おかしいこの序文から、魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵誅殺後であることが分かります。
また、「魏志公孫淵伝」によると、公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。
それゆえ、魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後のことになり、景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡へ朝貢を願い出ることはあり得ないことが分かります。
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳
景初二年 六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都


【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 韓傳
景初中 明帝密遣帶方太守劉昕,樂浪太守鮮于嗣 越海定二郡

景初年間中、明帝 は秘密裏に帯方郡太守 劉昕 と楽浪郡太守 鮮于 嗣 に黄海を渡洋させ、両太守は上陸して帯方郡と楽浪郡を それぞれ平定した魏朝 明帝 の景初年間は短く、237年から239年まで と なって いる
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 序文読解は以下の通りで ある
景初中 大興師旅誅淵 又濳軍浮海 收樂浪,帶方之郡 而後海表謐然 東夷屈服
景初年間中、大いに軍旅を興して 公孫 淵 を誅した、又(景初年間中に)水軍を黄海に潜行させて楽浪郡と帯方郡を回収した、この後は黄海に面した東夷諸国の動向が静謐と なって魏朝に屈服した重要な箇所は 潜軍浮海 の前に 又 が置かれていると言う事で ある
公孫 淵 を誅した後に水軍を黄海に潜行させて楽浪郡と帯方郡を回収した、その後東夷諸国は屈服した等と不可解な誤読を してしまうから、結論が おかしく なったので あろう
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 韓傳景初元年
景初中 明帝密遣帶方太守劉昕,樂浪太守鮮于嗣 越海定二郡
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳景初二年六月から十二月までの太守は 劉夏 と ある
景初二年 六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都
其年 十二月 詔書報倭女王曰
制詔親魏倭王卑彌呼 帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米 次使都市牛利奉汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈 以到 汝所在踰遠 乃遣使貢獻 是汝之忠孝 我甚哀汝 今以汝爲親魏倭王 假金印紫綬 裝封付帶方太守假授汝 其綏撫種人 勉爲孝順
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 濊傳
正始六年(245年) 樂浪太守劉茂,帶方太守弓遵

【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳
其八年(247年) 太守王頎到官

【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 夫餘傳
正始(240年-249年)中 幽州刺史毋丘儉討句麗 遣玄菟太守王頎詣夫餘 位宮遣大加郊迎 供軍糧

【古代中世における 日中関係史の研究】P.44太平御覽 では単に景初二年を景初三年に誤写しただけで、それ以外の箇所は 三国志 を読んだ上での 焼き直し の文面でしか無い
著者 : 大庭 脩
ところでこの年は、文献学的に考えて景初三年とする論拠はあるようで、その第一は日本書紀の神功皇后紀三十九年に引用する魏志に景初三年とつくっていること、その第二は太平御覽巻七八二の倭の条に引く魏志の原典も景初三年とあったらしいことである。
太平御覽では、
景初三年公孫淵死、倭女王遣大夫難升米等言帯方郡、求詣天子朝見。云々
とあり、一見公孫淵が死んだのが景初三年かのごとくみえるが、淵の死は二年であることは後述のとおりであるし、御覽のこの部分は明らかに魏志を節略していることは比較すればわかる。
したがってこの景初三年は、いま問題の行文の改まる部分から採ったと考えられ、御覽のもとづく魏志は三年であったと見られる。
梁書が三年につくることはこれらにつぐ傍証とできるであろう。
なお十二月は後と注しない以上、本来の十二月である。
沈家本は御覽の記事を参照した上公孫淵は景初二年八月に死んだが、これで始めて倭使が魏に通ずることを得たのであるし、それ以前には魏の帯方太守が遼東におり得るはずがない。
また二年十二月であると詔書は正始元年に倭にいたされるまで一年を隔つのは不自然であるから三年であろうと考証している。
事件の経過は沈家本の考証のとおりであるからその面もからも三年に改めるべきであろう。
と催促を受けたかも知れず、それで下賜物は何時 届くのか?
【歴史文化ライブラリー 105 魏志倭人伝を読む 下】 P.65この者は執拗に景初三年を強弁したい らしく、都合が悪い事は "誤り誤り誤り誤り誤り" で押し通さん と欲しているので あろう
著者 : 佐伯 有清
景初二年は同三年
景初二年(二三八)六月は、景初三年(二三九)六月の誤り。
『梁書』倭伝に、「魏の景初三年、公孫淵の誅せられし後に至り、卑弥呼、始めて使を遣わす」とあり、『日本書紀』神功皇后摂政三十九年の条に引く『魏志』に、「明帝の景初三年六月、倭の女王、大夫難斗米等を遣わし、郡に詣らしめ、天子に詣りて朝献せんことを求む。
太守鄧夏、吏を遣わし、将い送りて京都に詣らしむ」とあり、さらに『翰苑』倭国条の「景初の辰、文錦の献を恭くす」の夾注に引く『魏志』に、景初三年、倭の女王、大夫難升未利等を遣わし」云々とあって、いずれも「景初三年」と明記している。
慶元版(宋槧本)の『太平御覽』所引の『魏志』には、「景初三年、公孫淵死す。倭の女王、大夫難升米等を遣わして、帯方郡に言せしめ、天子に詣りて朝貢せんことを求む。太守劉夏、送りて京都に詣らしむ」とあって、公孫淵(?~二三八)の滅亡とかかわらせて、「景初三年」としている。
ただし公孫淵の死は、その前年八月のことなので、『太平御覽』の「今本」が、「景初二年」としてあるのが妥当である。
『晋書』倭人伝には、「景初三年」などの年紀をかかげていないが、「宣帝(司馬懿<一七九~二五一>)が公孫氏を平らぐるや、その女王、使いを遣わし、帯方に至り、朝見せしむ」とあって、公孫氏の滅亡後に、倭の女王卑弥呼の魏への遣使のあったことを記している。
また『北史』倭国伝に、「魏の景初三年、公孫文懿(公孫淵のこと)の誅後、卑弥呼、始めて使いを遣わし朝貢す」とある。
『北史』の諸本は、多く「景初五年」に作るが、一本によって「景初三年」とするのが妥当である。
景初には「五年」がないことは、言うまでもない。
「五年」とするのは、誤刻によるのであろう。
【日本書紀】 卷第九 氣長足姬尊 神功皇后
撰者 : 舎人親王 等
(神功)卅九年 是年也太歲己未
魏志云
明帝景初三年六月 倭女王遣大夫難斗米等詣郡 求詣天子朝獻
太守鄧夏 遣吏將送詣京都也

1) 本来は曹芳と書くべき所を明帝と誤った
2) 本来は景初二年と書くべき所を景初三年と誤った
【晉書】 卷九十七 列傳第六十七 四夷 東夷傳 倭人傳これは以下の 魏志 東夷伝 序文 と、
撰者 : 唐朝 房 玄齢, 李 延壽(寿) 等
舊以男子爲主 漢末倭人亂 攻伐不定 乃立女子爲王 名曰卑彌呼
宣帝之平公孫氏也 其女王遣使至帶方朝見 其後貢聘不絶
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 東夷傳 序文以下の様な 東夷伝 や 魏志 の 列伝 の記述と、
景初中 大興師旅誅淵 又濳軍浮海 收樂浪,帶方之郡 而後海表謐然 東夷屈服
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 高句麗傳
景初二年 太尉司馬宣王率衆討公孫淵 宮遣主簿大加將數千人助軍
【三國志】 卷十四 魏志 程郭董劉蔣劉傳 第十四そして以下の 魏志 倭人伝 の箇所を切り取って繋ぎ合わせて作文した結果で あろうと思われる
景初二年 遼東平定
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳北史 の諸本は以下の通り景初二年を景初五年と誤記しているものと思われるが、
景初二年 六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都

単なる誤写では無く、伝写者が
「この景初五年は誤記なので、恐らくは景初三年が正しい筈だ」
と言う思い込み に より本文の書き換えを行っている可能性も あろう
この場合、伝写者本人は
【歴史文化ライブラリー 105 魏志倭人伝を読む 下】 P.67文献学者と言うのは この
『魏志』公孫淵伝に、彼の敗死によって「遼東、帯方、楽浪、玄菟、悉く平らぐ」とあり、明帝紀には、「海東の諸郡平らぐ」と記され、さらに倭人伝を記載する東夷伝の序には、「景初中、大いに師旅(軍隊)を興がし、(公孫)淵を誅つ。又、潜かに軍を海に浮かべて、楽浪、帯方の郡を収る。而後、海表、謐然として(平穏となること)、東夷、屈服す」とあり、また高句麗伝には、「景初二年、大尉司馬宣王(司馬懿)、衆を率い、公孫淵を討つ。宮(高句麗の東川王<在位二二七~二四七>)、主簿、大加を遣わし、数千人を将いて軍を助けしむ」とあることから知られるように、魏の景初二年(二三八)の司馬懿軍の公孫淵攻撃戦は、公孫淵の拠った遼東郡ばかりでなく、遼東の北の玄菟郡、東南の楽浪、帯方の両郡をもまきこんだ戦乱であった。
そうした混乱のなかで、倭の女王卑弥呼が帯方郡に使者を派遣し、さらに魏の皇帝のもとに朝貢しようとしたことは、景初二年六月の時点ではありえないであろう。
その六月こそ、司馬懿の軍隊が公孫淵討滅に動きだしたときにあたっており、帯方郡にあっても、それ以前から不安定な状況のもとにあったと思われるからである。
卑弥呼の魏への遣使は、景初三年(二三九)六月のことであった。
それは、おそらく後に即位した新帝斉王芳への祝意のための遣使であったであろう。
【歴史文化ライブラリー 105 魏志倭人伝を読む 下】 P.69この人は密かにとの字句が目に映っているにも拘わらず、自説に都合が悪いので読解しない様に している様に見える
すでに掲げておいたように、『魏志』東夷伝の序には、「景初中、大いに師旅を興がし、淵を誅つ。又、潜かに軍を海に浮かべて、楽浪、帯方の郡を収る。而後、海表、謐然として、東夷、屈服す」とあった。
これに対応する記事として、『魏志』韓伝の「景初中、明帝、密かに帯方太守劉昕と楽浪太守の鮮于嗣を遣わし、海を越えて二郡を定めしむ」があげられる。
【三國志】 卷三 魏志 明帝紀 第三
撰者 : 西晉(晋)朝 陳壽(寿)
(太和二年)(西暦228年)正月 宣王攻破新城 斬達傳其首
魏畧曰 宣王誘達將李輔及達甥鄧賢 賢等開門納軍 達被圍旬有六日而敗 焚其首于洛陽四達之衢
分新城之上庸,武靈[註2],巫[註2]縣爲上庸郡.錫縣爲錫郡蜀大將諸葛亮寇邊 天水,南安,安定三郡吏民叛應亮
魏書曰 是時朝臣未知計所出 帝曰
亮阻山爲固 今者自來 旣合兵書致人之術
且亮貪三郡 知進而不知退 今因此時 破亮必也
乃部勒兵馬步騎五萬拒亮
遣大將軍曹眞都督關右 並進兵
右將軍張郃擊亮於街亭 大破之
亮敗走 三郡平
丁未 行幸長安
魏畧載 帝露布天下幷班告益州曰
劉備背恩 自竄巴,蜀
諸葛亮棄父母之國 阿殘賊之黨 神人被毒 惡積身滅
亮外慕立孤之名 而內貪專擅之實
劉升之兄弟守空城而已[註3]
亮又侮易益土虐用其民 是以利狼,宕渠,高定,靑羌莫不瓦解 爲亮讐敵
而亮反裘負薪 裏盡毛殫 刖趾適屨 刻肌傷骨 反更稱說 自以爲能
行兵於井底 游步於牛蹄
自朕卽位三邊無事 猶哀憐天下數遭兵革 且欲養四海之耆老 長後生之孤幼 先移風於禮樂 次講武於農𨻶 置亮畫外 未以爲虞
而亮懷李熊愚勇之智 不思荊邯度德之戒 驅畧吏民 盜利祁山
王師方振膽破氣奪 馬謖,高祥望旗奔敗
虎臣逐北蹈尸涉血 亮也小子震驚朕師
猛銳踊躍咸思長驅 朕惟率土莫非王臣 師之所處荊棘生焉 不欲使千室之邑忠信貞良 與夫淫昏之黨共受塗炭
故先開示以昭國誠 勉思變化 無滯亂邦
巴,蜀將吏士民諸爲亮所劫迫 公卿已下皆聽束手
夏 四月 丁酉 還洛陽宮
赦繫囚非殊死以下
乙巳 論討亮功 封爵增邑各有差
五月 大旱
六月 詔曰
尊儒貴學 王教之本也
自頃儒官或非其人 將何以宣明聖道 其高選博士才 任侍中,常侍者
申敕郡國 貢士以經學爲先
秋 九月 曹休率諸軍至皖 與吳將陸議戰於石亭 敗績
乙酉 立皇子穆爲繁陽王
庚子 大司馬曹休薨
冬 十月 詔公卿,近臣舉良將各一人
十一月 司徒王朗薨
十二月 諸葛亮圍陳倉 曹眞遣將軍費曜等拒之
魏畧曰
先是 使將軍郝昭築陳倉城 會亮至圍昭不能㧞
昭字伯道 太原人 爲人雄壯 少入軍爲部曲督 數有戰功 爲雜號將軍 遂鎭守河西十餘年 民,夷畏服
亮圍陳倉 使昭鄉人靳詳於城外遥說之 昭於樓上應詳曰
魏家科法 卿所練也
我之爲人 卿所知也
我受國恩多而門戸重 卿無可言者 但有必死耳
卿還謝諸葛 便可攻也
詳以昭語吿亮 亮又使詳重說昭 言人兵不敵 無爲空自破滅
昭謂詳曰
前言已定矣 我識卿耳 箭不識也
詳乃去
亮自以有衆數萬 而昭兵纔千餘人 又度東救未能便到 乃進兵攻昭 起雲梯,衝車以臨城
昭於是以火箭逆射其雲梯 梯然梯上人皆燒死
昭又以繩連石磨壓其衝車 衝車折
亮乃更爲井闌百尺以射城中 以土瓦塡塹 欲直攀城 昭又於內築重牆
亮又爲地突 欲踊出於城裏 昭又於城內穿地橫截之
晝夜相攻拒二十餘日 亮無計 救至引退
詔嘉昭善守賜爵列侯 及還 帝引見慰勞之 顧謂中書令孫資曰
卿鄉里乃有爾曹快人 爲將灼如此 朕復何憂乎
仍欲大用之
會病亡 遺令戒其子凱曰
吾爲將 知將不可爲也
吾數發塚 取其木以爲攻戰具 又知厚葬無益於死者也
汝必歛以時服
且人生有處所耳 死復何在耶
今去本墓遠 東西南北 在汝而已
遼東太守公孫恭兄子淵 劫奪恭位 遂以淵領遼東太守




(景初元年)(237年)秋 七月 丁卯 司徒陳矯薨
孫權遣將朱然等二萬人圍江夏郡 荊州刺史胡質等擊之 然退走
初權遣使浮海與高句驪通 欲襲遼東
遣幽州刺史毌丘儉率諸軍及鮮卑,烏丸屯遼東南界 璽書徵公孫淵
淵發兵反 儉進軍討之 會連雨十日 遼水大漲 詔儉引軍還
右北平烏丸單于寇婁敦遼西烏丸都督王護留等居遼東 率部衆隨儉內附
己卯 詔遼東將吏士民爲淵所脅畧不得降者 一切赦之
辛卯 太白晝見
淵自儉還 遂自立爲燕王置百官 稱紹漢元年(237年)
詔靑,兗,幽,冀四州大作海船


二年(238年) 春 正月 詔太尉司馬宣王帥衆討遼東
干竇[註4]晉紀曰
帝問宣王
度淵將何計以待君
宣王對曰
淵棄城預走 上計也
據遼水拒大軍 其次也
坐守襄平 此爲成禽耳
帝曰
然則三者何出
對曰
唯明智審量彼我 乃預有所割棄 此旣非淵所及
又謂今往縣遠不能持久 必先拒遼水 後守也
帝曰
往還幾日
對曰
往百日 攻百日 還百日 以六十日爲休息 如此 一年足矣
魏名臣奏載散騎常侍何曾表曰
臣聞先王制法 必於全愼
故建官授任 則置假輔 陳師命將 則立監貳 宣命遣使 則設介副 臨敵交刃 則參御右 蓋以盡謀思之功 防安危之變也
是以在險當難 則權足相濟 隕缺不預 則手足相代 其爲固防 至深至遠
及至漢氏 亦循舊章 韓信伐趙 張耳爲貳 馬援討越 劉隆副軍
前世之迹 著在篇志
今懿奉辭誅罪步騎數萬 道路迴阻四千餘里 雖假天威有征無戰寇或潛遁 消散日月
命無常期 人非金石 遠慮詳備 誠宜有副
今北邊諸將及懿所督 皆爲僚屬 名位不殊 素無定分 卒有變急 不相鎮攝
存不忘亡 聖達所戒
宜選大臣名將威重宿著者 盛其禮秩 遣詣懿軍 進同謀略 退爲副佐
雖有萬一不虞之災 軍主有儲 則無患矣
毌丘儉志記云 時以儉爲宣王副也


秋 八月 燒當羌王芒中,注詣等叛 涼州刺史率諸郡攻討 斬注詣首
癸丑 有彗星見張宿
丙寅 司馬宣王圍公孫淵於襄平 大破之 傳淵首于京都 海東諸郡平
冬 十一月 錄討淵功 太尉宣王以下增邑封爵各有差
初帝議 遣宣王討淵發卒四萬人 議臣皆以爲四萬兵多 役費難供
帝曰
四千里征伐 雖云用奇亦當任力 不當稍計役費
遂以四萬人行
及宣王至遼東 霖雨不得時攻 羣臣或以爲淵未可卒破 宜詔宣王還
帝曰
司馬懿臨危制變 擒淵可計日待也
卒皆如所策
壬午以司空衞臻爲司徒 司隸校尉崔林爲司空
閏月 月犯心中央大星
十二月 乙丑 帝寢疾不豫
辛巳 立皇后
賜天下男子爵人二級 鰥寡孤獨穀
以燕王宇爲大將軍
甲申 免 以武衞將軍曹爽代之


(景初)三年(239年) 春 正月 丁亥 太尉宣王還至河內
帝驛馬召到 引入臥內 執其手謂曰
吾疾甚 以後事屬君 君其與爽輔少子
吾得見君 無所恨
宣王頓首流涕
魏畧曰
帝旣從劉放計 召司馬宣王 自力爲詔 旣封 顧呼宮中常所給使者曰
辟邪來 汝持我此詔授太尉也
辟邪馳去
先是 燕王爲帝畫計 以爲關中事重 宜便道遣宣王從河內西還 事以施行
宣王得前詔 斯須復得後手筆 疑京師有變 乃馳到 入見帝
勞問訖 乃召齊 秦二王以示宣王 別指齊王謂宣王曰
此是也 君諦視之 勿誤也
又教齊王令前抱宣王頸
魏氏春秋曰
時太子芳年八歲 秦王九歲 在于御側
帝執宣王手 目太子曰
死乃復可忍 朕忍死待君 君其與爽輔此
宣王曰
陛下不見先帝屬臣以陛下乎
卽日 帝崩于嘉福殿魏書曰 殯于九龍前殿 時年三十六
臣松之案 魏武以建安九年(204年)八月定鄴 文帝始納甄后 明帝應以(建安)十年(205年)生 計至此年正月 整三十四年耳
時攺正朔 以故年十二月爲今年正月 可彊名三十五年 不得三十六也
癸丑 葬高平陵
魏書曰
帝容止可觀 望之儼然
自在東宮不交朝臣 不問政事 唯潛思書籍而已[註5]
卽位之後 褒禮大臣 料簡功能 眞僞不得相貿 務絕浮華譖毀之端 行師動衆 論決大事 謀臣將相 咸服帝之大畧
性特彊識 雖左右小臣官簿性行 名跡所履 及其父兄子弟 一經耳目 終不遺忘
含垢藏疾 容受直言 聽受吏民士庶上書 一月之中至數十,百封 雖文辭鄙陋 猶覽省究竟 意無厭倦
孫盛曰
聞之長老 魏明帝天姿秀出 立髮埀地 口吃少言 而沉毅好斷
初諸公受遺輔導 帝皆以方任處之 政自巳[註6]出
而優禮大臣 開容善直 雖犯顏極諫 無所摧戮 其君人之量如此之偉也
然不思建德埀風 不固維城之基 至使大權偏據 社稷無衞 悲夫


武霊(靈)県と言うは無いのか? 武陵県が正しいと 何悼 なる者が考証している
ついでに上庸郡は上庸県と武霊県のみで巫県は対象外、と言う事なのかも知れない
いや、抑々 武陵や巫と言った地域を魏は実効支配していた のか?
已字 は 己字 の誤か
竇字 は 寶字 の誤か
已字 なのか 巳字 なのか判別し難(がた)い
巳字 に見えるが 已字 もしくは 己字 の誤記誤写か
【三國志】 卷八 魏志 二公孫陶四張傳 第八 公孫度傳
初恭病陰消 爲閹人
劣弱不能治國
太和二年 淵脅奪恭位
明帝卽位 拜淵揚烈將軍遼東太守
淵遣使南通孫權 往來賂遺

權遣使張彌許晏等 齎金玉珍寶 立淵爲燕王
淵亦恐權遠不可恃
且貪貨物 誘致其使 悉斬送彌晏等首

明帝於是拜淵大司馬 封樂浪公
持節,領郡 如故


使者至 淵設甲兵爲軍陳 出見使者
又數對國中賓客 出惡言
景初元年 乃遣幽州刺史毌丘儉等 齎璽 書徵淵
淵遂發兵逆於遼隧 與儉等戰 儉等不利而還
淵遂自立爲燕王 置百官有司
遣使者持節 假鮮卑單于璽 封拜邊民
誘呼鮮卑 侵擾北方

二年 春 遣太尉司馬宣王征淵
六月 軍至遼東

淵遣將軍卑衍,楊祚等 步騎數萬屯遼隧 圍塹二十餘里
宣王軍至 令衍逆戰
宣王遣將軍胡遵等 擊破之
宣王令軍 穿圍 引兵東南向
而急東北 卽趨襄平
衍等恐襄平無守夜走
諸軍進至首山
淵復遣衍等迎軍 殊死戰
復擊大破之
遂進軍造城下 爲圍塹
會霖雨三十餘日 遼水暴長 運船自遼口 徑至城下

雨霽起土山 脩櫓爲發石連弩射城中
淵窘急 糧盡 人相食 死者甚多
將軍楊祚等降
八月 丙寅 夜大流星長數十丈 從首山東北 墜襄平城東南
壬午 淵衆潰
與其子脩將數百騎 突圍東南走
大兵急擊之 當流星所墜處 斬淵父子 城破
斬相國以下首級以千數 傳淵首洛陽
遼東,帶方,樂浪,玄菟悉平
初淵家數有怪
犬冠幘絳衣上屋
炊有小兒蒸死甑中
襄平北 巿生肉 長圍各數尺 有頭目口喙 無手足而動搖
占曰

有形不成 有體無聲 其國滅亡
始度以中平六年(189年)據遼東
至淵三世 凡五十年而滅

【三國志】 卷十四 魏志 程郭董劉蔣劉傳 第十四
明帝卽位 進爵東亭侯 邑三百戶
詔曰
尊嚴祖考 所以崇孝表行也
追本敬始 所以篤教流化也
是以成湯文武實造商周 詩書之義 追尊稷契 歌頌有娀姜嫄之事
明盛德之源流 受命所由興也
自我魏室之承天序 旣發迹於高皇太皇帝
而功隆于武皇文皇帝
至于高皇之父處士君 潛脩德讓行動神明

斯乃乾坤所福饗 光靈所從來也
而精神幽遠 號稱罔記 非所謂崇孝重本也
其令公卿已下 會議號諡
曄議曰
聖帝孝孫之欲褒崇先祖 誠無量已
然親疏之數 遠近之降 蓋有禮紀
所以割斷私情 克成公法 爲萬世式也
周王所以上祖后稷者 以其佐唐有功名在祀典故也
至於漢氏之初 追諡之義不過其父
上比周室則大魏發迹自高皇始
下論漢氏則追諡之禮不及其祖
此誠往代之成法 當今之明義也

陛下孝思中發 誠無已已
然君舉必書 所以慎於禮制也
以爲追尊之義 宜齊高皇而已
尚書衞臻 與曄議同 事遂施行
遼東太守公孫淵奪叔父位 擅自立 遣使表狀
曄以爲 公孫氏漢時所用 遂世官相承
水則由海 陸則阻山 故胡夷絕遠難制 而世權日久
今若不誅 後必生患
若懷貳阻兵然後致誅 於事爲難
不如 因其新立有黨有仇 先其不意以兵臨之
開設賞募 可不勞師而定也
後淵竟反

魏國旣建 與太原孫資俱爲祕書郎
先是 資亦歷縣令 參丞相軍事

文帝卽位 放資轉爲左右丞
數月 放徙爲令
黃初(220年-226年)初 改祕書爲中書
以放爲監 資爲令 各加給事中
放賜爵關內侯 資爲關中侯 遂掌機密
三年 放進爵魏壽亭侯 資關內侯
明帝卽位 尤見寵任 同加散騎常侍
進放爵西鄉侯 資樂陽亭侯

太和末 吳遣將周賀 浮海詣遼東 招誘公孫淵
帝欲邀討之 朝議多以爲不可

惟資決行策 果大破之 進爵左鄉侯
放善爲書檄
三祖詔命有所招喻 多放所爲
靑龍初 孫權與諸葛亮連和 欲俱出爲寇
邊候得權書
放乃改易其辭 往往換其本文而傅合之 與征東將軍滿寵 若欲歸化 封以示亮
亮騰與吳大將步騭等
騭等以見權
權懼亮自疑 深自解說

是歲 俱加侍中 光祿大夫

景初二年 遼東平定
以參謀之功 各進爵 封本縣
放方城侯 資中都侯

【三國志】 卷二十二 魏志 桓二陳徐衞盧傳 第二十二
幽州刺史毌丘儉 上疏曰
陛下卽位已來未有可書
吳蜀恃險 未可卒平
聊可以此方無用之士 克定遼東
臻曰
儉所陳 皆戰國細術 非王者之事也
吳頻歲稱兵寇亂邊境而猶案甲養士 未果尋致討者 誠以百姓疲勞故也
且淵生長海表相承三世 外撫戎夷 內脩戰射
而儉欲以偏軍長驅 朝至夕卷 知其妄矣
儉行軍遂不利

【三國志】 卷二十六 魏志 滿田牽郭傳 第二十六
太和(227年-233年)末 公孫淵以遼東叛
帝欲征之而難其人 中領軍楊暨舉豫應選
乃使豫以本官督靑州諸軍假節 往討之
會吳賊遣使與淵相結
帝以賊衆多又以渡海 詔豫使罷軍
豫度
賊船垂還 歲晚風急 必畏漂浪 東隨無岸 當赴成山
成山無藏船之處 輒便循海 案行地勢 及諸山島 徼截險要 列兵屯守


自入成山 登漢武之觀
賊還 果遇惡風 船皆觸山沈沒 波蕩著岸 無所蒙竄 盡虜其衆
初諸將皆笑於空地待賊
及賊破 競欲與謀 求入海鉤取浪船
豫懼 窮虜死戰 皆不聽
初豫以太守督靑州 靑州刺史程喜內懷不服
軍事之際 多相違錯
喜知帝寶愛明珠 乃密上
豫雖有戰功而禁令寬弛
所得器仗珠金甚多 放散皆不納官
由是功不見列

【三國志】 卷二十八 魏志 王毌丘諸葛鄧鍾傳 第二十八
靑龍(233年-237年)中 帝圖討遼東 以儉有幹策 徙爲幽州刺史 加度遼將軍 使持節 護烏丸校尉
率幽州諸軍至襄平 屯遼隧
右北平烏丸單于寇婁敦 遼西烏丸都督率衆王護留等 昔隨袁尚奔遼東者 率衆五千餘人降

寇婁敦遣弟阿羅槃等 詣闕朝貢 封其渠率二十餘人爲侯王 賜輿馬繒綵各有差
公孫淵逆與儉戰 不利 引還
明年(=景初二年:238年) 帝遣太尉司馬宣王 統中軍及儉等衆數萬 討淵定遼東
儉以功進封安邑侯 食邑三千九百戶

【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 烏丸傳
魏畧曰 景初元年 秋 遣幽州刺史毋丘儉 率衆軍討遼東
右北平烏丸單于寇婁敦,遼西烏丸都督率衆王護留葉 昔隨袁尚奔遼西 聞儉軍至 率衆五千餘人降
寇婁敦遣弟阿羅槃等詣闕朝貢 封其渠帥三十餘爲王 賜輿馬繪采各有差

【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 東夷傳 序文
魏興 西域雖不能盡至 其大國龜茲,于窴,康居,烏孫,疎勒,月氏,鄯善,車師之屬 無歳不奉朝貢 畧如漢氏故事
而公孫淵仍父祖三世有遼東 天子爲其絶域委以海外之事 遂隔斷東夷 不得通於諸夏
景初中 大興師旅誅淵 又濳軍浮海 收樂浪,帶方之郡 而後海表謐然 東夷屈服
其後高句麗背叛 又遣偏師致討 窮追極遠 踰烏丸骨都 過沃沮 踐肅愼之庭 東臨大海
長老説有異面之人 近日之所出 遂周觀諸國 采其法俗 小大區別 各有名號 可得詳紀


【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 高句麗傳
景初二年 太尉司馬宣王率衆討公孫淵 宮遣主簿大加將數千人助軍
正始三年(242年) 宮寇西安平
其五年(244年) 爲幽州刺史毋丘儉所破


【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 韓傳
桓,靈之末 韓,濊彊盛 郡,縣不能制 民多流入韓國
建安中 公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡 遣公孫模,張敞等 收集遺民 興兵伐韓,濊
舊民稍出 是後倭,韓遂屬帶方
景初中 明帝密遣帶方太守劉昕,樂浪太守鮮于嗣 越海定二郡
諸韓國臣智加賜邑君印綬 其次與邑長
其俗好衣幘 下戸詣郡朝謁 皆假衣幘 自服印綬衣幘千有餘人
部從事呉林以樂浪本統韓國 分割辰韓八國以與樂浪 吏譯轉有異同 臣智激韓忿 攻帶方郡崎離營
時太守弓遵,樂浪太守劉茂興兵伐之 遵戰死 二郡遂滅韓


【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳
景初二年 六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都
【三國志】 卷四十七 吳志 吳主傳 第二
嘉禾元年(232年) 春 正月 建昌侯慮卒
三月 遣將軍周賀 校尉裴潛 乘海之遼東
秋九 月 魏將田豫 要擊 斬賀于成山
冬十 月 魏遼東太守公孫淵 遣校尉宿舒 閬中令孫綜 稱藩於權 幷獻貂馬
權大悅 加淵爵位
二年(233年) 春 正月 詔曰
朕以不德 肇受元命 夙夜兢兢 不遑假寢
思平世難 救濟黎庶 上答神祗 下慰民望
是以眷眷 勤求俊傑 將與戮力 共定海內 苟在同心 與之偕老
今使持節督幽州領靑州牧遼東太守燕王 久脅賊虜 隔在一方
雖乃心於國 其路靡緣
今因天命 遠遣二使 款誠顯露 章表殷勤 朕之得此 何喜如之
雖湯遇伊尹 周獲呂望 世祖未定而得河右 方之今日 豈復是過
普天一統 於是定矣
書不云乎 一人有慶兆民賴之
其 大赦天下 與之更始
其明下州郡 咸使聞知
特下燕國 奉宣詔恩 令普天率土備聞斯慶
三月 遣舒綜還
使太常張彌 執金吾許晏 將軍賀達等 將兵萬人 金寶珍貨 九錫備物 乘海授淵
舉朝大臣 自丞相雍已下皆 諫 以爲 淵未可信而寵待太厚 但可遣吏兵數百護送舒綜
權終不聽
淵果斬彌等 送其首于魏 沒其兵資
權大怒 欲自征淵
尚書僕射薛綜等 切諫 乃止
是歲 權向合肥新城
遣將軍全琮 征六安 皆不克還
【三國志】 卷五十二 吳志 張顧諸葛步傳 第七
以公孫淵稱藩 遣張彌許晏 至遼東 拜淵爲燕王
昭諫曰
淵背魏懼討 遠來求援 非本志也
若淵改圖欲自明於魏 兩使不反
不亦取笑於天下乎
權與相反覆 昭意彌切
權不能堪
案刀而怒曰
吳國士人 入宮則拜孤 出宮則拜君
孤之敬君亦爲至矣 而數於衆中折孤
孤嘗恐失計
昭熟視權曰
臣雖知言不用 每竭愚忠者 誠以 太后臨崩呼老臣於牀下 遺詔顧命之言故在耳
因涕泣橫流
權擲刀致地 與昭對泣
然卒遣彌晏往
昭忿言之不用 稱疾不朝
權恨之 土塞其門
昭又於內以土封之
淵果殺彌晏
權數慰謝昭 昭固不起
權因出 過其門 呼昭 昭辭疾篤
權燒其門 欲以恐之 昭更閉戶
權使人滅火 住門良久 昭諸子共扶昭起 權載以還宮 深自克責
昭不得已 然後朝會
【三國志】 卷五十三 吳志 張嚴程闞薛傳 第八
黃龍三年(231年) 建昌侯慮 爲鎭軍大將軍 屯半州 以綜爲長史 外掌衆事 內授書籍
慮卒 入守賊曹尚書 遷尚書僕射
時公孫淵降而復叛 權盛怒 欲自親征
綜上疏諫曰
夫帝王者 萬國之元首 天下之所繫命也
是以居則重門 擊柝以戒不虞 行則清道案節 以養威嚴
蓋所以存萬安之福 鎭四海之心
昔孔子疾時 託乘桴浮海之語 季由斯喜 拒以無所取才
漢元帝欲御樓船 薛廣德請 刎頸以血染車
何則 水火之險至危 非帝王所宜涉也
諺曰
千金之子 坐不垂堂
況萬乘之尊乎
今遼東 戎貊小國 無城池之固 備禦之術 器械銖鈍 犬羊無政 往必禽克 誠如明詔
然其方土寒埆 穀稼不殖 民習鞍馬 轉徙無常
卒聞大軍之至 自度不敵 鳥驚獸駭 長驅奔竄 一人匹馬 不可得見 雖獲空地 守之無益 此不可一也
加又 洪流滉瀁 有成山之難 海行無常 風波難免 倏忽之間 人船異勢
雖有堯舜之德 智無所施 賁育之勇 力不得設 此不可二也
加以鬱霧冥其上 鹹水蒸其下 善生流腫 轉相洿染
凡行海者 稀無斯患 此不可三也
天生神聖 顯以符瑞 當乘平喪亂 康此民物
嘉祥日集 海內垂定 逆虜凶虐 滅亡在近
中國一平 遼東自斃 但當拱手以待耳
今乃 違必然之圖 尋至危之阻 忽九州之固 肆一朝之忿 旣非社稷之重計 又開闢以來所未嘗有
斯誠羣僚所以傾身側息 食不甘味 寢不安席者也
惟陛下抑雷霆之威 忍赫斯之怒 遵乘橋之安 遠履冰之險
則臣子賴祉 天下幸甚
時羣臣多諫 權遂不行
【三國志】 卷五十八 吳志 陸遜傳 十三関連する記述は以上で あろうかと思う
及公孫淵背盟 權欲往征
遜上疏曰
淵憑險恃固 拘留大使 名馬不獻 實可讎忿
蠻夷猾夏 未染王化 鳥竄荒裔 拒逆王師
至令陛下 爰赫斯怒 欲勞萬乘汎輕越海 不慮其危而涉不測
方今 天下雲擾 羣雄虎爭 英豪踊躍 張聲大視
陛下 以神武之姿 誕膺期運 破操烏林 敗備西陵 禽羽荊州
斯三虜者 當世雄傑 皆摧其鋒
聖化所綏 萬里草偃 方蕩平華夏 總一大猷
今不忍小忿 而發雷霆之怒 違垂堂之戒 輕萬乘之重 此臣之所惑也
臣聞 志行萬里者 不中道而輟足
圖四海者 匪懷細以害大
彊寇在境 荒服未庭 陛下乘桴遠征 必致闚窺
慼至而憂 悔之無及
若使大事時捷 則淵不討自服
今乃 遠惜遼東衆之與馬 奈何獨欲捐江東萬安之本業而不惜乎
乞息六師 以威大虜 早定中夏 垂耀將來
權用納焉