卑弥呼の朝献は景初二年か三年か

1. 景初三年説論者に質問を送ろうとしたが…


景初二年六月、女王国 卑弥呼 は帯方郡に朝献したと言う

ただ、何故か これを頑として これを拒否し景初二年は景初三年の誤で あると主張する者が いる

例えば、以下のような所で あろうか

景初3年が正しい理由

この序文から、魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵誅殺後であることが分かります。
また、「魏志公孫淵伝」によると、公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。

それゆえ、魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後のことになり、景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡へ朝貢を願い出ることはあり得ないことが分かります。

おかしい

この主張、実に おかしい
明らかに変に思ったので是非を問う質問を投げようと思ったので あるが、当該 Webページを開設した人のメールアドレスが見当たらないので ある

抑々そもそもでは あるが、私には この Webページを開設している人が誰なのか、見付けられなかった
怪しい感じがただよう が、どうも かの御仁、言うだけ言って他人からの批判は受けたくないと言う、困った人なのかも知れない

まぁメールアドレスも公開していない以上この人は もう放置するしか無いと して、では本当に景初二年は景初三年の誤なので あろうか



2. やはり景初二年が正しいのでは無いか?


.1 平和ボケした日本人は折衝術も無能と なっている


景初二年は誤で あると主張する方々は馬鹿の一つ覚えでくのごとのたまわる ので あるが、

1) 司馬 懿の公孫 淵 誅殺は景初2年8月23日で ある

2) 帯方郡に太守が赴任するのは絶対に それ以降で なければ ならない

3) 故に、景初2年6月に卑弥呼が帯方郡に朝献出来る筈が無い


平和ボケした人と言うのはまこと思考が単純で いらっしゃる
物事棚机状真上に乗せて行かないと、どうやら思考が停止して しまわれる様で ある

まず、帯方郡太守および楽浪郡太守の任命は 公孫 淵 が叛旗をひるがえした景初元年中に、絶対に行って おかねば ならないので ある
そうせねば 公孫 淵 の挙兵を認めてしまう事に なるからで ある

これは言わば形式論の様な言葉遊びに過ぎないので あるが、魏朝と しては、遼東郡,楽浪郡,帯方郡共に魏領で あると言う建前なので ある
故に、太守に実体が伴わずに洛陽で待機しているだけで あったとしても、帯方郡太守は任命して おかねば ならないので ある

これは恰度ちょうど現代の外交にも言える事で あるが、日本は現在 北方領土および竹島を他国に占領されている
これに対し占領国に抗議し続けないと、占領国の一方的な主張を受け入れたもの外交上 見做みなされてしまい、領土返還の権利が消失して しまうの である
だから日本の外務省は、余り効力が無いと分かっては いても、おなり 程度には抗議を継続しているので ある
これが どうも平和ボケした日本人には理解出来ない様で ある

いずれに せよ言える事で あるが、帯方郡太守は景初元年の時点で既に存在していると言う事で ある


.2 魏は景初二年時点で帯方郡を制圧していた


重要な箇所を引用しよう
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳

景初二年 六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都

三国志 魏志 倭人伝 1

三国志 魏志 倭人伝 2

これが 倭人伝 に登場する箇所と なっている
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 韓傳

景初中 明帝帶方太守劉昕,樂浪太守鮮于嗣 越海定二郡

三国志 魏志 韓伝 1

この箇所が本考察の骨子で ある
実は これで景初三年説は否定されざるを得ない破目におちい事に なる
この文章の読解は以下の通りで あるが、これに異を唱える者は流石に いないと思われる
景初年間中、明帝 は秘密裏に帯方郡太守 劉昕 と楽浪郡太守 鮮于 嗣 に黄海を渡洋させ、両太守は上陸して帯方郡と楽浪郡を それぞれ平定した
魏朝 明帝 の景初年間は短く、237年から239年まで と なって いる
そして、景初三年は既に 公孫 淵 が誅殺されて いるので、秘密裏に帯方郡に渡る理由など何も無いので ある
となると、秘密裏に渡洋上陸する必要が あると言う事は、公孫 淵 が存命中の出来事で あると言う事に ならざるを得ない
そして その時期は、景初元年か景初二年しか残っていない

つまり、魏は景初二年の時点で帯方郡を制圧していた と解するより無いので ある

なお、そうなると 東夷伝 序文の記述と差違が生じる事に なるが、序文は所詮序文でしか なく、内容と精度は本文を越えるものでは無い事、明瞭で あろう
序文では 公孫 淵 誅殺後に黄海渡海と帯方郡回収が行われたものと読めるが、序文の趣意は遼東征伐と東夷 倭国の朝献を 司馬懿 の功績と して顕彰する事で あろうから、記述の前後は許容範囲と言うべきで あろう
やはり、序文よりも本文の記述を是と するべきで ある

...と今まで考えていたので あるが、改めて考えると、序文と韓伝は矛盾して いない様に思えて来た
冒頭で良く分からん主張を している人の Webサイトでは何故か 三国志 魏志 東夷伝 序文の原文が載せられていないが、当該箇所は以下の通りで ある
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 序文

景初中 大興師旅誅淵 濳軍浮海 收樂浪,帶方之郡 而後海表謐然 東夷屈服

読解は以下の通りで ある
景初年間中、大いに軍旅を興して 公孫 淵 を誅した、又(景初年間中に)水軍を黄海に潜行させて楽浪郡と帯方郡を回収した、この後は黄海に面した東夷諸国の動向が静謐と なって魏朝に屈服した
重要な箇所は 潜軍浮海 の前に が置かれていると言う事で ある
つまり、公孫淵 を誅殺した事と黄海の水軍潜行は それぞれ景初年間中の別の出来事なので あり、それぞれの出来事の前後関係を特定している文面では無いと言う事なので ある

何故 "大興師旅誅淵" が先に記述されていて "又潜軍浮海収楽浪,帯方之郡" が後に書かれているのか?
それは、"大興師旅誅淵" に関する出来事が 魏志 明帝紀公孫度伝 に先に記述が あり、その後に"又潜軍浮海収楽浪,帯方之郡" の出来事が 魏志 東夷伝 韓伝 に記載されているので、その記載順通りに東夷伝 序文に反映させたと言う事で あろう

この部分を、
公孫 淵 を誅した後に水軍を黄海に潜行させて楽浪郡と帯方郡を回収した、その後東夷諸国は屈服した
等と不可解な誤読を してしまうから、結論が おかしく なったので あろう
何故 原文を示していないのかは不明で あるが、原文を明らかにしてしまうと自説に都合が悪いのでわざと伏せたのか、あるいは原文を読んで いないかの どちらかで あろう


.3 景初三年説 崩れる


上記 .2 により、実は以下が成立しなく なって いる

1) 司馬 懿 の 公孫 淵 誅殺は景初2年8月23日で ある

2) 帯方郡に太守が赴任するのは、絶対に それ以降で なければ ならない


実際には、景初元年か景初二年には帯方郡太守が赴任しているので、この主張は完全に崩れて しまって いる
となると、次の

3) 故に、景初2年6月に卑弥呼が帯方郡に朝献出来る筈が無い


こちらも当然否定される事に なる他無い

つまり、景初二年の 卑弥呼 朝献は可能 で ある


.4 帯方楽浪両郡太守の交替


とある人は言う、景初二年の帯方郡太守は 劉夏 で あるから、景初中に帯方郡に派遣された 劉昕 と重複するので矛盾すると言う
矛盾とまでは言わずとも、人事異動が多い事に疑義が ある、と言う事で ある らしい
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 韓傳
景初中 明帝密遣帶方太守劉昕,樂浪太守鮮于嗣 越海定二郡
景初元年 しくは景初二年の帯方郡太守は 劉昕、楽浪郡太守は 鮮于 嗣 と なる
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳

景初二年 六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都
其年 十二月 詔書報倭女王曰

制詔親魏倭王卑彌呼 帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米 次使都市牛利奉汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈 以到 汝所在踰遠 乃遣使貢獻 是汝之忠孝 我甚哀汝 今以汝爲親魏倭王 假金印紫綬 裝封付帶方太守假授汝 其綏撫種人 勉爲孝順

景初二年六月から十二月までの太守は 劉夏 と ある
確かに異動が多いが、これはその時その時に期待された能力経験が異なっていた、と考えれば特に問題は無い

どう言う事かと言うと、景初元年の 公孫 淵 挙兵時点では帯方,楽浪両郡は敵地なので、武力で奪還しなければ ならない事に なる
つまり、この時点での太守に必要と されるのは実戦経験者で あると言う事に なる
いくさを知らぬ文官官僚では、とても この大役を任せられない ので ある

しかも、侵入経路に黄海を採用したため、軍兵及輜重の輸送には水軍を利用するほか無い
となると水軍経験者か少なくとも水上移動を苦と思わない者が選抜された可能性が高い

何故そう言えるかと言うと、中国人と言うのは海を知らない者が多く、船で海に出ると船酔い を起こし兼ねない からで ある
また、海の状態に よっては時化しけに遭って船が転覆してしまう可能性も あるので、水泳が出来る者の方が望ましい

上記に より、両郡上陸時には武官出身それも水に慣れた者が任命された と思われる
両郡制圧後は実戦経験よりも行政手腕や東夷の言語や慣習に詳しい者が必要と されたので、両郡制圧後に太守が交替と なったので あろう

平和ボケした日本人にはこの様な当たり前過ぎる道理すら まともに解せぬやからが多く、困って しまうので ある

これは想像で あるが、恐らくは 劉昕 は青州の沿海部、若しくは その近辺(徐州や冀州等)の出身者では ないかと思うが、どうか

その後の人事異動で あるが、
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 濊傳

正始六年(245年) 樂浪太守劉茂,帶方太守弓遵

三国志 魏志 濊伝 1

【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳

其八年(247年) 太守王頎到官

三国志 魏志 倭人伝 3

頻繁に太守が代わって いるので、人事異動が多いと しても特に矛盾と言う程では無い事が分かる
また、王頎 に ついては、
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 夫餘傳

正始(240年-249年)中 幽州刺史毋丘儉討句麗 遣玄菟太守王頎詣夫餘 位宮遣大加郊迎 供軍糧

三国志 魏志 夫餘伝 1

東夷近辺の郡太守を歴任している事も あり、私見では漢語以外の言語を修得していて魏朝に評価されていたゆえの人事では ないかと思う



3. 文献学者も愚か過ぎる


上記冒頭は在野の歴史研究家で あろうかと思うが、実は文献の専門家も往々にして愚かな誤断にまってしまう らしい
例えば以下の著論で あるが、
【古代中世における 日中関係史の研究】P.44

著者 : 大庭 脩

ところでこの年は、文献学的に考えて景初三年とする論拠はあるようで、その第一は日本書紀の神功皇后紀三十九年に引用する魏志に景初三年とつくっていること、その第二は太平御覽巻七八二の倭の条に引く魏志の原典も景初三年とあったらしいことである。
太平御覽では、

景初三年公孫淵死、倭女王遣大夫難升米等言帯方郡、求詣天子朝見。云々

とあり、一見公孫淵が死んだのが景初三年かのごとくみえるが、淵の死は二年であることは後述のとおりであるし、御覽のこの部分は明らかに魏志を節略していることは比較すればわかる。
したがってこの景初三年は、いま問題の行文の改まる部分から採ったと考えられ、御覽のもとづく魏志は三年であったと見られる。
梁書が三年につくることはこれらにつぐ傍証とできるであろう。
なお十二月は後と注しない以上、本来の十二月である。

沈家本は御覽の記事を参照した上公孫淵は景初二年八月に死んだが、これで始めて倭使が魏に通ずることを得たのであるし、それ以前には魏の帯方太守が遼東におり得るはずがない。
また二年十二月であると詔書は正始元年に倭にいたされるまで一年を隔つのは不自然であるから三年であろうと考証している。
事件の経過は沈家本の考証のとおりであるからその面もからも三年に改めるべきであろう。

太平御覽 では単に景初二年を景初三年に誤写しただけで、それ以外の箇所は 三国志 を読んだ上での 焼き直し の文面でしか無い
よって、これでは景初三年を是と する根拠には ならない
そして 梁書 の 倭伝 は誤記が散見していて信憑性が低く、編纂の際に改竄(編纂者は訂正した つもり かも知れないが…) が疑われるので これに全幅の信を置くのは危険過ぎる

帯方太守の任官に ついては既に景初元年に太守が任命され景初二年には帯方郡を制圧して現地に赴任している事、上記で述べている通りで ある

詔書が倭国に届けられるのが正始元年まで遅延しているが、景初三年中は 明帝の喪に服していたからで、その翌年に使者が出立しゅったつ しただけで あろう
或いは、景初三年は 明帝 崩御後幼少の 曹芳 が即位して政情が安定して おらず、だ表面化しては いなかったとは思うが曹氏一族の有力者 曹爽 と軍部重鎮の 司馬 懿 に よる権力闘争の萌芽も生じていて対外行事を行いにくかった と言う事も考えられる
何分、東夷諸国の掌握は 司馬 懿 に よる 公孫 淵 討伐に よる功績が大きいので、曹爽 としては政敵司馬 懿 の功績から距離を置いて東夷の諸事を先送り したかったのでは無いかと思う
ただ、何時いつまでも先延ばし を続けるわけ にも行かず、また 倭国側からも

下賜物は何時 届くのか?

と催促を受けたかも知れず、それでむ無く正始元年に詔書携行の使者と下賜物を送り出したと言う経緯で あったのかも知れない

いずれにせよ故人を批判するのは少々気が引けるが、大庭氏もがたい バカな主張を行ったもの で ある

他にも同じ穴のむじな が以下の通り いるので あるが、
【歴史文化ライブラリー 105 魏志倭人伝を読む 下】 P.65

著者 : 佐伯 有清

景初二年は同三年
景初二年(二三八)六月は、景初三年(二三九)六月の誤り。
『梁書』倭伝に、「魏の景初三年、公孫淵の誅せられし後に至り、卑弥呼、始めて使を遣わす」とあり、『日本書紀』神功皇后摂政三十九年の条に引く『魏志』に、「明帝の景初三年六月、倭の女王、大夫難斗米等を遣わし、郡に詣らしめ、天子に詣りて朝献せんことを求む。
太守鄧夏、吏を遣わし、将い送りて京都に詣らしむ」とあり、さらに『翰苑』倭国条の「景初の辰、文錦の献を恭くす」の夾注に引く『魏志』に、景初三年、倭の女王、大夫難升未利等を遣わし」云々とあって、いずれも「景初三年」と明記している。

慶元版(宋槧本)の『太平御覽』所引の『魏志』には、「景初三年、公孫淵死す。倭の女王、大夫難升米等を遣わして、帯方郡に言せしめ、天子に詣りて朝貢せんことを求む。太守劉夏、送りて京都に詣らしむ」とあって、公孫淵(?~二三八)の滅亡とかかわらせて、「景初三年」としている。
ただし公孫淵の死は、その前年八月のことなので、『太平御覽』の「今本」が、「景初二年」としてあるのが妥当である。

『晋書』倭人伝には、「景初三年」などの年紀をかかげていないが、「宣帝(司馬懿<一七九~二五一>)が公孫氏を平らぐるや、その女王、使いを遣わし、帯方に至り、朝見せしむ」とあって、公孫氏の滅亡後に、倭の女王卑弥呼の魏への遣使のあったことを記している。
また『北史』倭国伝に、「魏の景初三年、公孫文懿(公孫淵のこと)の誅後、卑弥呼、始めて使いを遣わし朝貢す」とある。
『北史』の諸本は、多く「景初五年」に作るが、一本によって「景初三年」とするのが妥当である。
景初には「五年」がないことは、言うまでもない。
「五年」とするのは、誤刻によるのであろう。

この者は執拗に景初三年を強弁したい らしく、都合が悪い事は "誤り誤り誤り誤り誤り" で押し通さん と欲しているので あろう
日本書紀 には魏朝の 明帝 の治世で ある事が明記されているので、何かしら別の史料等に より倭国使を 明帝 が引見したものと見做しているので あろうと思われる
ここまで読んだ方に お聞きしたいので あるが、さて皇帝号(皇帝諡号)と暦年は どちらが書き誤り易いで あろうか?

該当する箇所は以下の通りで ある
【日本書紀】 卷第九 氣長足姬尊 神功皇后

撰者 : 舎人親王 等

(神功)卅九年 是年也太歲己未

魏志云

明帝景初三年六月 倭女王遣大夫難斗米等詣郡 求詣天子朝獻
太守鄧夏 遣吏將送詣京都也

日本書紀 神功皇后 1

書き誤りの可能性は次の二通りで あるかと思われる

1) 本来は曹芳と書くべき所を明帝と誤った

2) 本来は景初二年と書くべき所を景初三年と誤った


私見では あるが、私ならば 2) の可能性が高いのでは無いかと考える

また、太平御覽 は 公孫 淵 の死も含めて景初三年と誤写しているので、太平御覽 全体で景初二年と景初三年を取り違えている可能性が示唆され、これに依拠するのは慎重に ならねば なるまい かと思う

晋書 は 魏志 東夷伝 等の記述の書き直しに過ぎず、これも暦年を特定する事は難しいと思う
晋書 で該当する箇所は以下の記述では無いかと思うが、
【晉書】 卷九十七 列傳第六十七 四夷 東夷傳 倭人傳

撰者 : 唐朝 房 玄齢, 李 延壽(寿) 等

舊以男子爲主 漢末倭人亂 攻伐不定 乃立女子爲王 名曰卑彌呼
宣帝之平公孫氏也 其女王遣使至帶方朝見 其後貢聘不絶

これは以下の 魏志 東夷伝 序文 と、
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 東夷傳 序文

景初中 大興師旅誅淵 又濳軍浮海 收樂浪,帶方之郡 而後海表謐然 東夷屈服

以下の様な 東夷伝 や 魏志 の 列伝 の記述と、
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 高句麗傳

景初二年 太尉司馬宣王率衆討公孫淵 宮遣主簿大加將數千人助軍

【三國志】 卷十四 魏志 程郭董劉蔣劉傳 第十四

景初二年 遼東平定

そして以下の 魏志 倭人伝 の箇所を切り取って繋ぎ合わせて作文した結果で あろうと思われる
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳

景初二年 六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都

北史 の諸本は以下の通り景初二年を景初五年と誤記しているものと思われるが、

卷九十四 列傳第八十二 倭國


その極一部の記述を是と すると言う態度は極めて客観的では無い ものが ある
これでは自説に都合の良い記述のみ採用し自論に都合が悪い記載は目を背けて捨てていると評されても致し方無い で あろう
これは一案で あるが、北史の原本は始めから景初二年を景初五年と誤記して おり その原本から写本を作る際に極一部の写本で景初五年から景初三年に誤写[註1]した と言う可能性も あると言う事を忘れては ならない ので ある

註1:

単なる誤写では無く、伝写者が
「この景初五年は誤記なので、恐らくは景初三年が正しい筈だ」
と言う思い込み に より本文の書き換えを行っている可能性も あろう
この場合、伝写者本人は校勘こうかん により誤記を正したもの と考えていたかも知れない

【歴史文化ライブラリー 105 魏志倭人伝を読む 下】 P.67

『魏志』公孫淵伝に、彼の敗死によって「遼東、帯方、楽浪、玄菟、悉く平らぐ」とあり、明帝紀には、「海東の諸郡平らぐ」と記され、さらに倭人伝を記載する東夷伝の序には、「景初中、大いに師旅(軍隊)を興がし、(公孫)淵を誅つ。又、潜かに軍を海に浮かべて、楽浪、帯方の郡を収る。而後、海表、謐然として(平穏となること)、東夷、屈服す」とあり、また高句麗伝には、「景初二年、大尉司馬宣王(司馬懿)、衆を率い、公孫淵を討つ。宮(高句麗の東川王<在位二二七~二四七>)、主簿、大加を遣わし、数千人を将いて軍を助けしむ」とあることから知られるように、魏の景初二年(二三八)の司馬懿軍の公孫淵攻撃戦は、公孫淵の拠った遼東郡ばかりでなく、遼東の北の玄菟郡、東南の楽浪、帯方の両郡をもまきこんだ戦乱であった。

そうした混乱のなかで、倭の女王卑弥呼が帯方郡に使者を派遣し、さらに魏の皇帝のもとに朝貢しようとしたことは、景初二年六月の時点ではありえないであろう。
その六月こそ、司馬懿の軍隊が公孫淵討滅に動きだしたときにあたっており、帯方郡にあっても、それ以前から不安定な状況のもとにあったと思われるからである。

卑弥呼の魏への遣使は、景初三年(二三九)六月のことであった。
それは、おそらく後に即位した新帝斉王芳への祝意のための遣使であったであろう。

文献学者と言うのは このあたり の認識がややも すればおかしいので あるが、当時は現代と違って遠い距離の出来事を把握するすべを持たない もの なので ある
しかし文献を机上で読むだけの者は、当時起きていた出来事を当時の人達で さも共有して対処していたか の様に錯覚してしまう悪弊が あるので あろう
だから倭国側では海の向こうで何が起きていて何処どこが混乱しているのか等は分からないもの なので ある

それに、倭国側の都合と遼東の事情には特に依存関係は存在しない
別に魏朝側で戦争して いようが外敵に襲撃されていようが それは 倭国 の遣使とは何の関係も無い事で あり、卑弥呼 が斟酌しんしゃくする必要は更々さらさら無い
有り体に言えば、卑弥呼 が貢献を思い立った時こそが 倭国 の朝貢年なので あり、魏国や遼東が混乱していようと いまいと知った事では無いので ある
この人は頭が おかしい のであろうか?

なお、これも文献論者の通弊で あるが、歴史とは史書に書かれている事が先頭から順番に起きているもの と勘違いしている者が少なく無い
特に戦争とは水物みずもので あり、建物の移動で人がエレヴェーターに乗って上から順番に下に降りて来て決着が着くもの では無いので ある
これが戦争を知らぬ現代の歴史学者、特に外国にも移動した事が無く机の上で紙史料を読んだ事しか無い 平和ボケ した大学教授等にはかいするあたわぬ事で ある らしい
ちなみ に水物とは茫洋として常に変動していて どの様に推移するのか が読めないと言う事を指すので あるが、戦争とは時間が静止した中で紙芝居の様に切り出されて推移するのでは無く、多元的な空間と時間軸の中でリアルタイムに推移するので ある
公孫 淵 討滅戦では、司馬 懿に よる遼水,襄平城攻略戦と楽浪,帯方両郡 掠取戦りゃくしゅせん同時並行的に進んでいる事が読み取れる
時間軸で言えば、先に魏水軍に よる帯方郡占領が行われ、その後に襄平城が陥落する事に なる
この時間軸は非常に重要で あり、常に意識して おかなければ ならない ので ある

ついでに言えば、曹芳 の即位と言った出来事を敢えて 倭国 に知らせる必要が あるので あろうか?
他国、例えば馬韓,辰韓,弁辰の諸韓国にも知らせたと言う事か?
仮に東夷諸国に知らせたいと考えたとしても、曹芳 が即位したのは景初三年正月なので、それから使者を派遣したとして 6月には倭国から帯方郡に貢献している訳で あり、使者の往復を考えると洛陽から 倭国 へ向かい貢献の準備を整えてから改めて 倭国 から帯方郡へ遣使された事に なる
そして この期間は 最大でも 6ヶ月間しか無い ので ある
当時の移動手段を考えればほとんど 不可能と言って良いと考えるので あるが、如何いかがで あろうか?
第一、6月に帯方郡に到着した 倭国使が洛陽で引見されるのは 12月で ある
引見よりも前に 倭国使が到着していたとは思うが、それでも到着は 11月か 12月の頃合いで あろうか
つまり帯方郡から洛陽までの移動だけで数ヶ月程度はついやす ので ある
これを考慮すれば、どう考えても 斉王芳 の祝意の賀使が景初三年六月に帯方郡へ到着すると主張するには無理が ある
【歴史文化ライブラリー 105 魏志倭人伝を読む 下】 P.69

すでに掲げておいたように、『魏志』東夷伝の序には、「景初中、大いに師旅を興がし、淵を誅つ。又、潜かに軍を海に浮かべて、楽浪、帯方の郡を収る。而後、海表、謐然として、東夷、屈服す」とあった。
これに対応する記事として、『魏志』韓伝の「景初中、明帝、密かに帯方太守劉昕と楽浪太守の鮮于嗣を遣わし、海を越えて二郡を定めしむ」があげられる。

この人は密かにとの字句が目に映っているにも拘わらず、自説に都合が悪いので読解しない様に している様に見える

ここまで述べた通り 佐伯氏 が論述されている "景初三年を是とする根拠" に ついては、実は先入観を排し内容を良く精査して見ると根拠として成立していない事が分かる
この者も、所詮は大和朝廷教と言う宗教に毒されていて正常な判断能力を失っていると言う事か…



4. 倭国使は抑留されたのか


倭国からの遣使が景初二年六月で、洛陽に到着したのは十二月と書かれている
この期間、倭国使は何を していたのであろう?
もしかしたら、倭国使は公孫淵に対して歳時貢献の使者を派遣したが魏軍が帯方郡を占領した直後に鉢合わせ を してしまい、そのまま抑留されてしまったのかも知れない
そうすると、洛陽に到着するまでの およそ半年の空白期間を説明出来そうでは ある



5. 遼東以東の情勢


当時の情勢を整理するため、参考として 三国志 から関連する記述の抽出をこころみる
明帝紀 に ついては影本として以下を採用している
《武英殿二十四史》本《三國志》 (圖書館) - 中國哲學書電子化計劃
【三國志】 卷三 魏志 明帝紀 第三

撰者 : 西晉(晋)朝 陳壽(寿)

(太和二年)(西暦228年)正月 宣王攻破新城 斬達傳其首

魏畧曰 宣王誘達將李輔及達甥鄧賢 賢等開門納軍 達被圍旬有六日而敗 焚其首于洛陽四達之衢
分新城之上庸,武靈[註2],巫[註2]縣爲上庸郡.錫縣爲錫郡

蜀大將諸葛亮寇邊 天水,南安,安定三郡吏民叛應亮

魏書曰 是時朝臣未知計所出 帝曰

亮阻山爲固 今者自來 旣合兵書致人之術
且亮貪三郡 知進而不知退 今因此時 破亮必也

乃部勒兵馬步騎五萬拒亮

遣大將軍曹眞都督關右 並進兵
右將軍張郃擊亮於街亭 大破之
亮敗走 三郡平
丁未 行幸長安

魏畧載 帝露布天下幷班告益州曰

劉備背恩 自竄巴,蜀
諸葛亮棄父母之國 阿殘賊之黨 神人被毒 惡積身滅
亮外慕立孤之名 而內貪專擅之實
劉升之兄弟守空城而已[註3]
亮又侮易益土虐用其民 是以利狼,宕渠,高定,靑羌莫不瓦解 爲亮讐敵
而亮反裘負薪 裏盡毛殫 刖趾適屨 刻肌傷骨 反更稱說 自以爲能
行兵於井底 游步於牛蹄
自朕卽位三邊無事 猶哀憐天下數遭兵革 且欲養四海之耆老 長後生之孤幼 先移風於禮樂 次講武於農𨻶 置亮畫外 未以爲虞
而亮懷李熊愚勇之智 不思荊邯度德之戒 驅畧吏民 盜利祁山
王師方振膽破氣奪 馬謖,高祥望旗奔敗
虎臣逐北蹈尸涉血 亮也小子震驚朕師
猛銳踊躍咸思長驅 朕惟率土莫非王臣 師之所處荊棘生焉 不欲使千室之邑忠信貞良 與夫淫昏之黨共受塗炭
故先開示以昭國誠 勉思變化 無滯亂邦
巴,蜀將吏士民諸爲亮所劫迫 公卿已下皆聽束手

夏 四月 丁酉 還洛陽宮
赦繫囚非殊死以下
乙巳 論討亮功 封爵增邑各有差
五月 大旱
六月 詔曰

尊儒貴學 王教之本也
自頃儒官或非其人 將何以宣明聖道 其高選博士才 任侍中,常侍者
申敕郡國 貢士以經學爲先

秋 九月 曹休率諸軍至皖 與吳將陸議戰於石亭 敗績
乙酉 立皇子穆爲繁陽王
庚子 大司馬曹休薨
冬 十月 詔公卿,近臣舉良將各一人
十一月 司徒王朗薨
十二月 諸葛亮圍陳倉 曹眞遣將軍費曜等拒之

魏畧曰

先是 使將軍郝昭築陳倉城 會亮至圍昭不能㧞
昭字伯道 太原人 爲人雄壯 少入軍爲部曲督 數有戰功 爲雜號將軍 遂鎭守河西十餘年 民,夷畏服
亮圍陳倉 使昭鄉人靳詳於城外遥說之 昭於樓上應詳曰

魏家科法 卿所練也
我之爲人 卿所知也
我受國恩多而門戸重 卿無可言者 但有必死耳
卿還謝諸葛 便可攻也

詳以昭語吿亮 亮又使詳重說昭 言人兵不敵 無爲空自破滅
昭謂詳曰

前言已定矣 我識卿耳 箭不識也

詳乃去
亮自以有衆數萬 而昭兵纔千餘人 又度東救未能便到 乃進兵攻昭 起雲梯,衝車以臨城
昭於是以火箭逆射其雲梯 梯然梯上人皆燒死
昭又以繩連石磨壓其衝車 衝車折
亮乃更爲井闌百尺以射城中 以土瓦塡塹 欲直攀城 昭又於內築重牆
亮又爲地突 欲踊出於城裏 昭又於城內穿地橫截之
晝夜相攻拒二十餘日 亮無計 救至引退
詔嘉昭善守賜爵列侯 及還 帝引見慰勞之 顧謂中書令孫資曰

卿鄉里乃有爾曹快人 爲將灼如此 朕復何憂乎

仍欲大用之
會病亡 遺令戒其子凱曰

吾爲將 知將不可爲也
吾數發塚 取其木以爲攻戰具 又知厚葬無益於死者也
汝必歛以時服
且人生有處所耳 死復何在耶
今去本墓遠 東西南北 在汝而已

遼東太守公孫恭兄子淵 劫奪恭位 遂以淵領遼東太守

三国志 魏志 明帝紀 01

三国志 魏志 明帝紀 02

三国志 魏志 明帝紀 03

三国志 魏志 明帝紀 04


(景初元年)(237年)秋 七月 丁卯 司徒陳矯薨
孫權遣將朱然等二萬人圍江夏郡 荊州刺史胡質等擊之 然退走
初權遣使浮海與高句驪通 欲襲遼東
遣幽州刺史毌丘儉率諸軍及鮮卑,烏丸屯遼東南界 璽書徵公孫淵
淵發兵反 儉進軍討之 會連雨十日 遼水大漲 詔儉引軍還
右北平烏丸單于寇婁敦遼西烏丸都督王護留等居遼東 率部衆隨儉內附
己卯 詔遼東將吏士民爲淵所脅畧不得降者 一切赦之
辛卯 太白晝見
淵自儉還 遂自立爲燕王置百官 稱紹漢元年(237年)
詔靑,兗,幽,冀四州大作海船
三国志 魏志 明帝紀 05

三国志 魏志 明帝紀 06


二年(238年) 春 正月 詔太尉司馬宣王帥衆討遼東

干竇[註4]晉紀曰

帝問宣王

度淵將何計以待君

宣王對曰

淵棄城預走 上計也
據遼水拒大軍 其次也
坐守襄平 此爲成禽耳

帝曰

然則三者何出

對曰

唯明智審量彼我 乃預有所割棄 此旣非淵所及
又謂今往縣遠不能持久 必先拒遼水 後守也

帝曰

往還幾日

對曰

往百日 攻百日 還百日 以六十日爲休息 如此 一年足矣

魏名臣奏載散騎常侍何曾表曰

臣聞先王制法 必於全愼
故建官授任 則置假輔 陳師命將 則立監貳 宣命遣使 則設介副 臨敵交刃 則參御右 蓋以盡謀思之功 防安危之變也
是以在險當難 則權足相濟 隕缺不預 則手足相代 其爲固防 至深至遠
及至漢氏 亦循舊章 韓信伐趙 張耳爲貳 馬援討越 劉隆副軍
前世之迹 著在篇志
今懿奉辭誅罪步騎數萬 道路迴阻四千餘里 雖假天威有征無戰寇或潛遁 消散日月

命無常期 人非金石 遠慮詳備 誠宜有副
今北邊諸將及懿所督 皆爲僚屬 名位不殊 素無定分 卒有變急 不相鎮攝
存不忘亡 聖達所戒

宜選大臣名將威重宿著者 盛其禮秩 遣詣懿軍 進同謀略 退爲副佐
雖有萬一不虞之災 軍主有儲 則無患矣

毌丘儉志記云 時以儉爲宣王副也

三国志 魏志 明帝紀 07

三国志 魏志 明帝紀 08


秋 八月 燒當羌王芒中,注詣等叛 涼州刺史率諸郡攻討 斬注詣首
癸丑 有彗星見張宿
丙寅 司馬宣王圍公孫淵於襄平 大破之 傳淵首于京都 海東諸郡平
冬 十一月 錄討淵功 太尉宣王以下增邑封爵各有差
初帝議 遣宣王討淵發卒四萬人 議臣皆以爲四萬兵多 役費難供
帝曰

四千里征伐 雖云用奇亦當任力 不當稍計役費

遂以四萬人行
及宣王至遼東 霖雨不得時攻 羣臣或以爲淵未可卒破 宜詔宣王還
帝曰

司馬懿臨危制變 擒淵可計日待也

卒皆如所策
壬午以司空衞臻爲司徒 司隸校尉崔林爲司空
閏月 月犯心中央大星
十二月 乙丑 帝寢疾不豫
辛巳 立皇后
賜天下男子爵人二級 鰥寡孤獨穀
以燕王宇爲大將軍
甲申 免 以武衞將軍曹爽代之

三国志 魏志 明帝紀 09

三国志 魏志 明帝紀 10

(景初)三年(239年) 春 正月 丁亥 太尉宣王還至河內
帝驛馬召到 引入臥內 執其手謂曰

吾疾甚 以後事屬君 君其與爽輔少子
吾得見君 無所恨

宣王頓首流涕

魏畧曰

帝旣從劉放計 召司馬宣王 自力爲詔 旣封 顧呼宮中常所給使者曰

辟邪來 汝持我此詔授太尉也

辟邪馳去
先是 燕王爲帝畫計 以爲關中事重 宜便道遣宣王從河內西還 事以施行
宣王得前詔 斯須復得後手筆 疑京師有變 乃馳到 入見帝
勞問訖 乃召齊 秦二王以示宣王 別指齊王謂宣王曰

此是也 君諦視之 勿誤也

又教齊王令前抱宣王頸

魏氏春秋曰

時太子芳年八歲 秦王九歲 在于御側
帝執宣王手 目太子曰

死乃復可忍 朕忍死待君 君其與爽輔此

宣王曰

陛下不見先帝屬臣以陛下乎

卽日 帝崩于嘉福殿魏書曰 殯于九龍前殿 時年三十六

臣松之案 魏武以建安九年(204年)八月定鄴 文帝始納甄后 明帝應以(建安)十年(205年)生 計至此年正月 整三十四年耳
時攺正朔 以故年十二月爲今年正月 可彊名三十五年 不得三十六也

癸丑 葬高平陵

魏書曰

帝容止可觀 望之儼然
自在東宮不交朝臣 不問政事 唯潛思書籍而已[註5]
卽位之後 褒禮大臣 料簡功能 眞僞不得相貿 務絕浮華譖毀之端 行師動衆 論決大事 謀臣將相 咸服帝之大畧
性特彊識 雖左右小臣官簿性行 名跡所履 及其父兄子弟 一經耳目 終不遺忘
含垢藏疾 容受直言 聽受吏民士庶上書 一月之中至數十,百封 雖文辭鄙陋 猶覽省究竟 意無厭倦

孫盛曰

聞之長老 魏明帝天姿秀出 立髮埀地 口吃少言 而沉毅好斷
初諸公受遺輔導 帝皆以方任處之 政自巳[註6]出
而優禮大臣 開容善直 雖犯顏極諫 無所摧戮 其君人之量如此之偉也
然不思建德埀風 不固維城之基 至使大權偏據 社稷無衞 悲夫

三国志 魏志 明帝紀 11

三国志 魏志 明帝紀 12

註2:

武霊(靈)県と言うは無いのか? 武陵県が正しいと 何悼 なる者が考証している
ついでに上庸郡は上庸県と武霊県のみで巫県は対象外、と言う事なのかも知れない
いや、抑々 武陵や巫と言った地域を魏は実効支配していた のか?

註3:

已字 は 己字 の誤か

註4:

竇字 は 寶字 の誤か

註5:

已字 なのか 巳字 なのか判別し難(がた)い

註6:

巳字 に見えるが 已字 もしくは 己字 の誤記誤写か


諸葛 亮 が没したので対蜀戦に張り付いていた 司馬 懿 を遼東に差遣する事が出来る様に なったと言う魏朝の国内事情を読み取れる
【三國志】 卷八 魏志 二公孫陶四張傳 第八 公孫度傳

初恭病陰消 爲閹人
劣弱不能治國
太和二年 淵脅奪恭位
明帝卽位 拜淵揚烈將軍遼東太守
淵遣使南通孫權 往來賂遺

三国志 魏志 公孫度伝 1

權遣使張彌許晏等 齎金玉珍寶 立淵爲燕王
淵亦恐權遠不可恃
且貪貨物 誘致其使 悉斬送彌晏等首

三国志 魏志 公孫度伝 2

明帝於是拜淵大司馬 封樂浪公
持節,領郡 如故

三国志 魏志 公孫度伝 3

三国志 魏志 公孫度伝 4

使者至 淵設甲兵爲軍陳 出見使者
又數對國中賓客 出惡言
景初元年 乃遣幽州刺史毌丘儉等 齎璽 書徵淵
淵遂發兵逆於遼隧 與儉等戰 儉等不利而還
淵遂自立爲燕王 置百官有司
遣使者持節 假鮮卑單于璽 封拜邊民
誘呼鮮卑 侵擾北方

三国志 魏志 公孫度伝 5

二年 春 遣太尉司馬宣王征淵
六月 軍至遼東

三国志 魏志 公孫度伝 6

淵遣將軍卑衍,楊祚等 步騎數萬屯遼隧 圍塹二十餘里
宣王軍至 令衍逆戰
宣王遣將軍胡遵等 擊破之
宣王令軍 穿圍 引兵東南向
而急東北 卽趨襄平
衍等恐襄平無守夜走
諸軍進至首山
淵復遣衍等迎軍 殊死戰
復擊大破之
遂進軍造城下 爲圍塹
會霖雨三十餘日 遼水暴長 運船自遼口 徑至城下

三国志 魏志 公孫度伝 7

雨霽起土山 脩櫓爲發石連弩射城中
淵窘急 糧盡 人相食 死者甚多
將軍楊祚等降
八月 丙寅 夜大流星長數十丈 從首山東北 墜襄平城東南
壬午 淵衆潰
與其子脩將數百騎 突圍東南走
大兵急擊之 當流星所墜處 斬淵父子 城破
斬相國以下首級以千數 傳淵首洛陽
遼東,帶方,樂浪,玄菟悉平
初淵家數有怪
犬冠幘絳衣上屋
炊有小兒蒸死甑中
襄平北 巿生肉 長圍各數尺 有頭目口喙 無手足而動搖
占曰

三国志 魏志 公孫度伝 7

有形不成 有體無聲 其國滅亡

始度以中平六年(189年)據遼東
至淵三世 凡五十年而滅

三国志 魏志 公孫度伝 8

【三國志】 卷十四 魏志 程郭董劉蔣劉傳 第十四

明帝卽位 進爵東亭侯 邑三百戶
詔曰

尊嚴祖考 所以崇孝表行也
追本敬始 所以篤教流化也
是以成湯文武實造商周 詩書之義 追尊稷契 歌頌有娀姜嫄之事
明盛德之源流 受命所由興也
自我魏室之承天序 旣發迹於高皇太皇帝
而功隆于武皇文皇帝
至于高皇之父處士君 潛脩德讓行動神明

三国志 魏志 劉曄伝 1

斯乃乾坤所福饗 光靈所從來也
而精神幽遠 號稱罔記 非所謂崇孝重本也
其令公卿已下 會議號諡

曄議曰

聖帝孝孫之欲褒崇先祖 誠無量已
然親疏之數 遠近之降 蓋有禮紀
所以割斷私情 克成公法 爲萬世式也
周王所以上祖后稷者 以其佐唐有功名在祀典故也
至於漢氏之初 追諡之義不過其父
上比周室則大魏發迹自高皇始
下論漢氏則追諡之禮不及其祖
此誠往代之成法 當今之明義也

三国志 魏志 劉曄伝 2

陛下孝思中發 誠無已已
然君舉必書 所以慎於禮制也
以爲追尊之義 宜齊高皇而已

尚書衞臻 與曄議同 事遂施行
遼東太守公孫淵奪叔父位 擅自立 遣使表狀
曄以爲 公孫氏漢時所用 遂世官相承
水則由海 陸則阻山 故胡夷絕遠難制 而世權日久
今若不誅 後必生患
若懷貳阻兵然後致誅 於事爲難
不如 因其新立有黨有仇 先其不意以兵臨之
開設賞募 可不勞師而定也
後淵竟反

三国志 魏志 劉曄伝 3

魏國旣建 與太原孫資俱爲祕書郎
先是 資亦歷縣令 參丞相軍事

三国志 魏志 劉放伝 1

文帝卽位 放資轉爲左右丞
數月 放徙爲令
黃初(220年-226年)初 改祕書爲中書
以放爲監 資爲令 各加給事中
放賜爵關內侯 資爲關中侯 遂掌機密
三年 放進爵魏壽亭侯 資關內侯
明帝卽位 尤見寵任 同加散騎常侍
進放爵西鄉侯 資樂陽亭侯

三国志 魏志 劉放伝 2

太和末 吳遣將周賀 浮海詣遼東 招誘公孫淵
帝欲邀討之 朝議多以爲不可

三国志 魏志 劉放伝 3

惟資決行策 果大破之 進爵左鄉侯
放善爲書檄
三祖詔命有所招喻 多放所爲
靑龍初 孫權與諸葛亮連和 欲俱出爲寇
邊候得權書
放乃改易其辭 往往換其本文而傅合之 與征東將軍滿寵 若欲歸化 封以示亮
亮騰與吳大將步騭等
騭等以見權
權懼亮自疑 深自解說

三国志 魏志 劉放伝 3

是歲 俱加侍中 光祿大夫

三国志 魏志 劉放伝 4

景初二年 遼東平定
以參謀之功 各進爵 封本縣
放方城侯 資中都侯

三国志 魏志 劉放伝 4

【三國志】 卷二十二 魏志 桓二陳徐衞盧傳 第二十二

幽州刺史毌丘儉 上疏曰

陛下卽位已來未有可書
吳蜀恃險 未可卒平
聊可以此方無用之士 克定遼東

臻曰

儉所陳 皆戰國細術 非王者之事也
吳頻歲稱兵寇亂邊境而猶案甲養士 未果尋致討者 誠以百姓疲勞故也
且淵生長海表相承三世 外撫戎夷 內脩戰射
而儉欲以偏軍長驅 朝至夕卷 知其妄矣

儉行軍遂不利

三国志 魏志 衛臻伝 1

【三國志】 卷二十六 魏志 滿田牽郭傳 第二十六

太和(227年-233年)末 公孫淵以遼東叛
帝欲征之而難其人 中領軍楊暨舉豫應選
乃使豫以本官督靑州諸軍假節 往討之
會吳賊遣使與淵相結
帝以賊衆多又以渡海 詔豫使罷軍
豫度

賊船垂還 歲晚風急 必畏漂浪 東隨無岸 當赴成山

成山無藏船之處 輒便循海 案行地勢 及諸山島 徼截險要 列兵屯守

三国志 魏志 田豫伝 1

三国志 魏志 田豫伝 2

自入成山 登漢武之觀
賊還 果遇惡風 船皆觸山沈沒 波蕩著岸 無所蒙竄 盡虜其衆
初諸將皆笑於空地待賊
及賊破 競欲與謀 求入海鉤取浪船
豫懼 窮虜死戰 皆不聽
初豫以太守督靑州 靑州刺史程喜內懷不服
軍事之際 多相違錯
喜知帝寶愛明珠 乃密上

豫雖有戰功而禁令寬弛
所得器仗珠金甚多 放散皆不納官

由是功不見列

三国志 魏志 田豫伝 3

【三國志】 卷二十八 魏志 王毌丘諸葛鄧鍾傳 第二十八

靑龍(233年-237年)中 帝圖討遼東 以儉有幹策 徙爲幽州刺史 加度遼將軍 使持節 護烏丸校尉
率幽州諸軍至襄平 屯遼隧
右北平烏丸單于寇婁敦 遼西烏丸都督率衆王護留等 昔隨袁尚奔遼東者 率衆五千餘人降

三国志 魏志 毌丘倹伝 1

寇婁敦遣弟阿羅槃等 詣闕朝貢 封其渠率二十餘人爲侯王 賜輿馬繒綵各有差
公孫淵逆與儉戰 不利 引還
明年(=景初二年:238年) 帝遣太尉司馬宣王 統中軍及儉等衆數萬 討淵定遼東
儉以功進封安邑侯 食邑三千九百戶

三国志 魏志 毌丘倹伝 2

【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 烏丸傳

魏畧曰 景初元年 秋 遣幽州刺史毋丘儉 率衆軍討遼東
右北平烏丸單于寇婁敦,遼西烏丸都督率衆王護留葉 昔隨袁尚奔遼西 聞儉軍至 率衆五千餘人降
寇婁敦遣弟阿羅槃等詣闕朝貢 封其渠帥三十餘爲王 賜輿馬繪采各有差

三国志 魏志 烏丸伝 1

【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 東夷傳 序文

魏興 西域雖不能盡至 其大國龜茲,于窴,康居,烏孫,疎勒,月氏,鄯善,車師之屬 無歳不奉朝貢 畧如漢氏故事
而公孫淵仍父祖三世有遼東 天子爲其絶域委以海外之事 遂隔斷東夷 不得通於諸夏
景初中 大興師旅誅淵 又濳軍浮海 收樂浪,帶方之郡 而後海表謐然 東夷屈服
其後高句麗背叛 又遣偏師致討 窮追極遠 踰烏丸骨都 過沃沮 踐肅愼之庭 東臨大海
長老説有異面之人 近日之所出 遂周觀諸國 采其法俗 小大區別 各有名號 可得詳紀

三国志 魏志 東夷伝 序文 1

三国志 魏志 東夷伝 序文 2

これは 東夷伝 部分のみの序文で あるが、要点を簡潔には述べている
ただ、各々おのおのの事蹟の詳細までは記されて おらず、ぐに これらの記述に飛び付いてしまっては少々あやうい感を受ける
個別に事実を明らかに せねば足許あしもとすくわれて しまい そうな、あら過ぎて大甘な記載で ある
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 高句麗傳

景初二年 太尉司馬宣王率衆討公孫淵 宮遣主簿大加將數千人助軍
正始三年(242年) 宮寇西安平
其五年(244年) 爲幽州刺史毋丘儉所破

三国志 魏志 高句麗伝 1

三国志 魏志 高句麗伝 2


【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 韓傳

桓,靈之末 韓,濊彊盛 郡,縣不能制 民多流入韓國
建安中 公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡 遣公孫模,張敞等 收集遺民 興兵伐韓,濊
舊民稍出 是後倭,韓遂屬帶方
景初明帝帶方太守劉昕,樂浪太守鮮于嗣 越海定二郡
諸韓國臣智加賜邑君印綬 其次與邑長
其俗好衣幘 下戸詣郡朝謁 皆假衣幘 自服印綬衣幘千有餘人
部從事呉林以樂浪本統韓國 分割辰韓八國以與樂浪 吏譯轉有異同 臣智激韓忿 攻帶方郡崎離營
時太守弓遵,樂浪太守劉茂興兵伐之 遵戰死 二郡遂滅韓

三国志 魏志 韓伝 1

三国志 魏志 韓伝 2


【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳

景初二年 六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都

【三國志】 卷四十七 吳志 吳主傳 第二

嘉禾元年(232年) 春 正月 建昌侯慮卒
三月 遣將軍周賀 校尉裴潛 乘海之遼東
秋九 月 魏將田豫 要擊 斬賀于成山
冬十 月 魏遼東太守公孫淵 遣校尉宿舒 閬中令孫綜 稱藩於權 幷獻貂馬
權大悅 加淵爵位
二年(233年) 春 正月 詔曰

朕以不德 肇受元命 夙夜兢兢 不遑假寢
思平世難 救濟黎庶 上答神祗 下慰民望
是以眷眷 勤求俊傑 將與戮力 共定海內 苟在同心 與之偕老
今使持節督幽州領靑州牧遼東太守燕王 久脅賊虜 隔在一方
雖乃心於國 其路靡緣
今因天命 遠遣二使 款誠顯露 章表殷勤 朕之得此 何喜如之
雖湯遇伊尹 周獲呂望 世祖未定而得河右 方之今日 豈復是過
普天一統 於是定矣
書不云乎 一人有慶兆民賴之
其 大赦天下 與之更始
其明下州郡 咸使聞知
特下燕國 奉宣詔恩 令普天率土備聞斯慶

三月 遣舒綜還
使太常張彌 執金吾許晏 將軍賀達等 將兵萬人 金寶珍貨 九錫備物 乘海授淵
舉朝大臣 自丞相雍已下皆 諫 以爲 淵未可信而寵待太厚 但可遣吏兵數百護送舒綜
權終不聽
淵果斬彌等 送其首于魏 沒其兵資
權大怒 欲自征淵
尚書僕射薛綜等 切諫 乃止
是歲 權向合肥新城
遣將軍全琮 征六安 皆不克還

【三國志】 卷五十二 吳志 張顧諸葛步傳 第七

以公孫淵稱藩 遣張彌許晏 至遼東 拜淵爲燕王
昭諫曰

淵背魏懼討 遠來求援 非本志也
若淵改圖欲自明於魏 兩使不反
不亦取笑於天下乎

權與相反覆 昭意彌切
權不能堪
案刀而怒曰

吳國士人 入宮則拜孤 出宮則拜君
孤之敬君亦爲至矣 而數於衆中折孤
孤嘗恐失計

昭熟視權曰
臣雖知言不用 每竭愚忠者 誠以 太后臨崩呼老臣於牀下 遺詔顧命之言故在耳
因涕泣橫流
權擲刀致地 與昭對泣
然卒遣彌晏往
昭忿言之不用 稱疾不朝
權恨之 土塞其門
昭又於內以土封之
淵果殺彌晏
權數慰謝昭 昭固不起
權因出 過其門 呼昭 昭辭疾篤
權燒其門 欲以恐之 昭更閉戶
權使人滅火 住門良久 昭諸子共扶昭起 權載以還宮 深自克責
昭不得已 然後朝會

【三國志】 卷五十三 吳志 張嚴程闞薛傳 第八

黃龍三年(231年) 建昌侯慮 爲鎭軍大將軍 屯半州 以綜爲長史 外掌衆事 內授書籍
慮卒 入守賊曹尚書 遷尚書僕射
時公孫淵降而復叛 權盛怒 欲自親征
綜上疏諫曰

夫帝王者 萬國之元首 天下之所繫命也
是以居則重門 擊柝以戒不虞 行則清道案節 以養威嚴
蓋所以存萬安之福 鎭四海之心
昔孔子疾時 託乘桴浮海之語 季由斯喜 拒以無所取才
漢元帝欲御樓船 薛廣德請 刎頸以血染車
何則 水火之險至危 非帝王所宜涉也
諺曰

千金之子 坐不垂堂

況萬乘之尊乎
今遼東 戎貊小國 無城池之固 備禦之術 器械銖鈍 犬羊無政 往必禽克 誠如明詔
然其方土寒埆 穀稼不殖 民習鞍馬 轉徙無常
卒聞大軍之至 自度不敵 鳥驚獸駭 長驅奔竄 一人匹馬 不可得見 雖獲空地 守之無益 此不可一也
加又 洪流滉瀁 有成山之難 海行無常 風波難免 倏忽之間 人船異勢
雖有堯舜之德 智無所施 賁育之勇 力不得設 此不可二也
加以鬱霧冥其上 鹹水蒸其下 善生流腫 轉相洿染
凡行海者 稀無斯患 此不可三也
天生神聖 顯以符瑞 當乘平喪亂 康此民物
嘉祥日集 海內垂定 逆虜凶虐 滅亡在近
中國一平 遼東自斃 但當拱手以待耳
今乃 違必然之圖 尋至危之阻 忽九州之固 肆一朝之忿 旣非社稷之重計 又開闢以來所未嘗有
斯誠羣僚所以傾身側息 食不甘味 寢不安席者也
惟陛下抑雷霆之威 忍赫斯之怒 遵乘橋之安 遠履冰之險
則臣子賴祉 天下幸甚

時羣臣多諫 權遂不行

【三國志】 卷五十八 吳志 陸遜傳 十三

及公孫淵背盟 權欲往征
遜上疏曰

淵憑險恃固 拘留大使 名馬不獻 實可讎忿
蠻夷猾夏 未染王化 鳥竄荒裔 拒逆王師
至令陛下 爰赫斯怒 欲勞萬乘汎輕越海 不慮其危而涉不測
方今 天下雲擾 羣雄虎爭 英豪踊躍 張聲大視
陛下 以神武之姿 誕膺期運 破操烏林 敗備西陵 禽羽荊州
斯三虜者 當世雄傑 皆摧其鋒
聖化所綏 萬里草偃 方蕩平華夏 總一大猷
今不忍小忿 而發雷霆之怒 違垂堂之戒 輕萬乘之重 此臣之所惑也
臣聞 志行萬里者 不中道而輟足
圖四海者 匪懷細以害大
彊寇在境 荒服未庭 陛下乘桴遠征 必致闚窺
慼至而憂 悔之無及
若使大事時捷 則淵不討自服
今乃 遠惜遼東衆之與馬 奈何獨欲捐江東萬安之本業而不惜乎
乞息六師 以威大虜 早定中夏 垂耀將來

權用納焉

関連する記述は以上で あろうかと思う



6. 関連 URI


参考と なる URI は以下の通り

帯方郡 - Wikipedia

公開 : 2014年6月21日
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