1. 修正古田説と称される論説
修正古田説と言われるものが ある
例えば、以下の
様な もので あろうか
【邪馬台国の数学と歴史学―九章算術の語法で書かれていた倭人伝行路記事】
著者 : 半沢 英一
半沢 英一説は頷ける箇所も多いので あるが、反面首を
傾げざるを得ない箇所も、幾つか ある様に見受けられる
と言う
訳で、半沢説を読み進めると共に半沢説の疑問点を考えたいと思う
2. 半沢説に おける各国行程と所在
それでは半沢説に おける 三国志 魏志倭人伝 の行程記事の読解を引用して行く
引用箇所が 倭人伝 の どの部分の読解で あるかと示すために、上記著書からの引用文箇所の後ろに 倭人伝 原文を添える事と する
なお、魏志倭人伝 の全原文は、以下の通りで ある
正しい魏志倭人伝
【邪馬台国の数学と歴史学―九章算術の語法で書かれていた倭人伝行路記事】 P.22
冒頭❶の「帯方」、❷の「郡」は、建安年間(一九六~二二〇)に公孫氏が朝鮮半島北部に設置し、公孫氏滅亡後に魏が踏襲した地方官庁「帯方郡治」の事です。
その所在地についてはかつてはソウル近辺と、黄海道(現朝鮮民主主義人民共和国領)沙里院近くの智塔里土城という二説が唱えられていました。
しかしソウル近辺にある遺跡は百済のものと思われる他、智塔里土城の近くには帯方太守の墓があるなど、今では智塔里土城を帯方郡とする見方が通説化しつつあります。
私もその見方が正しいと思います。
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳
撰者 : 西晉(晋)朝 陳壽(寿)
倭人在帶方東南大海之中 依山㠀爲國邑 舊百餘國
帯方郡を 黄海北道 鳳山郡 石城里 智塔里土城 で あると する この見解は正しいと思う
抑々私は三韓の一 馬韓を朝鮮半島東南部と考えているので、三世紀の韓国 京城附近には、諸韓国の
極一部の国しか無く、未だ
鄙びた無人に近い状態では無かったかと考えている
極一部の国とは、具体的には伯済国の様な国で あったかと思う
これに ついては、以下で触れている
三韓の一 馬韓の地は何処で あったか
つまり、京城は帯方郡では無い可能性が高い
なお、韓地の弁韓,弁辰も全て朝鮮半島東南部に存在していた筈で、そうなると韓国西岸域には多少の村落,聚落程度は あったかとは思うが、国と言える状態の国家群は無かったのでは無いかと思う
現在の韓国の人口状況を見ても分かるが、韓国西南沿岸は人口密度が少なく、過疎地と までは言わないが、人口が多くない地域で ある
【邪馬台国の数学と歴史学―九章算術の語法で書かれていた倭人伝行路記事】 P.74
第一に確認されなければならないのは、もし韓国内を陸行しなければ通らねばならなかった朝鮮半島西南岸は、地図を見ればお分かりのように小島嶼が非常に多く海岸線も入り組み干満の差が激しい、航海の難所だったということです。
例えば一八一六年に問題の海域を調査したイギリス海軍士官はそれを次のように表現しています(ベイジル・ホール著、春名徹訳『朝鮮・琉球航海記』)。
この沿岸一体について我々がもちあわせている海図は、義理にも正確とはいいがたいものであった。
測量の結果、誤差六〇マイル〔一〇〇キロ〕以内に示されていた島はない。
また地図の上では、わずか数個の島が記されているにすぎないが、実際には本土から一五ないし二〇リーグ〔七〇~一〇〇キロ〕の海域は二〇〇マイル〔三二〇キロ〕近くにわたって、島々でびっしりとおおわれているのである。
このような海図の不正確さは、この海域を航海する興味をかきたてるものではあったが、他方で航海はつねに不確実であり、しばしば危険をともなった。
新鮮なすばらしい光景をみることによって得られる満足は、必然的に、少なからぬ不安とないまぜになっていたのである。
我々は夜間には必ず投錨した。
また潮流がきわめて早く、艦の進行を妨げるときにも錨をおろした。
このような状況のもとでは、慎重な態度が絶対に必要だったのである。
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳
從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
半沢説では韓地 陸行を採っているが、私も同意する
これに ついては別途以下で述べている通りで ある
韓国セウォル号沈没 それでも韓地水行と言い張るのか
ついでに書いておくと、隋書 俀国伝 の行路記事には済州島の記述が ある
【隋書】 卷八十一 列傳 第四十六 東夷傳 俀國傳
撰者 : 唐朝 魏徴 等
度百濟 行至竹㠀 南望𨈭羅國 經都斯麻國 迥在大海中
隋書 の原文は、以下を参照されたい
隋書 俀国伝
隋の都城は長安で あるが、長安から山東半島辺りまでは陸路で移動したと思われるが、或いは水路で黄河口に出て、
其処から山東半島 沿岸を東に向かったのかも知れない
その後、百済に渡(度=渡)る と あるので、山東半島 沖から黄海を渡って百済に入国したので あろう
場所は
牙山湾 か或いは錦江が黄海に流れる
群山 か、それとも
万頃 等の百済沿岸の
何処かと思われるが、恐らくは その辺り に入港したものと思われる
ここで言う錦江とは、後に 白村江の戦い が行われる 白江 の事で ある らしい
また、万頃と言う地名は通常は バンケイ と表音されるが、これは
一碧万頃 から来ているので あろうが、私は マンケイ でも良いと思う
百済での停泊港を出港後 針路を西に取り、一旦陸地から大きく離れてから一転して南に方向を変え、竹島 に向かったものと思われる
ここで何故 竹島 が出て来るかと言えば、
隋使は韓国西岸を海岸陸地沿いに航行したのでは無いからで ある
良く魏志倭人伝の行路記事や遣隋使,遣唐使の航海路と称し、
根拠の無い机上の空論に よる適当な針路が書かれた地図を見る事が あるが、その地図に針路を書き込んだ者は
韓国のリアス式海岸に おける航海の難しさと言うものを、少しも考えた事が無いので あろう
時には教科書に すら、"地図の上にコンパスを走らせて適当に線を
繋ぎました" 程度の杜撰な海図が
載っている事も ある
こう言うのを見ると、日本の歴史学者と言のは
机上のみで実地を知らず、本当に嘘八百を並べ立てるもので あると、感心して しまう
当然の事で あるが、隋使は安全に航海するためには
リアス式海岸から離れて航海した方が得策で あると言う正常な判断力を持ち合わせて いた筈なので、百済停泊港から黄海に出た後は韓国西岸から大きく距離を
措いて西に進み、その後南下に転じて済州島を目指したので あろう
この黄海から済州島へ向かう途中に竹島が位置しているので、其処で一旦竹島に上陸したものと思われる
いや、上陸したか どうかは分からないが、"行きて竹島に至る" と あるので、到達したので あろう
因みに𨈭羅国には望んだと あるのみで至ったとは書かれて いないので、済州島は
実見しているものの上陸は行っていない ものと考えられる
さて再度三国時代に話を転じるが、魏使が倭国に至った際に採った行路を
顧みるに、倭人伝の行路記事には
済州島を経由した記載が無いので ある
三国時代の船は隋代よりも頑丈で あったとは思えないので、恐らく魏使は隋代よりも航海の危険性が高かったものと思われる事、想像するに
難く無い
その魏使が、
敢えて危険な韓国リアス式海岸を陸地沿いに航海しようと思うで あろうか? いや思うまい
ならば、当然魏使も韓地を航行すると なれば韓国沿岸から距離を取ってから南に済州島を目指すで あろう
さて、こう言うと、三国時代は済州島の存在を把握して いなかったのでは無いか、と考える者が いるかも知れないが、その様な事は無い
済州島を知りつつも、韓地を航行していないので、倭人伝の行路記事には済州島が
現われないので ある
長く書いて しまったが、この辺で続きに戻る
【邪馬台国の数学と歴史学―九章算術の語法で書かれていた倭人伝行路記事】 P.105
つまり「末盧国」は松浦郡、「伊都国」は糸島郡という通説はほとんど誰にも疑われなかった比定であるにもかかわらず(管見では疑ったのは私の他には坂田隆氏くらいでしょうか)、特に強い根拠を持っているわけではないのです。
そして私はこの通説を明らかな間違いと思っています。
何故なら第
節[註1]②で述べたように糸島郡(前原)は松浦郡(唐津)の東北にあり、行路記事の「東南陸行五百里」に矛盾するからです。
さらにそして第
節[註1]で詳しく述べたとおり、この「東南」という文言は、九州上陸後南下したという他の行路記事とも整合しているので、誤記・誤植とは思いがたいからです。
今でも文献史学、考古学を問わず倭人伝を論じる多くの専門家が、「末盧国」は松浦郡、「伊都国」は糸島郡という通説を疑わないばかりか、それに根拠に倭人伝の方向記事はおかしいと断言しています。
しかし原文の方向記述を根拠に通説は間違いとする私の主張と、地名の類似を根拠に原文の方向記述を間違いとする通説の、どちらに論理性があるのでしょうか。
註1:
著書の版下を Macintosh か Windows の上で動作する組版用アプリケーションかワードプロセッサ用ソフトで執筆しているものと思われるが、色々と余計な文字装飾を行って くれるので、困りもので ある
要するに これは第35節の 2 と言う事で あるが、出来れば丸付き数字も表記したく無いと思う所では ある
前掲同書 35節では、末盧国が唐津で伊都国が前原で あると すると方位は東南では無く東北で あるので矛盾している、と主張している
【邪馬台国の数学と歴史学―九章算術の語法で書かれていた倭人伝行路記事】 P.107
まず魏使は博多湾岸に上陸しました。
そこには朝鮮半島との交流の痕跡濃厚な邪馬台国と同時代の西新町遺跡があり、末盧国の第一候補になると思います。
行路記事❺で「末盧国」は「山海に浜うて居る」とされていますが、博多湾岸は東が三郡山地、西は背振山地に挟まれた地形にあり、その表現に合います。
そうだとすると魏使は西新町遺跡の海岸部にあたる百道浜付近(写真13)[註2]に上陸したと思われます。
註2:
ページ中に写真が掲載されている
見出しには "写真13 百道浜と福岡タワー" 等と記載されているので あるが、この写真の情景には海と思われる水面は見えるが山は全見えない
この箇所を見るに、半沢説は
絶対に肯んじ得ぬ主張で あるものと
判じざるを得ない
これに対応する倭人伝の原文は、以下の通りで ある
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳
又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沈沒取之
私が この漢文を読んだ際に、先ずは海岸線の
直ぐ近く山々が接近している地形を思い浮かべたので あり、そして次に
山裾の海抜が低くなった場所に小さな聚落が
犇めく様に点在させている情景を思い
描いたもので ある
しかし 半沢氏 は言う、
末盧国は西新町遺跡で ある、と
いやいや、私には到底 "浜山海居 草木茂盛 行不見前人" と言う記述の実情に合わない様に思えるので あるが、
如何で あろうか
この西新町遺跡の場所は、以下の通りで ある
西新町遺跡 住所
福岡県 福岡市 早良区 西新6-1-10
何と、福岡県立 修猷館高校 と言う学校の工事で発見された遺跡なのだ そうで ある
この遺跡に ついては、
博物館もよりの砂丘遺跡-西新町・藤崎遺跡-| アーカイブズ | 福岡市博物館
弥生時代といえば、稲作農耕文化のイメージですが、西新町・藤崎遺跡群は農耕不適地に立地しており、出土遺物などからも、漁村的な遺跡であったと考えられます。
また、中国や朝鮮半島など遠隔地からもたらされた遺物も多く出土することから、漁撈とともに海を介した対外交易などをも担った集団が暮らした遺跡と考えられます。
そうそう、そう なのだ
ここは漁村で あって、山海地では無いので ある
三世紀当時の博多湾岸は、林野広がる地で あったので あろうか
倭人伝原文から読み取れる情景は、山道もしくは獣道程度の道ならぬ道を踏破する様子で あろう
西新町遺跡は博多湾岸に近い平野地帯で、少し歩けば山地帯も存在するのでは あるが、敢えて
態々歩きにくい所を歩く理由も あるまい
ここで改めて上での註記に触れて おくが、実は
掲示されている写真と上記引用文との整合性が取れて いない ので ある
一体 半沢氏 は何を考えて いるので あろうか、私には全く以て理解に苦しむ
さて、九州北部で この原文に該当する地形と情景は、何処で あろうか?
答えは簡単明瞭、佐賀県 唐津市の
呼子から唐津に至る一帯で ある
末盧国は、もう ここしか無いのでは と思う
呼子から唐津に至るまでの、聚落と聚落の間には
険しい山地や丘陵が通行を
遮って おり、隣の聚落に向かう際には それこそ本当に山の中の獣道を強行軍で踏破しなければ ならかなかったので あろう
隊列を組んで行進するも、前の人の姿が見えないと言うのは
仲々に過酷な進行状況で あるが、東松浦半島で あれば その情景描写も道理で あると、納得し得る
ここまで振り返って見ると、今までは 半沢氏 の主張は非常に明解で道理に
適っているものと判定して良いと思うが、どうも末盧国を博多湾岸に持って行こうと している所で、あちこちに齟齬が生じている様に見受けられる
こう言っては何で あるが、古田説から脱却するために何とか古田説との差別化を図ろうとし、其処で大きく足
許を
掬われて しまっている様に見えてしまうので あるが、これは私の気のせい で あろうか
まぁ、何故 半沢氏 が強引なまでに末盧国 博多湾岸 説を強弁せんと欲するのかは定かでは無いが、しかし論説としての是非は明らかに して おかねば なるまい
末盧国を博多湾岸と すると山地に恵まれぬ事と なり、これでは倭人伝に見る行路行進の記述とは
適わない
となれば やはり 半沢説は誤りと見做す他無く、そして末盧国は従来説での呼子から唐津に至る一帯が候補地として妥当で ある
なお、古田説では博多湾岸は不弥国で あると主張されているが、私も これに同意する
これに ついては、以下を参照して欲しい
不弥国は宇美か
末盧国の次は伊都国で あるが、これも倭人伝の記述と噛み合っているか と言うと、仲々に厳しい ものが ある
【邪馬台国の数学と歴史学―九章算術の語法で書かれていた倭人伝行路記事】 P.108
次にそこから三〇数キロ太宰府地峡を南下すれば小郡に至ります。
つまり伊都国は小郡付近にあったはずです。
小郡は律令国家の時代に郡役所のあったところですが、ある意味でそれは伊都国の後進だったかもしれません。
伊都国に ついての主張は、
たった これだけで ある
通説では伊都国は福岡県 糸島市に比定されるが、それを排して伊都国は小郡で あるとの自説を主張しているので あるから、もう少し その
根拠なり説明なりを書き述べて貰いたい もので ある
今までの著書に見る主張の度合から すれば非常に素っ気無く、簡潔に過ぎる感が ある事は、誰にも
否めないで あろう
何故伊都国に この程度の論説しか
割けなかったのか、私には
窺うべくも無いが、恐らくは 半沢氏 も この自説には
自信を持てなかったので あろう
人間誰しも、自信が ある主張は長々と堂々と行うもので あるが、自信が無いので あれば
可能な限り短く触れて終わりに したいと思うもので あろう
と言う訳で、この主張に対応する倭人伝の原文は以下の通りで ある
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳
東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰𣳘謨觚,柄渠觚 有千餘戸 世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐
伊都国は "郡使往来常所駐" と言う、魏朝に とっても倭国内部に とっても
非常に特殊で特別な地域で ある事が、特記されている
この地には王が いて行政官が
正官 が
一役 に副官が
二役 と言う、他の倭国内分国には見られない
国体 と なっている様子が記録されている
失礼だが、小郡市 程度の所に
魏朝の郡使が敢えて この地に留まる理由が、私には全く分からない
しかも、伊都国は代々 王が いたと言う地で あるため、
相応の王墓や遺跡が存在して然るべきで あろう
通説の糸島市は豪華絢爛たる遺跡が確認されて いるが、これに匹敵するものが 小郡市 にも出土して いないと、伊都国=糸島市説に比べて大きく見劣りして しまう様に
映って しまうのは、誰にも禁じ
得まい
伊都国に関する記述は、実は行路行程文以外にも以下の ものが ある事が分かる
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳
自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使詣京都,帶方郡 諸韓國及郡使倭國 皆臨津搜露 傳送文書,賜遺之物詣女王 不得差錯
伊都国は、一大率が駐屯する場所でも ある
私は以前、一大率は水軍で あり、対馬海峡の制海権を完全に掌握していたもの と考えるに至った
この軍組織は必要に応じて海上監視と臨検を行って いたが、普段は 伊都国 沿岸の 船越湾
若しくは 引津湾 に停泊させて いたで あろう と する論を、以下の通り示して いる
伊都国の一大率は水軍
倭人伝の記述から見るに、やはり
伊都国は海岸国で あると しか思えないので ある
もし伊都国が 半沢氏 の
説かれる通り 小郡市 で あると すると、この様な内陸地では一大率が "皆臨津搜露" を行う事は、絶対に不可能で あろう
と言うのも、女王国以北の海北諸国を一大率の統制に服せしめるには、絶対に水上に配した軍事力が必須なので ある
こう言う事は、現代の平和に
馴れた、平和
惚けした日本人には解しにくい やも知れないが、対馬海峡は交易の場所で ある
そして交易特に密貿易と言うものは、莫大な利潤を
齎すもの なので ある
以下に見る通り、倭人伝には 南北市糴 が行われていると記述されている
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳
始度一海千餘里 至對海國 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 所居絶島 方可四百餘里 土地山險 多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田 食海物自活 乘船南北市糴
海北各国が私通貿易を行わない様に一大率が厳重に監視しているので あるが、この一大率の監視船舶が文官のみしか乗船していないので あれば、各国密交易船は舐めて かかって威令には従わぬで あろう
古来より室町時代に至るまで九州北部は朝鮮半島との交易の場で あり続けたが、これを押え付けるためには、
何時いつの世にも強力な水軍が不可欠で あった
軍事に
疎い歴史学者は
往々に して こう言う基本的な事実を無視して しまう傾向が あるが、もう少し現実に目を向けるべきで あろう
と言う訳で、海北諸国を
畏憚 せしめるためには、伊都国は強力な水軍を保持して いなければ ならない事に なる
水軍を持つと言う事は、伊都国が海岸に
浜した国家で あると言う事を意味する
つまり、半沢氏 の言う 伊都国=小郡 説は
どう考えても無理が ある としか言い様が無いので ある
【邪馬台国の数学と歴史学―九章算術の語法で書かれていた倭人伝行路記事】 P.108
そこから東に七~八キロメートル行ったところが不弥国のはずです。
この付近では小石原川という川が南に流れ(写真14)、筑後川に合流しています(写真15)。
小石原側[註3]の上流には江川ダムがあり、古代の水量はもっと多かったはずで、第
節行路記事❾に書かれた傍線行程「南至投馬国水行二十日」は小石原川を下ることから始まったと思われます。
註3:
原文ママ 恐らくは小石原川の誤記か
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳
東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家
不弥国は 小石原川 流域の福田台地の北 と言う事らしい
しかし、これは不弥国への行路の起点と なる地で ある伊都国の比定地が
揺らいで しまうと、もう意味を なさなく なる事、自明で ある
同様に、
【邪馬台国の数学と歴史学―九章算術の語法で書かれていた倭人伝行路記事】 P.118
まず第
節行路記事❼に現れる「奴国」ですが、これは現在の小郡市から太刀洗町のあたりにあったと思われます。
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳
東南至奴國百里 官曰兕馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸
奴国の比定地も、伊都国の比定地と依存関係に ある
【邪馬台国の数学と歴史学―九章算術の語法で書かれていた倭人伝行路記事】 P.118
次に行路記事の第
節行路記事❾の投馬国ですが、南九州の大勢力だったと思われます。
同時期の南九州には免田式と呼ばれる土器(写真20)が広範に分布しており、私はこの免田式土器分布圏が投馬国に対応していると思っています。
人吉盆地が分布の一つの中心地なのでそこが投馬国の中心とすると、「南至投馬国水行二十日」とは小石原川から筑後川に入り、有明海に出て九州西岸を南下し、球磨川を人吉盆地まで遡上するルートだったのかも知れません。
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳
南至投馬國水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸
私は この主張に ついては、特に強い異議を
挿む つもりは無い
ただ、人吉盆地は球磨(熊襲) で狗奴国かも知れない
その場合、投馬国は薩摩(鹿児島) と なろうか
【邪馬台国の数学と歴史学―九章算術の語法で書かれていた倭人伝行路記事】 P.106
魏使は壱岐から「千余里」(短里で七〇数キロ)で九州に上陸し、山越えなど苦労した様子もなく「東南陸行五百里」(短里で三〇数キロ)し、そこから「東行至不弥国百里」(短里で七キロ強)で邪馬台国に到着しています。
それに当てはまる行路は、壱岐から直接博多湾岸に上陸し、太宰府を抜け筑後平野に出て、そこから東に向かうルートしかないからです。
そう考えると、邪馬台国は現在の朝倉市西部(旧甘木市)付近にあったことになるのです。
【邪馬台国の数学と歴史学―九章算術の語法で書かれていた倭人伝行路記事】 P.106
こうして邪馬台国本体は福田台地から北にあったかと思われますが、どの付近にあったのでしょうか。
まず本節で述べたとおり「南至投馬国水行二十日」は小石原川から出発したと考えざるをえませんから、不弥国は小石原川沿いにあった事になります。
一方、第
節行路記事❿によれば邪馬台国は不弥国の南にあったことになります。
小石原川は筑紫山地から下って福田台地の北をとおりその西を南下しています。
したがって不弥国は小石原川が福田台地の北を流れている場所にあり、邪馬台国はその南にあったことになります。
こうして邪馬台国は現朝倉市中心部,旧甘木市にあったと思われるのです。
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸
色々と述べられて ご苦労さん と言う感じでは あるが、女王国は七万戸と言う大国なので、一つの市で収まるとは思えない
私は、旧甘木市も女王国に含まれる領域では あると思う
3. 半沢 説は正誤それぞれ あり
半沢 説は正しい箇所も大いに あると思うが、幾つかの箇所に おいて、間違いが ある様に思われる
具体的には、
末盧国=博多湾岸 および
伊都国=小郡 と言う箇所が致命的に
魏志倭人伝の記述に合わないので、半沢 説は成立しないものと思われる
4. 関連 URI
参考と なる URI は以下の通り
半沢英一 - Wikipedia
公開 : 2015年2月11日