安本やすもと 美典びてん 説は正しいか

1. 大人気おとなげ無い古代史論者の書籍を読む


安本 美典 と言う古代史研究者が いる
概ね、こう言った感じの人で ある

安本美典(やすもと びてん) - Wikipedia

計量比較言語学や数理文献学と言ったものを駆使して歴史を研究する方らしい

どうでも良い事で あるが、始め この方の名を よしのり かと思っていた
ビテン とは また随分と ブっ飛んではる方やなぁ~ 等と関西風に感心したもので ある
ビテンとは何で あろうか? 美点 が多く あれと ご両親が期待を お込めに なられたので あろうか?
あぁ そうか、この方は中国 東北三省で出生されたため、満洲人や漢族にも通じ易い音読みの ご芳名を考えられたと言う事なのかも知れぬ

いやはや、それに しても ご大層な お名前では ある

ただ、この歴史研究者は以下の者との間で、曰く言い難い程に激烈な論争を行って来た人と言う印象が とても強いので ある

古田武彦 - Wikipedia

先頃 故人と なってしまった古田氏で あるが、この方が言うには、始めは同じ女王国九州説に立つと言う事で共闘を申し込まれたが、古田氏は別に必要とは思わなかったので断った らしい
そうしたら その後執拗に批判して来るように なったとの事で ある

この事が事実で あるか どうかは私には確め得ないし、また安本氏が否定しているのか どうかも寡聞にして知らない
状況証拠では あるが、その後安本氏は絡み付くと言った表現しか思い浮かばない程に病的かつ感情的に古田氏に論争を挑んでいる様子が見えるので、恐らくは実際に起きた事なので あろう
協力を断られたのは不快で あったかも知れぬが、それで批判に転じるとは、何とも精神的に幼稚と言うか、大人気無い対応では ある
ほかの九州論者の述論の支援を行うべき とまでは言わないにしても、せめて九州説内での論争は もう少し控えて おいた方が良かったのでは無いか

なお、安本氏の論説を知る上で、本考察では以下の出版書籍を採用した
【新版・卑弥呼の謎】

著者 : 安本 美典

この書籍を選択した理由は、上記著書に おける次の記述に よる
【新版・卑弥呼の謎】 P.3

古代史ブームのまっただ中で刊行されたためか、幸い旧版の『卑弥呼の謎』も、多くの読者を獲得できた。

十万部以上の発行部数をみ、私の三十冊ほどの著書のなかでは、もっとも広く読まれたものとなった。

最も売れた著作で あると述べているので あれば、当人が書きたい事を最も端的に著述したものとの自負が あるので あろう
ならば説を批判するには この書を当たるのが至上と考えた次第で ある



2. 倭国女王の名は 台与とよ では無い


当該書を読み進めていくと、ず気に なったのは以下の下りで ある
【新版・卑弥呼の謎】 P.72
壱与か台与か

ここで、卑弥呼の宗女について考えてみよう。
『魏志倭人伝』の現行刊本は、卑弥呼の宗女の名を、「壹與」と記している。
この名は、常用漢字で書けば、「壱与」である。
この「壱与」は、「臺與」(常用漢字で書けば、「台与」、ただし「臺」と「台」は、本来は別字)の誤りであるとする説が有力である。
私もまた、この見解に賛成するものである。
その理由は、つぎのとおりである。

この人、教養が高いのか低いのか良く分からない
何と言うか、妙に読点とうてん つまり文中の区切りに使われる "" が多いのだ
どうもつっかえ支え読んでいる気がして落ち着かない

これは私の私見では あるが、この文章中に読点が多いと言う傾向は実は学歴教養が低い人に多く見られるものでは無いかと考えている
もっとも、単に この人の作文上の癖なのかも知れないが…

そして この箇所で何よりも重要な点は、安本氏は 臺字 と 台字 を本来は別字で あると明確に認識していると言う事に ある

以下は上記引用に続く文と なるが、
[前掲書 続き] P.73

(1) 『太平御覽』引用の『魏志』、および、『梁書』『北史』『翰苑かんえん』などは、「壹與(壱与)」の「壹」を「臺(台)」につくっている。

現行刊本の『三国志』の『魏志倭人伝』は、十二世紀に成立したものである。
これにたいし、現在、福岡県ざい市の、太宰府天満宮に伝来する張楚金ちょうそきん撰、雍公叡ようこうえい注の『翰苑』は、平安初期九世紀に書写され、そのまま今日に伝来したものである。
このことの意味は大きい。

このことから、現行刊本の「壹與(壱与)」は、「臺與(台与)」の誤りとみられる(拙著『「邪馬壹国」はなかった』新人物往来社刊参照)

いやぁ、一度気に なると もぅ気に なって仕方が無い
この人文中に読点多過ぎ.....読みにくてかなわんな、これは…

一方で 臺字 と 台字 は別字で あると書いて おきながら、その舌の根が乾かぬ内に 臺與 が 台与 で あるとのたまって いらっしゃる

一体これは どう言う事なので あろうか? まるで理解し難い ものが ある
別字で あると認識しているので あれば臺與(台与)と書いては ならず臺與(臺与)と書かねば なるまい

どうやら ここで安本氏は読者の脳漿のうしょう臺=台で あるとの等号を意識的にり込みたいと言う意図を感じてしまうので あるが、これは私の考え過ぎか?

それにしても、三国志は刊本を対象と しているのに他書は写本を持ち出して、それを どちらが古いか新しいかと論じているのは、何とも公平では無い印象を受ける

翰苑 と 太平御覽 に ついては以下の通り

翰苑 - Wikipedia
太平御覧 - Wikipedia

実は 翰苑 には 臺字 そのものが書かれているわけでは無かった様に思う
正確には 臺字 と思われる異体字 臺字異体字 が使用されており、何故この字が使用されているのかは充分に精査されなければ ならないかと思う

ついでに 倭字 も他書では見かけぬ と言う不可思議な字体が使われている
一応は 倭字 の異体字で ある らしい……が、少なくとも私は他書では見た事が無い
翰苑 蛮夷部 の目録を列記した冒頭箇所では正確に倭國と なっており、統一感が無い

更に書いて しまうが、卑弥呼 は 早𣃥 と脱字が見受けられる上、弥字 と 𣃥字 は弓偏と方偏の差違では あるが実際には異体字でも何でも無く、弥字 の表音は mí,mǐ で あり 𣃥字 は mǒu で あるため完全に別字別音と なっている
漢字の黎明期で ある古代で あればへんつくりが共通している字で あれば通用字つうようじとして見做みなせるが、唐代と言えば もう充分に漢字が確立している訳で、これを通用字と言うには少し苦しい観は ある
また発音が異なるので借字しゃくじとは言えず、有態ありていに言えば誤字に近い
早字 も 卑字 の省画と見做せなくも無いが、完全に別字に なる程に省略してしまうと言うのも考えにくく、これも誤写に近い
早𣃥娥 で 卑弥呼 と解する者も いるかも知れないが、文体を見るに落ち着かないので、早𣃥 と 娥惑 で分けるのが妥当と思う

また、この書は全般的に誤字誤脱が結構多い らしい ので信憑性に疑問が残っており、一級史料としての使用にはえぬと言うのが歴史研究家からの一般的な見解と なっている
実際に倭国に関する章節を一読するだけでも、校正が充分に行われていないのでは無いかと疑ってしまう程の文書品質で ある
こう言った書をもとに立論するのは少々危険で あるので、もう少し慎重に対処した方が良いと考えるが、如何いかがで あろうか
[前掲書 続き] P.73

(2) 「臺與」(台与)であれば、「トヨ」と読むことができる。

わが国の古代において、「トヨ」という音をもつ人名は、かなり多い。
『古事記』上巻(神話の巻)から、女性の名で、「トヨ」という音をもつものをひろってみても、「とよかみ」「万幡豊秋津よろずはたとよあきづみこと」「豊玉とよたまみこと」などをあげることができる。
それにたいし、「壹與(壱与)」にあたる「イヨ」という音をもつ女性の名は、かいである(コラムII参照)。
すなわち、「トヨ」は、我が国の古代において、ありふれた名前であるが、「イヨ」は、かなりめずらしい名前である。

いやぁ、卑弥呼 と言う名も かなりめずらしい名前で あるからして、その宗女で ある者が珍しくても何の問題も無さそうでは あるが、何故なにゆえに 卑弥呼 は受け入れて壱与は受け入れられないので あろうか?
良く分からない
その古事記 上巻からはヒミコ なる女性の名を拾える事が出来るのか、是非とも聞いて見たい気が する

抑々そもそも論として、台与 ならば トヨ と読めると主張しているが 臺字 と 台字 が別字で ある事は安本氏も認めている通りで あり、臺与 を トヨ とむ事は不可能で ある
実際に調べた結果を表音表として以下の様に まとめている

関西説大和教 信徒に質問を送るが…
臺字 と 台字 は別字別音
隋書に見る俀国記述と行路記載

安本氏は古事記に ついては お読みで ある らしいが、日本書紀は お読みには なられていないので あろうか?
日本書紀では、臺字 と 台字 を厳密に使い分けている事が判明する

臺字訓 邪馬臺はヤマトと読めるのか

と言う訳で、し万葉仮名として 台与 と書かれて いるので あれば トヨ と訓めるが、臺与 と書かれていれば それは万葉仮名では訓めないので、漢語として ダイヨ と訓むしか無い
そして魏志倭人伝が書かれた時代には万葉仮名は存在しない

重要な事なので ここで触れて おきたいので あるが、安本氏は であれば と前置きした上で述論を行っている
ならば でなければ どうなるのか、と言う点に ついても述べなければ ならない責務が生じている筈で ある
しかし、臺与 を トヨ と訓めないと なった場合に ついては何等なんら言及していない

何と言う一方的かつ自己中心的な放言で あろうか!!

自説に都合が良い選択肢のみ採用して持論を展開し、自身に都合が悪ければ 頬被ほうかむり して目を背けてしまって おり、説明責任を果たしていない様に見えてしまう
あるいは、この人に公平な著述を期待する方が間違っていると言う事か…

ここで コラムII と やらを参照せよ と あるので、ついでに引用して見ると しよう
【新版・卑弥呼の謎】 P.77

『魏志倭人伝』は、「臺與とよ(台与)」のことを、「卑弥呼の宗女」と、明確に女性としている。
それに対応するかのように、『古事記』上巻では、「とよ」のつく名は、「女性名」が多いのである。

さらに、「與(壱与)」の「與(与)」が、「よ」の音を写したものであろうことについては、異論が見られない。
そこで、『古事記』の各巻から、「よ」をふくむ神名、人名を、すべて書きだせば、七十五ページ付表1のようになる。
この表をもとにして、『古事記』の神名、人名において「よ」が、どのような音につづいているかをしらべてみると、付表2付図1のようになる。

付表2付図1をみればわかるように、「よ」をふくむ神名、人名の過半は、「とよ」という形でふくんでいる。
「いよ」は、まったくない(神名、人名においては、母音と「よ」がつづく例がない)。

以上のようなことから、『魏志倭人伝』が、わが国のことを記したのであれば、「壹與(壱与)」はやはり書き誤りで、「臺與(台与)」が正しく、それは「豊」にあたる音を写したものと見られる。

対応するかのように とは また卑怯な書き方である
さも 自説が正しいから その様に なる と言う印象操作を読者に対して行っている事が読み取れる
仲々なかなかに芸が細かいと言って良い

当然の事で あるが、臺与 は トヨ とは訓めないので、臺与 と 豊某とよ なにがし とは関係無いと言う事に なる
要するに、計量比較言語学やら数理文献学やら と言う代物は安本氏の持論をもっともらしく見せるための誤魔化しに過ぎないので ある
【新版・卑弥呼の謎】 P.78

卑弥呼のあとに立った女王の名が「トヨ」であるとすると、それと関係するかと思われる事実も、いくらか存在する。

トヨで あるか無いかで確率半分としても、もう半分の説明義務をあい変わらず果たしていない
何とも困った御仁ごじんで ある
【新版・卑弥呼の謎】 P.80

ここから、『古事記』の天照大神は、大日孁と豊日孁とをあわせた名であり、大日孁は卑弥呼であり、豊日孁は台与なのではないかと思われる(「ヒルメ」と「ヒミコ」の音がやや近いことも留意しておこう)。

そぉで あろぅかぁぁぁ

ヒルメ と ヒミコ が近いから同一人物で あると主張するので あれば、上記に登場する コラムII とやらに登場する豊某群の者達は全員同一人物と言う事に なってしまう
明らかに論が気狂きちがみている
大日孁と 卑弥呼 は別人で あり、豊日孁と 臺与 も又別人で あろう
これは、何でも故事付こじつけ で論を進めるとくのごと破綻してしまうと言う事を示しているので あろう



3. 王の在位期間は信憑にるか

【新版・卑弥呼の謎】 P.85

中国の王の平均在位年数

東京創元社刊の『東洋史辞典』(京都大学文学部東洋史研究室編)の巻末には、「アジア各国統治表」があり、そこに、「中国歴代世系表」がのせられている。
そして、各王の即位及び退位の時期も記されている。

そこで、この表により、西暦元年以後に即位したすべての中国の王(三百二十三王)について、その在位の期間を算出した。

ついで、時代を、一~四世紀、五~八世紀、九~十二世紀、十三~十六世紀、十七~二十世紀の五つにわけ、おのおのの時代に即位した王平均在位年数を求めた。

その結果は、図3のようになる。
図3は、つぎのようなことを示している。
たとえば、一~四世紀のあいだに即位した王は、中国では、九十六王おり、そののべの在位期間は、九百六十五年であり、したがって、一代平均の在位年数は、一〇・〇五年(965年/96王)である。

図3をみれば、古代にさかのぼるにつれ、平均在位年数の[註]短くなっていることがわかる。

註:

原文ママ
恐らくは "平均在位年数が" の誤記かと思われる


ここでかかげられている 図3 と やら を見るに、17~20世紀が他世紀と比べて格段に長くなっている事が分かる
これは当然理由が ある筈で あり、単純に過去にさかのぼれば王の在位年数が短くのでは無いと言う可能性を強く示唆するもので ある

所で、ここに挙げられている王とは何で あろうか? 皇帝の事で あろうか?

皇帝を王と同列に扱っているのかも知れないが、王と皇帝は 立場が違うので、違和感をおぼえてしまう
皇族として領地を統治した郡王も いたので あるが、それの諸侯王は計算に加えられているので あろうか
更に言えば、皇帝の子弟で あったために実権の無い形式上の王も いた訳で、統計値に加算されているのか どうかも気に なる

また、古代の王朝では権力基盤が弱かったり疫病や内乱の発生に より幼帝や廃帝が続くとうに より在位期間が短くなる事が ある
平均値を採る事には相応の意義は あるかとは思うが、所詮は目安にしか ならないのでは無いかと思う

特殊な例として、東漢朝最後の皇帝で ある献帝の在位期間は西暦189年 - 220年 で あるが、退位後 234年まで生きて天寿を全う している
この場合、在位期間は 220年までと見て計算されてしまうと言う事で あろうか

献帝 (漢) - Wikipedia

しかも一代平均10年と計算されている 1~4世紀の最後の世紀で ある 4世紀は五胡十六国時代と言う極めて特異な時代と なっており、この時期(1~4世紀)の在位平均値を有意な統計値として利用するには少し躊躇せざるを得ないものが ある

少し上で記したが、17~20世紀の清朝皇帝が従来の王朝よりも長い在位期間を維持出来た理由は太子密建たいしみっけん と言う後継者指名制度の確立に よる所が大で あり、年代が新しくなったので在位期間が延びたとは言い難い ものが ある

太子密建 - Wikipedia

引用を続ける
【新版・卑弥呼の謎】 P.87
西洋の王の平均在位年数

東京創元社刊の『西洋史辞典』(京都大学文学部東洋史研究室編)の巻末には、「各国元首表」がのっている。
そして、西洋の各王の即位および退位の時期が記されている。

そこで、この表により、西暦元年以後に即位したすべての王(七百三十六王)について、その在位期間を算出した。

中国の場合と同じく、一~四世紀、五~八世紀、九~十二世紀、十三~十六世紀、十七世紀~二十世紀の五つにわけ、各時代に即位した王の平均在位年数を求めた。

結果は、図4のようになる。

なお、この「各国元首表」には、首相や大統領などの在位の時期も記されている。
しかし、これらは、調査の対象としなかった。

図4をみれば、やはり、古代にさかのぼるにつれ、平均在位年数は、短くなっている。

成程、王以外の国家元首は統計対象外と言う事か

例えば ヴェネツィア共和国の元首は終身制で あったため他王国での王に準ずる存在で あると思うが、どうやら そう言った国家元首は計算に入らない らしい
そして ここでも東洋と同じく、ローマ皇帝等は王に含まれると言う事なのか

例えば古代ローマ帝国では現代の我々が思う様な強固で安定した権力を保持している訳では無く、複数の立場や官職を兼職する事で権力を維持していた
そのため心身共に疲労が激しく、生き急いで命を削って国家に殉じて早死に してしまったので あろうと歴史作家の 塩野 七生 氏が著書 【ローマ人の物語】 で述べている

塩野七生 - Wikipedia

ローマ帝国 五賢帝に数えられる以下の人物は病弱で ありながら戦場で日中は軍統帥指揮官として軍務をり、夜は兵が休む中 最高裁裁判長として訴訟判決を行っていたと言う、何とも不憫な皇帝で ある
これでは寿命を擦り減らしてしまうので、長命をたもつのは難しいかと思う

マルクス・アウレリウス・アントニヌス

なお、この皇帝は在位期間中に一人で至尊の立場に君臨していた訳では無い

161年 - 169年 (ルキウス・ウェルス帝と共同統治)
169年 - 177年 (単独統治)
177年 - 180年 (コンモドゥス帝と共同統治)


この場合、在位期間は さて何年と すべきなので あろうか?

その後のローマ帝国に おける軍人皇帝時代には 50年で 26人もの皇帝が入れ替わり立ち代わり或いは同時に何人もの皇帝が並立していた異常な事態が発生するが、この時代は正に 1~4世紀に含まれるので、統計上の在位年平均値を大きく下げているのでは無いかと思う
在位期間の統計を算出するには、こう言った時代背景も汲み取るべきで あるか とも思う
【新版・卑弥呼の謎】 P.90
調査の結果から

以上のような調査結果から、つぎのようなことがいえる。

(1) 時代をさかのぼるにつれて、平均在位年数のしだいに短くなる傾向が、かなりはっきりとみられること。

(2) 一~四世紀の平均在位年数は、全世界的にみても、およそ十年で、かなり短いこと。

そして、五~八世紀においても、せいぜい十年(日本)から十三年(西洋)ていどであり、全世界での平均値は、約十二年(一一・五七年)であること。

【新版・卑弥呼の謎】 P.95
鎌倉時代の為政者の在位期間

さらに、鎌倉幕府について、頼朝、頼家、実朝の源氏三代と、北条氏の各執権が、為政者の位置にあった時期を示せば、表6のようになる。
一代平均の在位年数は、八・三二年である。

為政者の時代平均在位年数

以上から、「江戸時代」「室町・安土桃山時代」「鎌倉時代」の為政者の平均在位年数をまとめれば、次ページ図7のようになる。
やはり、平均在位年数は、時代をさかのぼるにつれ、短くなっている。

1~4世紀の平均在位年数は10年では無かったのか?
鎌倉時代は8.32年と なっていて、古代よりも鎌倉時代の方が短くなっている
統計値と安本氏の主張は矛盾しているのでは無いのか?
【新版・卑弥呼の謎】 P.99
三つの命題の設定

以上述べてきたことがらのうち、あとでおこなう議論のために、とくに重要なものをまとめれば、つぎの三つの命題となる。

【命題1】 一般に、西暦紀元以後の「王」の平均在位年数には、時代をさかのもぼるにつれ、短くなる傾向が、かなりはっきりとみとめられる。

【命題2】 西暦一~四世紀のわが国に、「王」あるいは天皇が在位したとしたばあい、その平均在位年数は、ほぼ十年と考えられる。
また、それにつづく、五~八世紀の平均在位年数も、十年を大きくは上回らない。

この結論は恣意によるもので ある

今までの統計値から見て、必ずしも時代が遡れば平均在位年数が短くなるとは言えない様に見える
【新版・卑弥呼の謎】 P.110
皇子出生率も高すぎる

古代の父子継承記事が、信頼しがたいと思われる理由は、以上述べたことのほかにも、いくつかあげることができる。
あと二つほど、その理由をあげておこう。

その一つは、『古事記』などの記述を信ずるばあい、日本の古代においては、男子の生まれる率が、いちじるしく高くなってしまうことである。
『古事記』に記されている天皇の御子を、男女別にわければ、表7のようになる(『古事記』に記されている名前だけからでは、男女別を判断しにくいばあいには、『日本書紀』の記載によって判断した)。

神武天皇~仁徳天皇までの皇子の出生率と、履中天皇~すい天皇までの皇子の出生率とを比較すれば、次ページ図11のようになる。

神武天皇~仁徳天皇のほうが、履中天皇~推古天皇いよりも、皇子の出生率が、偶然で期待される以上に高いことは、統計学的にはっきりと主張できる(一パーセント水準で有意)。

皇子の出生率は、いつの時代でも、ほぼ五〇パーセントであろうが、それが、特に高くなっている時期は、父子継承率の高い時期に一致する。

古代において、とくに皇子の生まれる率が高いことはありえない。
このようなことがおきたのは、御子がないばあい、あるいは、あっても皇女のみのばあい、じっさいは、兄弟あるいは甥などが皇位を継承したにもかかわらず、それを、まえの天皇の御子であるかのように記述したためと思われる。

これは それ程 な事なので あろうか?

男女の出生性確率比は若干男子の方が高い事が分かっている

どうやら時代に よっては多少の変動は ある らしいが、民族,気候,場所を問わず この傾向があらわれると言う
大体の値として、男子105 : 女子100 の対比で あると書かれている事が多い様に見受けられる

加えて、古代に おいては男尊女卑の傾向が強かった事も あり、女子出生時には不幸にも名前が記録に残されない事が多い
このため、後年に おいて記録だけ見ると男子の出生性確率比が高い様に見えてしまうだけ なので ある

例えば曹操には公子(男子)が 25人いたと記録されている
【三國志】 卷二十 魏書二十 武文世王公傳第二十

撰者 : 西晉(晋)朝 陳壽(寿)

武皇帝二十五男
卞皇后生文皇帝,任城威王彰,陳思王植,蕭懷王熊
劉夫人生豐愍王昂,相殤王鑠
環夫人生鄧哀王沖,彭城王據,燕王宇
杜夫人生沛穆王林,中山恭王袞
秦夫人生濟陽懷王玹 ,留恭王峻
尹夫人生范陽閔王矩
王昭儀生趙王幹
孫姬生臨邑殤公子上,楚王彪,剛殤公子勤
李姬生穀城殤公子乘,郿戴公子整,靈殤公子京
周姬生樊安公均
劉姬生廣宗殤公子棘
宋姬生東平靈王徽
趙姬生樂陵王茂

所が、曹操の公主(女子)は公子に比べて かなり少ない
出生性確率比から見て僅差で女子が少ないと言う事で あれば充分に あるかと思うが、それ以上の大差なので ある

恐らく これは実際に女子が少なかったのでは無く、記録に残されていないと言う事かと思われる
では何故記録に残される公主と記録に残されない公主に差が あるのかと言えば、それは母親の身分と公主の嫁ぎ先そして公主自身の没年に影響されてしまっているので あろう

記録に残される公主は以下の要素に属するものと思われる

1) 母親の身分が高いか、母親が公子を出産している

2) 身分の高い者や建国元勲(の親族)に嫁いでいる


逆に記録が残されない公主は以下に属していたので あろう

1) 母親の身分が低い

2) 嫁ぎ先が高名では無いか、或いは将帥,官僚では無い

3) 不幸にも夭逝してしまった


ゆえに、天皇に皇子が多い様に見受けられるのも、特に異な事では無い
【新版・卑弥呼の謎】 P.112
系図にも不自然な点がある

古典の父子継承記事が信頼しがたいと思われるいまひとつの理由としては、たとえば、『古事記』に記されている天皇の系図を整理するとき、かなり不自然なところがいくつかあることをあげることができる。
これは、これまで述べてきた理由のうらづけとなるであろう。

たとえば、『古事記』によれば、第一二代景行けいこう天皇は、その子倭建やまとたけるみことの曾孫、訶具漏比売かぐろひめをめとって、大江の王を生んでいる(系図2参照)。
このようなことは、とうていおこりえないことである。

いや、有り得ると私は思う
身分の高い者が身分の低い者を迎え入れる場合、暫定的に身分の高い者の養子として待遇して身分の泊付はくづを行い、しかる後に相応に身分の高い家から目的の家に送り出すと言う慣例が 屡々しばしば 行われている
単に一時的な措置として名前だけを借りただけなのでは無いかと思われる

特に女性の身分は一旦誰かの養女と してしまえば どの様にでも身分を装飾出来るので、古典に ある女性の出自を根掘り葉掘り追求するのは野暮と言うもので あろう

所で、古代に おける王の平均在位期間が 10年程度で あれば どうなるのかが今少し読み取れなかったので あるが、以下を読んで理解出来た

邪馬台国は東遷したか? 第一章 邪馬台国は何天皇の時代か
邪馬台国は東遷したか? 第二章 卑弥呼は天照大御神
第31代の用明天皇あたりになりますと、586年頃活躍した人という年代がわかりますから、用明天皇からさかのぼる。
一代10年、一代10年とさかのぼりましたならば、何天皇の時代が邪馬台国の時代と重なるのかということが分かるはずだと考えたわけです。

結論だけをいいますと、神武天皇以後、全ての天皇が実在すると考えましても、神武天皇の活躍した時代は280年から290年くらいにしかなりません。

神武天皇の5代前として、神武天皇の活躍した280年~290年から5代、50年さかのぼりますと、天照大御神の時代は230~240年頃になって、まさに卑弥呼の時代に重なるのです。
つまり天照大御神というのは、卑弥呼のことが神話化し、伝承化したのではないかと考えられるわけです。
成程なるほど、この帰結を得るために延々と王の平均在位期間が何年で あるのかを求めたと言う事か…
ただ、天照大神 から 神武天皇 までの人物(天忍穂耳命,邇邇藝命,火遠理命,鸕鶿草葺不合命)の伝承を読む限り、在位年数は それぞれ10年よりも長い様に思えて ならない
特に 神武天皇 が九州を発向して関西に到達するまでの期間だけでも優に15年以上は経過している様に見える
無論これは根拠が ある訳では無いが、神武天皇 の大和侵入は西暦280年よりも前では無いかと思う

なお、以下は中国王朝で歴史年代が確認されている最も古い記録から読み取った在位年数値で ある
【金文の世界 殷周社会史】 P.288

著者 : 白川 静

以上によって夷・厲の断代は、ほぼ確立することが出来たと思う。
即ち夷王は在位三九年、厲以後は『史記』のいうところを、金文資料によって実証することができる。
すなわち夷・厲・宣・幽の四代は前九一七年より七七一年に至る百三十七年、一代の在位平均は三十六年である。
懿孝以前はその年数を確かめがたいが、ほぼこの平均値を以て考えてよい。

夷王,れい王,宣王,幽王と言えば西周王朝の王で あるが、白川氏は発掘された青銅器の金文きんぶん(鋳文ちゅうぶん)から これ等の王位在位年数を明らかに したと言う
西周朝と言えば日本で言うと縄紋時代に当たるが、この時点で平均在位年は 36年と言うから、安本氏が主張する一代在位10年の結論とは随分とへだたり が ある様で ある



4. 天照大神と卑弥呼は別人


日本書紀 神代巻 には鉄器が登場しないとの主張が ある
いや、鉄器が存在していないとは言い切れないが、神代は鉄器時代の前に位置している青銅器時代に属しているものと思われる記述が見て取れる

例えば、神代巻 には以下の様に矛(戈),鏃,鏡,剣と言った金属器が登場する
【日本書紀】 卷第一 神代上

撰者 : 舎人親王 等

伊弉諾尊,伊弉冉尊 立於天浮橋之上 共計曰

底下豈無國歟

廼以天之瓊瓊 玉也 此云努 指下而探之 是獲滄溟
鋒滴瀝之潮 凝成一嶋 名之曰磤馭慮嶋

由是始起大八洲國之號焉 卽對馬嶋壹岐嶋及處處小嶋 皆是潮沫凝成者矣 亦曰水沫凝而成也
一書曰 天神謂伊弉諾尊,伊弉冉尊曰

有豐葦原千五百秋瑞穗之地 宜汝往脩之

廼賜天瓊戈
於是二神 立於天上浮橋 投求地
因畫滄海而引舉之 卽戈鋒垂落之潮 結而爲嶋 名曰磤馭慮嶋


乃結髮爲髻 縛裳爲袴 便以八坂瓊之五百箇御統御統 此云美須磨屢纒其髻鬘及腕 又背負千之靫 此云知能梨與五百之靫 臂著稜威之高鞆稜威 此云伊都振起弓彇 急握柄 蹈堅庭而陷股 若沫雪以蹴散蹴散 此云倶穢簸邏邏箇須 奮稜威之雄誥雄誥 此云鳥多稽眉 發稜威之嘖讓嘖讓 此云舉廬毗 而俓詰問焉

于時八十萬神會於天安河邊 計其可禱之方
故思兼神 深謀遠慮 遂聚常世之長鳴鳥使互長鳴
亦以手力雄神 立磐戸之側 而中臣連遠祖天兒屋命,忌部遠祖太玉命 掘天香山之五百箇眞坂樹 而上枝懸八坂瓊之五百箇御統 中枝懸八咫鏡一云 眞經津鏡 下枝懸靑和幣和幣 此云尼枳底,白和幣 相與致其祈禱焉

時素戔嗚尊 乃拔所帶十握劒 寸斬其蛇
至尾刃少缺 故割裂其尾視之 中有一 此所謂草薙劒
草薙劒 此云倶娑那伎能都留伎
一書曰

本名天叢雲劒 蓋大蛇所居之上 常有雲氣 故以名歟
至日本武皇子 改名曰草薙劒

素戔嗚尊曰

是神也 吾何敢私以安乎

乃上獻於天神也

矛と戈の区別が付けられているのか どうか分からず混同されている可能性は あるが、矛は銅矛で戈は銅戈で あろう
当然の事で あるが、鉄製鏡は非常に稀少なので鏡は銅鏡と思われる

となれば剣も鉄剣では無く銅剣で あり、鏃も弥生時代に大量に出土する鉄鏃では無く銅鏃と見做すのが自然な読解かと思う
要するに、神代巻 では鉄と言う単語と鉄で出来ている金属器が登場しないので ある

確かに これでは時代が合わない様に思えてしまう

これは私の私見では あるが、以下に述べている様に青銅製武器と鉄製武器が日本にもたらされた時期は同じでは無く、当時の倭人の間では青銅製武器の方が少し早く普及したのでは無いかと考えている

金属製武器は年代別に日本に伝播した

つまり、九州に銅鏡,銅矛,銅戈,銅剣,銅鏃が先ず上陸し、その後鉄剣,鉄鏃が後から持ち込まれたと言う事に なる
こう考えると鉄器の無い青銅器時代が弥生時代に存在したとしても特に支障は無いわけで ある
ならば、

1) 天照大神 は青銅器時代の人物

2) 卑弥呼 は鉄器時代の人物


と区別する事が道理にかなう事に なる

更に言えば、実は 天照大神 には子供が いる

神話に おいて夫は存在しないと称されているが、少し前に記した通り天忍穂耳命長男で ある らしい
女一人では子を産む事は不可能なので、当然では あるが配偶者が いたと解する他無い
しかし 天照大神 は女神と されているので、何者かの男神の妻で あった訳では無く自身が在位していた事に なる

つまり、天照大神 は誰かを婿に迎えていたと言う事なので ある

ただし、この婿殿の名は分からない
右翼や皇国史観の方からは批難されるかも知れないが、天照大神 の男妾おとこめかけで あったために表立おもてだって公に名を出せなかったのかも知れない
或いは離婚や再婚を行っていて これが不名誉と思われてしまい、敢えて名を残さなかった と言う事も ありそうでは ある
別の可能性としては、記紀編纂時に大和朝廷の史官が意図的に削除してしまったと言う事も考えられる

それでは 卑弥呼 は どうで あろうか?
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳

乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫壻 有男弟 佐治國
自爲王以來 少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人給飮食 傳辭出入
居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衞

これを読む限り、卑弥呼 には夫や婿は おらず、当然子も存在しない筈で ある
次の女王 壱与 は宗女で あって実子では無い

最後に なるが、卑弥呼と表音が少し近いと主張する ヒルメ の登場に ついても、卑弥呼の登場とは随分異なる様に思える
【日本書紀】 卷第一 神代上

次生海 次生川 次生山 次生木祖句句廼馳 次生草祖草野姬 亦名野槌
卽而伊弉諾尊,伊弉冉尊 共議曰

吾已生大八洲國及山川草木 何不生天下之主者歟

於是共生日神 號大日孁貴

大日孁貴 此云於保比屢咩能武智 孁音力丁反
一書云天照大神
一書云天照大日孁尊

此子光華明彩 照徹於六合之內
故二神喜曰

吾息雖多 未有若此靈異之兒 不宜久留此國
自當早送于天而授以天上之事

是時天地相去未遠 故以天柱舉於天上也

一書曰 伊弉諾尊曰

吾欲生御宇之珍子

乃以左手持白銅鏡則有化出之神 是謂大日孁尊
右手持白銅鏡則有化出之神 是謂月弓尊
又廻首顧眄之間則有化神 是謂素戔嗚尊
大日孁尊
及月弓尊並是質性明麗 故使照臨天地
素戔嗚尊是性好殘害 故令下治根國
珍 此云于圖 顧眄之間 此云美屢摩沙可梨爾

【古事記】 上卷 神代記

撰者 : 太 安萬侶 等

於是洗左御目時 所成神名 天照大御神
次洗右御目時 所成神名 月讀命
次洗御鼻時 所成神名 建速須佐之男命須佐二字以音

此時伊邪那伎命 大歡喜詔

吾者生生子而 於生終得三貴子

卽其御頸珠之玉緖母由良邇此四字以音 下效此取由良迦志而 賜天照大御神而詔之

汝命者 所知高天原矣

事依而賜也 故其御頸珠名 謂御倉板擧之神訓板擧云多那
次詔月讀命

汝命者 所知夜之食國矣

事依也訓食云袁須
次詔建速須佐之男命

汝命者 所知海原矣

事依也

天照大神は誕生時点で非常に祝福され将来を嘱望しょくぼうされており、早々に次代の女神としての立場が確立している様に見受けられる
それに対して卑弥呼の場合で あるが、
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳

其國本亦以男子爲王 住七,八十年 倭國亂 相攻伐歴年
共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫壻 有男弟 佐治國
自爲王以來 少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人給飮食 傳辭出入

卑弥呼と男弟は成人(卑弥呼共立時点で男弟は佐治を開始している)してから登場して おり、歴史に登場する前の事は記録に無い
しかも倭国王として王統上 王位に立つに相応しい人物が既に即位していて、本来は王位に推戴すいたいされる人物では無かった らしい事がうかがわれる

天照大神 と 卑弥呼 は共通点が多い と安本氏は考えている らしいが、実は以下の様に差異点が ある

1) 天照大神 には大日孁貴神おおひるめのむちのかみ等の幾つもの別名が あるが、どれも 卑弥呼 には該当しない

2) 卑弥呼 は本来在位していた男王の後に共立されて歴史に登場しているが、天照大神 は血統にもとづいて[父:伊弉諾イザナギ,母:伊弉冉イザナミ] 始めから女神として神話に登場している

3) 卑弥呼 は道教との関連が示唆されるが、天照大神 と道教を結び付ける要素を見出し にくい

4) 天照大神 には婿が いた筈で あるが、卑弥呼 に夫や婿は いない

5) 天照大神 には五男三女が いたと記録されているが、卑弥呼 に子息,息女が いた形跡は無い

6) 卑弥呼 の男弟は 卑弥呼 を補佐しているが、素戔男尊 は とても 天照大神 を補佐しているとは言い難い

7) 卑弥呼 は常時 宮城の奥に引きこもって侍臣と護衛が取り巻いていて強い権力を維持しているが、天照大神 は基本的には人目に付く場所に いる事が多く、侍臣や護衛の存在は見出し難い

8) 卑弥呼 の後には男王が立った後に廃立されて女王 壱与 が再度共立されているが、天照大神 の後には血統による継嗣が続いて おり、女王が共立された形跡は見当たらない

9) 卑弥呼 の後を継いだ 壱与 に当たる人物が、天照大神 の近辺では見出し にくい


数え上げて行くと意外と多い
これで同一人物で あると考える方がどうか しているのでは無いかと、私は判断するもので ある



5. 結論


安本 美典説は誤謬を多く含むものと判断せざるを得ない
要するに、安本説は間違いで ある

天照大神 と 卑弥呼 は共通項よりも差異項の方が多く、同一人物に見做そうとする試みは至難と言う他無い
また、卑弥呼 と 天照大神 は同時代人では無く、恐らくは 天照大神 の方が古い時代に生きた人物で あると考えるのが妥当で ある

加えて、卑弥呼 の後に女王として共立された人物は 壱与 で あろうが 臺与 で あろうが トヨ とは訓まないので、大和朝廷に おける 豊某 と言った人物群とは無関係で あると見て良いかと思う

公開 : 2016年1月31日
戻る
pagetop