南至邪馬壱国女王之所都水行十日陸行一月に脱落は無いか

1. 誤記誤写をとなえる者は多いが、発想を転換すると…


この考察は、特に根拠が あるような重い考察では無く、仮定として こう言う事が あれば どうなるか、と言う事を想定して見ようと言うもので ある

今仮に、魏志倭人伝の行路行程記事に文章の脱落が生じていた場合、どうなるで あろうか

なお、ここで言う脱落とは写本 作成時に誤って文章を書き写し忘れた と言う場面を想定している



2. 行路行程


では、此度こたび脱落が生じていると どうなるか と言う箇所で あるが、魏志倭人伝の行路行程記事で ある

毎度毎度お世話に なっているが、原文として以下を参照する

フォトライブラリー | 弥生ミュージアム 三国志 魏志 倭人伝
三国志 魏志 倭人伝

【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳

撰者 : 西晉(晋)朝 陳壽(寿)

從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
始度一海千餘里 至對海國 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 所居絶島 方可四百餘里 土地山險 多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田 食海物自活 乘船南北市糴
又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴
又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沈沒取之
東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰𣳘謨觚,柄渠觚 有千餘戸 世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐


フォトライブラリー | 弥生ミュージアム 三国志 魏志 倭人伝
三国志 魏志 倭人伝

東南至奴國百里 官曰兕馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸
東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家
南至投馬國水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸
自女王國以北 其戸數,道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
次有斯馬國 次有已百支國 次有伊邪國 次有郡支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有爲吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡
其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國萬二千餘里
帯方郡から女王国への行路行程や官制戸数と、女王国より先の遠傍国群の簡素な記述が行われている

この中で しばしば物議をかもして来た箇所、それが以下の文面で ある

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸

この部分、それまでの行路行程記事と比べて とても違和感が ある
具体的には、

a) 狗邪韓国から奴国までは里数が記述されているにもかかわらず、女王国および その前の投馬国への行程は距離が里数では無く日程で書かれている

b) しかも、女王国へは水行日程と陸行日程が それぞれ記載されているが、こう言った記述の仕方は、少なくとも 魏志倭人伝中には存在しない様に思える


この二点で ある
この不自然さ を解消するには、何か文章の脱落が あったのでは無いかと疑って しまうのも無理からぬ所では あろう



3. 想定する脱落文


それでは具体的に どの様な文章が脱落したのかと言う事に なるが、私見として以下の案を想起してみた
角括弧 [] で囲った箇所が想定 脱落文で ある

1) 南[陸行千四百里]至邪馬壹國女王之所都 [自郡至邪馬壹國]水行十日陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸


千四百里と言うのは最大値で、実際には これよりも少ない理数値で あるかも知れない

陸行と邪馬壱国が各々複数出現するので、その前後が誤認されて写本 伝写時に脱落した場面を想定している

この文意の意図としては、女王の都と言う記述は邪馬壱国の説明と言う事ととらえていると言う事に なる

2) 南[行千四百里]至邪馬壹國 [自郡至]女王之所都水行十日陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸


こちらの方が想定 脱落文は少ない
陸行か水行かを敢えて指定しない場合は、恐らく陸行に なるものと思われる

上記 1) との差違で あるが、こちらは女王の都と邪馬壱国への行路行程文とは別文で あると見做みなすと言う事に なる


と言う様に、脱落文を補遺する候補として案を二通りほど考案してみた

如何で あろうか?

上記 1) および 2) 共に、更に上の a) と b) の違和感を解消している

つまり、魏使は投馬国へは到達していない(向かっていない) ので、実測里数を記載する事が出来ていない と言う事に なる
しかし これでは距離を記載する事が出来なくなってしまうため、倭人からの伝聞による日程距離で記述を補ったものと考えられる
この場合、投馬国は傍線行程と言う扱い に なる

次に違和感 b) で あるが、これは女王国への距離日程では無く帯方郡から女王国への全行程日数と考えれば、不自然さが解消される



4. 想定される女王国は何処どこ


不弥国から投馬国へが傍線行程と すると、魏使は不弥国から女王国へ向かった事に なる

では不弥国は何処かと言えば、以下で不弥国は 宇美 では無く 博多 で あろうと考察した

不弥国は宇美か

博多から南に最大千四百里と なると、割り出される地は

A) 佐賀県 神埼市 (吉野ヶ里遺跡)

B) 福岡県 八女

C) 熊本県 玉名


もって この辺りで あろうか


尚、本考察は飽くまで一試案に過ぎず、原文をいたずらに改定改竄するやからくみする気は無い事を、最後に付け加えて おきたい

公開 : 2014年9月12日
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