応神天皇の父親は倭王旨

1. 応神天皇の父親は仲哀天皇では ない


神功皇后の懐妊と出産、そして仲哀天皇の崩御から日数を計算すると、少なくとも応神天皇の父親は仲哀天皇では あり得ない事は明瞭で ある

この点に ついては、以下を参照

神功皇后は筑紫王の側妾に身を投じ、応神天皇を産んで大和朝廷を簒奪した

それでは、応神天皇の父親は、抑々(そもそも) 誰なので あろうか



2. 考察


応神天皇の父親を明(あき)らかに するための材料は、七支刀 に あると考えている

先(ま)ずは、七支刀 の銘文を読み進めて おきたい


.1 七支刀 銘文


七支刀 とは、奈良県 天理市 石上神宮 に所蔵されている、何とも異形(いぎょう)の外見を している鉄刀若(も)しくは鉄剣で ある

この 七支刀 には、銘文として表裏に以下の文字が書き入れられて いる

 四年 月十六日丙午正陽 造百練 七支刀  辟百兵 宜供供侯王     
先世以来未有此刀 百慈  竒生聖音故爲倭王旨造     

この刀剣に ついては、別途以下を参照

七支刀

銘文に 泰 (和?)四年 と あるが、これは東晋朝の 太和四年(369年) と見做す読解が、現在の主流説で あるかと思う
他に 泰始四年 と唱(とな)えている論も あるが、日本書紀の神功皇后 52年(372年か?) に 七枝刀 献上の記事が あるので、これに符合する もので あろう

要するに この銘文は、百済王若しくは百済王の世子が 倭王旨 に 七支刀 を供献したと書かれて いる様(よう)に読める

尤(もっと)も、倭王旨 と言う王者では無く "倭王の ために" "倭王に旨(むね)を" と言った、何とも不思議な解釈も する論者も いる

例えば以下の通りで あるが、

日本の名著 1 日本書紀 P.457 補注 208 (1) 七支刀

著者 : 佐伯 有清

この刀は、現在石上神宮に伝存されている七支刀にあたると考えられている。
七支刀には、表に、
「泰和四年(東晋海西公の太和四年、三六九年)某(正か四か五)月十一日純陽日中の時に、百練鉄の七支(枝)刀を作る。
以百兵を辟除し、侯王の供用とするのに宜しい。
某(あるいは工房)これを作る」、
裏に、
「先世以来未だ見なかったこのような刀を、百済王と太子とは、生命を御恩に依存しているが故に、倭王の御旨によって造った
願わくは、この刀の永く後世に伝わるように」
と読める銘が金象嵌で記されている。

倭王の御旨で百済に七支刀を鋳造させたと言うのか? それは又如何なる理由で?
その痕跡なり経緯なり は確認出来るので あろうか?
百済王家は倭国王からの要求を承知したのか?

本当に良く分からないが、少し頭の中が(う)んでいる のでは無いかと思ってしまう

度々(たびたび)書き続けて来ているが、要するに 大和朝廷至上主義教 と言う宗教に おいては、

大和朝廷内の天皇に該当しなければ倭王足り得る資格は無い

と言う事なので あろう
この宗教に ついては、以下で記した通りで ある

獲加多支鹵の訓は "ワカタケル" で正しいか -銘文を中古音で訓む-

A王B と書かれていれば B は王名で あると言う事は、以下で書いた通りで ある

獲加多支鹵大王の諱は寺

と言う事で、倭王旨 と あれば これは 旨 と言う王名の倭王で あると見做すのが、至って自然な読解で あろう

神功紀の 七枝刀 に ついては、以下で改めて述べる事と する


.2 神功紀に おける 七支刀

【日本書紀】 卷第九 氣長足姬尊 神功皇后

撰者 : 舎人親王 等

五十二年 秋九月 丁卯 朔 丙子 久氐等從千熊長彥詣之 則獻七枝刀一口,七子鏡一面及種々重寶
仍啓曰

臣國以西有水 源出自谷那鐵山 其邈七日行之不及 當飲是水 便取是山鐵 以永奉聖朝

乃謂孫枕流王曰

今我所通 海東貴國 是天所啓
是以垂天恩割海西而賜我 由是國基永固
汝當善脩和好 聚歛土物 奉貢不絶 雖死何恨

自是後 毎年相續朝貢焉

神功 52年は西暦で言うと 372年で あると思われるので、太和四年(369年) の三年後に当たり、年次は妥当で あろう
これに より、百済国 肖古王 が 372年に 七支刀 を献上して来たものと判断出来る


.3 七支刀 銘文と神功紀の関連および読解


率直に 七支刀 銘文を解すれば、369年当時に おいて百済国王で あった 肖古王 若しくは その世子(仇首王か) が倭国王で ある 倭王旨 に献上したものと見做すのが、自然な読解で あろう

369年に七支刀を記銘して いるので あるから、直(す)ぐに倭国に献上しても良さそうで あるが、実際に献上されたのは 372年と言う事に なる
何故この若干の時間差が あるのかは分からないが、これは百済内での事情か、若しくは外交上の体面に よるもので あるのかも知れない

どう言う事かと言うと、肖古王 は 372年1月に東晋に遣使しており、更に 6月には鎮東将軍に叙せられている
【晉書】 卷九 帝紀第九 簡文帝

撰者 : 唐朝 房 玄齢, 李 延壽(寿) 等

(咸安)二年(372年)春正月辛丑 百濟,林邑王各遣使貢方物

(咸安二年)六月 遣使拜百濟王餘句為鎮東將軍,領樂浪太守

この時点では倭国王は無位無官と思われるが、肖古王 は東晋に進貢して己(おの)が格式を向上させようと欲したので あろう
369年の東晋は軍重鎮の 桓 温 が実権を掌握して 廃帝 司馬 奕(えき) が辛うじて帝位を有している のみ と言う国家としての頽廃期に入って おり、最早 東晋王朝は棺桶に片足突っ込んだ瀕死の末期症状と なって しまっている
この辺りの事情は、当然百済も覚(さと)っていた筈で ある
しかし、それは それ、腐っても鯛と言う事で、死に瀕(ひん)した国家すらも利用出来るだけ利用したと言う事か

371年には 桓 温 が皇帝 司馬 奕 を廃立して傀儡に 簡文帝 を据えたので、頃合いと見た 肖古王 は正月の賀詞でも述べて東晋国都 建康 に詣(もう)で、ここで官位叙任の下工作でも行ったのでは無いかと考える
そして遂(つい)に 肖古王 が望む叙任が行われたので、これを好機と ばかりに倭国に 七支刀 を差し出したので あろう
こうする事で、実質は百済から倭国への献上で あるが、名義上は鎮東将軍百済王から無官倭国王への下賜と なる からで ある

こう言った面子(めんつ)を取り持つために、369年に鋳造記銘した七支刀を、敢えて 372年まで寝かせて時期を待った後に、値打ちが高まるのを見済(す)ましてから 倭王旨 に献上したと言う事で あろう
仲々(なかなか)に芸が細かいと言うべきか

ちなみに 簡文帝 は 372年には早々に崩御して しまうので、肖古王 に とっては鎮東将軍の叙号を行うために践祚した恩人の様な感懐を抱いていたかも知れない
これは、簡文帝 の "最後の御奉公" で あったと書いては言い過ぎで あろうか

なお、倭王旨 は無官の倭国王で あったが、百済王が鎮東将軍として外交面で面目を保(たも)ったのを見て、些(いささか)か考える所が あったものと思われる
これが後に倭の五王に よる諄(くど)いと言うか しつこい までの叙任要求(使持節,都督,諸軍事,安東大将軍,倭国王、後に鎮東大将軍や征東大将軍) と なるので あろう

これは蛇足かも知れないが、Wikipedia の 司馬 奕 に関する記事を見ても、司馬 奕 の読み仮名が記されていない

廃帝 (東晋) - Wikipedia

思うに これは、この記事を書いた者には 奕字 の正しい表音の仕方が分からなかったので、適当に誤魔化(ごまか)しているのでは無いかと思う

奕字 の正しい表音は、以下の通りで ある

奕の表音
上古音 中古音 中世音 現代音 呉音 漢音 万葉仮名
d̩iăk(ィァク) yiɛk(ィェク) iəi(イェイ) i(イ) ヤク エキ 該当する表音無し

これを読みに、上古音の d̩iăk を表音する際には呉音の ヤク が相応しく、中古音の yiɛk を表音するので あれば エキ が相応しい事が分かる
東晋朝は中古音の時代なので、奕字 の表音は中古音に対応する エキ を採用すべきで ある事に なる

つまり、上にも記した通りで あるが、司馬 奕(えき) が正しい


.4 倭王旨と神功皇后の関係


七支刀 と言う刀剣は、倭王旨 と神功皇后を繋ぎ合わせて考える事を可能とする、一種の鎹(かすがい)の様な もので あろう
この不思議な刀剣に より、倭王旨 と神功皇后が同時代を生きていた歴史上の人物で ある事が、特定出来るからで ある

しかしながら、神功皇后が在世していた頃の 倭王旨 とは、誰で あろうか?
先(ま)ずは仲哀天皇が思い浮かぶが、七支刀 が献上されたのは 372年なので ある
さて この時点で、仲哀天皇は在世で あったかと言うと、
【日本書紀】 卷第八 足仲彥天皇 仲哀天皇

(仲哀)九年 春二月 癸卯 朔 丁未 天皇忽有痛身而明日崩 時年五十二
卽知不用神言而早崩一云 天皇親伐熊襲 中賊矢而崩也

当然ながら 375年時点では、仲哀天皇は崩御して久(ひさ)しい

ならば と言う事で、次代天皇の応神天皇かと言えば、
【日本書紀】 卷第九 氣長足姬尊 神功皇后

(神功)三年 春正月 丙戌 朔 戊子 立譽田別皇子爲皇太子 因以都於磐余是謂若櫻宮

【日本書紀】 卷第十 譽田天皇 應神天皇
(應神)元年 春正月 丁亥 朔 皇太子卽位 是年也太歲庚寅

神功 52年(372年) の段階では、応神天皇は未(ま)だ皇太子で あり、天皇には即位して いない
つまり、応神天皇も また 倭王旨 では あり得ないと言う事に なる

では この当時、大和朝廷の頂点に君臨していたのは誰かと言えば、神功皇后を措(お)いて他(ほか)には いない
では神功皇后が 倭王旨 かと言うと、これも無理が ある
何故なら、日本書紀,古事記の何処(どこ)を探しても、神功皇后が 倭王旨 と名乗ったと言う記録が見当たらないので ある

因(ちな)みに神功皇后の名は、日本書紀では 氣長足姬尊(気長足姫尊)と書かれて おり、古事記では 息長帶比賣命(息長帯比売命) と記録されている
見れば誰の目にも一目瞭然で あるが、何処にも 旨 と言う字が表れないので、倭王旨 と神功皇后の同一人物関連性は全く無い事に なる

つまり、倭王旨 は大和朝廷内の人物では無いので ある

では 倭王旨 は何処の者かと言えば、恐らくは九州、それも筑紫の王者で あろうと思う

上記の 七支刀 で述べているが、この 倭王旨 は恐らくは 筑紫君磐井 の先祖で、八女古墳群(岩戸山古墳を含む) の一帯を支配していた豪族なので あろう
そして 七支刀 が献上された際に、高野宮(こうやのみや) 若しくは その近くで 七支刀 を受領した筑紫王で あったと考える
当時の東アジア,日本近国諸国の共通認識として、倭王と見做(みな)されていたのは、仲哀天皇が熊襲鎮定に失敗して敗死した大和朝廷では無く、実際に熊襲を鎮定したと思われる筑紫王の方で あったのでは無いか

そして ここからが重要なので あるが、仲哀天皇の崩御時点で、神功皇后は応神天皇を懐妊して いない
応神天皇の出産日が仲哀九年十二月十四日で ある事が分かっているので、これから逆算すると、懐妊日は概(おおむ)ね仲哀九年二月後半から三月後半と言う事に なる

では この時期、神功皇后は何処に いて何を していたのか?

答えは明瞭、熊襲鎮定中若しくは鎮定出軍準備段階に身を置いていたので ある
場所は何処か? 当然、筑紫国で ある

そう、神功皇后が懐妊した地に、筑紫王 倭王旨 が存在していたので ある
いや、これは言葉が正確では無いと言うべきか
正確には、筑紫王 倭王旨 の統治直轄領内に神功皇后が態々(わざわざ)入り込んだ、ので ある

何故入り込んだのか?

それは、仲哀天皇の側妾で あった神功皇后が頼るべき権力者を喪(うしな)い、その後の身の振り方を悩んだ神功皇后は、熊襲鎮定のため現地に いた最大権力者で ある筑紫王に、素早く鞍替(くらが)えを敢行して のけたので あろう

これに ついては、以下を参照

神功皇后は筑紫王の側妾に身を投じ、応神天皇を産んで大和朝廷を簒奪した

そう、応神天皇の父親は、筑紫王 倭王旨 で あったので ある



3. 結論


神功皇后が熊襲鎮定時に応神天皇を懐妊した際、その地に存在していた者で応神天皇の父親に相応(ふさわ)しい人物は、熊襲鎮定で主力軍として軍旅を統帥したと思われる 筑紫王 を措いて、他には誰も見当たらない
となれば、応神天皇の父親は その 筑紫王 と見做すのが妥当で あろう

そして その 筑紫王 とは、実は筑紫国の王者のみに非(あら)ず、実は百済の 肖古王 若しくは その世子から 七支刀 を献上されて倭王と見做されていた 倭王旨 の事で あったので ある



4. 関連 URI


参考と なる URI は以下の通り

七支刀 - Wikipedia
神功皇后 - Wikipedia
応神天皇 - Wikipedia

公開 : 2015年1月7日
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