矛盾

1. 秦も恐れた楚の鉄製兵器


【韓非子】 [難篇 一] および [難勢篇 五] に基づく故事成語

矛盾の語は法家に立つ韓非が儒家の批判を目的として誂(あつら)えたか、若(も)しくは当時市井に流布されていた説話
古代の聖天子堯,舜を矛と盾に準(なぞら)えている



2. 出典


多少言い回しが異なるが、趣旨は変わらない
【韓非子】 難篇 一

楚人有鬻盾與矛者 譽之曰

吾盾之堅 莫能陷也

又譽其矛曰

吾矛之利 於物無不陷也

或曰

以子之矛 陷子之盾 何如

其人弗能應也
夫不可陥之楯與無不陥之矛 不可同世而立
今堯舜之不可両譽 矛楯之説也

【韓非子】 難勢篇 五

人有鬻矛與楯者 譽其

楯之堅 物莫能陷也

俄而又譽其矛曰

吾矛之利 物無不陷也
人應之曰

以子之矛陷子之楯何如

其人弗能應也
以為不可陷之楯 與無不陷之矛 為名不可兩立也
夫賢之為勢不可禁 而勢之為道也無不禁 以不可禁之勢 此矛楯之說也 夫賢勢之不相容亦明矣



3. 矛盾の歴史背景


諸人の解説では この故事を楚の国での出来事と解している者が多いが、私は違う と思う
この説話は楚商(楚の商人)が中原で商業活動を行おう としている場面で あろう

春秋時代の中原に おいて、主兵装は銅矛や銅戈で あった
華北では乾燥地が多く馬に よる移動が便利なため、戦闘の主力兵種は兵車で あった
特に銅戈は、兵車に搭乗した際に敵兵車の将を引き摺(ず)り下ろす と言った用途に使用されたもの と思われる
これを防ぐため、兵車内には盾が並べられた
当時の兵器に使用された材質は青銅で あった
なお、春秋時代に呼称される "千乗之国" "一天万乗" と言った語は兵車の数であり、多数の兵車を持つ当時の諸侯を指している

やがて戦国時代に なると、楚で精錬技術が発達し、鉄が兵器の材料に使用される様に なった
春秋戦国時代に おいて、初期の鉄器が湖南省長沙に集中している点から見ても、上記の矛盾説話と一致する
上記説話の中で楚商が喧伝しているのは、青銅盾を貫通する鉄矛と青銅矛を受け止める鉄盾なので ある
そう、この楚商とは武器商人、所謂(いわゆる) "死の商人" なのである

不思議なのは、この行商は楚から すれば利敵行為で あると言う事だ
楚に おける主兵装は剣で あるため、矛と盾は楚国内での使用を想定して いない事に なる
当時の江南では沼沢地が多く、野戦では馬が泥濘(ぬかるみ) に足を取られるので兵車を充分に活用出来ず、そのため主力兵種は歩兵軍と せざるを得ない
また楚人は華北の漢族に比べ身長が低く、装備する武器も小型で、白兵戦では盾を持つと戦闘効率が低下してしまう
そのため、矛よりも小振りな剣を、そして刃を鋭利に仕上げられる鉄剣を他国に先んじて実戦に投入し、短躯な体格を逆用した歩兵軍に よる密集突撃戦法を考案したので あろう
鉄剣では なく鉄矛を作ると言う事は、この楚商は始めから他国で使用するために兵器を製造し、遠路中原に売り込み を している事に なる
当然の事ながら、鋭利な武器と頑丈な盾を販売した後で楚は その販売先と戦闘に及ぶ可能性が ある
国家としての楚は、武器商人の武器販売を統制しなかったので あろうか

抑々(そもそも)論として、鉄器を作るのは商人個人で簡単に行えるものでは無い様(よう)にも思える
鉄山の確保から始まって鉄鉱の採掘、溶鋼(溶融銑鉄法)や精錬(鍛錬精製)と幾つもの工程を経た上で、鍛冶屋が剣や矛を作るので ある
当時の製鉄の手法として捉えると、恰度 鍛鉄法から鋳鉄法への転換期に当たると思われるが、これは製陶集団との共同作業が前提と なろう
鉄は塩と共に漢代以降では国営と されて来た歴史が あるが、楚では未だ鉄の流通統制は行われて いなかった と言う事か



4. 関連 URI


参考と なる URI は以下の通り

矛盾 - Wikipedia

鉄製武器が楚から倭に伝播した点に ついて、以下で触れている

金属製武器は年代別に日本に伝播した

公開 : 2014年3月21日
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