1. 金属製武器は同時に日本に伝えられたのか
弥生時代に日本に
伝播[註1] された武器として銅矛,銅戈,銅剣,銅鏃,鉄矛,鉄剣,鉄鏃,鉄刀と言った物が ある
所が、日本古代史に関わる学者や研究者(の多く)は銅戈,銅矛,銅剣と言った武器群を青銅器と言う名称で捉(とら)えるのみで、それ以上の関心を余り持たない
様に見える
更に言えば、鉄製武器は青銅製武器と ほぼ同時に古代の日本に舶来したと言う
註1:
時々 伝播 をデンパンやデンバンと読む人が見受けられて通話に支障が出る事が あるが、困ったもので ある
2. 金属製武器の伝播は同時では無い
これは完全に私の私見で あるが、銅戈,銅矛,銅剣,銅鏃,鉄剣,鉄鏃,鉄刀,鉄矛の各武器が古代の日本に齎(もたら)された時期は それぞれ異なり、恐らくは
以下の時系列順に起きたものと予測している
1) 銅戈は春秋時代以降に斉,燕の辺(あた)りの地から黄海を越えて倭に持ち込まれた
契機は紀元前386年の斉滅亡時(姜斉から田斉への易姓革命) 以降の遺民流亡か
2) 銅矛は銅戈が倭に伝播された後、春秋時代以降に銅戈と同じく山東半島や遼東半島若(も)しくは その近くから倭に伝えられた
銅矛は銅戈の後に倭に伝搬(でんぱん) されたと思うが、年代として どれ程(ほど) 離れていたのかは何とも言えない
3) 銅鏃が倭に伝えられた時期に ついても良く分からないが、銅戈か銅矛と共に倭に舟運(しゅううん) されて来たと解するのが自然か
4) 銅剣は紀元前473年以降に呉の遺民或(ある)いは越人から倭に齎された
5) 鉄剣,鉄矛,鉄鏃は紀元前300年頃 以降に楚商[註2]と思われる者に より各地に広播(こうはん)され、倭へ到達した
註2:
楚商とは楚の(武器)商人の意
楚商の鉄矛,鉄盾説話に ついては以下を参照
矛盾
上記には年代を特定する年次が含まれているが、これは飽(あ)くまで伝播の上限年次で あり、時系列としては上記 片(かた)括弧 の 見出し数値 が若い方から先に起きていたものと考えている
金属製武器とは直接の関連性は無いかも知れないが、
越人が稲作を倭に運輸,移植,伝授した可能性が充分に あり、これと時を同じくして銅剣も共に輸入,製造技術移転が行われたと考えるのは、自然な発想で あろう
同時期では無い にしても、先に越人が縄紋時代(晩期 若しくは弥生時代早期) に稲作を伝え、その後で改めて銅剣を持ち込んだと言う事なのかも知れない
稲作が倭に齎された時期は、現在最新の研究では いつと されているので あろうか
紀元前223年の楚滅亡時および紀元前221年の斉滅亡時に遺民が流亡したものと思われるので、その時が契機と なった可能性は ある
無論、その前の紀元前300年頃に起きた越滅亡や紀元前473年の呉滅亡が引き金と なっていたと言う余地も多分に ある
なお、私は考古学に詳しく無いため、上記が実際の考古学上の出土状況に合致しているのかは良く分からない事を 断って おきたい
もしかしたら考古学的に見て全然 頓珍漢な事を書いている可能性は あると思う
3. DNA から見る倭人と斉,呉
古代の倭人と斉人,呉人は民族種としての
子孫関係に ある事が窺(うかが)えると言う
倭人 - Wikipedia
近年、遺伝子分析技術の発達によって、筑紫地方(『日本書紀』の「国生み」)と、呉人は極めて関係が深いということが明らかになってきた(日本人#系統参照)。
1999年3月18日、東京国立博物館で江南人骨日中共同調査団(山口敏団長)によって「江蘇省の墓から出土した六十体(二十八体が新石器時代、十七体が春秋戦国時代、十五体が前漢時代)の頭や太ももの骨、 歯を調査。
特に、歯からDNAを抽出して調査し、福岡山口両県で出土した渡来系弥生人と縄文人の人骨と比較した結果、春秋時代人と前漢時代人は弥生人と酷似していた。
DNA分析では、江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代末)の人骨の歯から抽出したミトコンドリアDNAの持つ塩基配列の一部が、福岡県太宰府の隈西小田遺跡の人骨のDNAと一致したと発表された。
崎谷満はY染色体ハプログループO1b1/O1b2系統を長江文明の担い手としている。
長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し百越と呼ばれ、残りのO1b2は西方及び北方へと渡り、山東半島、朝鮮半島、日本列島へ渡ったとしており[14]、このO2b系統が呉や越に関連する倭人と考えられる。
弥生人 - Wikipedia
頭蓋骨の計測値で弥生人に最も近いのは新石器時代の河南省、青銅器時代の江蘇東周・前漢人と山東臨淄前漢人であった[10]。
崎谷 満
DNA・考古・言語の学際研究が示す 新・日本列島史
新日本人の起源
山口 敏, 中嶋 孝博
中国江南・江淮の古代人 ―渡来系弥生人の原郷をたずねる―
ただ、崎谷 満 氏の著作には少々問題が ある様で、評価は定まっていない らしい
価格も 7,560円 で意外と高く、これでは購入を躊躇(ためら)ってしまう
新石器時代の河南と言われて しまうと余りに古く その上 時代が長いので特定し切れないが、日本で言う所の縄紋時代に区分される期間の中に位置している 仰韶文化 に該当するか
東周とは春秋戦国時代(紀元前700年~紀元前221年) の事で あろう
江蘇(こうそ) と言えば微妙な地名で、呉と斉の境界と言った所で あろうか
以下では更に遺跡名が明記され、年代の絞り込みが なされている
弥生土器と吉野ヶ里のナゾ 弥生人2
今回日中共同調査で渡来系弥生人にそっくりの江南人骨の発見も驚ききであったが、実は江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代、紀元前5~6世紀)から、すでに渡来系弥生人に似た人骨が出土していたことはさらなる驚きであった。
梁王城遺跡は微山湖の東、徐州市と臨沂(りんぎ)市の境界付近に ある らしい
西漢朝(紀元前206年~紀元8年) と言われても古代の日本との歴史関係性を掴みにくいかも知れないが、簡単に かつ端的に言えば
紀元57年に 漢委奴国王 の金印を紫綬される正に
直前の時期に当たっている
金印に ついては こちらを参照
漢委奴国王印は奴国に下賜された金印ではない
臨淄(りんし) は斉の国都で あったので、要するに縄紋時代から弥生時代の
北部九州には斉,呉からの移民が生活していたものと考えるのが自然で ある
福岡県 筑紫野市 隈(くま)・西小田(にしおだ)遺跡が どの年代に属させるかにも よるのかも知れないが、恐らくは金印紫綬の直前に該当するのでは無いかと思う
となれば、
先(ま)
ずは越人が船に乗って黄海を渡って倭に
稲作を齎し、次に
斉人,呉人が倭に移民して その際に
金属製武器を持ち込んだと言う事に なる
となれば、先(ま)ずは越人が船に乗って黄海を渡って倭に稲作を齎し、次に斉人,呉人が倭に移民して その際に金属製武器を持ち込んだと言う事に なる
そして金属製武器の伝播を私は種類別に区切って考える立場なので、畢竟以下の通りと なる
1) 越人が稲作を倭に齎した
2) 斉人が銅戈,銅矛,銅鏃を倭に伝播させた
3) 呉人が銅剣,鉄剣,鉄鏃を倭に持ち込んだ
この考古学と人類学上の推測と上記 2. の時系列順とは一致しないが、それは私の考察が足りていないと言う事なので あろう
4. 越裳と倭人は稲作伝播に関係しているのか
論衡に越裳と呼ばれる存在が記録されている
越裳に ついては以下を参照
越裳は東鯷か
通説では越裳は越南(ヴィェトナム)と されているが、若し これが越人の事で あれば、倭人に稲作を齎したのは越裳で あったのかも知れない
公開 : 2016年2月16日