獲加多支鹵大王の諱(忌み名:いみな)は寺

1. 稲荷山鉄剣銘文、先入観を排して読むべき


稲荷山鉄剣 の銘文には 獲加多支鹵大王寺 と ある

銘文を素直に読めば、獲加多支鹵大王 の王名は 寺 と言う事では無いかと思われる

勿論これには異論が ある(よう)で、ある種の害毒に塗(まみ)れた方々は 寺 を政治官庁と解(かい)している
しかし、そう言う大学教授だか何だかの権威ある定説だの何だのを排して見れば、その様な鹿爪らしい解釈等(など)不要で あろう

これは、他の銘文や史料に添って読解すれば良いだけの事なので ある

なお、上記では ある種の害毒と書いたが、要するに 大和朝廷至上主義教 と言う黴(かび)臭い宗教の事で ある
この宗教と教徒に ついては、以下で記した通りで ある

獲加多支鹵の訓は "ワカタケル" で正しいか -銘文を中古音で訓む-



2. 王名を各史書,史料から確認する


以下の通り、王名が記されている史料や銘文を確認出来る

.1 三国志

【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳

撰者 : 西晉(晋)朝 陳壽(寿)

其年十二月 詔書報倭女王曰

制詔親魏倭王卑彌呼 帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米 次使都市牛利奉汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈 以到 汝所在踰遠 乃遣使貢獻 是汝之忠孝 我甚哀汝 今以汝爲親魏倭王 假金印紫綬 裝封付帶方太守假授汝 其綏撫種人 勉爲孝順

ここには、倭王卑弥呼 とある
これを見る限り、A王B と あれば B は王名で ある事が分かる

卑弥呼 が王名で ある事は、以下により確認出来る
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳

乃共立一女子爲 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫壻 有男弟 佐治國

王の名が 卑弥呼 で あると明解に示されている
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳

倭女王卑彌呼狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻擊狀

ここには 倭女王卑弥呼 と 狗奴国男王卑弥弓呼 と あり、これも A王B の形式で記述されている

A王B とは なって いないが、類似の ものとしては、
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳

復立卑彌呼宗女壹與 年十三爲 國中遂定

倭王卑弥呼 の次の次と思われる王が 壱与 で あると記録されて いる
恐らく 壱与 も名で あろう


.2 後漢書

【後漢書】 卷八十五(一百十五) 列傳卷七十五 東夷傳 倭

撰者 : 南朝劉氏宋朝 范曄

安帝永初元年(西暦107年) 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見

これを見ても、やはり A王B と あれば B は王名で ある事が分かる

倭国王帥升 と あるので、帥升 は倭国王の名前と解する以外に、解法は無いで あろう


.3 宋書

【宋書】 卷五 本紀第五 文帝

撰者 : 南齊朝-梁朝 沈約

(元嘉二十八年)(西暦451年) 秋七月甲辰 安東將軍倭王倭濟 進號安東大將軍

これ程(ほど)分かり易い例は無く、誰が見ても一目瞭然で あるが、倭王倭済 と ある

これも、A王B の方式に則(のっと)って いるので、B は王名で ある事が分かる
王名と書いたが、これは氏姓と諱を指している
つまり、倭 が姓で 済 が諱で あると見做(みな)す他(ほか)無い
【宋書】 卷九十七 列傳第五十七 夷蠻傳 倭國傳

高祖永初二年(421年) 詔曰

倭讚萬里修貢 遠誠宜甄 可賜除授

ここには 倭讃 と ある

或いは これを 倭(王)讃 と見て脱落と決め付ける者も いる
その上で、倭王倭済 は 倭王済 と見て誤写誤記と する
いやはや、これでは自身に都合が良い様に読みたいだけで あろう
余りに身勝手と言うか、恣意に過ぎる

やはり これは、倭 が氏姓で 讃 が諱で あろう
【宋書】 卷十 本紀第十 順帝

(昇明元年)(477年) 冬十一月己酉 倭國遣使獻方物
(昇明二年)(478年) 五月戊午 倭國王武遣使獻方物 以武爲安東大將軍

ここには 倭国王武 と記されている

この 倭国王武 を称号(王号)と捉え、大和朝廷の天皇に故事付けようと する者も いるので あるが、この様な 大和朝廷至上主義教 の主張は宗教(がかっ)て いるので、よくよく注意しなければ ならない
倭国王武 は宋朝に上表文を呈して いるので、当然その上表文には実際の姓名が書かれて いなければ ならない
当然それには号名等は許されないので ある

やはり、武 は王名つまり諱で あると見做すのが妥当で あろう


.4 南斉書

【南齊書】 卷五十八 列傳第三十九 蠻傳 東南夷 倭國傳

撰者 : 梁朝 蕭 子顯(顕)

建元元年(479年) 進新除使持節 都督倭,新羅,任那,加羅,秦韓[註1]六國諸軍事,安東大將軍
倭王武號爲鎭東大將軍

註1:

以下を見ると、何故か 倭,新羅,任那,加羅,秦韓 で六国と書かれているが、これは 倭,新羅,任那,加羅,秦韓,慕韓 の六国が正しい らしい


南齊書卷五十八~卷五十九
# 倭国伝は 17/67 ページ に飛ぶと表示される

ここには 倭王武 と あり、宋書の記録を継承している
これを見ても、A王B と あれば B は王名で ある事が分かる


.5 梁書

【梁書】 卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳 海南諸國東夷西北諸戎 東夷 倭傳

撰者 : 唐朝 姚 思廉

晉安帝時(396年-403年,404年-418年) 有倭王贊 贊死立弟彌 彌死立子濟 濟死立子興 興死立弟武
齊建元中(479年-482年) 除武持節 (都字 脱落か)督 倭,新羅,任那,伽羅,秦韓,慕韓六國諸軍事 鎭東大將軍
高祖卽位(502年) 進武號征東[註2]將軍

註2:
この箇所も、以下を見ると何故か 征東將軍 と記録されているが、征東大將軍が正しい らしい


梁書·卷五十三~卷五十五
# 倭伝は 100/152 ページ に飛ぶと表示される

これも、宋書南斉書の延長で記述されている
倭王賛 と あるが、当然これは 倭王讃 の省画で あろう
ここも、A王B と あれば B は王名で あると思われる

倭王賛 の弟が 彌(弥) で あると記されているが、これは 倭王珍 の異体字 𤪙(珎) と旁(つくり)が共通しているので、通字(つうじ)か若(も)しくは伝写上の誤写と考えられる


.6 隋書

【隋書】 卷八十一 列傳第四十六 東夷傳 俀國傳

撰者 : 唐朝 魏 徴 長孫 無忌 等

開皇二十年 俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕

【隋書】 卷八十一 列傳第四十六 東夷傳 俀國傳

大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢

ここでは、俀王の姓と字が記録されている
姓と字を省けば 俀王阿毎多利思北孤 と なるので、A王B の書式に則って おり、B は王名で ある

何故諱では無く字(あざな) なのかは分からないが、或(ある)いは隋使は諱として別の名前を認知していたので、それとは別の名前と認識して字と把握したのかも知れない
では別の名前とは何かと言うと、それは漢語名と倭語名では無いかと思われる

これは完全に憶測では あるが、例えば 多利思北孤 の名は以下の様な もので あったのかも知れない

阿毎(姓) 矛(漢語名) 多利思北孤(倭語名)


讃珍済興武 に続いて 矛 と あれば、倭王の名としては相応しいと思う
それとは別に卑弥呼や壱与と言った倭語名を持っていたと しても、不思議では無い

尤(もっと)も、隋使は そう言った事情は知らなかったと しても致し方無い訳(わけ)で あり、倭語名の方を字と誤認して しまったと言う可能性は多分に考えられる


.7 南史

【南史】 卷二 宋本紀中第二

撰者 : 唐朝 李 大師, 李 延壽(寿)

(元嘉)(二十八年)(451年) 秋七月甲辰 進安東將軍倭王綏濟 爲安東大將軍

倭王綏済 と あるが、これは 倭王倭済 の誤写では無いかと思われる

こう言う時は一々面倒では あるが、原文を見る癖を付けておいた方が良いのかも知れない

南史卷二~卷三 第1頁 (圖書館) - 中國哲學書電子化計劃 卷二 宋本紀中第二

この Webページは便利なので あるが、画像のみを表示すると表示回数制限を計測され、表示出来なくなってしまう らしい
と言う訳で、上記から画像を拝借して来た
何か文句を言われる可能性も あるが、悪用している訳でも無いので、問題無いで あろう

左から四行目に中央辺りに、倭王綏済 と ある
南史 卷二 宋本紀中第二


【南史】 卷七十九 列傳第六十九 夷貊下 東夷 倭國

晉安帝時 有倭王讚 遣使朝貢

倭王の 讃 は王名で あろう
【南史】 卷七十九 列傳第六十九 夷貊下 東夷 倭國

倭讚 遠誠宜甄 可賜除授

倭讚 と あるので、倭 が氏姓で 讃 が諱で あると見做す他無い
【南史】 卷七十九 列傳第六十九 夷貊下 東夷 倭國

珍又求除正倭洧等十三人 平西 征虜 冠軍 輔國將軍等號 詔并聽之

倭洧 は 倭隋 の誤写では無いかと思われる
一応これも原文を確認して おきたい

南史卷二~卷三 第1頁 (圖書館) - 中國哲學書電子化計劃 卷七十九 列傳第六十九 夷貊下 東夷 倭國

こちらも、上記から画像を拝借して来た

左から三行目に、倭洧 と ある
南史 卷七十九 列傳第六十九 夷貊下 東夷 倭國


【南史】 卷七十九 列傳第六十九 夷貊下 東夷 倭國

二十年 倭國王濟遣使奉獻 復以爲安東將軍倭國王

倭国王済 と あるが、これも 済 は諱で あろうと思われる


.8 北史

【北史】 巻九十四 列傳第八十二 倭國

撰者 : 唐朝 李 大師, 李 延壽(寿)

及陳平 至開皇二十年 俀王姓阿每 字多利思比孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕

【北史】 巻九十四 列傳第八十二 倭國

大業三年 其王多利思比孤 遣朝貢

ここは隋書の記述を引いているので あろう
尤も、字が隋書と少し差違が あるが、これは隋書の誤記を糾(ただ)したと言う事なのか、それとも伝写上の誤写なのか、現時点では何とも言えない

これも、姓と字を省けば 俀王阿每多利思比孤 と なるので、A王B の書式に則っており、B は王名で ある


.9 七支刀


今までは史書から A王B の事例を挙げているが、次は銘文で ある
対象は、奈良県 天理市 石上神宮 に所蔵されている、百済から贈られた七支刀で ある

この七支刀には、銘文として表裏に以下の文字が書き入れられている

 四年 月十六日丙午正陽 造百練 七支刀  辟百兵 宜供供侯王     
先世以来未有此刀 百慈  竒生聖音故爲倭王旨    

この刀剣に ついては、別途以下を参照
七支刀

銘文に泰 (和?)四年と あるが、これは東晋朝の太和四年(369年) と見做す読解が、現在の主流説で あるかと思う

この元号が どの王朝の ものかは ここでは深く触れる気は無いが、銘文裏に 倭王旨 と あるので、これも A王B の形式に則っていると捉えるべきで あろう

ただ、何故か倭王の 旨 を諱とは見做さない論者が多くて困る

史書を見る限りでは A王B と ある事例が上記に挙げた通り多数存在しているが、それ等(ら)から目を背(そむ)けて倭王への 旨(むね) と一般名称化して糊塗しようと言うので ある
旨字 を 嘗字 の省画と思いたいと する者も いる様で あるが、これら二者は 大和朝廷至上主義教 の信徒と して、倭王旨 が諱で あると言う事を拒否しようと 藻掻(もが)いて いるので あろう
何故なら、神功皇后の時代に おいて、倭王旨 と言う人物に当たる者は見当たらないので、大変に都合が悪いと言う事かと思われる

この点に ついては、別途以下で論じている

応神天皇の父親は倭王旨



3. 結論


A王B と ある時、B は王名で ある

となると、稲荷山鉄剣の銘文に ある 獲加多支鹵大王寺 は、寺 が王名で あると解する他無い

では 獲加多支鹵 とは何かと言うと、以下の通り幾つかの可能性が考えられる

1) 称号や襲名名称


父子等で同じ通称 等を名乗る事が あるが、それに類するもので あるのかも知れない


2) 地名や国名


魏志倭人伝に絶好の類例が ある
それは、狗奴国男王卑弥弓呼 と言う王者で ある
つまり 獲加多支鹵 は地名で あった可能性が ある


3) 倭語名


上記で私は、隋書に ある 俀王姓阿毎字多利思北孤 は倭語名では無いかと述べた
多利思北孤 の姓名は 阿毎(姓) 矛(漢語名) 多利思北孤(倭語名) と言ったものでは無いかと推測しているが、これと同様の事かも知れない


いずれに せよ、現段階では 獲加多支鹵 が何を指すかは残念ながら特定し難(がた)いと言う事に なる



4. 関連 URI


参考と なる URI は以下の通り

ご由緒【七支刀(しちしとう)】|石上神宮[いそのかみじんぐう]公式サイト|奈良県天理市
七支刀 - Wikipedia

公開 : 2014年12月2日
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