越裳は東鯷か

1. 越裳は越南(ヴィェトナム)と言う説


論衡には倭人が登場するが、この事録には倭人が単体で記載されているのでは無く、越裳と倭人が並置されて記述されている
どうやら当時の漢族は、倭人と越裳を取り合わせて認識していたもので ある らしい
いや、確実に そうと言い切れる根拠を明らかに出来ないが、例えば次節の 2. 倭人と並置される越裳と東鯷人 に掲げた論衡の引用箇所を読む限りでは、倭人と越裳が何がしか の理由が あって関連付けられて いる(よう)に思えてしまう

通説では、この越裳を百越から越南(ヴィェトナム)に かけての地域と捉(とら)える様で ある
或(ある)いは、地域では無く 其処(そこ)に居住していた民族若(も)しくは部族の名称で あるのかも知れない

これに ついては私も、少し前までは この通説に疑問を抱いては いなかった

因(ちな)みに書くと、越は 粤 とも表記する らしいが、これは漢語上古音等で表音が一致していたからで あろうか

と言う訳(わけ)で、調べて見る事と した
結果は以下の通りで ある

越と粤の表音
上古音 中古音 中世音 現代音 呉音 漢音 万葉仮名
ɦɪuăt(ゥィゥァッ) ɦɪuʌt(ゥィゥァッ) iue(イゥェ) üe(ィェ) オチ(ヲチ), エチ(ヱチ) エツ(ヱツ)
? ? ? ? オチ(ヲチ), エチ(ヱチ) エツ(ヱツ) 該当する表音無し

要するに 粤字 の表音が分からないので ある
漢語の古代発音は未(いま)だ不分明な事が多い様で、良く分からない事が多い らしい
とは言え、呉音漢音共に完全に一致しているので、漢語でも同音で あった事は容易に察せられる事では ある

ただ、西周朝に おいて世に出た越裳は以降 歴史,史書類に殆(ほとん)ど登場しなく なって しまうので、その後どうなって しまったのか、抑々(そもそも)越裳と言う名称は地名なのか民族部族なのかと言った諸疑問を追跡出来なくなって しまっているので ある
この点、非常に残念に思えて ならない

いや、本当に追跡出来なくなって いるので あろうか?



2. 倭人と並置される越裳と東鯷人


越裳は以下の経書に登場する
【論衡】 卷第八 儒增篇 第二六

著者 : 東漢朝 王充

周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯艸 食白雉服鬯艸 不能除凶

論衡には他(ほか)にも越裳 若(も)しくは越常が現われている箇所は あるが、本考察では割愛する
論衡に おける倭人と越裳に関する原文は、以下を参照されたい

論衡

越裳と倭人が並置されているのは大変興味深い

次は史書の本文では無く註書(ちゅうしょ)の引用文として引かれている箇所に なる
註書のみ記しても良いが、本文が短い事も あり、註の背景を知るためにも併載して おく
【三國志】 卷二 魏志 文帝紀 第二

撰者 : 西晉(晋)朝 陳壽(寿)

(黄初)七年(226年) 春 正月 將幸許昌
許昌城南門無故自崩 帝心惡之遂不入
壬子 行還洛陽宮
三月 築九華臺
夏 五月 丙辰 帝疾篤
召中軍大將軍曹眞,鎭軍大將軍陳羣,征東大將軍曹休,撫軍大將軍司馬宣王 竝受遺詔輔嗣主
遣後宮淑媛,昭儀巳[註1]下歸其家
丁巳 帝崩于嘉福殿 時年四十魏書曰 𣩵於崇華殿前
六月 戊寅 葬首陽陵 自𣩵及葬 皆以終制從事
魏氏春秋曰

明帝將送葬 曹眞,陳羣,王朗等以暑熱固諫 乃止

孫盛曰

夫窀穸之事 孝子之極痛也 人倫之道於斯莫重

故天子七月而葬 同軌畢至
夫以義感之情 猶盡臨隧之哀 況乎天性發中 敦禮者重之哉
魏氏之德 仍世不基矣
昔華元厚葬 君子以爲棄君於惡 羣等之諫 棄孰甚焉
鄄城侯曹植爲誄曰

惟黃初七年五月七日 大行皇帝崩 嗚呼哀哉
于時天震地駭 崩山隕霜 陽精薄景 五緯錯行 百姓呼嗟 萬國悲傷 若喪考妣 恩過慕[註2]唐 擗踊郊野 仰想穹蒼 僉曰何辜 早世殞喪 嗚呼哀哉
悲夫大行 忽焉光滅 永棄萬國 雲往雨絶
承問荒忽 惛懵哽咽 袖鋒抽刃 歎自僵斃 追慕三良 甘心同穴
感惟南風 惟以鬱滯 終於偕沒 指景自誓
考諸先記 尋之哲言 生若浮寄 唯德可論 朝聞夕逝 孔志所存
皇雖一沒 天祿永延 何以述德 表之素旃 何以詠功 宣之管絃
乃作誄曰

皓皓太素 兩儀始分 中和産物 肇有人倫 爰曁三皇 寔秉道眞 降逮五帝 繼以懿純 三代制作 踵武立勲
季嗣不維 網漏于秦 崩樂滅學 儒坑禮焚 二世而殲 漢氏乃因 弗求古訓 嬴政是遵 王綱帝典 閴爾無聞
求光幽昧 道究運遷 乾坤𢌞歷 簡聖授賢 乃眷大行 屬以黎元
龍飛啓祚 合契上玄 正行定紀 攺號革年 明明赫赫 受命于天
仁風偃物 德以禮宣 祥惟聖質 嶷在幼妍
庶幾六典 學不過庭 潛心無罔 亢志靑冥
才秀藻朗 如玉之瑩 聽察無嚮 瞻覩未形
其剛如金 其貞如瓊 如冰之潔 如砥之平
爵公無私 戮違無輕 心鏡萬機 攬照下情
思良股肱 嘉昔殷呂 搜揚側陋 舉湯代禹
㧞才巖穴 取士蓬戸 唯德是縈 弗拘禰祖
宅土之表 道義是圖 弗營厥險 六合是虞
齊契共遵 下以純民 恢拓規矩 克紹前人
科條品制 襃貶以因 乘殷之輅 行夏之辰
金根黃屋 翠葆龍鱗 紼冕崇麗 衡紞維新 尊肅禮容 矚之若神
方牧妙舉 欽於恤民 虎將荷節 鎭彼四鄰 朱旗所剿 九壤被震 疇克不若 孰敢不臣 縣旌海表 萬里無塵
虜備凶徹 鳥殪江岷 權若涸魚 乾腊矯鱗 肅愼納貢 越裳效珍 條支絶域侍子內賔
德儕先皇 功侔大古
上靈降瑞 黃初叔祜 河龍洛龜 陵波游下
平鈞應繩 神鸞翔舞 數莢階除 系風扇暑
皓獸素禽 飛走郊野 神鍾寶鼎 形自舊土
雲英甘露 瀸塗被宇 靈芝冒沼 朱華蔭渚
囘囘凱風 祁祁甘雨 稼穡豐登 我稷我黍
家佩惠君 戸蒙慈父
圖致太和 浴德全義
將登介山 先皇作儷
鐫石紀勲 兼錄衆瑞 方隆封禪 歸功天地 賔禮百靈 勲命視規 望祭四嶽 燎封奉柴 肅于南郊 宗祀上帝
三牲旣供 夏禘秋嘗 元侯佐祭 獻璧奉璋
鸞輿幽藹 龍旂太常 爰迄太廟 鍾鼓鍠鍠 頌德詠功 八佾鏘鏘
皇祖旣饗 烈考來享 神具醉止 降茲福祥
天地震蕩 大行康之 三辰暗昧 大行光之 皇紘絶維 大行綱之 神器莫綂 大行當之 禮樂廢弛 大行張之 仁義陸沈 大行揚之 潛龍隱鳳 大行翔之 疏狄遐康 大行匡之
在位七載 元功仍舉 將永太和 絶跡三五 宜作物師 長爲神主 壽終金石 等算東父 如何奄忽 摧身后土 俾我煢煢 靡瞻靡顧
嗟嗟皇穹 胡寧忍務 嗚呼哀哉
明監吉凶 體遠存亡 深垂典制 申之嗣皇
聖上虔奉 是順是將 乃剏玄宇 基爲首陽 擬迹穀林 追堯慕唐 合山同陵 不樹不疆 塗車芻靈 珠玉靡藏
百神警侍 來賔幽堂 耕禽田獸 望魂之翔
於是俟大隧之致功兮 練元辰之淑禎 潛華體於梓宮兮 馮正殿以居靈
顧望嗣之號咷兮 存臨者之悲聲 悼晏駕之旣疾兮 感容車之速征
浮飛魂於輕霄兮 就黃墟以滅形 背三光之昭晰兮 歸玄宅之冥冥
嗟一往之不反兮 痛閟闥之長扃
咨遠臣之眇眇兮 感凶諱以怛驚 心孤絶而靡告兮 紛流涕而交頸
思恩榮以橫奔兮 閡闕塞之嶢崢 顧衰絰以輕舉兮 迫關防之我嬰
欲高飛而遙逝兮 憚天網之遠經 遙投骨於山足兮 報恩養於下庭
慨拊心而自悼兮 懼施重而命輕 嗟微軀之是效兮 甘九死而忘生 幾司命之役籍兮 先黃髮而隕零 天蓋高而察卑兮 冀神明之我聽
獨鬱伊而莫愬兮 追顧景而憐形 奏斯文以寫思兮 結翰墨以敷誠 嗚呼哀哉

註1:

已字 の誤か

註2:

思慕過唐 の誤らしい


曹植 が誄詞(るいし)と言うか誄詩と言うべきものか を文書で届けたものと思うが、それが引用されている

誄(シノビゴト)とは - コトバンク

そして ここにも粛慎,條支とともに越裳の語が現れている
どうやら越裳は東漢朝から曹魏朝への王朝交代と期を同じくして貢献していた らしい
期を同じくとは言っても、魏朝への禅譲を祝しての もので あったのか、それとも他の理由で行われたのかは良く分からない

條支はシリアの事で ある らしい
侍子内賓 と あるので、遠くシリアの地から 質子(ちし:人質?)を魏朝廷内に差遣(さけん)されたと言う事に なる

私は少しく不思議に思ってしまうので あるが、越裳は どうして魏朝に貢献したので あろうか
若し越裳がヴィェトナムの事で あると すれば、越裳は地理的に見て呉の孫権に貢献して然(しか)るべき、と考えてしまう
無論、この文だけでは呉には貢献せずに魏に対して のみ貢献していたのか どうかは分からない
或いは魏呉を両天秤に かけて いたのかも知れないが、それでもヴィェトナムから敢えて魏朝に朝献する理由が分からない

若し この越裳を呉の南では無く、呉魏どちらにも朝貢出来る地理上に存在していたと したら、さて どうなるで あろうか

粛慎は晋代には挹婁と呼ばれていた らしいので、魏代も同様に呼ばれていたので あろう
以下を見る通り、魏志東夷伝には挹婁伝は あるが粛慎伝は見当たらない
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 挹婁傳

挹婁在夫餘東北千餘里 濱大海 南與北沃沮接 未知其北所極

それを敢えて魏代に おける現代呼称である挹婁では無く、歴史ある名称で ある粛慎の語が使用されている
この誄は詩に近いものとして文が練られている様に見受けられるので、或いは 曹植 が敢えて粛慎の語を用いたと言う事は あるかも知れない
ならば、越裳も この時代には越裳とは呼ばれて いなかったのか、とも考えてしまう

周代に現われた越裳は その後 経書,史書から姿を消してしまうので あるが、代わりと言って良いのか、西漢朝の世に おいて不思議な存在が登場する事に なる
これが、東鯷人で ある
【漢書】 卷二十八 地理志第八下 燕地

撰者 : 東漢朝 班固 班昭 馬続(ばしょく) 等

樂浪海中有倭人 分爲百餘国 以歲時來獻見云

【漢書】 卷二十八 地理志第八下 吳地

會𥡴海外有東鯷人 分爲二十餘國 以歲時來獻見云

記述章節は燕地と呉地で別々に書かれているが、固有部分以外は判で押した様に共通した文体と なっている事、明瞭で ある
当然と言うべきで あるが、倭人と東鯷人の存在を非常に意識した上で記述されているものと見做す他無い

倭人は上記 論衡には西周朝に貢献した記録が あるので、献見と あるは それを指すものと思われる
尤(もっと)も、歳時(=年毎?) と あるので、或いは西周朝若しくは東周燕国、ないし西漢朝に おいて歳時貢献を行っていた事蹟が あったのかも知れない

とは言え、若し西漢代に倭人の入貢が あれば、王充は漢書 本紀 や列伝に その際の暦年や献見の詳細を撰録するで あろう
例えば漢書には西南夷両粤朝鮮伝と言う列伝が あるが、ここに倭人の列伝を残すと言うのが、道理に適(かな)っている
しかし本紀,列伝に記録が無い以上、倭人の献見は西漢代のものでは無い事に なる

となると やはり、倭人の献見は論衡に ある西周代の事と見做して おくのが、最も蓋然性が高い考察かと思う

倭人の貢献は西周朝で良いとして、さすれば次に考えるべきは、東鯷人の献見は何時(いつ)の出来事で あったか、と言う事に なる
倭人の入貢が西周当時の事で、それが論衡に記載が あると なると、呉地 の 東鯷人 も先史前書に書き残されていなければ ならない筈で ある
それは 論衡 なのか、それとも その他の書、例えば 山海経 等に あるのか、私には分からない

東鯷人 と言う名称は 漢書 が初出で あるかと思われるので、或いは 東鯷人 と称される前の呼称が あったのかも知れない
しかし、漢書が撰録された当時の東漢朝の人には、東鯷人 と言えば それ以前に どう呼ばれて いたのか、既知の事柄で あったと言う事か

この後(のち) 東鯷人は後漢書に再録されるまで史書に登場しなく なって しまうので、越裳同様その後どうなったのか分からない

王充が漢書を撰録するに当たり基に した史料が ある筈で、范曄は後漢書を撰録する際に原史料を再利用したのか、それとも漢書から引いて来たのかは分からないが、後漢書にも漢書同様に東鯷人に関する記載が ある
【後漢書】 卷八十五(一百十五) 列傳卷七十五 東夷傳 倭傳

撰者 : 南朝劉氏宋朝 范曄

會𥡴海外有東鯷人鯷音 達奚反 分爲二十餘國
又有夷洲及澶洲

要するに前半は漢書からの丸写しで あり、後半は東鯷人の近隣地域の追加知識と言う事で あろうか
確かに漢書では会稽海外と あるだけで、場所を特定出来ていなかったと言う事かも知れない

夷洲は台湾の事で あろうから、澶洲は沖縄の事で あろう
澶洲の住人が東鯷人なのか、それとも澶洲は沖縄本島 若しくは先島諸島で、東鯷人は薩南諸島に居住していたと言う事なのかも知れない

実は日本書紀にも、薩南諸島の種子島, 屋久島, 奄美大島が登場する
【日本書紀】 卷第廿三 息長足日廣額天皇 舒明天皇

元年 春正月 癸卯 朔 丙午 大臣及群卿 共以天皇之璽印 獻於田村皇子
則辭之曰

宗廟重事矣
寡人不賢 何敢當乎

群臣伏固請曰

大王先朝鍾愛 幽顯屬心
宜纂皇綜 光臨億兆

卽日 卽天皇位
夏四月 辛未 朔 遣田部連闕名掖玖

【日本書紀】 卷第廿三 息長足日廣額天皇 舒明天皇

(二年)秋八月 癸巳 朔 丁酉 以大仁犬上君三田耜,大仁藥師惠日 遣於大唐
庚子 饗高麗百濟客於朝
九月 癸亥 朔 丙寅 高麗,百濟客歸于國
是月 田部連等至自掖玖

ここに現れる掖玖が今の屋久島で あろう
掖字の現代音は漢音の エキ で あるために 掖玖 を エキク と読みたくなるが、当時の表音では ィァク かと思われる
何故なら、屋久島は漢語で 夷邪久(イヤク)国 と表記されているからで ある

屋久島は以下の通り 隋書 流求国伝 に登場している
【隋書】 卷八十一 列傳第四十六 東夷傳 流求國

撰者 : 唐朝 魏徴 等

大業元年(605年) 海師何蠻等 每春秋二時 天淸風靜 東望依希 似有煙霧之氣 亦不知幾千里
三年(607年) 煬帝令羽騎尉朱寬 入海求訪異俗 何蠻言之 遂與蠻俱往 因到流求國
言不相通 掠一人而返
明年(608年) 帝復令寬慰撫之 流求不從 寬取其布甲而還
時俀國使來朝 見之曰

夷邪久國人所用也

隋書 流求国伝に ついては、以下を参照されたい

隋書 流求国伝

【日本書紀】 卷第廿六 天豐財重日足姬天皇 齊明天皇

三年 秋七月 丁亥 朔 己丑 覩貨邏國男二人女四人漂泊于筑紫言 臣等初漂泊于海見嶋

海見嶋(あまみしま)と あるのが、今の奄美群島の奄美大島と思われる
【日本書紀】 第廿九 天渟中原瀛眞人天皇 下 天武天皇

六年 春正月 甲子 朔 庚辰 射于南門
二月 癸巳 朔 物部連摩呂 至自新羅
是月 饗多禰嶋人等 於飛鳥寺西槻下

多祢嶋(たねしま)人等 とあるのが、種子島の住人の事で あろう
【日本書紀】 第廿九 天渟中原瀛眞人天皇 下 天武天皇

(八年)十一月 丁丑 朔 庚寅 地震
己亥 大乙下倭馬飼部造連爲大使,小乙下上寸主光父爲小使 遣多禰嶋 仍賜爵一級

倭馬飼部造連と下上寸主光父を多袮嶋に遣(つか)わしたと あるので、種子島の地勢風土や政治機構と言った事を調査把握せんと試(こころ)みたので あろう
【日本書紀】 第廿九 天渟中原瀛眞人天皇 下 天武天皇

(十年)八月 丁卯 朔 丁丑 大錦下上毛野君三千卒
丙子 詔三韓諸人曰

先日復十年調税旣訖
且加以 歸化初年倶來之子孫 並課役悉免焉

壬午 伊勢國貢白茅鴟
丙戌 遣多禰嶋使人等貢多禰國圖 其國去京五千餘里 居筑紫南海中 切髮草裳 粳稻常豐 一殖兩收 土毛支子,莞子及種々海物等多
是日 若弼歸國
九月 丁酉 朔 己亥 遣高麗新羅使人等共至之拜朝
辛丑 周芳國貢赤龜 乃放嶋宮池
甲辰 詔曰

凡諸氏有氏上未定者 各定氏上而申送于理官

庚戌 饗多禰嶋人等于飛鳥寺西河邊 奏種々樂

多袮国と あるので、国と認識されている事が分かる
多袮は筑紫の南に あり、奈良から五千余里と言うが、本当に五千余里も あったので あろうか
なお、この当時の多袮の地図と言うものは、見て みたいと思う
【日本書紀】 第廿九 天渟中原瀛眞人天皇 下 天武天皇

(十一年)秋七月 壬辰 朔 甲午 隼人 多來貢方物
是日 大隅隼人與阿多隼人相撲於朝庭 大隅隼人勝之
庚子 小錦中膳臣摩漏病 遣草壁皇子尊,高市皇子而訊病
壬寅 祭廣瀬龍田神
戊申 地震
己酉 膳臣摩漏 卒 天皇驚之大哀
壬子 摩漏臣 以壬申年之功贈大紫位及祿 更皇后賜物 亦准官賜
丙辰 多禰人,掖玖人,阿麻彌人 賜祿各有差

掖玖人とは屋久島の住人で あり、阿麻弥人は奄美大島の住人で あろう

この地域は長らく どの勢力にも属していない状態が続いていたが、やがて大和朝廷に服属したと言う史実を暗示しているものかと思う

どの勢力にも属していないと言う事は つまり中国史書にも登場しなかったと言う事を示している可能性が あるが、と同時に ある時点では周朝に属していた期間も あったと言う事かも知れない

この辺(あた)りは憶測推測の域を出ないが、若し薩南諸島が東鯷人の居住地で あると すれば、東鯷国や東鯷洲と言った名称で呼号されなかった理由も想像出来る
台湾や済州島、九州島と言った比較的大きな島では無かったために一つの組織,国家と して まとまる事が叶(かな)わず、集団名として東鯷人と言う名称が定着して しまったと言う事か



3. 記録と考察の綴(と)じ合わせ


ただし、残念ながら上記論説は決定打と なる根拠を揃える事を得て いない
これ以上の論を進めるには、余りにも材料が足りないので ある

しかし それでも尚(なお)敢えて現時点で出来る事、つまり歴史記録と考察の綴じ合わせを行うと すれば、以下の事を列記する事は可能で ある

1) 西周代の歴史に越裳が登場し、周朝に服属していたと思われるが、その後の痕跡は掴めない

2) 西漢朝の史書に東鯷人が登場したが、その後の痕跡は捉えられない

3) 倭人と越裳は並置されて記述されて おり、倭と東鯷人は記述が前後関係に あるため、当時の漢族は越裳と東鯷人を同存在と意識していた可能性が ある

4) 東鯷人は澶洲と地理上に おいて関係性が ある

5) 薩南諸島は七世紀から八世紀に かけての時点で大和朝廷に服属したものと考えられる


さて、これら五行文(ぎょうぶん)から導かれる仮説としては、

越裳 = 東鯷人 = 薩南諸島(種子島,屋久島,奄美大島等)


として等式を敷(し)く事が可能で あろうと考える所で ある



4. 関連 URI


参考と なる URI は以下の通り

越裳 - Wikipedia
屋久島 - Wikipedia
種子島 - Wikipedia
奄美大島 - Wikipedia

公開 : 2015年4月1日
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