1. 七支刀で良いのか七支剣と言うべきか七枝刀が正しいのか
七支刀 と言う、刀なのか剣なのかの判別も難しい、何とも不思議な刀剣が ある
両刃と言えば両刃なので、刀では無く剣と称すべき なのかも知れない
ただし、その場合は 七支刀 では無く
七支剣 と言うべきか
日本書紀には、七支刀 が百済から倭国に贈られた事を示す記述が記録されている
ただし、神功紀では何故か 七支刀 では無く 七枝刀 と表記している
どちらが正しいのかは何とも言えないが、日本書紀では部首を追加して漢字一字当たりの画数を多くしようと している形跡が あり、その一環として 七支刀 を 七枝刀 と書き改めている可能性が ある
例えば、日本書紀の先頭に ある 卷第一 神代上 には
台字 が表れるが、程(ほど)無く
苔字 が使用される
様に なり、台字 は
全く使用されなく なって いる
これと同様に、七支刀 の 支字に 何と無く木偏を加えて 七枝刀 と記した と言う事に過ぎない のかも知れない
まぁ確かに、部首を追加しようとしても 七字 に手を加えるのは難しく、 刀字 に別の部首を添えると刀剣で ある事が分かにくく なるので、字の画数(かくすう)を増画(ぞうかく)するので あれば対象は 支字 しか無いのかも知れない
実は 七支刀 は、応神天皇の父親を追跡する格好の材料と なっている
これに ついては、別途以下に述べる ものと する
ついでに もう一つ、七支刀 に纏(まつ)わる不思議な人形が ある
七支刀 に大きく関連すると思われるので、この 七支刀人形 に ついても触れて おきたい
2. 石上神宮 所蔵の七支刀
現在は 奈良県 天理市 石上神宮 に所蔵されているが、何故 その地に納められていたのか、或(ある)いは隠されていたのか、良く分からないと言う
ご由緒【七支刀(しちしとう)】|石上神宮[いそのかみじんぐう]公式サイト|奈良県天理市
七支刀 - Wikipedia
先(ま)ず思うので あるが、この
刀身を納める鞘は どうしたので あろうか?
これだけの刀剣で ある以上、
剥き出しの抜き身で収蔵されていた等(など)と言う事は、絶対に あるまい
更に言えば、この刀身を手で持つための
柄も見当たらない
鉄剣を直接手にして しまうと指の指紋が付着して しまい兼(か)ねず、また手の平(ひら) から汗や油脂で衛生状態が悪くなって しまい、錆びてしまう要因にも なり兼ねない
第一柄が無いと手に馴染(なじ)まず、
持ちにくい事この上無いので ある
恐らくは この
七支刀 と鞘そして柄は泣き別れて しまって今は別々の場所に あるので あろう
# 破壊されていたり破棄されて いなければ、で あるが
と言う訳(わけ)で、実は 七支刀 は元々は別の場所に あったが七支刀 の刀身のみを石上神宮に持ち去って しまったと言う可能性が ある
3. 七支刀人形
七支刀人形 とは私が勝手に称している名称で あるが、七支刀 と覚(おぼ)しき刀剣を携(たずさ)えて儀仗している人形の事で ある
# 携えて儀仗、と書いているが、要は刀剣の切先(きっさき) を上に向けて片手で持つ事で ある
所在地は 福岡県 山門郡 瀬高町 大字太神(おおが) 字長島(おさじま) 小字鬼木(おにき) 2176-2 で あろうか
或いは これは行政区画旧称で、今は 福岡県 みやま市 瀬高町 太神 字長島 小字鬼木 2176-2 と言う名称に変更されているのかも知れない
# 市制が施行されていても、瀬高 と言う町名は残ったものと見える
# 今は町名が消失して しまう事も多々 あるので、良かったと思う
この地に 高野宮(こうやのみや) と呼ばれる小さな祠が ある らしく、この祠には御神体として五体の人形が祀られていると言う
問題は この内の一体で、どうも鞘から抜いた 抜き身の 七支刀 の様な物を右手に持っている姿に見えるので ある
画像を探して見たが、以下が分かり易いかと思う
高野(こうや)の宮(福岡県瀬高町太神字長島)にある「七支刀」を持つナゾの人形
この人形を見る限り、どうやら柄を装着して いない刀身を直接手に している様に見えるが、或いは刀身に比べて柄が小さく、握った手の中に隠れて見えなく なっていると言う事も考えられる
人形正面から見て左側上から一段目の支刀部分が欠損している様で あるが、これは過去に子供が折って しまったと言う事で ある らしい
# まぁ そう言う事が あったと しても、子供も する事で あるし、残念ながら致し方無い事では ある
所で、欠けてしまった箇所は、廃棄されて しまったので あろうか?
未(ま)だ あるので あれば、この 七支刀人形 は木造の人形で あると思うので、木工用ボンドで接着すれば良いのでは無いかと考えて しまうのは、下衆の
勘繰り と言うものか...
因(ちな)みに、上記の Wikipedia での記事を読む限りでは、この 七支刀人形 に ついては
何も触れられていない
はてさて、これは一体何故(なにゆえ)で ありまするか、な……
思うに どうやら これは、
七支刀 と 七支刀人形 を関連付けたくない と考える者が、或いは いるのかも知れない
ついでに言うと、この 高野宮 は見た目が新しく見えるが、再建されている らしい
どうやら台風で被災したため、祠を作り直したので あると言う
さて この 七支刀 らしき物を持っているのは誰かと言うと、
【古代史60の証言】
著者 : 古田武彦著
その二の人物は、百済の宮人。
当主の祝典(「即位」など)に参じたのであろう。
そのとき持参した宝刀、それが「七支刀」である。
この百済の宮人と書かれた人物、これは百済人 久氐(くてい) で あろう
何故 久氐 かと言えば、それは
神功紀に そう書いてある からで ある
4. 神功紀に おける 七支刀 献上記事
と言う訳で、神功紀を繙(ひもと)いて みよう
【日本書紀】 卷第九 氣長足姬尊 神功皇后
撰者 : 舎人親王 等
五十二年 秋九月 丁卯 朔 丙子 久氐等從千熊長彥詣之 則獻七枝刀一口,七子鏡一面及種々重寶
仍啓曰
臣國以西有水 源出自谷那鐵山 其邈七日行之不及 當飲是水 便取是山鐵 以永奉聖朝
乃謂孫枕流王曰
今我所通 海東貴國 是天所啓
是以垂天恩割海西而賜我 由是國基永固
汝當善脩和好 聚歛土物 奉貢不絶 雖死何恨
自是後 毎年相續朝貢焉
五十五年 百濟肖古王薨
ここに、久氐 と記録されているのが読み取れる
近肖古王の没年は 375年なので、神功 55年は 375年と なる
となれば神功 52年は 372年と なり、太和四年(369年) の三年後と なるので、年次は妥当で ある
これに より、百済国 肖古王 が 372年に 七支刀 を献上して来たものと判断出来る
5. 七支刀
次に 七支刀で あるが、銘文として刀身の表裏に以下の文字が書き入れられて いる
1) 表
泰 (1)四年 (2)月十六日丙午正(3)陽 造百練 (4)七支刀 (5)辟百兵 宜供供侯王 (6) (7)
2) 裏
先世(8)以(9)来未有此(10)刀(11) 百慈(12) (13)世(14) (15)竒(16)生聖音(17)故爲倭(18)王旨(19)造 (20) (21)
註1:
和 か
註2:
で ある可能性も ある
註3:
区 にも見えるが気のせいか
註4:
鋼 か 龬 か或いは 釦 か
註5:
呂 か
註6:
永年大吉 か
註7:
祥 か或いは 作 か
註8:
七 を一画で書いた文字の様な何か(例えば 𢍺 や 匕) にも見えるが、気のせいか
註9:
偏が下向きの三角形 ▽ に見えるが、旁(つくり) が 人 かは良く分からない
註10:
此字 と言われれば 此字 で あるが、凄い字体では ある
恐らくは
と言う字体で あろう
若し この字単体で表れていたと すると、冠は 业 で脚が 乚 と言う字体を疑って いたかも知れない
註11:
或いは 刀 では無く 刃 か
註12:
百慈 に見えるが これで 百濟 と読ませる らしい
註13:
王 か
註14:
七 に見えるが、世 なので あろう...きっと...
それに しても、註8 の 世字 とは随分と見た目が異なるのは何故か...
註15:
子 か
註16:
奇 と見做される事が多いが、私には 奇字 の異体字 竒 に見える
註17:
音では無く 晉 の異体字で 晋 に似た字で ある可能性も、かなり大きい
何分、百済が臣従していたのは東晋朝で ある
註18:
倭 と読むのが通説で ある...私には左が 人偏亻で右の旁は上の冠が 一 で その下の脚が 人 で ある様に見えて しまう
つまり これは
の省画か何かで、倭字 の旁に 女字 が入っているのを嫌い、これを排除したと言う事か
人偏では無く獣偏犭にも見えるが、それは気のせいで あろう...
註19:
冠が 二 で脚が 日 の
に見える
嘗字 の省画と見做す論者も いる
註20:
後 か
註21:
世 か
來字 は異体字の 来字、爲字 は 為字 の正字が採用されている
来字 は省画に よる銘入れの簡略化を期待出来るが、爲字 を 為字 で置き換えなかった理由は、良く分からない
銘文に泰和四年と あるが、これは東晋朝の太和四年(369年) と見做す読解が、現在の主流説で あるかと思う
他に泰始四年と唱(とな)えている論も あるが、日本書紀の神功皇后 52年(372年か?) に七枝刀献上の記事が あるので、これに符合する もので あろう
北魏 孝文帝 の太和四年(480年) と解する人も いる かも知れない
6. 七支刀 に関する諸疑問を考える
.1 七支刀人形 の製作時期
先ず、七支刀人形 は何時(いつ) 作られたので あろうか
石上神宮が所蔵する 七支刀 は、明治7年(1874年)に再発見されるまで その存在を忘れられていたと言う
ならば 七支刀人形 は明治7年以降に、七支刀 を見た者が九州で模造したと言う事か?
いや、実は この考えは成立しない
何故なら、どうも この 七支刀人形 は明治7年よりも前から存在していた らしいので ある
では、七支刀 の存在を見た事が無い人形師が、いきなり想像力を働かせ、七支刀人形 を作り上げたので あろうか?
いやいや、残念ながら これも到底成立し難(がた)いで あろう
七支刀 の様な一種異様な刀剣の姿を想像して創造するのは、現代の小説家でも難しいと思う
つまり、七支刀人形 を作った人形師は、何処(どこ)かで 七支刀 を実見したか、若しくは実見した者の記憶や伝承等を基に作り上げたと見做(みな)す他(ほか)無い
尤も、現在の木造人形が最初に製作された当時の物か どうかは分からない
現在の木造像は、今までに色を塗り直されて改修されて来ている らしい
木造物に着色した人形で あれば、年月を経(へ)れば塗装が色褪(あ)せたり変色したり するのは已(や)むを得ない事で ある
塗装だけで無く、木造人形で ある以上、像が折損(せっそん)したり失火で焼失する事も、当然 あり得る
また、上記でも触れているが、祠そのものも再建されている
九州と言う場所柄、台風の被害に遭い易いのは、もう致し方無いと言える
しかも九州は阿蘇山と言う活火山が あるため、一度(ひとたび) 噴火すれば附近は大火事に見舞われて しまう事、想像するに難(かた)く無い
祠が被災してしまうと なると、中の 七支刀人形 も無傷では済まない事も あり得るで あろう
となれば、祠の再建は恐らくは一度だけでは無く、そして 七支刀人形 自体も何度か修復され或いは作り直されている可能性が ある
と言うのも、厳密に言えば この 七支刀人形 の 七支刀 部分と、石上神宮 所蔵の 七支刀 では、見た目に差違が ある
多分火災での焼失や戦乱に巻き込まれて破壊されたりと言った事が あり、その都度 土地の父老の記憶や伝承に基(もと)づいて作り直したので あろう
ただ、作り直す際には人形師は当の 七支刀 そのものを見た事は無かった筈で あり、そのために実物とは少しずつ乖離した形状で作り直されて しまったのでは無いかと思う
恐らくは最後に作り直されたのは江戸時代では無いかと予想するが、如何(いかが)で あろうか
また、この 七支刀人形 は始めから木造人形では無かった可能性も ある
これは想像でしか無いが、元々は石像若しくは銅人形で あったかも知れない
それが後に経年劣化等に より木造人形で作り直される事に なり、しかも その作り直された人形が火災等で更に作り直されて世代を重ね、漸(ようや)く今に至っていると言う奇縁と なっているのかも知れない
そうだと すれば、七支刀人形 の 七支刀 部分が実際の 七支刀 と形状の差違が生じてしまっている のも、これで説明が付くかと思う
.2 七支刀 を実見した場所は何処か
七支刀人形 が納められている 高野宮 は有明海の近く、八女古墳群(岩戸山古墳を含む) の近くに ある
さて この 七支刀人形 の第一世代(以後 これを 原七支刀人形 と表記する)は、必ず何処かで 七支刀 実物を実見している筈で ある
では、一体何処で 七支刀 を見たので あろうか?
考えられる案は、以下の通りで あろうか
1) 百済から大和朝廷へ献上される際に博多を経由して輸送され、そこで実見した
2) 百済から大和朝廷に献上された 七支刀 を、大和朝廷での官庁か若しくは 石上神宮 で実見した
3) 百済から 高野宮 に一旦献上されて そこで実見し、その後 石上神宮 に移送された
私には この位しか考え付かないが、他に考えられる案が あれば、是非共当方まで お寄せ いただきたい
若し 2) の場合、では何故 七支刀人形 を福岡県で製作したので あろうかと言う疑問に、答えられないのでは無かろうか
石上神宮 に 七支刀 が存在する以上、人形も 石上神宮 に納めれば良いだけの事で ある
次に 1) の場合で あるが、七支刀人形 は 七支刀 を鞘から出して抜き身で儀仗しているので ある
輸送中の宝刀(宝剣か?) を、途中経由地で抜刀したり するで あろうか?
いやいや、その様な事は あり得ないで あろう
となると残る案は一つ、献上当初は 高野宮 か その近辺に 七支刀 が存在したものと考えざるを得ないので ある
では何故百済は 高野宮 に 七支刀 を献上したのか となるが、それは この 高野宮 の位置が幽(かす)かに指し示している様な気が、しなくも無い
.3 七支刀 銘文中の 倭王旨
高野宮 が 岩戸山古墳 の近くに位置していると言う事は、上記で述べた通りで ある
更に言えば、この地 福岡県 山門郡 は 七支刀 が献上される少し前、ほぼ同時代の事で あるが、神功皇后 が熊襲鎮定で赴いた 山門県 そのものでは無いかと思える
では、抑々 岩戸山古墳 とは何で あろうか?
伝承に言う、
筑紫君磐井 の墓で あると言う
そう、大和朝廷と覇を競った筑紫の王者なので ある
無論、七支刀 が献上されたのは 372年と思われるので、岩戸山古墳 の方が新しく、直接の相関関係は存在しない事には なる
しかし、筑紫君磐井 の祖先で あれば どうか?
【日本書紀】 卷第第十七 男大迹天皇 繼體天皇
(継体)廿一年 夏六月 壬辰 朔 甲午 近江毛野臣率衆六萬 欲往任那爲復興建新羅所破南加羅,喙己呑而合任那
於是筑紫國造磐井 陰謨叛逆 猶預經年 恐事難成 恆伺間隙
新羅知是 密行貨賂于磐井所而勸防遏毛野臣軍
於是磐井 掩據火豐二國 勿使修職 外邀海路 誘致高麗,百濟,新羅,任那等國年貢職船 內遮遣任那毛野臣軍 亂語揚言曰
今爲使者 昔爲吾伴 摩肩觸肘 共器同食
安得率爾爲使 俾余自伏儞前
遂戰而不受 驕而自矜
是以毛野臣乃見防遏 中途淹滯
天皇詔大伴大連金村,物部大連麁鹿火,許勢大臣男人等曰
筑紫磐井反掩 有西戎之地
今誰可將者
大伴大連等僉曰
正直,仁勇,通於兵事 今無出於麁鹿火右
天皇曰
可
ここで 筑紫君磐井 の事を詳しく触れる つもりは無いが、筑紫君磐井 は 筑紫国造磐井 と記録されて おり、磐井 の一族は代々九州は筑紫火(=肥か)豊の各国(つまり 筑前,筑後,肥前,肥後,豊前,豊後 六国) を支配する勢力で あったのでは無いかと思われる
ついでに言うと、実は磐井の版図は この六ヶ国だけでは無かったのかも知れない
上記の直後に続く文で あるが、
【日本書紀】 卷第第十七 男大迹天皇 繼體天皇
秋八月 辛卯 朔 詔曰
咨大連 惟茲磐井弗率
汝徂征
物部麁鹿火大連再拜言
嗟夫磐井西戎之姧猾 負川阻而不庭 憑山峻而稱亂 敗德反道 侮嫚自賢
在昔道臣爰及室屋 助帝而罰拯民塗炭 彼此一時
唯天所贊 臣恆所重
能不恭伐
詔曰
良將之軍也 施恩推惠 恕己治人
攻如河決 戰如風發
重詔曰
大將民之司命
社稷存亡於是乎在
勗哉恭行天罰
天皇親操斧鉞 授大連曰
長門以東朕制之 筑紫以西汝制之
專行賞罰 勿煩頻奏
どうやら長門や周防と言った本州の一部も、磐井の統治領で あった事が分かる
しかも、高(句)麗,百済,新羅,任那等が毎年 進貢(しんこう)船を送って来たと ある
ならば、諸国から献上される進貢物に中に 七支刀 が含まれていたと しても、何等不思議では無い
寧(むし)ろ、百済が 筑紫君磐井 に進貢している以上、百済は 筑紫君磐井 の先祖にも進貢していたと考える方が自然では無いかと思う
となると、七支刀 銘文に記銘されている、372年に 百済国 肖古王 が 七支刀 を献上した 倭王旨 とは、筑紫君磐井 の祖先で あったのでは無いかと言う疑いが浮上して来て しまうので ある
更に更に、言うのが恐いが、言えて しまえる事が ある
倭王旨 が筑紫の王者で 神功皇后 が 筑後国山門県 まで熊襲鎮定に赴いて おり、かつ 神功皇后 が 七支刀 献上に関(かか)わっていたと すると、
倭王旨 と 神功皇后 は相識 の間柄 と言う事に なって しまう
因みに相識とは、面識が あると言う事で ある
まぁ、私は 倭王旨 と 神功皇后 の関係は、相識どころか寧ろ只(ただ)ならぬ懇(ねんご)ろな深い深い関係で あったものと考えて いるので あるが...
これに ついては、以下を参照して いただきたい
神功皇后は筑紫王の側妾に身を投じ、応神天皇を産んで大和朝廷を簒奪した
応神天皇の父親は倭王旨
.4 柄と鞘が刀身と泣き別れた理由を想像する
所で 2. にも触れているが、何故この異形の刀剣は柄も鞘も現存していないのか?
これは一私見を述べるに過ぎないが、思うに遺存させてしまうと都合が悪いので敢えて廃棄せざる を得なかったのでは あるまいか
何故 都合が悪いのか?
それは、柄と鞘に所有者銘が彫刻されていたから では無いか、と考える
例えば日本刀には
拵え に家紋が散らしてある物を見た事が あるが、同様に何らか の文字や模様等が彫り込まれていて、それが他者の目に
留まると当時の為政者や石上神宮に とって
拙い事で あった のかも知れない
材質が金属で あれば刻み付けた箇所に溶かした金属を流し込めば見た目を
繕えるかも知れないが、柄や鞘は恐らくは木材で作られていた筈で、削り落としても不自然に薄くなったり木目や
材色から削った事が分かってしまうので、それで
万々 已む無く
存在を抹消されたので あろう
7. 関連 URI
参考と なる URI は以下の通り
近肖古王 - Wikipedia
岩戸山古墳 - Wikipedia
筑紫君磐井 - Wikipedia
公開 : 2015年1月6日