【新版・卑弥呼の謎】この書籍を選択した理由は、上記著書に おける次の記述に よる
著者 : 安本 美典
【新版・卑弥呼の謎】 P.3最も売れた著作で あると述べているので あれば、当人が書きたい事を最も端的に著述したものとの自負が あるので あろう
古代史ブームのまっただ中で刊行されたためか、幸い旧版の『卑弥呼の謎』も、多くの読者を獲得できた。
十万部以上の発行部数をみ、私の三十冊ほどの著書のなかでは、もっとも広く読まれたものとなった。
【新版・卑弥呼の謎】 P.72この人、教養が高いのか低いのか良く分からない
壱与か台与か
ここで、卑弥呼の宗女について考えてみよう。
『魏志倭人伝』の現行刊本は、卑弥呼の宗女の名を、「壹與」と記している。
この名は、常用漢字で書けば、「壱与」である。
この「壱与」は、「臺與」(常用漢字で書けば、「台与」、ただし「臺」と「台」は、本来は別字)の誤りであるとする説が有力である。
私もまた、この見解に賛成するものである。
その理由は、つぎのとおりである。
[前掲書 続き] P.73いやぁ、一度気に なると もぅ気に なって仕方が無い
(1) 『太平御覽』引用の『魏志』、および、『梁書』『北史』『
翰苑 』などは、「壹與(壱与)」の「壹」を「臺(台)」につくっている。
現行刊本の『三国志』の『魏志倭人伝』は、十二世紀に成立したものである。
これにたいし、現在、福岡県太 宰 府 市の、太宰府天満宮に伝来する張楚金 撰、雍公叡 注の『翰苑』は、平安初期九世紀に書写され、そのまま今日に伝来したものである。
このことの意味は大きい。
このことから、現行刊本の「壹與(壱与)」は、「臺與(台与)」の誤りとみられる(拙著『「邪馬壹国」はなかった』新人物往来社刊参照)
が使用されており、何故この字が使用されているのかは充分に精査されなければ ならないかと思う[前掲書 続き] P.73いやぁ、卑弥呼 と言う名も かなり
(2) 「臺與」(台与)であれば、「トヨ」と読むことができる。
わが国の古代において、「トヨ」という音をもつ人名は、かなり多い。
『古事記』上巻(神話の巻)から、女性の名で、「トヨ」という音をもつものをひろってみても、「豊 宇 気 毘 売 の神 」「万幡豊秋津 師 比 売 の命 」「豊玉 毘 売 の命 」などをあげることができる。
それにたいし、「壹與(壱与)」にあたる「イヨ」という音をもつ女性の名は、皆 無 である(コラムII参照)。
すなわち、「トヨ」は、我が国の古代において、ありふれた名前であるが、「イヨ」は、かなりめずらしい名前である。
【新版・卑弥呼の謎】 P.77対応するかのように とは また卑怯な書き方である
『魏志倭人伝』は、「
臺與 (台与)」のことを、「卑弥呼の宗女」と、明確に女性としている。
それに対応するかのように、『古事記』上巻では、「豊 」のつく名は、「女性名」が多いのである。
さらに、「與(壱与)」の「與(与)」が、「よ」の音を写したものであろうことについては、異論が見られない。
そこで、『古事記』の各巻から、「よ」をふくむ神名、人名を、すべて書きだせば、七十五ページ付表1のようになる。
この表をもとにして、『古事記』の神名、人名において「よ」が、どのような音につづいているかをしらべてみると、付表2、付図1のようになる。
付表2、付図1をみればわかるように、「よ」をふくむ神名、人名の過半は、「とよ」という形でふくんでいる。
「いよ」は、まったくない(神名、人名においては、母音と「よ」がつづく例がない)。
以上のようなことから、『魏志倭人伝』が、わが国のことを記したのであれば、「壹與(壱与)」はやはり書き誤りで、「臺與(台与)」が正しく、それは「豊」にあたる音を写したものと見られる。
【新版・卑弥呼の謎】 P.78トヨで あるか無いかで確率半分としても、もう半分の説明義務を
卑弥呼のあとに立った女王の名が「トヨ」であるとすると、それと関係するかと思われる事実も、いくらか存在する。
【新版・卑弥呼の謎】 P.80そぉで あろぅかぁぁぁ?
ここから、『古事記』の天照大神は、大日孁と豊日孁とをあわせた名であり、大日孁は卑弥呼であり、豊日孁は台与なのではないかと思われる(「ヒルメ」と「ヒミコ」の音がやや近いことも留意しておこう)。
【新版・卑弥呼の謎】 P.85註:
中国の王の平均在位年数
東京創元社刊の『東洋史辞典』(京都大学文学部東洋史研究室編)の巻末には、「アジア各国統治表」があり、そこに、「中国歴代世系表」がのせられている。
そして、各王の即位及び退位の時期も記されている。
そこで、この表により、西暦元年以後に即位したすべての中国の王(三百二十三王)について、その在位の期間を算出した。
ついで、時代を、一~四世紀、五~八世紀、九~十二世紀、十三~十六世紀、十七~二十世紀の五つにわけ、おのおのの時代に即位した王平均在位年数を求めた。
その結果は、図3のようになる。
図3は、つぎのようなことを示している。
たとえば、一~四世紀のあいだに即位した王は、中国では、九十六王おり、そののべの在位期間は、九百六十五年であり、したがって、一代平均の在位年数は、一〇・〇五年(965年/96王)である。
図3をみれば、古代にさかのぼるにつれ、平均在位年数の[註]短くなっていることがわかる。
原文ママ
恐らくは "平均在位年数が" の誤記かと思われる
【新版・卑弥呼の謎】 P.87成程、王以外の国家元首は統計対象外と言う事か
西洋の王の平均在位年数
東京創元社刊の『西洋史辞典』(京都大学文学部東洋史研究室編)の巻末には、「各国元首表」がのっている。
そして、西洋の各王の即位および退位の時期が記されている。
そこで、この表により、西暦元年以後に即位したすべての王(七百三十六王)について、その在位期間を算出した。
中国の場合と同じく、一~四世紀、五~八世紀、九~十二世紀、十三~十六世紀、十七世紀~二十世紀の五つにわけ、各時代に即位した王の平均在位年数を求めた。
結果は、図4のようになる。
なお、この「各国元首表」には、首相や大統領などの在位の時期も記されている。
しかし、これらは、調査の対象としなかった。
図4をみれば、やはり、古代にさかのぼるにつれ、平均在位年数は、短くなっている。
161年 - 169年 (ルキウス・ウェルス帝と共同統治)
169年 - 177年 (単独統治)
177年 - 180年 (コンモドゥス帝と共同統治)
【新版・卑弥呼の謎】 P.90
調査の結果から
以上のような調査結果から、つぎのようなことがいえる。
(1) 時代をさかのぼるにつれて、平均在位年数のしだいに短くなる傾向が、かなりはっきりとみられること。
(2) 一~四世紀の平均在位年数は、全世界的にみても、およそ十年で、かなり短いこと。
そして、五~八世紀においても、せいぜい十年(日本)から十三年(西洋)ていどであり、全世界での平均値は、約十二年(一一・五七年)であること。
【新版・卑弥呼の謎】 P.951~4世紀の平均在位年数は10年では無かったのか?
鎌倉時代の為政者の在位期間
さらに、鎌倉幕府について、頼朝、頼家、実朝の源氏三代と、北条氏の各執権が、為政者の位置にあった時期を示せば、表6のようになる。
一代平均の在位年数は、八・三二年である。
為政者の時代平均在位年数
以上から、「江戸時代」「室町・安土桃山時代」「鎌倉時代」の為政者の平均在位年数をまとめれば、次ページ図7のようになる。
やはり、平均在位年数は、時代をさかのぼるにつれ、短くなっている。
【新版・卑弥呼の謎】 P.99この結論は恣意によるもので ある
三つの命題の設定
以上述べてきたことがらのうち、あとでおこなう議論のために、とくに重要なものをまとめれば、つぎの三つの命題となる。
【命題1】 一般に、西暦紀元以後の「王」の平均在位年数には、時代をさかのもぼるにつれ、短くなる傾向が、かなりはっきりとみとめられる。
【命題2】 西暦一~四世紀のわが国に、「王」あるいは天皇が在位したとしたばあい、その平均在位年数は、ほぼ十年と考えられる。
また、それにつづく、五~八世紀の平均在位年数も、十年を大きくは上回らない。
【新版・卑弥呼の謎】 P.110これは それ程
皇子出生率も高すぎる
古代の父子継承記事が、信頼しがたいと思われる理由は、以上述べたことのほかにも、いくつかあげることができる。
あと二つほど、その理由をあげておこう。
その一つは、『古事記』などの記述を信ずるばあい、日本の古代においては、男子の生まれる率が、いちじるしく高くなってしまうことである。
『古事記』に記されている天皇の御子を、男女別にわければ、表7のようになる(『古事記』に記されている名前だけからでは、男女別を判断しにくいばあいには、『日本書紀』の記載によって判断した)。
神武天皇~仁徳天皇までの皇子の出生率と、履中天皇~
推 古 天皇までの皇子の出生率とを比較すれば、次ページ図11のようになる。
神武天皇~仁徳天皇のほうが、履中天皇~推古天皇いよりも、皇子の出生率が、偶然で期待される以上に高いことは、統計学的にはっきりと主張できる(一パーセント水準で有意)。
皇子の出生率は、いつの時代でも、ほぼ五〇パーセントであろうが、それが、特に高くなっている時期は、父子継承率の高い時期に一致する。
古代において、とくに皇子の生まれる率が高いことはありえない。
このようなことがおきたのは、御子がないばあい、あるいは、あっても皇女のみのばあい、じっさいは、兄弟あるいは甥などが皇位を継承したにもかかわらず、それを、まえの天皇の御子であるかのように記述したためと思われる。
【三國志】 卷二十 魏書二十 武文世王公傳第二十所が、曹操の公主(女子)は公子に比べて かなり少ない
撰者 : 西晉(晋)朝 陳壽(寿)
武皇帝二十五男
卞皇后生文皇帝,任城威王彰,陳思王植,蕭懷王熊
劉夫人生豐愍王昂,相殤王鑠
環夫人生鄧哀王沖,彭城王據,燕王宇
杜夫人生沛穆王林,中山恭王袞
秦夫人生濟陽懷王玹 ,留恭王峻
尹夫人生范陽閔王矩
王昭儀生趙王幹
孫姬生臨邑殤公子上,楚王彪,剛殤公子勤
李姬生穀城殤公子乘,郿戴公子整,靈殤公子京
周姬生樊安公均
劉姬生廣宗殤公子棘
宋姬生東平靈王徽
趙姬生樂陵王茂
1) 母親の身分が高いか、母親が公子を出産している
2) 身分の高い者や建国元勲(の親族)に嫁いでいる
逆に記録が残されない公主は以下に属していたので あろう
1) 母親の身分が低い
2) 嫁ぎ先が高名では無いか、或いは将帥,官僚では無い
3) 不幸にも夭逝してしまった
【新版・卑弥呼の謎】 P.112いや、有り得ると私は思う
系図にも不自然な点がある
古典の父子継承記事が信頼しがたいと思われるいまひとつの理由としては、たとえば、『古事記』に記されている天皇の系図を整理するとき、かなり不自然なところがいくつかあることをあげることができる。
これは、これまで述べてきた理由のうらづけとなるであろう。
たとえば、『古事記』によれば、第一二代
景行 天皇は、その子倭建 の命 の曾孫、訶具漏比売 をめとって、大江の王を生んでいる(系図2参照)。
このようなことは、とうていおこりえないことである。
第31代の用明天皇あたりになりますと、586年頃活躍した人という年代がわかりますから、用明天皇からさかのぼる。
一代10年、一代10年とさかのぼりましたならば、何天皇の時代が邪馬台国の時代と重なるのかということが分かるはずだと考えたわけです。
結論だけをいいますと、神武天皇以後、全ての天皇が実在すると考えましても、神武天皇の活躍した時代は280年から290年くらいにしかなりません。
神武天皇の5代前として、神武天皇の活躍した280年~290年から5代、50年さかのぼりますと、天照大御神の時代は230~240年頃になって、まさに卑弥呼の時代に重なるのです。
つまり天照大御神というのは、卑弥呼のことが神話化し、伝承化したのではないかと考えられるわけです。
【金文の世界 殷周社会史】 P.288夷王,
著者 : 白川 静
以上によって夷・厲の断代は、ほぼ確立することが出来たと思う。
即ち夷王は在位三九年、厲以後は『史記』のいうところを、金文資料によって実証することができる。
すなわち夷・厲・宣・幽の四代は前九一七年より七七一年に至る百三十七年、一代の在位平均は三十六年である。
懿孝以前はその年数を確かめがたいが、ほぼこの平均値を以て考えてよい。
【日本書紀】 卷第一 神代上矛と戈の区別が付けられているのか どうか分からず混同されている可能性は あるが、矛は銅矛で戈は銅戈で あろう
撰者 : 舎人親王 等
伊弉諾尊,伊弉冉尊 立於天浮橋之上 共計曰
底下豈無國歟
廼以天之瓊瓊 玉也 此云努矛 指下而探之 是獲滄溟
其矛鋒滴瀝之潮 凝成一嶋 名之曰磤馭慮嶋
由是始起大八洲國之號焉 卽對馬嶋壹岐嶋及處處小嶋 皆是潮沫凝成者矣 亦曰水沫凝而成也
一書曰 天神謂伊弉諾尊,伊弉冉尊曰
有豐葦原千五百秋瑞穗之地 宜汝往脩之
廼賜天瓊戈
於是二神 立於天上浮橋 投戈求地
因畫滄海而引舉之 卽戈鋒垂落之潮 結而爲嶋 名曰磤馭慮嶋
乃結髮爲髻 縛裳爲袴 便以八坂瓊之五百箇御統御統 此云美須磨屢纒其髻鬘及腕 又背負千箭之靫千箭 此云知能梨與五百箭之靫 臂著稜威之高鞆稜威 此云伊都振起弓彇 急握劒柄 蹈堅庭而陷股 若沫雪以蹴散蹴散 此云倶穢簸邏邏箇須 奮稜威之雄誥雄誥 此云鳥多稽眉 發稜威之嘖讓嘖讓 此云舉廬毗 而俓詰問焉
于時八十萬神會於天安河邊 計其可禱之方
故思兼神 深謀遠慮 遂聚常世之長鳴鳥使互長鳴
亦以手力雄神 立磐戸之側 而中臣連遠祖天兒屋命,忌部遠祖太玉命 掘天香山之五百箇眞坂樹 而上枝懸八坂瓊之五百箇御統 中枝懸八咫鏡一云 眞經津鏡 下枝懸靑和幣和幣 此云尼枳底,白和幣 相與致其祈禱焉
時素戔嗚尊 乃拔所帶十握劒 寸斬其蛇
至尾劒刃少缺 故割裂其尾視之 中有一劒 此所謂草薙劒也
草薙劒 此云倶娑那伎能都留伎
一書曰
本名天叢雲劒 蓋大蛇所居之上 常有雲氣 故以名歟
至日本武皇子 改名曰草薙劒
素戔嗚尊曰
是神劒也 吾何敢私以安乎
乃上獻於天神也
1) 天照大神 は青銅器時代の人物
2) 卑弥呼 は鉄器時代の人物
と区別する事が道理に
更に言えば、実は 天照大神 には子供が いる
神話に おいて夫は存在しないと称されているが、少し前に記した通り天忍穂耳命が長男で ある らしい
女一人では子を産む事は不可能なので、当然では あるが配偶者が いたと解する他無い
しかし 天照大神 は女神と されているので、何者かの男神の妻で あった訳では無く自身が在位していた事に なる
つまり、天照大神 は誰かを婿に迎えていたと言う事なので ある
ただし、この婿殿の名は分からない
右翼や皇国史観の方からは批難されるかも知れないが、天照大神 の
或いは離婚や再婚を行っていて これが不名誉と思われてしまい、敢えて名を残さなかった と言う事も ありそうでは ある
別の可能性としては、記紀編纂時に大和朝廷の史官が意図的に削除してしまったと言う事も考えられる
それでは 卑弥呼 は どうで あろうか?
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳これを読む限り、卑弥呼 には夫や婿は おらず、当然子も存在しない筈で ある
乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫壻 有男弟 佐治國
自爲王以來 少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人給飮食 傳辭出入
居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衞
【日本書紀】 卷第一 神代上
次生海 次生川 次生山 次生木祖句句廼馳 次生草祖草野姬 亦名野槌
卽而伊弉諾尊,伊弉冉尊 共議曰
吾已生大八洲國及山川草木 何不生天下之主者歟
於是共生日神 號大日孁貴
大日孁貴 此云於保比屢咩能武智 孁音力丁反
一書云天照大神 一書云天照大日孁尊
此子光華明彩 照徹於六合之內
故二神喜曰
吾息雖多 未有若此靈異之兒 不宜久留此國
自當早送于天而授以天上之事
是時天地相去未遠 故以天柱舉於天上也
一書曰 伊弉諾尊曰
吾欲生御宇之珍子
乃以左手持白銅鏡則有化出之神 是謂大日孁尊
右手持白銅鏡則有化出之神 是謂月弓尊
又廻首顧眄之間則有化神 是謂素戔嗚尊
卽大日孁尊及月弓尊並是質性明麗 故使照臨天地
素戔嗚尊是性好殘害 故令下治根國
珍 此云于圖 顧眄之間 此云美屢摩沙可梨爾
【古事記】 上卷 神代記天照大神は誕生時点で非常に祝福され将来を
撰者 : 太 安萬侶 等
於是洗左御目時 所成神名 天照大御神
次洗右御目時 所成神名 月讀命
次洗御鼻時 所成神名 建速須佐之男命須佐二字以音
此時伊邪那伎命 大歡喜詔
吾者生生子而 於生終得三貴子
卽其御頸珠之玉緖母由良邇此四字以音 下效此取由良迦志而 賜天照大御神而詔之
汝命者 所知高天原矣
事依而賜也 故其御頸珠名 謂御倉板擧之神訓板擧云多那
次詔月讀命
汝命者 所知夜之食國矣
事依也訓食云袁須
次詔建速須佐之男命
汝命者 所知海原矣
事依也
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳卑弥呼と男弟は成人(卑弥呼共立時点で男弟は佐治を開始している)してから登場して おり、歴史に登場する前の事は記録に無い
其國本亦以男子爲王 住七,八十年 倭國亂 相攻伐歴年
乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫壻 有男弟 佐治國
自爲王以來 少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人給飮食 傳辭出入
1) 天照大神 には
2) 卑弥呼 は本来在位していた男王の後に共立されて歴史に登場しているが、天照大神 は血統に
3) 卑弥呼 は道教との関連が示唆されるが、天照大神 と道教を結び付ける要素を見出し にくい
4) 天照大神 には婿が いた筈で あるが、卑弥呼 に夫や婿は いない
5) 天照大神 には五男三女が いたと記録されているが、卑弥呼 に子息,息女が いた形跡は無い
6) 卑弥呼 の男弟は 卑弥呼 を補佐しているが、素戔男尊 は とても 天照大神 を補佐しているとは言い難い
7) 卑弥呼 は常時 宮城の奥に引き
8) 卑弥呼 の後には男王が立った後に廃立されて女王 壱与 が再度共立されているが、天照大神 の後には血統による継嗣が続いて おり、女王が共立された形跡は見当たらない
9) 卑弥呼 の後を継いだ 壱与 に当たる人物が、天照大神 の近辺では見出し にくい
数え上げて行くと意外と多い
これで同一人物で あると考える方がどうか しているのでは無いかと、私は判断するもので ある