1. 隋書内に おける異色の列伝
隋書 には日本に関する異色の列伝が ある
私は これを 俀国伝 と解(かい)しているが、倭国伝 の異体字で あると見做(みな)すのが現時点に おける一般的な理解の
様では ある
今、本論に おいて その是非を述べる つもりは無いが、俀国伝 中に ある文字量と情報量は素晴らしく、三国志 魏志倭人伝 に次(つ)ぐ程(ほど)に重要な価値が あると思う
記録が残っていないだけ なのかも知れないが、中国王朝の国使が日本に来朝したのは 卑弥呼,壱与 が在世していた魏朝の時以来の出来事で あろうと思われる
尤(もっと)も、何故か 魏志倭人伝 に比べると史料として取り上げられる事が少ない様に見えるが、或(ある)いは 隋書 俀国伝 を充分に読解されると少々都合が悪い人達が いて、故意に遠避(とおざ)けられている史書なのかも知れないと思う事も ある
なお、以下の著書では女王国所在地論争の決着は 魏志倭人伝 では付かず、これを 隋書 俀国伝 に求めるべし と主張されている
『隋書俀国伝』の証明
著者 : 矢治 一俊
Amazon.co.jp: 『隋書俀国伝』の証明―邪馬壱国へのもう一つの行路の発見:
成程(なるほど)、道理に適(かな)う趣意で あると思った次第で ある
2. 俀国記述と行路記載
本論では 俀国伝 に おける歴史,地理描写の記述と行路記事のみを考察対象と する
隋書 の原文は以下を参照されたい
隋書 俀国伝
【隋書】 卷八十一 列傳 第四十六 東夷傳 俀國傳
撰者 : 唐朝 魏徴 等
俀國在百濟,新羅東南 水陸三千里 於大海之中 依山島而居
魏時 譯通中國三十餘國 皆自稱王
この魏朝は曹魏の事で あろうから、俀国 の歴史を 卑弥呼 時代に遡(さかのぼ)って記述している事に なる
夷人不知里數 但計以日 其國境東西五月行 南北三月行 各至於海
南北よりも東西に広い地理と なっている らしい事が分かる
ただし、隋書では南の 琉球(流求) と 俀国 を別に伝を立てているので、或(ある)いは 夷邪久国 辺(あた)りを両国の国境と考えていたのかも知れない
東西に ついては、若(も)し 五島列島 等の島嶼(しょ)部を 俀国領と見做していたので あれば、東西の境界にも影響を与えてしまう可能性は ある
都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
邪靡堆 を どう訓(よ)めば良いか、良く分からない
靡字 は漢音が ビ の表音なので マ と訓めず、通常は 摩字 の誤写と見做されるが、実は呉音が ミ なので、或いは隋代では ヤミタイ と訓まれていた と言う事かも知れない
尤(もっと)も、堆字 は 惟字(漢音:イ(ヰ)) の通用字として、靡字 は 麻字 の通用字として使用されただけで それ以上の他意は無いと言う可能性も ある
となると、表音の選択肢は以下の様に かなり広くなる
隋書 俀国伝 邪靡堆 の日本語表音
| 表字 |
表音候補一 |
表音候補二 |
| 邪靡堆 |
ヤビタイ |
ヤミタイ |
| 邪摩堆 |
ヤマタイ |
- |
| 邪靡惟 |
ヤビイ(ヰ) |
ヤミイ(ヰ) |
| 邪麻堆 |
ヤマタイ |
- |
| 邪麻惟 |
ヤマイ(ヰ) |
- |
念のため、漢語としての表音に ついても確認して おきたい
隋書 俀国伝 邪靡堆 の漢語表音
| 字 |
字音候補 |
上古音 |
中古音 |
中世音 |
北京語 |
拼音 |
呉音 |
漢音 |
万葉仮名 |
| 邪 |
音一 |
ŋiăg(ンィァ) - [yiă](ィァ) |
[yiă(ィァ)] - ziă(ジィァ) |
sie(シェ) |
s̆ie(シェ) |
- |
ジャ |
シャ |
ザ(万葉集,古事記:歌謡) |
| 邪 |
音二 |
ŋiăg(ンィァ) |
yiă(ィァ) |
ie(イェ) |
ie(イェ) |
- |
ヤ |
ヤ |
該当する表音無し |
| 靡 |
- |
mɪĕr(ミィ) |
mɪĕ(ミィ), mbɪĕ(ンビィ) |
mi(ミ) |
mi(ミ) |
- |
ミ |
ビ |
該当する表音無し |
| 堆 |
- |
tuər(トゥェ) |
tuəi(トゥァィ) |
tuəi(トゥァィ) |
tuəi(トゥァィ) |
- |
テ,タイ |
タイ |
該当する表音無し |
| 摩 |
- |
muar(ムァ) |
mua(ムァ), mbua(ンブァ) |
muo(ムォ) |
mo(モ) |
- |
マ |
バ |
ま(万葉集,古事記,日本書紀) |
| 麻 |
- |
măg(マ) |
mă(マ), mbă(ンバ) |
ma(マ) |
ma(マ) |
- |
メ |
バ |
そ甲類(万葉集,日本書紀)[註1] マ(万葉集,古事記:歌謡,日本書紀) ム(日本書紀)[註2] を(万葉集)[註3] |
| 惟 |
- |
d̩iuĕr(ディゥェ) |
yiui(ィゥィ) |
uəi(ゥェィ) |
uəi(ゥェィ) |
- |
ユイ |
イ(ヰ) |
該当する表音無し |
| 馬 |
- |
măg(マ) |
mă(マ), mbă(ンバ) |
ma(マ) |
ma(マ) |
- |
メ |
バ |
ま(万葉集,古事記,日本書紀) め甲類(万葉集) バ(日本書紀)[註4] |
| 臺 |
- |
dəg(ダ) |
dəi(ダイ) |
t'ai(タイ) |
t'ai(タイ) |
- |
ダイ |
タイ |
該当する表音無し |
註1:
やや特殊な事例で あると思われる
註2:
百済語を日本側で表記したもので、万葉仮名と見做(みな)して良いかは難しい
註3:
恐らくは 乎字 の誤記誤写では あるまいか
註4:
唐人 司馬法聡(聰) の人名として現れるので、実際には万葉仮名では無い
以外と漢語表音と日本語表音が近い事が分かる
隋代は中古音の時代なので、邪靡堆 と 邪馬臺 の漢語表音は以下の通りと なる
邪靡堆,邪馬臺の中古音
| 表字 |
表音 |
| 邪靡堆 |
ィァ ミィ トゥァィ |
| 邪馬臺 |
ィァ マ ダイ |
隋書 俀国伝 の記載が正しいので あれば、曹魏朝では 邪馬臺(ヤマダイ) と表音していた女王国名は現時点の隋朝では 俀国都として 邪靡堆(ヤミタイ) と呼ばれている、と言う事に なる
いずれに しても言える事で あるが、卑弥呼,壱与 の女王国と 俀国 の首府は同じ地域で あると強調されている事に なる
古云 去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里 在會𥡴之東 與儋耳相近
漢光武時 遣使入朝 自稱大夫
安帝時 又遣使朝貢 謂之俀奴國
桓,靈之間 其國大亂 遞相攻伐 歷年無主
有女子名卑彌呼 能以鬼道惑衆 於是國人共立爲王
有男弟 佐卑彌理國
其王有侍婢千人 罕有見其面者 唯有男子二人給王飮食 通傳言語
其王有宮室樓觀 城柵皆持兵守衞 爲法甚嚴
自魏至于齊,梁 代與中國相通
三国志 魏志倭人伝 での記述を基(もと)に している事が分かる
有阿蘇山 其石無故火起接天者 俗以爲異 因行禱祭
これは明らかに、九州は熊本県に ある阿蘇山で あろう
明年(608年) 上遣文林郎裴淸使於俀國
度百濟 行至竹㠀 南望𨈭羅國 經都斯麻國 迥在大海中
行路記事が ここまで後ろに来ると言うのも、良いのか悪いのか…
ここに現(あらわ)れる 竹㠀(チクトウ) は 珍島 で あろう事は、以下で述べている通りで ある
又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國
其人同於華夏 以爲夷州 疑不能明也
竹斯国は筑紫国と関連が あると思われるが、竹斯国 = 筑前筑後両国なのか 竹斯国 = 筑前国 で あるのか、それとも 竹斯国 ≠ 筑紫両国 で 竹斯国 の領域は筑紫両国とも筑前国とも関連性が無いのかは、現時点では何とも判断を下せない
竹斯国に対しては方位が指定されていないので、或いは南の方角で ある可能性も ある
秦王国の場所も これまた判然と しないが、春日市や大野城市そして大宰府、朝倉市 等が候補として挙がるかと思う
又經十餘國 達於海岸
自然に解せば、秦王国から
陸路十余国を経て海岸に到達するもの と読めるが、陸路では無く
海路と曲解した上に この海岸を
大阪湾辺りと見做す人が何故か多い
しかしながら単純に考えて、秦王国の東辺りには九州東岸部に当たる海岸が ある訳(わけ)で あり、更に瀬戸内海を通れば至る所無数に海岸を見る事が出来よう程(ほど)に...
もう それこそ大阪湾に着くまでには海岸,海岸,海岸,海岸と四方八方が海岸だらけで ある
以下にイメージ画像を掲げて見ると しよう
いやはや、本当に
バカバカしい限りの図で ある

俀国 又経十余国達於海岸 図
# この図は以下の Yahoo!地図 を基に加筆している
Yahoo!地図 - 地図検索・雨雲レーダー搭載の多機能マップ
つまり、
達於海岸 と記載されている のみ では、そこが何処(どこ)で あるかを特定する事は到底不可能なので ある
しかも秦王国から十余国の国家群への方向の記述は無く、そして海岸の地も東か どうか に ついて 隋書 俀国伝 は書き残しては いないので ある
この後ろに この十余国が竹斯国よりも東に位置している事を示唆する文が あるが、確証は無い
思うに これは客観的な思考を放棄した者が、
結論ありきで行路終着点を
大和朝廷と思い込んでいるので あろう
これを私は
大和朝廷至上主義教と言う宗教と呼んでいるので あるが、或いは以下の様に記述されていれば、海岸とは九州東岸で ある事が彼等にも理解し得たで あろうか
仮定文:
又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 又東至於海岸 又經十餘國 達於大阪湾
補足すると、達字は行路の終着と言う意味を、読み手への心証として投げかけて いる様に思える
そこから先に移動するので あれば、更に
仮定文:
又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 又東至於海岸 又經十餘國 又東至於大阪湾 又東至大和國
とでも記述するで あろう
ここで一つ、私には非常なる不審を感得するので あるが、他者は そうでも無いので あろうか
𨈭羅国から秦王国までは それこそ しつこい程に経由した国名を 隋書 俀国伝 は書き記しているが、
海岸に至る直前の十余国の国名を記さないのは何故で あろうか?
自竹斯國以東 皆附庸於俀
附庸と あるので、俀王の直轄領では なく間接統治領と言う事なので あろう
その範囲は直前に ある十余国の国家群で あると、一般的には解されている
俀国に附庸と あるので、ならば竹斯国以東の諸国家は俀国には含まれないのでは無いか、等(など)と言う偏屈な解釈を行う者が いるかも知れない
# 以下を読む限りでは、確かに附庸諸国は俀国から一応は自立した存在で ある様に思えてしまう
付庸国 - Wikipedia
しかし、中国王朝に属する官吏は長らく一帝一朝一国(一人の皇帝が一つの王朝を統治し、一つの王朝が一つの国家と完全に同一で あると言う状態) と言う中央集権化された社会に慣れて久しいため、国家の中に国家が存在すると言う社会制度を充分に理解出来なかったので あろう
実際には これは古代の令制国(りょうせいこく) の前の状態、国造(くにのみやつこ と訓(よ)まれるのが通例か) が割拠していた状況で あると思われるので、俀国による統一王朝とは言い切れない訳では あるが、当時は俀ないし倭と呼称されてるいた古代日本人により形成される国家群で あった事は確かで あると思われるので、大枠で見れば附庸諸国も俀国に含まれる存在で あると見做して良いかと思われる
抑々(そもそも)論と なるが、中国王朝にも郡国制を採用し王朝の中に国家が存在していた時期は ある
具体的には西漢朝が該当するが、漢帝国の中に建国功臣や劉氏の王国が君臨していた事に なる
西漢のみでは無く、実は曹魏や蜀にても郡国制を採用していたのかも知れない
【三國志】 卷二十八 魏志 王毌丘諸葛鄧鍾傳 第二十八 毌丘儉傳
撰者 : 西晉(晋)朝 陳壽(寿)
遂矯太后詔 罪狀大將軍司馬景王 移諸郡國 舉兵反
毌丘 倹と文欽が司馬 師と対峙する場面で あるが、ここで言う郡国の国は何処(どこ)で あろうか
彭城国 等の事で あろうか
【三國志】 卷三十二 蜀志 先主傳 第二
其郡國太守,相,都尉,縣令長 三日便除服
諸葛 亮が劉禅に述べた言葉で あるが、益州しかない蜀朝で国が あったのか どうかは良く分からない
或いは益州 漢中郡を国と見做していたと言う事か
確かに劉備は漢中王で あったので、漢中国の王と言う理屈で あるのかも知れない
【三國志】 卷三十二 蜀志 先主傳 第二
秋 羣下上先主爲漢中王 表於漢帝曰
[上表文前半部を省略]
臣等輒依舊典 封備漢中王 拜大司馬 董齊六軍 糾合同盟 掃滅凶逆
以漢中,巴,蜀,廣漢,犍爲爲國 所署置依漢初諸侯王故典
夫權宜之制 苟利社稷 專之可也
然後功成事立 臣等退伏矯罪 雖死無恨
遂於沔陽設壇場 陳兵列衆 羣臣陪位 讀奏訖 御王冠於先主
俀国の事に戻すが、有態(ありてい)に言えば都斯麻国, 一支国, 竹斯国, 秦王国そして その他の十余国は言わば日本国と その分国(武蔵国, 山背国, 筑前国 等々) の関係に近いと言う事で あろう
つまり、都斯麻国以降の諸国は全て俀国に属する分国で あると言う事に なる
なお、ここでは当然の事として都斯麻国, 一支国も附庸対象に含めているが、これも意地の悪い者で あれば この二国が俀国に附庸されているどうか明記されていないので従属関係は不明、ないし記述が無いので あるから附庸関係では無い筈だ、等と言い出すかも知れない
しかし、常識的に考えて見れば対馬と壱岐が俀人の生活領域で ある事は明らかなので あり、この二国を俀国の附庸対象外と捉(とら)えるのは不自然と言う他(ほか)無い
例えば俀国と韓地諸国との外交関係に ついて触れている以下の記述が あるが、
新羅,百濟,皆以俀爲大國多珎物 並敬仰之 恒通使往來
俀国は恒常的に新羅や百済と通交使を差遣,迎接していた事が窺(うかが)える
しかし、当時の海上は国際法や公海自由原則(principle of freedom of the high seas) が施行されて訳では無いので、自国通使が海路を航行するには通行海域と附近島嶼部を武力で制圧して いなければ ならない
要するに制海権を掌握すると言う事で あるが、若し俀国が都斯麻国と一支国を直轄統治にせよ間接統治にせよ統治しているので あれば、俀国船舶が対馬海峡を自由に航海するに支障は無い
しかし俀国が都斯麻国と一支国に対し影響力を行使し得ぬので あれば、海峡航行は儘(まま)ならぬ仕儀(しぎ)と なるで あろう
と言う訳で、俀国伝に都斯麻国と一支国の附庸関係が記載されていないのは隋使と 裴 世清 に とって対馬海峡諸国と俀国王の関係が上下従属状態に ある事が自明で あったからで あろう
若し ここで、終着地が大和で あると解するので あれば、大和も
自竹斯国以東 に
含まれてしまう事に なる
ある者は言う、大和は 自竹斯国以東 に含まれないのだ、と
しかしながら、その様な対象の特殊化を示する記述は、事実として実際には何処にも見当たらない
俀王遣小德阿輩臺 從數百人 設儀仗 鳴鼓角來迎
後十日 又遣大禮哥多毗 從二百余騎郊勞
旣至彼都
先に来た 阿輩臺 の方が後から来た 哥多毗 よりも官位が上と言う事らしい
内官有十二等 一曰大德 次小德 次大仁 次小仁 次大義 次小義 次大禮 次小禮 次大智 次小智 次大信 次小信 員無定數
良く分からないが、そう言うものなので あろうか
それに しても、外国賓客を迎えるのが第七位官の大礼と言うのは、少し位階が低い様にも感じられる
十日と言う日数の捉え方は少々難しく、以下の二通りの読解が可能かと思う
1) 同じ場所に滞在し日数が経過
阿輩臺 が 裴 世清 を迎えた場所に留(とど)まり続け、その後に 哥多毗 が差遣されて同じ場所に到着し 裴 世清 を郊労した
この場合の十日と言う日数は、場所の移動を伴(ともな)わない単純な時間の経過のみ と言う事に なる
なお、常用漢字では 阿輩臺 とは書けず 阿輩台 と書く事に なる そうで あるが、臺字 の表音は中古音 ダイ で 台字 の表音は中古音 タイ と完全に別音なので、臺字 の置き換えに 台字 を以(もっ)て する事には多少の違和感を覚(おぼ)えなくも無い
ついでに書くが、臺字 を ト音で訓もうとする
大和朝廷至上主義を奉ずる者で あれば これを何と訓むので あろうか、聞いて見たくも ある
あはと(あわと) で あろうか?
と言う訳で、当時の 阿輩臺 の表音を明らかに せねば なるまい
ついでに俀国人 哥多毗 も確認したい
調べて見ると、以下の様に表音していた事が分かった
隋書 俀国伝 俀国人 の漢語表音
| 字 |
字音候補 |
上古音 |
中古音 |
中世音 |
北京語 |
拼音 |
呉音 |
漢音 |
万葉仮名 |
| 阿 |
音一 |
ag(ア) |
a(ア) |
ə(ェ) |
ə(ェ) |
- |
ア |
ア |
あ(万葉集,古事記:歌謡,日本書紀:歌謡) |
阿 |
音二 |
- |
- |
a(ア) |
a(ア) |
- |
ア |
ア |
- |
| 輩 |
- |
puər(プェ) |
puəi(プェィ) |
puəi(プェィ) |
pəi(ペィ) |
bèi(ベイ) |
ヘ |
ハイ |
該当する表音無し |
| 哥 |
- |
kar(カ) |
ka(カ) |
ko(コ) |
kə(ク) |
- |
カ |
カ |
該当する表音無し |
| 多 |
- |
tar(タ) |
ta(タ) |
tuo(トゥォ) |
tuə(トゥォ) |
- |
タ |
タ |
た(万葉集,古事記:歌謡,日本書紀:歌謡),だ(万葉集,古事記:歌謡,日本書紀:歌謡)[註5] |
| 毗[註6] |
- |
bier(ビェ) |
bii(ビィ) |
pʻi(ピ) |
pʻi(ピ) |
- |
ビ |
ヒ |
び甲類(万葉集) |
註5:
だ と表音している例が多少あるが、これは古事記に ある 多多岐麻那賀理 と言った用例に引き摺(ず)られて濁音に訓んだ事から影響されているものと思われる
私見では だ の表字には本来 陀字 が使われて いたものと思料するが、どうか
註6:
毗字 の表音が分からないため 毘字 の異体字と見做し 毘字の表音を掲(かか)げているが、原字の 比字 等から考えて 毗字 と 毘字 は同音で あると思われる
輩字 に ついては正確な表音の特定が難しく、
プェィと
プァィと言う 2つの表音候補が ある
ただ、現代音が
bèiで あるから、プェィ が正しいと判断している
臺字 は上表に既出しているので省くが、この表中に ある中古音から想定される倭語表音は、以下の通りで ある
隋書 俀国伝 俀国人 の倭語表音
| 表字 |
漢語表音 |
倭語表音 |
| 阿輩臺 |
ア プェィ ダイ |
ア ペイ ダイ |
| 哥多毗 |
カ タ ビィ |
カ タ ビ |
と言う次第で、この俀国人 阿輩臺 の表音は
あぺいだいと言う事に なる
当然の事で あるが、
あはと(あわと) とは訓まない
あぺいだい が倭語で どう言った意義を持つのかは不明で あるが、古代には通意(つうい)していたが現在では消失している語彙で あるのかも知れない
或いは、
阿倍(
阿部)
大夫(あべ だいふ) の事か
他にも
阿倍(
阿部)
井田(あべいだ) や
阿倍(阿部)
井台(あべいだい)(丘陵地の地名か) と言った語を候補に挙げるべきか
哥多毗 は倭語で
かたびと なるかと思う
奈良県 北葛城郡 河合町 には以下の様に
カタビ古墳群なるものが存在していると ある
古墳/河合町ホームページ
かたび なる語も意義は分からないが、古代では通意していた倭語なので あろう
2) 移動で要した日数
阿輩臺 が 裴 世清 を何処かで迎え、更に十日かけて別の場所に移動し、改めて 哥多毗 が郊労した
まぁ移動は十日の内の何日か で あったのかも知れないが、それは何とも言えない
阿輩臺 は 裴 世清 を来迎した後どうしたのかは分からないが、道案内役として 裴 世清 と同行した可能性は多分に あろう
ただ、阿輩臺 は来迎したと あるが 哥多毗 は郊労したと ある
これが 1) の通りで ある ならば、何故異なる語で表現したので あろうか
恐らく郊労の語は 俀王 の都の近くで行われる事を指しているでは無いかと思われるが、そうすると 、阿輩臺 の来迎地点と 哥多毗 の郊労地は異なるものと捉(とら)えるのが妥当で あろう
若し 阿輩臺 の来迎地が 秦王国 の近くで、哥多毗 の郊労地が 俀国都 で ある 邪靡堆 の近くと仮定する ならば、秦王国 から 邪靡堆 への距離は最大で十日の行程と言う事に なる
また、1) の場合は 裴 世清 が滞留している場所に 哥多毗 が到着して郊労と言う事に なる
本来 郊労使(こうろうし) とは賓客よりも先に到着して待機し、移動して来る賓客を迎え入れると言う振る舞いを行うもので ある
既に寄留(きりゅう)している 裴 世清 に対して後から着到した 哥多毗 が郊労したと言うのは、何と無く違和感を覚えてしまう
郊労の意は以下の通り
こうろう【郊労】の意味 - 国語辞書 - goo辞書
この後には再度 達字 が現れる事に なる
朝命旣達 請卽戒塗
直接の対面では無いが、裴 世清 が俀王に対して皇帝(煬帝)からの命を終えたと伝えている
やはり 達字は 終着と言う意味で使用されているので あろうと思われる
3. 隋使一行は何処に向かったのか
竹斯国は福岡県の博多から大宰府の辺りで あろうかと思う
秦王国は その東と あるが、対馬や壱岐での方位を見るに東南方向を東と認識しているものと思われる
ただし秦王国の正確な場所は良く分からない
恐らくは博多港に上陸した隋使一行は福岡平野を南東方向に進んだものと思う
或いは これまで舟船により海路を航行していた隋使は船上のまま
御笠川や那珂川の遡上(そじょう)を試(こころ)みたのかも知れない
阿輩臺 は
数百人を従えていた と あるので、ある程度開けていた平野部を想定して おく必要が ありそう では ある
となれば秦王国は上記の通り朝倉市の辺りと見ておくべきか
筑後平野から更に東に向かえば九州東岸に至るが、具体的な国名が記されていない点から見て、ここから
東には進んでいないのでは無いかと思われる
朝倉市で 阿輩臺 の来迎を受けた 裴 世清 は 阿輩臺 の嚮導(きょうどう) により
進路を俀国王都 邪靡堆 に
転じたので あろう
この時も 哥多毗 は
二百余騎を率いていた訳で、山地では無く平野部で あったと考えた方が良いと思う
朝倉盆地は地理的に南西方向に開けているので、俀国王都は筑紫平野方面に あったと考えるのが、自然な読解で あろうと考える
秦王国から 邪靡堆 に至る途中も国名記載が見当たらないため、秦王国 国境以降は俀国王の
直轄領で あったと言う事なので あろう
俀国王都の場所も又良く分からないが、福岡県の久留米市,小郡市,八女市そして佐賀県の鳥栖市,神埼市辺りが容易に挙がる
因(ちな)みに神埼市は吉野ヶ里遺跡が ある市で あり、八女市には
八女古墳群(
岩戸山古墳)が ある
八女古墳群(岩戸山古墳)
ただ、吉野ヶ里遺跡は七世紀には衰微,消滅していたとの事なので、こちらは俀国王都には そぐわない嫌いは ある
八女古墳群は墳墓建造の終末期が
七世紀にも届くとの事らしいので、こちらの方が相応(ふさわ)しそうでは ある
なお、上記で阿蘇山に関する引用を行っているが、八女で あれば
阿蘇山にも近いため、阿蘇山の記述が見える事も充分に納得出来ると言って良い
無論 八女に拘(こだわ)る必要は無く、墳墓が八女に あるだけで俀国王都は別の場所に あっても何等(なんら)差し支えは無い
大まかに見て、俀国王都は有明海に面した筑紫平野特に筑後平野に あったのでは無いかと推定する
更に もう少し南を向いた先、熊本平野の辺りを視野に入れても良いかも知れない
4. 魏志の邪馬臺は何処か
さて、であれば残るは 三国志 魏志 倭人伝 からの所引で ある
邪馬臺は
何処で あったのか、と言う事に なる
上記
3. より隋使一行は恐らく八女ないし筑後平野に到達したものと思う
この地が俀国王都
邪靡堆の比定地と見て良いと考える
と言う事は、三世紀の
卑弥呼が いた女王国(邪馬壹国)は
八女と 言う事に なる
実は以前に、
女王国の候補地の一つとして八女を挙げた事が ある
南至邪馬壱国女王之所都水行十日陸行一月に脱落は無いか
図(はた)らずも過去の見解と一致した観が ある
なお、改めて以下を掲げるが、
都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
これは 三国志 魏志 倭人伝 に その様に記述されていたと言う事では無く、魏徴 の
私見で ある可能性も あろう
つまり、
俀国王都は現在邪靡堆と呼ばれているが、これは 魏志 に登場する邪馬壹国の事に相違あるまい
魏志 には 邪馬壹国 と書かれているが、恐らくは誤記,誤写で、邪馬臺 が正しいに違いない
(何故なら 後漢書 倭伝 に 邪馬臺国 と書かれているからで ある)
と言う思い込みが生じていた可能性も あるかも知れず、そのために 隋書 俀国伝 に おいて引用文が 魏徴 に より
改竄されて しまったと言う事態も、想定して良いかも知れない
勿論 魏徴 本人は善意に より誤記を
校訂したものと考えて おり、改竄で あるとは
認識して いなかったので あろうが……
公開 : 2015年9月22日