会稽之東 会稽東治と会稽東冶は共に誤

1. "会稽東治之東" は "会稽東冶之東" の誤記なのか


魏志倭人伝には、倭国は 会稽東治 の東に あると言う

所が、"会稽東治之東" は "会稽東冶之東" の誤と言う者が いる

少し整理して みたい



2. 会稽は会稽郡よりも会稽山の会稽と解すべき


1. 陳寿の意図は 会稽之東


当該の 会稽東治之東 と言う記述は、以下の箇所で ある
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳

撰者 : 西晉(晋)朝 陳壽(寿)

計其道里 當在會𥡴東治之東

三国志 魏志 倭人伝 1

三国志 魏志 倭人伝 2

会稽東治之東 は 会稽東冶之東 の誤と主張する者達は、以下に目が引かれてしまっている ので あろう
【後漢書】 卷八十五(一百十五) 列傳卷七十五 東夷傳 倭

撰者 : 南朝劉氏宋朝 范曄

其地大較在會𥡴東冶之東

後漢書 倭伝 1

会稽郡 東冶県 は現在の 福建省 福州市 中心部と 閩侯県 あたりの事らしい
漢文籍に通じている方には失笑されて しまうかも しれないが、素朴な疑問として

a) 何故 会稽郡東冶県 と記述されて いないのか?

b) 東冶と書きたいので あれば単に 当在東冶県之東 と書けば良いのでは?


と思ってしまうので あるが、さて どうか

漢文とは こう書くもの、と言われて しまうと それまで では あるが、率直な感触としては、"会稽東治之東" と "会稽東冶之東" は、どちらも違和感のような ものを感得して しまう
まぁ実際には 呉志 に以下の記述が あるが、
【三國志】 卷六十 吳志十五 賀全呂周鍾離傳 第十五

會稽東冶[註1]賊呂合,秦狼等 爲亂
(中略)
四年(235年) 廬陵賊李桓,路合 會稽東冶賊隨春 南海賊羅厲等 一時並起

と あり、会稽東冶 なる記載は確かに ある
あるには あるが、会稽郡 の 郡字 は省略されているが 東冶県 に ついては先に明記されていて後に 県字 が省略される と言う書き方と なっている
省略したのは同じ 呂岱伝 での 東冶県 での出来事なので、冗長記述を嫌ったのかも知れない
しかし 倭人伝 は 魏志 に含まれるので当然 呂岱伝 よりも先に書かれているので あり、呂岱伝 よりも先に 会稽東冶 の記述があらわれしまうと やはり違和感をおぼえてしまう

註1:

小南 一郎 訳では 会稽郡 と 東冶郡 にまたがった領域の事で、それぞれ併せて合計 5県と解釈している
それならば 会稽郡 + 東冶郡 と なるので、会稽郡東冶県 の省略記述では ない 事に なる

所で上記の引用箇所で あるが、古代史研究者の中には この記述のみをもって引用を完了させ、後は自説を述べて簡単に誤記と片付けて しまう者も いる様に思う
これでは、当該一文だけ取り出して各人が恣意的に解している様に見えて しまうので あるが、私が思うに、その少し前から見て おいた方が良いかと思う
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳

男子無大小皆黥面文身
自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫
夏后少康之子封於會𥡴 斷髮丈[註2]身 以避蛟龍之害
今倭水人好沈沒捕魚蛤 丈[註2]身亦以厭大魚水禽 後稍以爲飾
諸國文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差
計其道里 當在會𥡴東治之東

註2:

丈字 は 文字 の誤か

ここは夏王朝の夏后少康の子との関連で、会稽に ついて述べている様に見える

上記疑問で触れたが、陳寿は東冶県に ついて記述したいのでは なく、別の意図が あって記述しているので あろう

思うに、陳寿は会稽と倭国を関連付けて記述しているので ある
つまり、

b) 東冶と書きたいので あれば単に 当在東冶県之東 と書けば良いのでは?


東冶県の事など どうでも良いので、当在東冶県之東 とは書かなかったと言う事に なる
陳寿の本旨は、倭国が会稽の東に あると書きたかった だけなので ある

これを范曄は愚かにも解せず、さかしげに無用の蛇足で 会稽東冶之東 等と余計な記述り付け したので あろう

ちなみに魏志倭人伝の上記引用箇所の典拠は 史記 等に ある
【呉越春秋】 越王無余外傳 第六

撰者 : 東漢朝 趙曄

禹以下六世 而得帝少康
少康 恐禹祭之絶祀 乃封其庶子於越 號曰無余王

聖天子 禹 より六世、夏后少康の庶子 於越 は無余と言う王号を名乗ったとの事らしい
【荘子】 逍遥遊 第一

著者 : 東周朝春秋戦国期 宋 荘周

宋人資章甫 而適諸越
越人斷髮文身 無所用之

越の風習が簡潔に記されて おり、越人と倭人に関連が ある事を想起させる
【史記】 卷四十一 越王句踐世家 第十一

撰者 : 西漢朝 司馬遷

越王句踐 其先禹之苗裔

正義曰

吳越春秋云

禹周行天下 還歸大越 登茅山以朝四方羣臣 封有功 爵有德 崩而葬焉
至少康 恐禹迹宗廟祭祀之絕 乃封其庶子於越 號曰無餘

賀循會稽記云

少康 其少子曰於越 越國之稱始此

越絕記云

無餘都 會稽山南故越城是也

而夏后帝少康之庶子也
封於會稽 以奉守禹之祀
文身斷髮 披草萊而邑焉
後二十餘世 至於允常

正義曰

輿地志云

越侯傳國三十餘葉 歷殷至周敬王時 有越侯夫譚 子曰允常 拓土始大稱王 春秋貶爲子 號爲於越

注云

於 語發聲也

允常之時 與呉王闔廬戰而相怨伐
允常卒 子句踐立 是爲越王

編者の 司馬 遷 自身が名付けた書名は 太史公書たいしこう しょ と言う らしいが、史記 の書名が普及して もう どうにも変えられない

魏志倭人伝は これらの記述を元に している訳で あるが、ここで記述されている会稽とは行政区分に おける会稽郡では無く、地名としての会稽山の会稽で ある
何故なら、越王句践世家 と言うのは 会稽山 を歴史舞台として登場させた呉王 夫差と越王 句践 の 臥薪嘗胆 を描く章だからで ある

なお これは蛇足では あるが、会稽山は紹興の東南に位置し、東の麓には河姆渡かぼと遺跡が あり、縄紋時代に おいて倭との交流が確実視されつつ ある地で ある

と言う訳で再度 上記の疑問に戻るが、

a) 何故 会稽郡東冶県 と記述されて いないのか?


会稽郡の事を指している訳では無いので、会稽郡とは書かずに単に会稽と のみ書かざるを得なかった、と言う事に なる

ここでも言える事で あるが、会稽山の会稽こそが重要なので あって、東冶県等 どうでも良いので ある


.2 范曄の改竄強行


上記で魏志倭人伝の該当記述を広く引用したが、それだけでは片手落ちの感が あるので、次は後漢書も幅広で引用しよう
【後漢書】 卷八十五(一百十五) 列傳卷七十五 東夷傳 倭

倭在韓東南大海中 依山㠀爲居 凡百餘國
自武帝滅朝鮮 使驛劉攽曰 使驛按當作譯說已見上通於漢者三十許國 國皆稱王 丗丗傳統 其大倭王居邪馬臺國按今名邪摩推音之訛反[註3]
樂浪郡徼 去其國萬二千里 去其西北界拘邪韓國七千餘里
其地大較在會𥡴東冶之東 與朱崖,儋耳相近 故其法俗多同

註3:

反字 は 也字 の誤か
影本画像に合わせて 邪摩推 としたが、ここは 案今名邪摩堆音之訛也 か
邪摩惟 か 邪摩推 か それとも 邪摩堆 で あるか、良く分からない


これが後漢書 倭伝の冒頭部分で ある
そして次が、東夷伝 論 の部分(三国志 における 評 の記述に相当するか)の直前、倭伝の伝末部分で ある
【後漢書】 卷八十五(一百十五) 列傳卷七十五 東夷傳 倭

會𥡴海外有東鯷人鯷音 達奚反 分爲二十餘國
又有夷洲及澶洲
傳言 秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海事見史記

後漢書 倭伝 2

求蓬萊神仙不得 徐福畏誅不敢還 遂止此洲 丗丗相承有數萬家
人民時至會𥡴市
會𥡴東冶縣人有入海行遭風 流移至澶洲者 所在絕遠 不可往來

沈瑩 臨海水土志曰

夷洲在臨海東南 去郡二千里 土地無霜雪 草木不死 四面是山谿
人皆髡髮穿耳 女人不穿耳
土地饒沃 旣生五穀 又多魚肉
有犬尾短如麕尾狀
此夷舅姑子婦𥃨息共一大牀 略不相避
地有銅,鐵 唯用鹿格爲矛以戰鬬 摩礪靑石以作弓矢
取生魚肉雜貯大瓦器中 以鹽鹵之 歷月餘日乃啖食之 以爲上肴也

後漢書 倭伝 3

三国志では 東鯷人 なる語は登場しないので、五世紀の段階で得られた知見を反映させているのか、もしくは陳寿が採用しなかった史料を范曄が用いたと言う事か
この様に、三国志には現れていない内容を范曄は後漢書に盛り込みつつも、魏志倭人伝の記述を基に後漢書 倭伝を形成している事が分かる

会稽郡 東冶県の東南は 夷州(夷洲の省画か)(=台湾)で あり、制海権は呉が掌握していた

夷州と 亶州(澶洲の省画か) には地理上の近縁や関連が ある筈では あるが、亶州とは沖縄 しくはフィリピンの事か?
衛温と諸葛 直は台湾だけでは なく、沖縄やフィリピンにも海路航行したのかも知れない
【三國志】 卷四十七 吳志 吳主傳 第二

(黃龍)二年(230年) 春 正月 魏作合肥新城
詔立都講祭酒 以教學諸子
遣將軍衞溫,諸葛直將甲士萬人 浮海求夷洲及亶洲 亶洲在海中
長老傳言 秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海 求蓬萊神山及仙藥 止此洲不還 世相承有數萬家其上
人民時有至會𥡴貨布 會𥡴東縣人海行 亦有遭風流移至亶洲者
所在絕遠 卒不可得至 但得夷洲數千人還

三国志 呉志 呉主伝 1

三国志 呉志 呉主伝 2

呉の水軍基地は建業で あろうか、建業を出港して南に進路を取り、まずは台湾に上陸し制圧した
次に亶州を目指したが、見付ける事が出来なかったと言う
まさに東冶の東一帯を彷徨ったものだと考えられる

東冶の東、ほぼ真東まひがしと言って良い所に、沖縄県 那覇市 が ある

呉は魏の勢力圏で ある遼東郡にも船団を送っていた事が分かって おり、東シナ海一帯の航海航路を概ね把握していたものと思われる
【三國志】 卷四十七 吳志 吳主傳 第二

(嘉禾元年)(232年)三月 遣將軍周賀,校尉裴潛乘海之遼東

【三國志】 卷四十七 吳志 吳主傳 第二

(嘉禾二年)(233年)三月 遣舒綜還
使太常張彌,執金吾許晏,將軍賀達等 將兵萬人 金寶珍貨 九錫備物 乘海授淵

三国志 呉志 呉主伝 3

三国志 呉志 呉主伝 4

【三國志】 卷三 魏志 明帝紀 第三

(景初元年)初權遣使浮海與高句驪通 欲襲遼東

三国志 魏志 明帝紀 1

なお、亶州は 済州島 で あると主張する人も いるが、これは非で あろう
韓伝に登場する州胡が済州島と思われる
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 韓傳

州胡在馬韓之西海中大島上

三国志 魏志 韓伝 1

倭国は以下の記述から見て自国近海の制海権を保有し他国舟船を臨検する権利を実効的に執行していたものと思われるが、流石に東冶の東方沖には及んでいなかったと思われる
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳

自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使詣京都,帶方郡 諸韓國及郡使倭國 皆臨津搜露 傳送文書,賜遺之物詣女王 不得差錯

各種引用したが、亶州に関して再度引用する
【三國志】 卷四十七 吳志 吳主傳 第二

(黃龍)二年(230年) 春 正月 魏作合肥新城
詔立都講祭酒 以教學諸子
遣將軍衞溫,諸葛直將甲士萬人 浮海求夷洲及亶洲 亶洲在海中
長老傳言 秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海 求蓬萊神山及仙藥 止此洲不還 世相承有數萬家其上
人民時有至會𥡴貨布 會𥡴東縣人海行 亦有遭風流移至亶洲
所在絕遠 卒不可得至 但得夷洲數千人還

東冶の東に あるのは沖縄で あり、亶州近海の制海権は呉水軍が有している
当然の事ながら、東冶の東は倭では無く呉の勢力圏なので ある

故に、魏朝が東冶の東を倭で あると認識していたとは考えにくい ので ある

率直に言って、これは何かしら誤脱の文か、若しくは誤写の上の誤写、伝写誤記のかさけ か何かが あったのでは ないか?

思うに、これは書写者に おいて "会稽の東" の想念が "会稽東" "会稽之東" に思いを至らせて "会稽東之東" と記してしまったのでは ないか

以下は一案で あるが、

1) 三国志 原本には "会稽之東" と記述されていた

2) 初期の伝写者は これを "会稽東之東" と衍字えんじが紛れ込んで伝写した

3) その後の伝写者は "会稽東之東" を誤記と見做みなし、"会稽東治之東" と独断で勝手に修訂した

4) 范曄も又上記 2) 若しくは 3) を見て誤記と見做し、"会稽東冶之東" と独断で勝手に修訂した


原本の趣旨は、上記 .1 陳寿の意図は 会稽之東 に ある通り 計其道里当在会稽之東 で あったものと思われる

...と長々と書いているが、実は単に范曄が錯誤しているだけ なのかも知れない
再掲するが、
【後漢書】 卷八十五(一百十五) 列傳卷七十五 東夷傳 倭

會𥡴海外有東鯷人鯷音 達奚反 分爲二十餘國
又有夷洲及澶洲
傳言 秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海事見史記
求蓬萊神仙不得 徐福畏誅不敢還 遂止此洲 丗丗相承有數萬家
人民時至會𥡴市
會𥡴東冶縣人有入海行遭風 流移至澶洲者 所在絕遠 不可往來

これは、以下を念頭に置いている事は思うにかたくないで あろう
【三國志】 卷四十七 吳志 吳主傳 第二

(黃龍)二年(230年) 春 正月 魏作合肥新城
詔立都講祭酒 以教學諸子
遣將軍衞溫,諸葛直將甲士萬人 浮海求夷洲及亶洲 亶洲在海中
長老傳言 秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海 求蓬萊神山及仙藥 止此洲不還 世相承有數萬家其上
人民時有至會𥡴貨布 會𥡴東縣人海行 亦有遭風流移至亶洲者
所在絕遠
卒不可得至 但得夷洲數千人還

呉志では "会稽東県人" と あるものを後漢書では "会稽東冶県人" と書き変えている

会稽東 を 会稽東冶 に改悪した犯人は、誰あろう范曄なのである

魏晋朝では会稽郡に東県なる県名なり地名なりの認識が あったのか、それとも単に会稽郡の東側の県と言う程度の曖昧な地域指定として使用した語なのか、今と なっては判然と しない
しかし范曄は小賢こざかしくも、

i) 会稽郡には東県等と言うものは存在しない (と范曄は認識していた)

ii) 会稽郡にはかつて東冶県と言うものは存在していた事実が ある

iii) ゆえに "會𥡴東縣人" は "會𥡴東冶縣人" の誤記に相違あるまい (と范曄は決め付けた)

iv) 呉志の記述を改悪して(范曄は改正と認識していた) 後漢書に記載した


と言う事では ないか と思われる

そして この改悪は この箇所にとどまらず、他の箇所にも拡大適用が強行されて しまったのかも知れない
つまり、"会稽東" 或いは "会稽東県之東" と記述されている箇所は、一律 "会稽東冶之東" に書き改めるべき、と言う暴挙に及んだのでは ないかと思われる
なお、"其地大較在会稽東県之東" が正しい と すると、会稽郡の東側の県の更に東に倭国が あったと解釈する事も出来る

この暴挙的な認識を元に、計其道里当在会稽東治之東 を 其地大較在会稽東冶之東 と改悪して後世に対して認識の改竄を強要せしめたので あろう


.3 会稽郡治之東


ここで もう一つの私見を披露したい

或いは、会稽治之東 と書かれていたか
当時の会稽郡治は現在の紹興から杭州の辺り で あろうか
紹興から杭州の東と言えば恰度ちょうど九州島に当たるので、この案も良さそうに思う


.4 各字の表音一覧


なお、ここで 治字,冶字,縣字,東字,郡字 の各字表音を掲げて おく
既存の論者は字形の類似から誤記誤写を憶測するが、字音の近似による誤記誤写の可能性も考えられるからである

# 学研新漢和大字典 を参照している
# 片仮名で添えた字音は私の判断による


治,冶,縣,東,郡の表音
字音候補 上古音 中古音 中世音 現代音 拼音ピンイン 呉音 漢音 万葉仮名
- dɪəg(ディァ) ḍɪei(ディェィ) ṭṣʻï(シィ) ṭṣʻï(シィ) zhì(ヂッ) ジ(ヂ) ぢ(古事記:歌謡,万葉集)
- d̩iăg(ディァ) yiă(ィァ) ie(ィェ) ie(ィェ) yĕ(ィェエ) 該当する表音無し
音1-1 ɦuān(ゥアン) ɦuen(ゥェン) hien(ヒェン) s̆ian(シエン) xiàn(シエン) ゲン(グヱン) ケン(クヱン) 該当する表音無し
音1-2 ɦuān(ゥアン) ɦuen(ゥェン) hiuen(ヒゥェン) süan(スァン) xuán(シュァン) ゲン(グヱン) ケン(クヱン) 該当する表音無し
音2 kɔ̃g(コ) keu(ケゥ) kieu(キェゥ) ts̆iau(ツィアゥ) jiāo(ヂィアォ) キョウ(ケウ) キョウ(ケウ) 該当する表音無し
- tuŋ(トュン) tuŋ(トュン) toŋ(トン) tuəŋ(トゥン) dōng(ドォン) ツウ トウ 該当する表音無し
- gɪuən(グゥン) gɪuən(グゥン) kiuən(クゥン) ts̆üən(ツゥン) jùn(ヂィン) グン クン 該当する表音無し

字形を見れば 治字 と 冶字 は良く似ているが、発音を比べると似ているのか似ていないのか微妙な所では ある


.5 他史料の関連記述


三国志 や 後漢書 の記述に不自然さ が感得されるのか、梁書 や 隋書 にも関連する事項の記載が ある
【梁書】 卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳 東夷条 倭

撰者 : 唐朝 姚思廉

倭者自云太伯之後 俗皆文身
去帯方萬二千餘里 大抵在會稽之東 相去絶遠

梁書 倭伝 1

【隋書】 卷八十一 列傳第四十六 東夷傳 俀國

撰者 : 唐朝 魏徴,長孫無忌

古云 去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里 在會𥡴之東 與儋耳相近

隋書 俀国伝 1

どう見ても会稽の東としか読めないので ある

両書とも、三国志や後漢書の記述を誤写衍字として筆削したか、若しくは三国志の原本ないし原書に近い写本を見て その記述を反映させたものと思われる



3. 結論


現時点では論を断ずる事は難しいが、やはり三国志 原本には "計其道里当在会稽之東" 若しくは "計其道里当在会稽東県之東" "計其道里当在会稽郡治之東" と記述されて いたのでは ないかと思われる

これが後に "会稽東治之東" や范曄の "会稽東冶之東" と言う修訂に進んで行ったのでは ないかと疑われる

つまり、魏志倭人伝に ある "会稽東治之東" も 後漢書の "会稽東冶之東" も共に伝写誤記 若しくは原文改竄で あったと言う事に なる



4. 関連 URI


参考と なる URI は以下の通り

三国志 - Wikipedia
後漢書 - Wikipedia
荘子 - Wikipedia
史記 - Wikipedia
梁書 - Wikipedia
隋書 - Wikipedia

公開 : 2014年8月27日
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