国は韓地の倭国版図で ある事に異論を(さしはさ)む余地は(ほとん)ど無いと思うが、さて どうで あろうか
【邪馬台国はどこにあったか】 P.46

ところが帯方郡を出発して経た韓国の二辺に少し欠ける距離を、倭人伝で七千余里と書いている(東夷伝中、倭人伝より前に、韓の「方」(四角形の一辺)を四千里ばかりと述べているところがあり、それに合っている)。
七千里は標準里だと三千キロ強になるが、地図で見れば明らかに長過ぎる
狗邪韓国(そこがどこであるにせよ)から対馬まで千余里(四百何十キロ)、対馬─壱岐間が千余里。
皆、長すぎる。
五分の一ぐらいでちょうどいい
古田武彦氏は一里を七十五~九十メートルとしている。

どうして韓伝、倭人伝にだけ、こんな短い里を使ったのか、いろいろな意見がある。
魏の征服を恐れての倭人誇張説があり、魏側の政治的理由──これがまた、言う人により理由が異なるが──による誇張だという考えがある。
魏使の日当稼ぎのための引き延ばし報告という見解まである。
当時、韓や倭ではそう言う里を使っていたのだという考え(地域的短里説)もある。

古田氏は、同じ『三国志』の中で違う里単位を用いるのはおかしいとして調べてみて、『三国志』中の里は、中国本土についてもすべて短いという見解を発表した(魏晋朝短里説)。
これに対し多くの反論があり、私は反対意見の方が正しいと思う。
が、何故、倭人伝の里は標準里より短いのかという疑問はそのままの凝る。

私は、政治的あるいは個人的理由による意識的誇張説にはどうも納得できない。
ここであまり議論する気もないが、言われている誇張の理由は、すべて憶測で、かつそれに対する反対論も容易に考えられるものである。
私は、主観的印象だと言われればそれまでだが、陳寿の『三国志』には、事実の間違いはともかく、意識的誇張はないのではないかと思う。
また地域的短里説も肯けない。
「里」は中国で成立した尺度であり、韓や倭が中国と違う独立の里制など採用していたとは思われない
私にもうまい考えがあるわけではないが、二人の魏使はそれまで海を知らず、海上の距離はすべて長く感じたので、切りのいい千里を使ったのだということにしておきたい。
ただし末盧から伊都までの陸行五百里も長いが、魏使は実際には陸行せず、呼子から前原まで船で行ったから、ここもいい加減になったと考える。
その後、水行が十日も続くと、とうとうお手上げで、里に換算する気もなくなったと解する。
陳寿は現地を知らないから、魏使の報告のまま採用したのであろう。

魏使は別に里数と日数の換算式を用いて里程値を(はじ)き出しているのでは無い
倭人から里数を聞いたか、もしくは魏使が測量したか、それとも公孫燕朝時代の帯方郡使が既に測量していて記録を残していたか、の(いず)れか で あろう
里に換算する云々と言う事を書いている時点で、何か根本的に誤解している様に思われる

公孫燕朝とは何か? と思われるかも知れないが、これに ついては以下を参照されたい

短里を復古せしめたは公孫氏か

この論者の里程に関する記述を今まで引用して来ているが、まとめて見ると

1) 倭人伝中の里程は魏晋朝の標準里で(とら)えると明らかに長い

2) しかし短里として捉えれば、韓地方四千里 は実測値に近い事は認めている

3) この著者は女王国 豊後説で あり、帯方郡から豊後までは短里で 1万2千里を越えてしまう

4) 短里を認めてしまうと自説に都合が悪いので、認めない

5) 里程は信憑性が無いと何度も強弁しているが、それは恐らくは自身の無意識では道理に合わない事を薄々察知している事の裏返し

6) 日程記事は魏使が来倭行程で実際に経験した日数で あるから信用出来ると主張

7) しかし実は日程記事を倭人からの伝聞で あると認めており、論理が破綻している


と言う事に なる



3. その他 各論の是非は どうか


久保田説の根幹を()す "倭人伝の日程記事は正しく、豊後説が導かれる" と言う虚言は瓦解したが、さて では それ以外の主張に ついて の是非は どうで あろうか?

.1 版本刊本

【邪馬台国はどこにあったか】 P.21

しかし、紹熙本も民間の出版で、必ずしも優れた刊本ではないようである。

では 久保田氏 が優れた刊本と見做しているのは いずれ で あるのか、記載が見当たらないので読み取れない
結局何を言わん と しているのか、良く分からない
P.24 から P.26 までを "[書陵部本(紹熙本)]" と銘打(めいう)って刊本画像を載録しているが、優れた刊本では無いので あれば何故 ほかの刊本写本の画像を()せないのか?
仲々(なかなか)に理解に苦しむ事を している

民間の出版云々と言うのも、(やや)も すれば言い()かり に近く、公刊で あるから優れていて民間出版は劣っている とは一概には言えない
むしろ 紹熙本 は 紹興本 よりも優れていると思うが

なお、三国志 自体は陳寿に よる私撰史書で ある
つまり、民間出版を卑下する主張は三国志と言う史書の存在そのもの を(おとし)める事に繋がると言う事を、この論者は充分に理解すべきで あろう


.2 壹字 は 臺字 の誤記誤写か

【邪馬台国はどこにあったか】 P.40

『三国志』のすべての刊本には皆「邪馬壱国」とかいてある(実際には「壱」は旧字体の「壹」で記されている。「台」の旧字「臺」)。
前記の古田氏は、「壱」とある以上は「壱」だと言っている。
しかし、壹と臺は似ていて、書き写している間の書き誤りは避け難いから、刊本の原本となった手写本が間違っていた可能性は十分ある。

正確に言えば、台字 の旧字が 臺字 で あると言う事では無い
この論者は何か誤認しているので あろう
【邪馬台国はどこにあったか】 P.41

『後漢書』、『梁書』など、この言葉の現れる他の史書には皆「臺」とあり、『隋書』には「邪靡堆(「靡」は恐らく「摩」の誤り)に都す。即ち魏志にいわゆる邪馬臺なる者なり」とあるから、おそらく原文は「邪馬台」だったのであろう。

随分と巧妙に、或いは回り(くど)書き方を行っているが、それには当然理由が ある
理由とは何か?
それは、都合の悪い箇所は書きたくないと言う この論者の自己中心的な意思に()る もの で ある

以下の通り、【後漢書】には確かに 邪馬臺國 と書かれている

後漢書 東夷伝 倭

【後漢書】倭伝 は以下を参照
後漢書 倭伝 他

さて、【梁書】には どう書かれているか?
以下を良く見ていただきたい

梁書 諸夷 海南諸国,東夷,西北諸戎 東夷
【梁書】 卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳 海南諸國 東夷 西北諸戎 東夷 倭傳

撰者 : 唐朝 姚 思廉

又南水行十日 陸行一月日祁馬臺國 卽倭王所居

そう、國 と書かれているので ある
祁字 は 邪字 の誤写で あろうと思われるが、明らかに誤写と分かる史料を さて どこまで信用出来るので あろうか
久保田氏は写本が間違っている可能性云々と強弁しているが、祁字 が誤写ならば 臺字 も誤写を犯している可能性は多分に ある
つまり、久保田氏の主張はいささ心許こころもと無い ので ある
更に直前にも、陸行一月 などと言う訳の分からん誤写を しでかしている事が分かる

【梁書】倭伝 は以下を参照
梁書 倭伝 他

ついでに【隋書】で あるが、これも影本画像を(かか)げておく

隋書 東夷伝 俀国伝

邪靡堆 は明らかに誤写(もしくは部首が共通の通用字)で あろうと思われるので、この時点で史料としての信憑性に疑問が付いてしまう
そして これも重要な事で ある筈なのに敢えて 久保田氏が頬被(ほおかむ)り して()り過ごそうとしている卑怯な所なので あるが、何故 史書 本文に おける誤写の可能性を殊更に書き立てるのに引用箇所に おける誤写の可能性に関しては一切 (しる)さないのか

これも答えは簡単、自説に都合が悪い から書きたくない と言う事で あろう
当該引用箇所に ついて言えば、

魏志所謂邪馬臺者也


これは以下の誤引用で あった可能性も充分過ごる(ほど)ある

後漢書所謂邪馬臺者也


【後漢書】ならば 邪馬臺國 と書かれている訳で、直前に 邪靡堆 と言う誤写を犯しているので ある から こちらも誤写と言うのは ある意味 説得力が ある

【隋書】俀國伝 は以下を参照
隋書 俀国伝 他
【邪馬台国はどこにあったか】 P.41

もっとも、古田氏によれば、「壹」と「臺」との当時の字体は似ていないし、『三国志』中にその二つを間違ったと認められる例はなく、何よりも「台」は、倭人伝の終りにも「台に詣る」とあるように、魏の宮廷の略称だったから、蛮夷の国の名を表すのに、そういう尊貴な文字を使うはずがないと言う。
これについて、随分論争があったが、私はやはり元は「邪馬台国」だったと思っている。

【邪馬台国はどこにあったか】 P.23

当用漢字で表わせる漢字は当用漢字にした。

倭人伝には "台に詣る" と記されている箇所は存在しない
臺字 の当用漢字は確かに 台字 で あるが、台字 の旧字は 臺字 では無い
やはり、邪馬台 と 邪馬臺 を混同している様に見える

倭人伝には 壹字 と 臺字 が それぞれ現れているが、混同誤写したと覚しき箇所は存在しない
そう言った厳然たる事実を前にしても(なお) 壹字 は 臺字 の誤記で あると平気で吹聴する者が多いが、本当か?
実際に両字が近在している箇所が あるので、見て おくと しよう

事実から目を(そむ)けぬ覚悟が ある ので あれば、目を大きく見開いて皿の様に して読んで見て欲しい
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳

南至邪馬國 女王之所都 水行十日 陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸

掖邪狗等拜率善中郎將印綬

復立卑彌呼宗女與 年十三爲王 國中遂定
政等以檄告喻
與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還 因詣獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔,靑大句珠二枚,異文雜錦二十匹

上記は正に両字を見比べる上での格好の材料と言うべき箇所で ある
諄い程に 壹與 が並べられていて、その後に 臺字 が続く印象的な文面で ある

そして言える事で あるが、壹字 と 臺字 は正確に書き分けれらて おり、誤記混同の余地が存在する様には とても見えない ので ある
無論これだけでは邪馬壹と邪馬臺の正誤是非が決するものでは ないで あろうが、少なくとも言える事は ある
すなわち、壹與 は どう見ても 壹與 で あり、壹字 と 臺字 の混同は見受けられず、これを 臺與 の誤記等と強弁するのは難しく、邪馬壹 は 邪馬臺 の誤記誤写で あると平然と宣う者は恣意と自説の都合に突き動かされている と しか言い様が無い

それにしても思うので あるが、もし 壹字 と 臺字 が良く似ていて書き誤り易い としても、人は(臺與 と書かれた箇所 全て を 壹與 と) 100% の確率で書き間違える もので あろうか?
マークシート形式の試験問題でも適当に選べば 一つ位は正解しそうな もので あるが…
ここで 壹字 は 臺字 の誤写で あると主張する者達を敢えて 臺壹誤写論者 と命名して おくが、この論者は上記 引用箇所の誤写正写(せいしゃ)の判別を恐らくは以下の通り と考えて いるので あろう

1) 三国志原書もしくは原書に近い写本では 邪馬臺 と書かれていたが、臺字 と 壹字 は字形が似て書き誤り易いので 邪馬壹 と誤写した

2) 臺字 と 壹字 は書き誤り易いが 壹拜 は 臺拜 とは誤写されず正しく伝写された (←何故だよ?)

3) 壹與 が続けて三回も登場するが、これ等は本来は 臺與 と書かれていたが 臺字 と 壹字 は書き誤り易いので三回とも全て 壹與 と誤写した (←いや それ、あり得ないだろ!?)

4) 臺字 と 壹字 は書き誤り易いが 詣臺 も 詣壹 とは誤写されずに正しく伝写された (←それも おかしいだろ?)

5) 誤写は必ず 臺字 → 壹字 の一方通行で発生し、壹字 → 臺字 に誤写される事は無い (字形が似ている ならば誤写は相互に起きる筈だ!)


いやはや御都合主義ここに極まれり、彼等には付ける薬も無い
何が何でも 邪馬壹 では無く 邪馬臺 で なければ ならないと言う妄執に取り憑かれて おり、正常な判断を下す事が出来なく なって いて始めから結論ありき の論法と言う他無い
【邪馬台国はどこにあったか】 P.41

なお、卑弥呼の次の女王の名も「壱与(原文は壹與)」となっているが、前に述べたように、この「壱」も疑問である。
後で成立したものだが同じ記事のある『梁書』、『北史』、さらに日本に伝来し、太宰府天満宮に保存されている「翰苑」という写本には「台与(臺與)」となっている。

上記の通り、少なくとも 魏志倭人伝 を見る限り 壹字 に誤写の形跡は無いと思われるので、特に疑問は無い
この論者は 壹與 で あるのと何か困るので あろうか

梁書 は 祁馬臺國 と明らかに誤記しているので、壹與 の箇所も 臺與 と誤記してしまっている可能性が ある
北史 は 唐朝 姚 思廉 が西暦636年に編纂した 梁書 を見た上で編纂されている筈なので、梁書 の記述に引きられている可能性が高い
北史 自体には倭国に関する特別な記録は特に無く、他史書の焼き直し で ある上に誤記誤脱が見受けられるので、余り信をく には躊躇ためらわれる ものが ある

翰苑 は 北史 と ほぼ同時に(あらわ)された書で あるが、これも単に 梁書 の影響を受けている だけ と言う疑念をぬぐえない
その上 翰苑 は誤記誤脱が多過ぎて、史書としての信憑性が著しく欠ける書なので ある

なお、実は 翰苑 には 臺與 と書かれていると言って良いか は難しい所が ある
これに ついては以下を参照

安本美典説は正しいか

この様に、翰苑 の原本に 臺與 と書かれていたか どうか に ついては疑問が残ってしまう
そして何度も述べるが、翰苑 には 台与 とは書かれていない
【邪馬台国はどこにあったか】 P.41

前記の徐堯輝氏は、「壹」は入声で あり、日本語として「ヨ」の前に先立つ「イ」を写したとしては適当でない(もしそうなら「伊代」のはずだ)から、「臺」が正しいと思われる(著書一二三ページ)。
私も日本語の人名として「トヨ」を採りたい。
「イヨ」という人名もあるだろうが、「トヨ」のほうがポピュラーだし、日本上古の人名には「トヨ」がついているのが多い。

当時の倭人が どう言った会話を行っていたかを現代人は把握し切れていないので、現代人の感覚で適当か どうか を(はん)ずるのは危険で あろう
そして何度も述べているが、臺字 と 台字 は別字別音で 臺字 に ト と言う表音は無い

これも

安本美典説は正しいか

にて述べている通りで ある

トヨ と言う名前が どうこう と言う主張と 臺字 の表音には何の関係も無いので ある


.3 女王国は ヤマト なのか

【邪馬台国はどこにあったか】 P.43

(四)、文字の誤りの問題ではないが、倭人伝に出てくる地名、人名は何と読んで良いのか定説がない。
「邪馬壱」を「邪馬台」だとした上で、昔は疑いも持たずに「ヤマト」と読んでいた。
そして「大和」か、九州の筑後、肥後の「山門」かが争われていた。
ところが、当時の発音では「邪馬台」は「ヤマト」ではないという有力説がある。
中国語の発音を説明する学者は、私の知らない発音記号を使うのでさっぱり分からないが、「ヤマダ」に近いらしい。
ただし、「ヤマト」と読めるという人は、もちろん今でもいる。
「ヤマト」と読めるとしても、問題はまだある。
「記紀」の頃は、今より母音の種類が多く、その結果、いくつかの音は、今では一つだが当時は二様に読まれて、書き分けられていたとされている(例えばヱとエは今では同じだが、昔の発音は別だから、字も別字を当てていたのと同様)。
「ト」もその一つである。
当時どう読んでいたか今ではわからないので、甲類、乙類と言って区別している。
「邪馬台」を「ヤマト」と読むとき、トは乙類で、九州の「山門」の「ト」は甲類であるらしい。
これは邪馬台国筑後山門説に影響してくる(ただし山門で構わないという説がある──後述、田中卓氏)。

字音に関して自論を述べている研究者の立場で ありながら "知らない" "分からない"逃げている始末で、困ったもの で ある
自著を販売して代金を入手する立場で ある以上、知らない ならば知る努力を すべき で あるし、そう言う努力を行いたくないので あれば字音に関する論説を行うべきでは無い
では何故逃げているか と言えば、それは この論者の主張に とって都合が悪いから と言う事で あろう
【邪馬台国はどこにあったか】 P.51

さらに地名の問題があり、「ヤマト」が一致している(「邪馬壱」は「邪馬台」であり、「邪馬台」は「ヤマト」の音訳だという前提だが、これは多分正しいと思う)。
ベストセラーだったらしい『日本の歴史』(中央公論社)の第一巻『神話から歴史へ』を書いた井上光貞氏は
「邪馬台の音はヤマトである。
したがって邪馬台国は、九州であろうと、本州にあろうと、ヤマトと呼ばれた土地であるはずである」
と書いている(二三八ページ)。

邪馬台 は ヤマト とは()めない事は

臺字訓 邪馬臺はヤマトと読めるのか
臺字訓 - 学者と字典と研究家の循環論法
臺字 と 台字 は別字別音
安本美典説は正しいか

で述べている通りで ある
なお、故人の事を書くのは余り気が進まないが、井上光貞氏 の言説は現在では否定されていたり疑問が付けられている箇所も幾つか あるので、鵜呑みに して しまうと色々と問題が生じて しまう
まぁ有名な学者の説を自著に引用して虎の威を借りようと している意図が透けて見えるが…

いずれにせよ、女王国の所在地論争と ヤマト と言う地名は一旦 切り放して考えた方が良さそう では ある


.4 卑弥呼の遣使は景初二年か三年か

【邪馬台国はどこにあったか】 P.42

(二)、また問題になっているのが卑弥呼が遣使した年である。倭人伝には「景初二年(二三八年)六月」とある。
しかし『日本書紀』が引用した魏志、『梁書』、『北史』では「景初三年(二三九年)」としている(『書紀』の編者は卑弥呼は神功皇后だと思ったらしく、──思っていたわけではなく、そう仕立てたという説もある──神功皇后の記事のところに魏志を引用している)。
魏が公孫氏を滅ぼしたのが景初二年八月なので、戦乱の最中へのこのこ出かけられるはずはないから、三年が正しいという見解が支配的である(ただし、『日本書紀』は魏の明帝の時だったように書いているが、明帝は景初三年一月に亡くなっている)。
しかし、古田氏は、いち早く貢献したからこそ喜ばれ、献上品に比し過大な下賜品が与えられたのだと言っている。
この問題についてはいろいろ説がある。

【邪馬台国はどこにあったか】 P.232

9798年(二三八年)六月、倭の女王が大夫99升米らを帯方郡も遣わし、さらに天子の許に朝献することを求めた。
太守劉夏りゅうかは役人を遣わし、京都(洛陽)まで送らせた。
(省略)

P.235

98 景初二年は三年(二三九)の誤りと思う。本文四二ページで触れたように、いろいろ意見はあるが、詔書を下したのが「その年」の十二月であり、詔書と下賜品を卑弥呼に渡すために使者が出発したのが正始元年(二四〇年)である。遣使を景初二年とすると、下賜品を与えると宣言してから一年以上も放っておいたことになるが、そんなはずはない

景初三年 正月に明帝が崩御したため、魏朝は急遽喪に服したので あろう
そのため外国行事が自粛される事に なり、喪が明けた時点で宿題と なっていた外国行事が再開されたものと考えれば何の支障も無い
この論者風に言うので あれば、"そんな筈は ある" と なるで あろうか
【邪馬台国はどこにあったか】 P.232

その年十二月、詔書で、倭の女王に対していうには、

親魏倭王卑弥呼勅を下す。帯方の大守劉夏が、100僚を遣わし、汝の大夫難升米・次使101市牛利を送り、汝が献じた男の生口四人、女生口六人・班布(縞模様の麻布)102匹二丈を奉って到来した。汝の在所ははるかに遠いが、それにも拘わらず使を遣わして貢献した。
(省略)

P.235

102 一匹は徐氏によると布地四丈(一二・一二メートル)という。二匹二丈は一〇丈になる。倭国の献上物がちょうどいい数字になったのは、倭国でも漢土と同じ単位を使用していたからだろうという説がある(『倭人の登場』)。

なお、この倭国からの献上物は、明らかに魏の下賜品と比べて貧弱で、釣合いがとれていない。つまり魏が倭国の朝貢を喜んだため豪華な下賜品を与えたことは確かである。
そこで古田氏は、公孫氏討伐の結果がわかる前に遣使してきたから感心だと考えたといい、遣使の年は景初二年だとするが、魏が単純に、今まで朝貢したことのなかった遠い東夷の国が来たということは、魏朝の天子の徳を示すものと考えたとしてもいいであろう。

倭国は公孫氏経由で魏朝に貢献していた筈で あり、この論者は事実を正確に把握していない もの と思われる
卑弥呼の遣使が景初二年で正しい事は以下でも触れている

魏は景初二年時点で帯方郡を制圧していた


.5 壱与か臺与か

【邪馬台国はどこにあったか】 P.18

卑弥呼の後は、これも女王の「壱与」(「台与」という記載もあり、私は「台与」だろうと思っている)が継いだ。

これは上記 .2 壹字 は 臺字 の誤記誤写か で述べている通り で あり で あるが、改めて整理すると

1) 臺与 は上古音で ダワ と訓み、中古音では ダイヨ と訓む

2) この論者は 台与 を トヨ と訓みたいので あろうが、そもそも 台与 と書かれている史書は存在しない

3) 仮に 壱与 が誤記誤写で 臺与 が正しかった と しても、臺与 を トヨ とは訓めない以上 久保田説は誤説に過ぎない


と言う事で ある


.6 水行十日陸行一月の基点

【邪馬台国はどこにあったか】 P.68

博多湾岸説については、「南投馬国に至る、水行二十日」と「南邪馬台国に至る、女王の都する所、水行十日、陸行一月」とは併立した表現であり、後者だけ帯方郡からの日数だとはとても思えない。
韓国内を歩く必要があるとも思えない
また不弥国と邪馬台国の間だけ距離が書いてないということもわからない。
国として接していても、首都間の距離を書くはずである。
伊都国と奴国の間の百里もそうであろう。

この論者が どの様に思おうが当人の自由では あるが、しかし単なる思い込みと言う事も ある
実は韓地内を陸行するに足る充分な価値と理由が ある
それは、

1) 朝鮮半島南西海岸部はリアス式海岸で船舶航行は座礁の危険が伴うが、陸路は海路よりも安全で ある

2) 陸路は盗賊等に襲撃,掠奪されるから危険で あると論ずる馬鹿が いる らしい が、これは単なる机上の空論に よる無知に過ぎず、魏朝からの多大な下賜物を確実に倭国に送り届けるためには護衛兵の随行が不可欠なので あり、軍隊に戦闘を挑む(ほど)盗賊も愚か では あるまい

3) 多大なる下賜物を途中経由地での韓地諸国に見せ付けつつ韓地内を巡撫する事で、魏朝に属している事での現実的な利得と魏朝の威厳を共に示す事が出来る


これは以下も参照

韓国セウォル号沈没 それでも韓地水行と言い張るのか

なお、書かれてしかるべき事項が書かれて いないと言う事で あれば、それには何らかの理由が あったので あろう
そして この値は倭人伝の行程記事を読めば算出 出来る
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳

自郡至女王國萬二千餘里

【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳

從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
始度一海千餘里 至對海國
又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國
又渡一海千餘里 至末盧國
東南陸行五百里 到伊都國
東行至不彌國百里

帯方郡から女王国までが 12000里で あり、かつ 帯方郡から不弥国までの合計は 10600里で あるので差し引き 1400里と なる
つまり不弥国から女王国まではおおむね 1400里なので ある
では何故この里数が書かれていないのか で あるが、恐らくは伝写の際に脱落したので無いかと思う

脱落ついで で あるが、実は行程記事では複数の基点から行程を記載する事が ある
例えば以下に ついて で あるが、
【漢書】 卷九十六上 西域傳第六十六上

撰者 : 東漢朝 班固 班昭 馬続(ばしょく) 等

(精絕國)北至都護治所二千七百二十三里 南至戎盧國四日行 地阸陿 西通扜彌四百六十里師古曰 扜音烏
戎盧國 王治卑品城 去長安八千三百里

漢書 西域伝 1

漢書 西域伝 2


1) 戎盧国 は 精絶国 の南に位置していて、精絶国から陸路4日の距離と ある

2) そして 戎盧国 は長安を基点と すると 8300里の位置に ある


と言う恰好の比較記事が あり、これを見れば記述対象国を複数の視点から見定めて史書に記録する事が ある事が読み取れる
思うに倭人伝に おける女王国への行程記事も これに類するもの では無いか と思われる

も、これだと基点が書かれていない では ないかと批判されてしまうかも知れないが、それは上記に既述の事、すなわち脱落したので あろう
つまり、
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳

(不彌國)南[行千四百里]至邪馬壹國 [自郡至]女王之所都水行十日陸行一月

[]で補った箇所が、脱落を疑っている文字群で ある
これで あれば誰で あろうと女王国の距離を自然に把握出来る で あろう

こちらは以下を参照

南至邪馬壱国女王之所都水行十日陸行一月に脱落は無いか

更に引用するが、
【邪馬台国はどこにあったか】 P.94

魏使は帯方から船に乗って来た。
末盧国までその船で着いた。
伊都には港があり、魏使を迎える人的、物的設備があるから、私はそのままその船で伊都へ来たと思う。
そしてそこから邪馬台国へ水行する。
当時の造船技術は知らないが、おそらく帯方で準備した船(徐堯輝氏は楼船だろうと言う)の方が倭国で調達する船よりいいに違いない。
少なくとも魏使の好みに合っているはずである。
そして最初の魏使梯儁も次の張政も、倭王に送り届ける物があり、それを船に安置している。
どうしてまだ使用可能な船から下りて、わざわざ山道を歩いて荷物を運ぶであろうか。
船で直接、邪馬台国に行こうとするに決っている。

魏使が楼船を利用したとして、楼船は対馬海峡を越えられるか、疑問に思う
また韓国西岸は遠浅のリアス式海岸で あるため、喫水きっすいが深い船の方が座礁し易い

これに ついては良く誤解する人が いて困るので あるが、船は大きくて広い方が安全で あると言う思い込み を抱く らしい
いや、穏やかな内海を航海するので あれば それは それで正しいのでは あるが、黄海に面する韓国西岸は海底が低いので大型船は船底が海底に接触する確率が高くなる ので ある
またリアス式海岸は起伏に富む地形が航海の安全性を低く する

また、対馬海峡は潮流が早く、大型船で あるが ために結果として速度が鈍重に なる楼船は激しい海流の中を突っ切って航進する事を想定しては いない と考える
海流と風向が航海の帰趨を定める対馬海峡では鈍重と言うのは かなり致命的で あり、逆に軽快で敏捷な小型船の方が潮流と風向の変化にも柔軟に対応出来る
むしろ小型船の方が対馬海峡を渡る ため には有利に働く ので ある

なお、この論者は何か勘違い を しているのでは無いか と思うが、魏使は国使往来の度に末盧国を経由した とは限らない
恐らく倭国探査のため初回のみ末盧国に上陸したが、その後の使者往来では末盧国を経由しなかったのでは無いかと思う
これに ついては以下で触れている

伊都国は東南陸行か
【邪馬台国はどこにあったか】 P.96

だから陸行するとすれば、上陸地から内陸へ向かうのである。
そうだとすれば、西日本の中で、海岸から内陸行一月のところはないはずである。

これに ついては その通り で あると思うので あるが、そこまで考えたので あれば更に もう一歩 論を進めて陸行一月は西日本の範疇外で あると判断するべき で あった


.7 倭人伝の信憑性を殊更に貶めるは論者に意図あり

【邪馬台国はどこにあったか】 P.77

「寿考(説はあるが、寿命だと思う)、或いは百年、或いは八、九十年」という情報の元は、魏使が倭国に百年滞在して確かめたのでない以上、間違いなく聞いた話である。
そういう伝聞を、倭人伝は「と聞いた」とも書かず、断言しているのだから、読む我々は常に注意しなければならない。

この人は机上の空論で しか物事を考えないので あろうか?
魏使は倭国に使者として派遣されている以上、倭国で 80歳を越える老人を実際に見ているかと思う
ならば、その伝聞内容が是か非か位は魏使も判断出来るのでは無いか?
これを実見(じっけん)では無く伝聞と言い切って(はばか)らない のは何故か?
【邪馬台国はどこにあったか】 P.77

倭国に乱があった事は聞いた話であるが、まあ昔、戦いがあったぐらいは本当であろう。
しかし、「とどまること七、八十年」という言葉(意味については訳文の注で検討する)から推測するその時期は当てにならない。
正確な記録を取っていたとは思われない倭人からの伝聞だからである。

何故 当てに ならないので あろうか?
どうして記録を取っていない と言い切れるのか?
【邪馬台国はどこにあったか】 P.170

また古墳や倉庫をつくるためには尺度が必要である。
もっとも、三内丸山にも倉庫はあったようだから、倉庫だけでは尺度の存在(丶丶)しか推定できないが、卑弥呼の墓ともなると、尺度による予めの設計が必要であり、尺度を使いこなす(丶丶丶丶丶)ことができたのではないかと思われる。
さらに、税を取っているのだから、種々の形状の耕作地の大小、収穫の多寡を測る方法があったはずである。
そうすると、初等算術、幾何は使えたのではないかと思う。
また、税の既納者、未納者を知るためにも、記録が行われたかもしれない。

中国式の暦はないとしても、男王時代が大体何年くらい続いたと魏使に告げることができたらしいのだから、何らかの年数の記録法があったのかもしれない。

おやおや、上記 論述と矛盾しては いないか?
年齢は信憑出来ない と言いつつ年数の記録を肯定する この厚かましさ は何で あろう

なお、当時の倭国には計数(けいすう)の概念は当然 存在していたものと考えられるし、また識字階級が存在していた事は確実なので暦も使用されていた で あろう事も推測出来る
例えば
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳

倭人在帶方東南大海之中 依山㠀爲國邑 舊百餘

元々倭人の国が 100余国も あった事を魏使は知らなかった筈で あり、百と言う数値は倭人から聞き取った知識で あろう
つまり、数を数えると言う概念を明らかに備えている と言う事を示している
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳

壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還 因詣臺獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔,靑大句珠二枚,異文雜錦二十

5000 と言う数値は偶然では あるまい
意図的に 5000 と言う数量を揃えたものと見て良いと思われる
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳

王遣使詣京都,帶方郡 諸韓國及郡使倭國 皆臨津搜露 傳送文書,賜遺之物詣女王 不得差錯

文書を読み書き出来る知識階級が暦を知らない筈が無い
倭人は確実に年数や歳数(さいすう)を数える事が出来たので ある

では何故 論者は倭人伝の信憑性を殊更に貶めようと しているのか?
論者の意図は明瞭、自説に都合が悪いからで あろう

上記の 2. 久保田説の立論前提 で書いているが、里程が正確で あると久保田説に とっては非常に困るので あろう
【邪馬台国はどこにあったか】 P.248

132 ここは伝聞に違いない。
そして私は、前の婢千人のように、百余人は誇張だと思う。
秦の武公の時でも殉死者は六六人だった。

卑弥呼死去時の殉葬も誇張と言う事に したい と言う事なので あろう
所で、秦 武公 とやら と卑弥呼とは何の関係が あるので あろうか?

恐らくは殉死者が多い人物を引き合いに出して卑弥呼の殉死 100余人は多過ぎるので誇張で あると主張したい が ために引き合い に出しているので あろうが、例えば 殷墟 や秦王朝初期の廟墓では多数の殉葬や俘虜(ふりょ)殺害が行われていた事は遺跡調査に より確認されて おり、百人の殉死と言うのは それ程 多い人数では無い


.8 方位


次は方位方角に ついて述べる
【邪馬台国はどこにあったか】 P.89

2.方角

これは大体において正しいと思う。
魏使が経験したところだろうからである。
そしてまた、嘘を言わなければならない何の理由も考えられないからである。

この論者は投馬国を出雲で あると主張している
ならば何故 伊都国や不弥国の南に位置している筈の投馬国を出雲と主張するのか?
【邪馬台国はどこにあったか】 P.112

問題は出雲は伊都国の南にはないということである。
したがって、出雲を投馬国だとするためには、倭人伝の「南投馬国に至る」の南は東(厳密には東北だが東でもいい)の誤記だと言わなければならない。
それは邪馬台国についての南を東と読もうとする近畿説を非難する九州説として、自己矛盾のようである。

しかし、邪馬台国が大和だというためには、「南投馬国に至る」の南を誤記だとしなければならないだけではなく、二か所にある「女王国以北」という言葉と矛盾する。
邪馬台国が海辺の国だというのとも合致しない。
また、全体の政治体制の見方に影響する。
しかし、投馬国が出雲だというためには一字だけの誤りと考えればよく、他に関連する矛盾はない。
またそれは、「誤記」というより魏使の「誤解」である。
私は魏使は邪馬台国へ行ったと思うから、自ら十日間の水行で経験した方角は誤るはずがないと考えるが、魏使は投馬国へは行かなかったと思っているから(放射式に考えた場合、わざわざ水行二十日もかかる寄り道をするはずがない)、方角は魏使の経験に基づくものではなく、倭人からの伝聞である。
聞き違いがあったかもしれない
だから、投馬国についての南を東と改めつつ、なお邪馬台国について南を東と改めることは許されないとする見解は可能である。

これを五十歩百歩と言う
一字で あろうが二字で あろうが、自説に合わないから史料を捏造せんと するけがらわしい徒輩と同じむじなしたと言う事で あろう
また上記 2. 久保田説の立論前提 で触れている通り行程上の日数値は魏使が移動に費やした経験日数なので信用出来る と称しながら実は 投馬国 への 水行二十日 は倭人からの伝聞で あると主張しているので、がたい二枚舌で矛盾の極み で ある

そして自説に都合が悪い時には "聞き違い" なる融通無碍で便利な文言をり出している
ついでに自説では原文を改竄して おいて他説では許容しない と言う自分勝手な不正行為も平然と行って、それを正当化すべくうそぶいている

つくづく見下げ果てたやからで ある
【邪馬台国はどこにあったか】 P.112

出雲なら、「記紀」の大国主神と高天原(九州にあったと思う。『ディベート』中の「記紀説話と出雲の人達」)との交渉の物語によっても、女王国連合の一員であり得るし、戸数五万(本当に五万あるかどうか別にして)の大国というのにも適当である。
「ツモ」の発音も似ているという人がいる。
宋の時代に刊行された編纂物の『太平御覧』(九八三年完成とのこと)に魏志が引用されているが(後でも出てくるので「御覽魏志」と言う)、そこでは「於投馬」となっていて、一層「イズモ」に似ている
出雲ならば水行だけを書いた理由もあるし、水行二十日ぐらいかかるかもしれない。

いやいや、上代仮名遣い で甲類,乙類と言う特殊な発音を使い分けていた当時の日本人ならば当然別音で ある事を認識出来たで あろう
於投馬 の 於字 は場所を指定する助字で ある事は漢文読解の常識で あるが、自説に都合良く解釈するため に手段手法を選ばない姿勢は憐憫れんびんの情を誘う

投馬国を出雲に結び付けて自説に有利な様に良い所取り する浅ましさ が感得され、見ていて哀れで ならない


.9 伊都国放射読法が是か主傍線行程読法を是と すべきか


次は久保田説に とって日程の次に根幹と なっている放射読法に ついて である
【邪馬台国はどこにあったか】 P.164

特に考えさせられるのは、倭人伝中、確かに連続行路であると思われる伊都国まで、方角、距離、至、地名の順になっていて(例えば伊都国については「東南陸行五百里、到伊都国」である)、そこから後が違うということである。
これを偶然と見ることもできようが、陳寿が書き分けたと考えるほうが自然であろう(今の我々でも、文章を書いていてそのくらいの注意は払う)。

伊都国については「到」を使っており、その後は「至」だというところにも意味があるという意見がある。
放射式読み方の元祖である榎氏自身は問題にしていないが、少なくとも『漢書』では、地理説明には「到」ではなく、「至」を使っていることは確かである。

まずは事実誤認を指摘しておく

伊都国を基点と する放射式読法は 榎 一雄 が提唱した と されているが、どうも違う らしい
1922年に 鈴木 武樹 と言う研究者が発表している

鈴木武樹『邪馬台国〈1〉―論集 (1975年)』 - 榎・放射説の25年前に、伊都国起点説の論文 - 神社と古事記

実見した所 掲載されている図に少し誤記が あるのか印刷時の乱丁なのか多少 混乱が見られるが、確かに伊都国を基点とした放射読法で あった

なお、漢書西域伝 は別途 全文を掲載する予定で ある

【邪馬台国はどこにあったか】 P.164


後代の文書であるが、榎氏が放射式読み方の裏付けとして引用したのは『新唐書地理志』の中の賈耽の文章である。

営州(丶丶)、西北百里曰松陘嶺、其西奚、其東契丹、距営州北四百里、至湟水、営州東百八十里(丶丶丶丶丶丶丶)至燕郡城(丶丶丶丶)又経汝羅守捉(丶丶丶丶丶丶)渡遼水(丶丶丶)、至安東都護府五百里(丶丶丶丶丶丶丶丶)、府故漢襄平城也、東南至平襄城八百里、西南至都里海口六百里、西至建安城三百里、故中郭県也、南至鴨緑江北泊汋城七百里、故安平県也、自都護府東北(丶丶丶丶丶丶)経古蓋牟新城(丶丶丶丶丶丶)又経渤海長嶺府千五百里(丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶丶)至渤海王城(丶丶丶丶丶)、城臨忽汗海、其西南三十里、有古粛慎城、其北経徳理鎮至南黒水靺鞨千里、

榎氏は、このうち傍点をつけたものが、いわゆる直線行程(連続行路)で、それ以外のものは、それぞれ営州、安東都護府(撫順)、および渤海の王城を中心とした、いわゆる傍線行程(地理説明)であるという。
これに対する反対論を見ない。

この安東都護府のところは倭人伝とそっくりである。
比べてみれば次のとおり。

新唐書 渡遼水安東都護府五百里府故漢襄平城也。
倭人伝 東南陸行五百里伊都国……郡使往来常所駐。

……………………………

新唐書 東南平襄城八百里、

西南都里海口六百里、
西建安城三百里……
鴨緑江北泊汋城七百里……

倭人伝 東南奴国百里……

不弥国百里……
投馬国水行二十日……
邪馬壱国……水行十日陸行一月

全く同じ構造の文であり、まるで『新唐書』が『魏志』倭人伝を真似たかのようである。
場所のあり方の説明として方角、至、地名、距離という順序の書き方が同じであり、それは漢書の地理説明と一致する。
そして安東都護府の地理説明をするに当り、これからそうするぞという何の注意書きもしていない。

いやいや、全く同じ には見えないので あるが… これは一体どうした事か?

確かに新唐書の例では全て 至字 で統一されているが、倭人では上記引用文にも あるが如く 到字 が利用されている箇所が あり、また 至字 の前に 行字 が前置されている箇所も ある
特に A至BA行至B では明確な差違で ある としか言い様が無く、これを同じ構造文と見做してはまず
何故なら、伊都国 - 不弥国 間が単なる放射分岐で あれば敢えて A行至B と書く必要は無く、他の箇所と同様に A至B と書けば良いから で ある

所で ふと疑問をおぼえたので あるが、この論者は 新唐書 の文例は示しているのに 漢書 での文例を示していない
これは さて何故で あろうか?

もしや、漢書 には自説に都合が悪い記述が あるので敢えて文例を掲げたくない と言う事か


.10 会稽東治か会稽東冶か


会稽東治 と示された箇所が あるが、定説では 会稽東冶 の誤記誤写と されている
【邪馬台国はどこにあったか】 P.42

(三)、国名中、「対馬国」を「対海国」とした刊本があるが(例えば書陵部本)、「対馬」が正しいであろう。
「一大国」は『三国志』の刊本は皆そうらしいが、他の史書に「一支国」としたものがあり、多分「一支」の間違いだろうとされている。
「一支」なら「イキ」と読める。

陳寿が、女王国はその東方にあるだろうと考えた会稽の「東冶(トウヤ)」は刊本では「東治(トウチ)」となっている。
しかし「東治」では意味が取れず、後漢書には「東冶」とあり、実際「東冶」という地名(県名、あるいは漠然とした地方名)があるから、その間違いだろうとされており、岩波文庫は始めから「東冶」と書いている。
古田氏は、これらすべて「対海」、「一大」、「東治」が正しいと言う(なお訳文の注でさらに述べる)。

【邪馬台国はどこにあったか】 P.202

一万二千余里という道のりから推測すると、(46)王国はちょうど会稽の(47)冶の東に当ることになる(なるほど風俗が似ているのももっともである)。

はて、この論者は "里程は信用出来ない" と主張していた筈で あるが…??
自説に都合が悪いので否定して おきながら、自説に都合が良い箇所は採用すると言う、何とも身勝手な御仁ごじんで ある
【邪馬台国はどこにあったか】 P.203

47 原文は「東治」だが、「東冶」の誤りとされている(『後漢書』は東冶)。
古田氏は東治が正しいと頑張っているが、夏の少康の子の「治績」を指しているという同氏の見解(『「邪馬台国」はなかった』一〇八ページ)では意味がとれない。
ここは地名でなければならない。
郡名の次には県名がくるのが原則なので、会稽(郡)の次の東冶は普通、県名とされているが、当時は東冶県はなかったから、県名ではなく通称の地方名だという人がいる(白崎氏、著書一八二ページ以下)。
場所ははっきりしないが、福建省福州のあたりらしい。
徐氏は、これについては東治説であり、当時は東冶県はなく、「会稽東治」という倭人伝の記載は「東治」という県を指すと言う(著書一四五~一五一ページ)。
ただし、東治県があったという直接的根拠はない。
当時「…治」という名の県がいくつかあったから、「東治」も県名として素直だというのである。
徐氏は、『後漢書』でも、別のところ(少し後)に「会稽東治」という言葉があると言うが、私の見た『後漢書』の印刷本はそこも「東冶」であり、岩波文庫に掲げられている百衲本の原文も「東冶」となっている。

実は私は 会稽東治 および 会稽東冶 は双方いずれも誤記誤写の可能性を考えている
少なくとも、女王国が魏朝に朝献した当時に おいて 東冶県 なる行政区分は存在していなかったと思う

これに ついては以下を参照していただきたいが、

会稽之東 会稽東治と会稽東冶は共に誤

元々の原文には 会稽之東 もしくは 会稽郡治之東 と言った記載が なされていたのでは ないか と見ている


.11 鉄器以外の出土物には目を背ける


この論者は鉄器の出土状況と言う点から自説の補強をこころみよう と している
【邪馬台国はどこにあったか】 P.132

奥野正男氏は、先に述べたように、鉄によって北九州の近畿地方に対する優位を説いている。
これは邪馬台国近畿説を否定すると思う。
ところで、同氏の『鉄の古代史 弥生時代』によると、鉄鏃の出土数は北九州の中でも大分県が一番多く、一八一である(二七〇ページの表参照)。
福岡県は一七一、奈良県はたった二である。
時期的にも、邪馬台国の頃に当たる後期と終末期に増加しているという(三〇九ページ)。
出土遺跡の大分市、竹田市、大野町(三七二ページ)は私の考える邪馬台国の領域である。

邪馬台国は女王卑弥呼のカリスマ性によって諸国を畏敬させたかもしれないが、基本は軍事力だと思う。
鉄鏃が多いということは、大分が和国連合国の盟主であることを示唆している。

なお、倭人伝にも倭人は鉄鏃、骨鏃を用いると書いてあり、骨は残らないから、鉄鏃の出土は倭人伝の記載と合致する。

そして私が邪馬台国の敵対国に当てる肥後の狗奴国にも、同じ時期に鉄鏃の増加が目立つそうである(三〇九ページ)。

大分県で鉄器の出土数が多いのは事実で あるが、それだけで大分県を女王国の候補地としてすのは難しい と思う

魏志倭人伝に は鉄鏃や鉄刀の他にも出土してしかるべき物として 鏡,矛,絹,硬玉,真珠,顔料 と言った物が あるが、これ等には全く触れていない
何故 触れていないか と言えば、それは自説に都合が悪いからで あろう

私見では、大分県は女王国と敵対していた 狗奴国 の比定地として相応ふさわしい かと思う
【邪馬台国はどこにあったか】 P.118

私は大分邪馬台国は辺境の新興国で、武力が強かったのではないかと思う。
そしてまた、政治権力の中心であることが長ければ文化も発展するかもしれないが、大分邪馬台国の最盛期は短かったと思う。
倭人伝に確実に知り得るのは卑弥呼、台与の二代だけである。
その前の男王時代が数十年あったとしても、百年くらいのものである。
そしてその後、自ら東遷したか、あるいは征服されたかは別として、まもなく北部九州は全体として衰え、日本の中心は大和になったのである。
だから、邪馬台国が大分にあったとしても、そこに目立つ遺跡がないということは、充分にあり得ることである。

それにまた、遺跡の発見は現在の開発の度合と偶然による。
大分県が隈なく掘られたはずはない。
平成になって吉野ケ里が出現する世の中である。
私も夢を持っていたい。

持ち合わせているものが夢なのか妄想なのかに ついては ここでは論断を差し控えるが、少なくとも合理的論理的な思考の持ち主で あれば現状に おいて発掘されている遺跡,遺物に基づいて行うべき で あろう


.12 その他の下らない言説


ここから下は もう取り上げる必要が あるのか どうか さえ疑わしい、取るに足りぬ妄説を引用し批判しておく
【邪馬台国はどこにあったか】 P.82

なお、九州説中でも大分以外の説に関して言うと、私には知識がないが、同じ海でも有明海は遠浅で海底は泥であり、潜水漁法に不向きなのではあるまいか。
テレビのムツゴロウ捕りの様子から、そう思われる。

有明海も沖合に出れば潜水出来る
【邪馬台国はどこにあったか】 P.119

水行十日の旅の途中の国名がないのは気にはなる。
末盧国とその近くの伊都国は別の国であり、さらにその近くに不弥国や奴国があるとなると、国の大きさは後世の郡くらいのものだから、十日も船の旅をすれば、途中に(宗像地方や宇佐、国東半島など)国があったろうからである。

しかし、私は倭人伝は魏使の旅行記そのものではなく、魏使の報告に基づく陳寿の地理志であり、「南邪馬台国に至る、水行十日」とは、伊都国から南の方、水行十日の距離のところに邪馬台国がある、という意味だと解するから、途中の国を書かなくても不思議はないと考える。
実際の旅行記なら途中の国を書くだろうが、地理志ならどちらでも良い
『隋書』の終りのほうに裴清の旅行記があり、そこには到着した際の歓迎の様子の記述があるが、倭人伝には女王国へ着いたときの模様は何一つ書かれていない。
つまり、魏使の旅行記ではないのである。

いずれにしろ、この点は、それが故に大分ではだめだ、他の地のほうがよいという理由になるものではない。
どこに比定しようと、途中は書いていないのである。
そして順次式に読んで、水行十日どころか三十日、さらに陸行一月もして大和に着いたという意味に解するなら、途中の国を書かないはずはない。
少なくとも『隋書』のように、「十余国を経て」ぐらいのことは書いたであろう。
なお、投馬国から水行十日して、それから陸行一月したという解釈を生[註2]かそうとする山陰上陸説について言えば、上陸地点の国ぐらいは書いたであろう。
その上、そこから進行方向も違ってくるのである(「東アジアの古代文化」九一号「放射式読み方再論(三)」参照。
したがって、この途中の国の記載がないということは、かえって放射式読み方による大分説を支持すると考える。

註2:

原文ママ 生字 では無く 活字 の方が良いか?


地理志で あれば逆に国名を網羅する もの で ある
例えば 漢書 地理志 では国名,州名,郡名,県名,山谷,河川,沼沢と極めて詳細に記録されている

この論者は 漢書 地理志 を読んだ事が無いので あろうか?
いずれにせよ、"大分県しか当てはまらない、大分以外では駄目だ" と読解するには根拠が足りな過ぎる事 明白で ある
少なくとも、
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳

自女王國以北 其戸數,道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

と書かれているので、明らかに女王国以北の諸国は全て記載されているもの と判断する しか無く、経由国が省略されている云々と言う妄説が入り込む余地は 1mm たりとも存在しない
【邪馬台国はどこにあったか】 P.194

そこで初めて海を渡り、千余里で7馬国に着く。
8人の頭を9狗といい、次の者を10奴母離
(省略)

10「ヒナモリ」に一致している。
「夷守」意味だとされている。
そうだとすれば、後代の日本語と同じである。
ただし、それにしてはほかに日本語として分かる言葉がほとんどない。
徐堯輝氏は、倭国に倭人以外の言語系の人々がおり、倭の諸国に仕えていたという。

役人は現地人だと思うが、副の「ヒナモリ」(辺境守備)の意味、およびそれが一支、奴、不弥に共通していることは、邪馬台国派遣ということを疑わせる。

卑奴母離 の表音が 夷守(ひなもり) と一致しているで あろうか?

卑奴母離 の上古音は pieg(ピェ)-nag(ナ)-muəg(ムァ)-lɪar(リァ) で あり、倭語では ひなむり で あろうか
中古音と なると piĕ(ピェ)-no(ndo)(ノ,ド)-məu(mbəu)(モ)-lɪĕ(リェ) と なり倭語では ひのもり が想定される
いずれに しても、どうも 夷守 と一致しているとは言いがたい気が しなくも無い
【邪馬台国はどこにあったか】 P.200

南に邪馬台国がある。
女王が都するところである。
水行で十日、陸行で一月かかる。
役人の頭が31支馬であり、次を32馬升といい、次を33馬獲支、次を34佳鞮という。
七万余戸ばかりある。
35王国より北は、戸数、道里を大まかに記載することができる

31「イキマ」であろう。「イシマ」説もある。
32「ミマソ」? 安本氏は「升」は「斗」の誤りであろうとして、「ミマト」と読む。
33「ミマカキ」などと読まれていたが、稲荷山鉄剱[註3]銘で「獲」が「ワ」と読まれることが分かってから「ミマワキ」に一致。
34「ヌカテ」、「ヌカデ」、「ナカテ」。
35 ここを前に付け、次の節と分けることについては、本文一二五ページで私の考えを書いた(本文三二ページの読み下し文では通説に従って後に続けたが)。

註3:

剱字 は原文ママ 剣字 で良いと思うが、何かしら意図あっての事か


稲荷山鉄剣 銘字の字音と三世紀での表音に異同が あるか どうかは分からないので、表音を遡及して論を展開するのは危険で あろう
更に言えば、私は稲荷山鉄剣銘字に ある 獲加多支鹵 は ワカタケル では無く ヱカタシロ で あろうと考えている

倭人伝の表音は以下を参照して いただきたい

魏志倭人伝の表音は上古音か

稲荷山鉄剣 銘字に ついては以下を参照

獲加多支鹵の訓は "ワカタケル" で正しいか -銘文を中古音で訓む-

(続く)

公開 : 2017年4月17日
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