1. 倭人は江南や朝鮮半島にも居住していたと する主張
倭人は日本列島に存在し居住していた古代日本人の事で あるが、どうも倭人と言うと一種では無く、中国江南や朝鮮半島等にも存在し、人種民族上も複数種いたと主張する者が おられる
その様な馬鹿な事が あるものか、と思うので あるが、以下を読む限り確かに いるので ある
倭人 - Wikipedia
不思議な事を考える人が いるもので ある
2. 魏晋朝以前に記録される倭人
先(ま)ず、魏晋朝に見られる倭人に ついては日本列島の住人と見做(な)す事に、各人共に異論は無いと思う
然(しか)らば魏晋朝以前、つまり周朝から西漢朝,東漢朝に おいて記録されている倭及び倭人とは いずれに おいて住(じゅう)した者達で あったか、と言う事に なる
史書文献を読む限り、倭および倭人が登場する記録は以下の通りで ある
.1 山海経
【山海經】 卷十二 海內北經 第十二
編者 : 逸失 伯益と伝えられる
註釈 : 西晉(晋)朝 郭璞(はく)
葢國在鉅燕南倭北 倭屬燕
朝鮮在列陽東海北山南 列陽屬燕
倭と朝鮮が並置されている点が興味深い
ある者は言う、ここに ある倭は日本列島の倭では無い、と
では何と言えば良いので あろう、仮に葢(蓋)南倭とでも呼称して おくと しよう
表音は ガイナンワ, カイナンワ, コウナンワ の どれが良いで あろうか
# より正確に言えば、倭字の上古音は ヰ(ゐ) で あるため、ガイナンヰ, カイナンヰ, コウナンヰ と表音すべきで あるのかも知れない
しかし、ここに並べて記されている朝鮮に ついては、誰も複数種ある等(など)と言う者は いない
ならば、朝鮮同様に倭も複数種ある等と言う事は非と するのが妥当では あるまいか
恐らく当時の朝鮮半島の西側 黄海に面した地域が朝鮮と見做され、東側の日本海に面した地域の一部を倭と認識されていたので無いかと思う
ここで注意すべきは、古代は基本的に都市国家と言う概念で捉(とら)えるべきで あり、現代の国境線で線引き された状態の国家と言う概念で把握しては認識を誤(ご)すると言う点で ある
その頃の朝鮮半島 日本海沿岸では倭人の植民都市群が点在し、それ等と雑居若(も)しくは近在する状態で馬韓人や弁辰辰韓人と共存していたものと思う
ただし、当時は未(いま)だ諸韓人は民族として或(ある)いは組織として充分な規模を形成し切れて おらず、それが ために それら よりも(入植)規模が大きかった(と見做されてたので あろう) 倭人の方を場所の特定基準として山海経に収録されたのでは無いかと思われる
この経書に ついては、以下を参照されたい
山海経
.2 論衡
【論衡】 卷第八 儒增篇 第二六
著者 : 東漢朝 王充
周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯艸 食白雉服鬯艸 不能除凶
論衡には他(ほか)にも倭人が登場するが、本考察では割愛する
論衡に ついては、以下を参照されたい
論衡
上記山海経同様、越裳と倭人が並置されているのは大変興味深い
越裳を百越から越南(ヴィェトナム)に かけての地域と捉(とら)える人が多く、それと対比して考えて しまうのか、この倭人を江南に存在していた倭人で あると考えてしまう らしい
これは何と言えば良いので あろう、仮に江南倭人 若しくは江東倭人とでも呼称して おくと しよう
その後 越裳は歴史に登場しなく なって しまうので その後どうなったのか分からないが、少なくとも越裳が複数種いたと主張する者は いない
さすれば、倭人も又 複数種いたと考えるべきでは無いで あろう
越裳に ついては別論にて述べる事と する
.3 漢書
【漢書】 卷二十八 地理志第八下 燕地
撰者 : 東漢朝 班固 班昭 馬続(ばしょく) 等
樂浪海中有倭人 分爲百餘国 以歲時來獻見云
【漢書】 卷二十八 地理志第八下 吳地
會𥡴海外有東鯷人 分爲二十餘國 以歲時來獻見云
漢書に ついては、以下を参照されたい
漢書
記述章節は燕地と呉地で別々に書かれているが、固有部分以外は判で押した
様に共通した文体と なっている事、明瞭で ある
当然と言うべきで あるが、倭人と東鯷人の存在を非常に意識した上で記述されているものと見做す他無く、これも山海経および論衡の倭と倭以外の いずれかとの並置に近いと見て良いで あろう
楽浪海中の倭人と あるので、これは対馬海峡北岸の倭人や九州島の倭人を指すものと見て良いかと思う
間違っても奈良県大和朝廷の事では よも あるまい
何故そう言えるかと言えば、漢書 編纂時点では倭人に関する非常に重要な大事件が起きていたからで ある
何かと言えば、倭人が 東漢朝 光武帝 に奉献して金印を紫綬されたと言う、倭に とっても創業間も無い東漢朝に とっても類を見ない慶事で ある
論衡 の 王充 と 漢書 の 班固 は恐らくは面識が あり、両者の倭人観に相違が あるとは考えにくい
つまり、論衡 の著述と 漢書 の 編纂と倭人の金印紫綬は ほぼ同時代の出来事なので ある
それ故(ゆえ)に、論衡と漢書の両書は相互連関状の関連性を持っていると見て良いと思われる
この後(のち) 東鯷人は後漢書に再録されるまで史書に登場しなく なって しまうので、越裳同様その後どうなったのかは分からないが、少なくとも東鯷人も複数種いたと主張する者は聞いた事が無い
やはり、倭人も又 複数種いたと考える論が正しいとは思えないので ある
となれば、論衡の倭人と漢書の倭人は同一の存在、同じ九州の倭人と考えるのが自然な考え方と言って良いで あろう
東鯷人に ついても、別論にて述べる事と する
越裳は東鯷か
.4 後漢書
【後漢書】 卷八十五(一百十五) 列傳卷七十五 東夷傳 倭傳
撰者 : 南朝劉氏宋朝 范曄
建武中元二年(西暦57年) 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
東漢朝 光武帝から 漢委奴国王 印を紫綬されたと言われる記録で ある
この金印に ついては、以下を参照
漢委奴国王印は奴国に下賜された金印ではない
漢書が基に した史料を再利用したのか、それとも漢書から引いて来たのかは分からないが、漢書同様に東鯷人に関する記載も ある
【後漢書】 卷八十五(一百十五) 列傳卷七十五 東夷傳 倭傳
會𥡴海外有東鯷人鯷音 達奚反 分爲二十餘國
又有夷洲及澶洲
これは 後漢書 倭伝 の後ろの方に あるのか、それとも 後漢書 東鯷人伝 と呼称した方が良いのか、判断が難しい
しかしながら言える事は、少なくとも 范曄 は東鯷人が複数種いたものとは認識して いない と言う事で ある
と言う事は、范曄 は倭も また複数種いたとは考えて いなかったものと思われる
後漢書に おける倭と東鯷人に ついては、以下を参照
後漢書 倭伝 他
3. 郭璞は山海経の倭と魏志倭人伝の倭人を区別していない
上記に掲げた山海経に ついては、実は貴重な証言者が存在している
山海経の箇所で、註釈者と言う行を附記している事を参照されたい
西晋朝の人、郭 璞と言う者で ある
郭 璞は山海経に出て来る倭と魏志倭人伝の倭人とで、歴史の順路に基(もと)づく連続した存在で ある事に、特に
疑念を挿んでは いない
若し倭人が複数種存在すると言う認識を郭 璞が持ち合わせていると したら、山海経の倭の項に
何らかの註釈を施して然るべきで ある
それが無いと言う事は、少なくとも 山海経 に註記を施した郭 璞は、三国志 魏志倭人伝 の倭人、これを今 海東倭と称号しておくが、海東倭と蓋南倭を
同じ対象で あると見做している事、明瞭で あろう
考えても見て欲しい
倭人と言う存在に若し江東倭と海東倭と蓋南倭が それぞれ別の場所に別々に存在していたと したら、
歴代中国王朝は如何に して これ等を区別していたと言うので あろうか
いや、区別し切れまい
区別出来ないので あれば、それぞれの倭人に
異なる名号を附する なり
方位や地名を附記して
混同しない様に していた筈では無かろうか
例えば匈奴は
北匈奴,
南匈奴と区分していたし、沃沮も
北沃沮,
東沃沮と名号を分けていた
越に至っては百越とも呼ばれる程(ほど)に多くの部族,氏族に分かれ、以下の通り それ等を大きく
閩越,南越,東越,東甌と分けて識別していたので ある
【史記】 卷一百六 列傳第四十六 吳王濞列傳
撰 : 西漢朝 司馬 遷
七國之發也 吳王悉其士卒 下令國中曰
寡人年六十二身自將 少子年十四 亦爲士卒先
諸年上與寡人比 下與少子等者皆發
發二十餘萬人 南使閩越,東越 東越亦發兵從
閩越や東越と言った語が登場している
【史記】 卷一百一十三 列傳第五十三 南越列傳
漢十一年 遣陸賈因立佗爲南越王 與剖符通使 和集百越 毋爲南邊患害 與長沙接境
南越や百越と書かれている
【史記】 卷一百一十三 列傳第五十三 南越列傳
佗孫胡爲南越王 此時閩越王郢興兵擊南越邊邑 胡使人上書曰
兩越俱爲藩臣 毋得擅興兵相攻擊 今閩越興兵侵臣 臣不敢興兵 唯天子詔之
両越と あり、文章からは南越と閩越の事で ある様に見えるが、実際には南越と東越を指す らしい
【漢書】 卷二十四下 食貨志第四下
武帝因文,景之畜 忿胡,粵之害師古曰 畜讀曰蓄 卽位數年 嚴助,朱買臣等招徠東甌事兩粵 江,淮之閒蕭然煩費矣師古曰 蕭然猶騷然 勞動之貌
表音上は 粵=越 と なり、両粵 = 両越 と なる
東甌は一見して越とは関係無い様に見えるが、甌越とも呼ばれる越の一種で ある と言う
実質は 東越=東甌 と見做して良い らしい
終末期の東甌は東越の北東か
東甌 - Wikipedia
越の それぞれの位置取りとしては以下の通りと見られている らしい
越の名号と場所
| 名号 |
場所 |
| 東越(東甌) |
浙江省温州市 |
| 閩越 |
福建省 |
| 南越 |
嶺南(≒広東省,広西) |
| 越裳 |
交趾(ヴィェトナム北部 紅河中下流域) |
越裳を ここに加えるべきでは無いとは思うので あるが、それにしても越に関する名号は場所毎に区分されている事が分かる
然るに倭人のみ何処(どこ)に いても倭人と称していたと言う事が、有り得るで あろうか
物事を自然に考えるならば、倭人は
周朝の頃より代々日本列島の住人のみを指し、倭人が複数種存在していた等(など)と考えるのは理に適(かな)わぬ不可解な物言い なので ある
公開 : 2015年3月22日