三韓の一 馬韓の地は何処どこで あったか

1. 馬韓は黄海沿岸部を含む朝鮮半島西南部に あったのか


韓国と言う国は、人口が内陸部に多い様で ある
東西南と三方を海に囲まれて おり、沿海部の方が人口が密集して良さそうに思うが、日本とは少し事情が異なる様で ある

勿論これは現代の事で あるが、民族性と言うのは一朝一夕では早々変わるものでは あるまい
思うに、この傾向は古代の朝鮮半島に おいても同様で あったのでは ないか?

何故この(よう)な事を書き始めたかと言えば、古代三世紀の馬韓も又、内陸に あったのでは ないかと考えたからで ある



2. 考察


.1 州胡


我々現代人は、馬韓の後の百済が朝鮮半島西南部に位置していた事を知っている
そして、現代韓国の首都が漢城(ソウル)で ある事も知っている
となると、先入観として馬韓は漢城を中心とした地域で あると考えてしまう

これは大した陥穽(かんせい)と言う(ほか)無いが、実は三国志には馬韓が内陸地に あった事を示唆する記述が あるので ある
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 韓傳

撰者 : 西晉(晋)朝 陳壽(寿)

又有州胡 在馬韓之西海中大島上
其人差短小 言語不與韓同 皆髡頭如鮮卑 但衣韋 好養牛及豬
其衣有上無下 略如裸勢
乘船往來 市買韓中

州胡とは済州島の事で あろうが、済州島は馬韓の西の海の中に ある大きな島に あると書かれている
しかしながら、漢城から見て済州島は南に位置して おり、馬韓が漢城附近に あったので あれば、少々方角が違う様に思えて しまう

一体これは どう言う事で あろうか


.2 馬韓の地は どこか


馬韓の地は、韓国内の京畿道, 忠清北道, 忠清南道と考えられている様で ある
しかし、抑々(そもそも) この地域比定が誤っているのでは ないのか

現状では、韓伝の方位が誤記なのか、それとも現代の比定地が正しいものでは ないのか、分からない

しかし ながら、後代の史料では済州島と百済の位置関係を把握している事が分かる
【隋書】 列傳第四十六 東夷 百濟傳

撰者 : 唐朝 魏 徴, 長孫 無忌 等

其南 海行三月有耽牟羅國
南北千餘里 東西数百里
土多獐鹿 附庸於百濟

ここで言う 耽牟羅国 が済州島の事で ある
ここでは明確に、済州島は百済の南、と方位位置を指定している


.3 慕韓


ここで別の史料を牽(ひ)く
倭の五王 で有名な、宋書 で ある
【宋書】 卷九十七 列傳第五十七 夷蠻傳 倭國傳

撰者 : 南齊朝-梁朝 沈約

倭國在高驪東南大海中 世修貢職
高祖永初二年(421年) 詔曰

倭讃萬里修貢 遠誠宜甄 可賜除授

太祖元嘉二年(425年) 讃又遣司馬曹達 奉表獻方物
讃死弟珍立 遣使貢獻
自稱使持節 都督倭,百濟,新羅,任那,秦韓,慕韓六國諸軍事 安東大將軍 倭國王 表求除正
詔除安東將軍,倭國王
珍又求除正倭隋等十三人平西,征虜,冠軍,輔國將軍號
詔竝聽
(元嘉)二十年(443年) 倭國王濟遣使奉獻 復以爲安東將軍,倭國王
(元嘉)二十八年(451年) 加使持節 都督倭,新羅,任那,加羅,秦韓,慕韓六國諸軍事 安東將軍如故 并除所上二十三人軍郡
濟死世子興遣使貢獻
世祖大明六年(462年) 詔曰

倭王世子興 奕世載忠 作藩外海 稟化寧境 恭修貢職 新嗣邊業 宜授爵號可安東將軍,倭國王

興死弟武立
自稱使持節 都督倭,百濟,新羅,任那,加羅,秦韓,慕韓七國諸軍事 安東大將軍 倭國王
順帝昇明二年(478年) 遣使上表曰

封國偏遠 作藩于外 自昔祖禰躬擐甲冑 跋渉山川 不遑寧處
東征毛人五十五國 西服衆夷六十六國 渡平海北九十五國 王道融泰 廓土遐畿 累葉朝宗 不愆于歳
臣雖下愚 忝胤先緒 驅率所統 歸崇天極 道逕百濟 裝治船舫
而句驪無道 圖欲見呑 掠抄邊隷 虔劉不已 毎致稽滯 以失良風 雖曰進路 或通或不
臣亡考濟 實忿寇讎 壅塞天路 控弦百萬 義聲感激 方欲大擧 奄喪父兄 使垂成之功 不獲一簣 居在諒闇 不動兵甲 是以偃息未捷
至今欲練甲治兵 申父兄之志 義士虎賁 文武效功 白刃交前 亦所不顧
若以帝徳覆載 摧此彊敵 克靖方難 無替前功 竊自假開府義同三司 其餘咸假授 以勸忠節

詔除武使持節 都督倭,新羅,任那,加羅,秦韓,慕韓六國諸軍事 安東大將軍 倭王

ここで注目すべきは 慕韓 の号で ある

現在の定説では、ここに出て来る慕韓の語は百済との重複で実体は無く、形名(けいめい)上仰々(ぎょうぎょう)しく文字を並べたに過ぎないと言う

いやいや、その様な事を本気で考えて しまっていると言うのは、正直に言って どうかして しまっている
その様に奇妙な考えを せずとも、合理的且(か)つ道理に適(かな)った考え方を採れば、綺麗に整合が付くで あろうに

上記に 倭,新羅,任那,加羅,秦韓,慕韓 と並べて記述されて あり、倭,新羅,任那,加羅 の各地各国は実在している
ならば、これは慕韓が実体ある地で あったと考えれば良いので ある


.4 道理に適った考察


三国志 韓伝 の記述から見れば、馬韓は済州島の東と なる
ここで真東と解して しまうと海中に没して しまうので、少し軌道修正を行う
この方位は四方位で言う所の東、八方位で あれば東から北東に範囲に収まる地に位置していたので あろう

上記で指す馬韓の地は国治、つまり国都の方角で あろうと思われる
馬韓の中心地は済州島の北東の内陸地に あったと言う事に なる
恐らくは、洛東江の流域辺(あた)りが妥当か

となると、馬韓の地は洛東江流域から京畿道, 忠清北道, 忠清南道に広がる地域で あったと考えれば良い事に なる

この馬韓の内、黄海に面した西北側を後の百済が占有し、残り東南の地を倭国が制圧して これを慕韓と称したのでは ないか

同様に、残りの三韓 辰韓 に同じ事が言える
つまり、辰韓の北部が後に新羅に併呑され、残りの南部を倭国が占領して秦韓と称したものと考えれば、諸事上手く片付く事に なるで あろう



3. 残る課題


実は上記考察が正しいと なると、三韓各国の比定地が大きく変動してしまう事に なる
勿論、比定地と言うのは所詮比定地に過ぎないので、確定地と考える必要等更々無い

私見として、洛東江の西側が馬韓、東側が辰韓、洛東江下流域が弁韓で あろうと考えている
そして洛東江の南東域は、辰韓弁韓が雑居混在する地域では なかったかと思う



4. 関連 URI


参考と なる URI は以下の通り

馬韓 - Wikipedia
百済 - Wikipedia
州胡 - Wikipedia
耽羅 - Wikipedia

公開 : 2014年6月20日
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