伊都国の一大率は水軍

1. 歴史研究家は軍事に通ずるべし


二十年以上前で あろうか、と ある古代史の Web投稿サイトに、伊都国の一大率は水軍で あろう と言う投稿を行った事が ある

このあたりに ついて、今少し論を進めたい

尚、古代日本史の歴史学を専攻する大学のエライ センセイ達は軍事に絡めて論じる事が少ないと言うか、苦手のようで ある
社会的に偉くなると、知識見解が乏しい事を他人に知られたく無いと言う意識にらわれて しまうので あろうか

私は思うに、歴史と軍事は不可分で あり、古代史研究を行う者は もっと軍事や戦闘に関する知見を身に付けるべきで ある と考えている

余談にれた



2. 倭人伝に表れる沿海国


魏志倭人伝に おいて沿海国で ある事が読み取れる国は、以下の もの がある

正しい魏志倭人伝
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳

撰者 : 西晉(晋)朝 陳壽(寿)

從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里

度一海千餘里 至對海國 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 所居絶島 方可四百餘里 土地山險 多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田 食海物自活 乘船南北市糴

又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴

渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沈沒取之

東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家

南至投馬國水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸

これの行路行程文に より、以下の各国は沿海国で ある事が分かる

a) 狗邪韓国
b) 対海国
c) 一大国
d) 末盧国
e) 不弥国
f) 投馬国


不弥国は何故か 宇美 と解される事が多く、沿海国では無いととらえられちで あるが、以下で不弥国は宇美では無く海岸沿いの博多港附近で ある事を示した

不弥国は宇美か

沿海国は これで全部で あろうか?

いや、もう一つ、伊都国 が ある



3. 伊都国は沿海国


倭人伝の行路文からは伊都国が沿海国で あるとは読み取れないが、伊都国に関する以下の記述は非常に注目に値する
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳

自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使詣京都,帶方郡 諸韓國及郡使倭國 皆臨津搜露 傳送文書,賜遺之物詣女王 不得差錯

刺史 は本来 軍権を持ち合わせては いなかった筈で あるが、東漢朝 黄巾の乱 以降は 兵馬の権 を持ち合わせていない監察官など何の意味も無くなって しまい、敢えて兵権を付与される様に なった
それと比較すると、確かに 一大率 は支那で言う刺史に近いのかも知れない

この文面からは、

1) 伊都国に常駐する一大率から更に武官か役人が各国の港津こうしんに派遣され、各国の港津で臨検したのか

2) 一大率の置かれた伊都国の港津に、使者が必ず出向いて伊都国で臨検を受けたのか


の どちらで あるかは判別しがたいものが ある

しかしいずれに せよ言える事は、一大率は対馬海峡の制海権を完全に掌握して おり、海上監視と臨検を行う権利を有し これを執行していたと言う事で ある
となれば、やはり伊都国は沿海国で あると言う事で あり、つ一大率は水軍で無ければ ならない事に なる



4. 一大率は何処どこに駐留していたのか


では具体的に、一大率は何処に駐留していたのか

ここから先は特に根拠が あるわけでは無く、私個人の軍事的な見識から立てた試案で ある
私の軍略眼が冴えて いる事を期待しよう

伊都国が存在したと思われる糸島半島から唐津湾や玄海灘を監視すると なると、やはり最上の地は糸島半島に おいて最も高い山、可也山かやさん(標高365m) で あろう

私ならば必ず この可也山に監視所をもうけ、ここから海を見下ろして監視を行う
と なると一大率は加也山の山麓に駐留させるのが最善と なる

そして一大率は水軍で ある事を考慮すると、海流の影響が少ない湾内に兵船を停泊させる事に なろう
軍船 停泊地の候補としては、船越湾 しくは 引津湾 が挙げられる
もって この辺りで あろう

以下は Yahoo!地図 を基に少し書き込みを行ったもので ある

一大率 駐留地
一大率 駐留地



5. 関連 URI


参考と なる URI は以下の通り

刺史 - Wikipedia
可也山 - Wikipedia

公開 : 2014年9月15日
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