卑弥呼は殺されたのか

1. 卑弥呼は殺されたと言う主張


井沢氏は著書で、卑弥呼は殺害されたと主張している
引用しよう
【逆説の日本史】 1 古代黎明編 P.242

ずばり言おう。それは卑弥呼の死の状況である。

私は、卑弥呼は殺されたのだ、と確信している。

この人は何と言う奇怪な事を確信しているので あろうか
【逆説の日本史】 1 古代黎明編 P.248

「倭人伝」記事を読み返してみると、魏帝の意をうけた帯方郡太守王頎が、<張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拜仮せしめ、檄を為りて之を告喩す、卑弥呼以って死す>

の最後の「以って死す」のところが前段の文章のひきつづきにしては唐突な感じがする。(引用前掲書)

松本氏はこの理由を「告喩す」から「卑弥呼以って死す」の間に脱落部分があるからではないか、と推理した。

そこで、わたしはこの脱落部分をこう推測する。
この卑弥呼の「死」は殺害を意味する。
張政は卑弥呼に「死なねばならぬ」ことを喩したのである。(引用前掲書)

では、張政はなぜ卑弥呼に死を宣告したのか。

卑弥呼はどうして殺されなければならなかったのか?

【逆説の日本史】 1 古代黎明編 P.249

卑弥呼はなぜ殺されなければならなかったか。

それは、邪馬台国が狗奴国との戦争に敗れたからである。

現人神である卑弥呼は、戦争の敗北責任をとらされて「処刑」されたのである。

この引用前掲書と言うのは 松本 清張 氏の著作で、その見解に倣うと言う趣旨で書かれている
【逆説の日本史】 1 古代黎明編 P.251 ~ P.252

「魏志倭人伝」の原文を引用すれば、

倭女王卑弥呼与狗奴国男王卑弥弓呼素不和、遣倭載斯烏越等詣郡、説相攻撃状。
遣塞曹掾史張政等因齎詔書・黄幢、拝仮難升米為檄告喩之。
卑弥呼以死──。

倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず、倭の載斯烏越(人名)等を遣わして、帯方)郡に詣り、相攻撃する状を説く。
塞曹掾史(官名)の張政(人名)等を遣わし、因りて詔書・黄幢を齎らし、難升米に拝仮し、檄を為りて之に告喩す。
卑弥呼以って死す──(原漢文)。

倭の女王卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼とは、平素から不和であった。
それゆえ倭国は載斯烏越らを帯方郡(朝鮮半島にあった魏の出先機関)に派遣して、狗奴国との戦闘状況を報告させた。
これに対して(帯方郡では魏の皇帝の意を受けた)塞曹掾史の張政ら派遣した。
邪馬台国に赴いた張政らは、(皇帝からの書状と郡[註1]旗を難升米(卑弥呼の家来)に授け、ついて[註2]檄文(お触れ書)を作って教え諭した。
──して、卑弥呼は死んだ。

[註1]
郡字 ママ 恐らくは 軍字 の誤と思われる
[註2]
ついて ママ 文意不明 ついで(次いで)の誤か

著書として公開するので あれば、もう少し校正しましょうよー
誤字脱字が多くて、辟易してしまう

それに しても思うので あるが、この人は漢文の知識と言うものを全然備えていない事が分かる
いや、漢文を読解出来ないのは、井沢,松本 両氏の双方で あろう
倭人伝を完全に誤読(と言うより、独り善がりの勝手解釈)しているので ある

何故そのような事を するのか?

答は一つしかない
それは氏が、いや両氏が、と言う事かと思うが、漢文それも白文を読めないのだ

小説家だけを しているので あれば それでも良いかも知れないが、歴史研究家として著述を世に表す者で あるならば、白文を読めずして何と するのか
この一点だけでも致命的と言う他無く、彼は歴史研究家を止めるべきで あろう

いや、今それは一旦措くとして、原文の読解に戻ろう



2. 考察


上記に該当する部分の原文を以下に掲げる

フォトライブラリー | 弥生ミュージアム 三国志 魏志 倭人伝
三国志 魏志 倭人伝

【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳

撰者 : 西晉(晋)朝 陳壽(寿)

其八年 太守王頎到官
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻擊狀
遣塞曹掾史張政等因齎詔書,黄憧 拜假難升米爲檄告喻之
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
復立卑彌呼宗女壹與 年十三爲王 國中遂定
政等以檄告喻壹與
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還 因詣臺獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 靑大句珠二枚 異文雜錦二十匹

上記の影印本(写本)と原文を見れば分かるが、氏は自身の主張に都合の良い箇所のみを切り出して、さも自身の主張が正しいかの様に意識的に読者を錯誤に導いている(ミスリードさせようとしている)ので ある

引続き私の読解を以下に掲げるが、この箇所は この様に読むのが正しいので ある
(正始)八年(西暦247年) (帯方郡)太守 王頎 が任地(帯方郡)に着任した
倭女王 卑彌呼 と 狗奴國男王 卑彌弓呼 は素(もと)より不和で、(卑弥呼は)倭載 や 斯烏越 などを使者として派遣して(帯方)郡に出向かせ、狗奴国 から攻め込んで来たり逆に 狗奴国 に攻め込んだり している状況を報告した
(魏朝は)塞曹掾史 張政 などを(倭国に)派遣し、難升米 に皇帝の詔勅を書き留めた書状および皇帝の軍旗を与えた。難升米 は ひざまずいて受領した。張政 は 難升米 に(魏朝皇帝が後ろ盾と なる御意向で あると)言葉を かけて激励した
卑弥呼 が亡くなったので、盛大に墓を作った。墓の形状は円墳で、直径は人の足で百歩余り の大きさで、墓には殉死として奴婢が百人余り葬られた
再度男王が立ったが、国中が納得せず、政争で粛清が起きてしまい、千人余りが粛清された
改めて、卑弥呼 の一族で家の後継者でも ある 壱与 を立てた。年齢は十三歳、この少女が王として即位すると、政争は落ち着いた
張政ら は(政争を終わらせた) 壱与 を文書で激賞した
壱与 は倭国大夫で魏に率善中郎將に列せられていた 掖邪拘(掖邪狗) および その他の者を含め二十人を派遣して 張政 などを帰還せしめるために送り、魏の朝廷(洛陽)に赴(おもむ)いて皇帝に謁見して奴婢の男女三十人を献上し、白い玉(真珠か勾玉か)五千個と硬玉製の青い巨大勾玉二枚そして異文(倭国風模様の意か)の絹織物二十反を貢(みつ)ぎ物として奉(ささ)げた
お分かりで あろうか

漢文を まともに読解出来ぬ者が一端(いっぱし)の歴史研究者気取りで構えて見せても、(ろく)な事を書かないと言う見本で ある
氏は漢和辞典を片手に奇怪な論を並べているが、漢和辞典は その後の完成された漢文に対して解説しているので あって、三世紀での漢文を解説している訳(わけ)では無いので、漢和辞典だけで漢文を読解しよう と する態度が根本的に間違っているので ある
こう言うのを、小人閑居して不善を為す、と言うので あろう
氏の誤解誤読を明らかに して行こう
遣塞曹掾史張政等因齎詔書,黄憧 拜假難升米
私見では、張政なる者は魏朝が派遣した軍事顧問では ないかと思う
張政は難升米を女王国防衛の同志と見做し、これと共に戦争指導を担(にな)ったので あろう

氏は 張政 が 難升米 に拝仮したものと考えている様に見受けられる
私は 張政 が 難升米 に拝仮せしめたのでは ないかと思うが、塞曹掾史と率善中郎将は どちらの官位が格上なのか知らないので、何とも言えない
実は 難升米 の方が張政よりも上官で、敬礼したと言う可能性も あるかも知れない

ただ、張政 は魏朝の詔勅を持って 難升米 に手渡しているので、通常は 難升米 が 張政 に対して勅使と同等の礼を執るのが筋では ないか
映画【ラステンペラー】で 宣統帝 が即位した際、百官が 三跪九叩頭之礼 を執った場面が あるが、あれに近いと言えば伝わるで あろうか
なお、三世紀での臣礼は あの映画の場面程(ほど)物々しくは無かった筈では ある

尤(もっと)も、この文章だけでは明らかには出来かねる感は あるので、特に言うまい
爲檄告喻之
檄を檄文と解したのは、とても良い見方で ある
しかし、檄文の意が お触れ書 では かなり心許(こころもと)無い
飛檄(檄を飛ばす)や檄文と言った語の元に なったのが檄で あるが、古来は 檄字 と 激字 は通用通字で、混用していた筈で ある

何故通用していたかと言うと、当時は未だ漢文文献に おいて現代日本の様な部首の厳格さ等が要求されていなかったと言う事が挙げられる
また、檄字 と 激字 は表音が通じ、且(か)つ字義(漢字の意味)に関連が あったからと言うのも大きい
古代中国に おいて、何かしら危急時に激情を木簡に思うまま書き連(つら)ねたものが檄文と呼ばれる様に なったので ある
何の事は無い、木を削って(檄文は二尺46cm と規定されていたらしい) 思いを書き込んだため、激情の 激字 から木偏(きへん)の檄字に変わったので ある

檄文の事例は三国志に おいて、以下の様な ものが ある
これは檄文の名人と言われる 陳琳 の為(な)せる匠の業と言うべきもので ある
【三國志】 卷六 魏志 董二袁劉傳 第六 裴松之 註

魏氏春秋 載紹檄州郡文曰

蓋聞明主圖危以制變 忠臣慮難以立權
曩者彊秦弱主 趙高執柄 專制朝命 威福由己 終有望夷之禍 汙辱至今
及臻呂后 祿,產專政 擅斷萬機 決事省禁 下陵上替 海內寒心
於是絳侯,朱虛興威奮怒 誅夷逆亂 尊立太宗 故能道化興隆 光明顯融 此則大臣立權之明表也
司空曹操 祖父騰 故中常侍 與左悺,徐璜並作妖孽 饕餮放橫 傷化虐民
父嵩 乞匄攜養 因贓假位 輿金輦璧 輸貨權門 竊盜鼎司 傾覆重器
操贅閹遺醜 本無令德 僄狡鋒俠 好亂樂禍
幕府昔統鷹揚 掃夷凶逆
續遇董卓侵官暴國 於是提劒揮鼓 發命東夏 方收羅英雄 棄瑕錄用 故遂與操參咨策略
謂其鷹犬之才 爪牙可任
至乃愚佻短慮 輕進易退 傷夷折衂 數喪師徒
幕府輙復分兵命銳 脩完補輯 表行東郡太守,兖州刺史 被以虎文 授以偏師 獎蹙威柄 兾獲秦師一克之報
而操遂乘資跋扈 肆行酷裂 割剥元元 殘賢害善
故九江太守邊讓 英才俊逸 天下知名 以直言正色 論不阿諂 身被梟縣之戮 妻孥受灰滅之咎
自是士林憤痛 民怨彌重 一夫奮臂 舉州同聲 故躬破於徐方 地奪於呂布 仿偟東裔 蹈據無所
幕府唯彊幹弱枝之義 且不登叛人之黨 故復援旌擐甲 席卷赴征 金鼓響震 布衆破沮 拯其死亡之患 復其方伯之任 是則幕府無德於兖土之民 而有大造於操也
後會鑾駕東反 羣虜亂政
時兾州方有北鄙之警 匪遑離局 故使從事中郎徐勛就發遣操 使繕脩郊廟 翼衞幼主
而便放志專行 脅遷省禁 卑侮王官 敗法亂紀
坐召三臺 專制朝政 爵賞由心 刑戮在口 所愛光五宗 所惡滅三族 羣談者蒙顯誅 腹議者蒙隱戮 道路以目 百寮鉗口 尚書記朝會 公卿充員品而已
故太尉楊彪 歷典三司 享國極位 操因睚眥 被以非罪 榜楚并兼 五毒俱至 觸情放慝 不顧憲章
又議郎趙彥 忠諫直言 議有可納 故聖朝含聽 改容加錫 操欲迷奪時權 杜絕言路 擅收立殺 不俟報聞
又梁孝王 先帝母弟 墳陵尊顯 松栢桑梓 猶宜恭肅 而操率將校吏士親臨發掘 破棺裸尸 略取金寶 至令聖朝流涕 士民傷懷
又署發丘中郎將,摸金校尉 所過墮突 無骸不露
身處三公之官 而行桀虜之態 殄國虐民 毒流人鬼
加其細政苛慘 科防互設 繒繳充蹊 坑穽塞路 舉手挂網羅 動足蹈機陷 是以兖,豫有無聊之民 帝都有吁嗟之怨
歷觀古今書籍 所載貪殘虐烈無道之臣 於操為甚
幕府方詰外姦 未及整訓 加意含覆 兾可彌縫
而操豺狼野心 潛苞禍謀 乃欲撓折棟梁 孤弱漢室 除滅中正 專為梟雄
往歲伐鼓北征 討公孫瓚 彊禦桀逆 拒圍一年
操因其未破 陰交書命 欲託助王師 以相掩襲 故引兵造河 方舟北濟
會其行人發路 瓚亦梟夷 故使鋒芒挫縮 厥圖不果
屯據敖倉 阻河為固 乃欲以螳蜋之斧 禦隆車之隧
幕府奉漢威靈 折衝宇宙 長戟百萬 胡騎千羣 奮中黃,育,獲之材 騁良弓勁弩之勢 并州越太行 靑州涉濟,漯 大軍汎黃河以角其前 荊州下宛,葉而掎其後 雷震虎步 並集虜庭 若舉炎火以焫飛蓬 覆滄海而沃熛炭 有何不消滅者哉 當今漢道陵遲 綱弛紀絕
操以精兵七百 圍守宮闕 外稱陪衞 內以拘執 懼其篡逆之禍 因斯而作
乃忠臣肝腦塗地之秋 烈士立功之會也 可不勗哉

此陳琳之辭

と言う次第で あるが、当初は檄と言えば檄文と指し文書に記した もので あったが、後には文書に拠(よ)らず、口上(口頭)に より相手を奮い立たせて行動を促す事も含める様に なったので ある
氏は この箇所を "檄を為(つく)りて" と読み下しているが、"檄と為(な)して" と読めば良いかと思う
何故なら、張政 は直接 難升米 に対面しているので あるから文書で伝える必要は無いし、抑々(そもそも)檄の文面が どこにも表れていない ので ある
つまり、元々 檄の文書は作成されて なかったと言う事かも知れない

よって、私は この箇所を、張政 が女王国防衛の同志で ある 難升米 を激励したもの と読解した

余談に逸れたので、本筋に戻す
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
卑弥呼以死 は墓を作った事の切掛(きっかけ) として書かれている
誰も死んだ者が いないのに、いきなり墓を作って殉死者を埋葬する等と言う間抜けは いないで あろう
古墳時代の古墳で あっても、殉死者は墓の当事者が死没した後に殉死するもので ある
ここは以下の様に解するのが正しい

卑弥呼 が亡くなったので、遺体を葬るため盛大に墓を作った
墓の形状は円墳で、直径は人の足で百歩余り の大きさで、墓には殉死として奴婢が百人余り葬られた


歩は度量衡に おける長さの単位で あるが、短里の一歩は大人の足一歩と ほぼ同じ長さなので、意訳して この様に読解した
短里に ついては ここでは触れない

卑弥呼以死 に ついては先人の見解も あるので、参考として以下に掲(かか)げておく
【魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝】 P.54

編訳 : 和田 清, 石原 道博

なお內藤博士は「以死」を「すでに死し」とよむ。

井沢 氏は何故か この箇所を
遣塞曹掾史張政等因齎詔書,黄憧 拜假難升米爲檄告喻之 卑彌呼以死
と解しようとしている
つまり、張政 が 卑弥呼 に死を宣告したと考えている らしい

何故この様に文の途中を切り捨てたり無理に繋げようと するので あろうか

思うに これは、自説に都合が悪くなって しまうから、都合の悪い余計な箇所を省(はぶ)いて無かった事に しようと言う汚いと言うか卑怯な手法なので あろう

もし "告喩" が "死の宣告" で あれば、実は他にもう一人死ななければ ならぬ人物が出てしまう

それは誰か?
壱与で ある

この後の原文に あるので あるが、
政等以檄告喻壹與
これを読む限り、張政 は 壱与 にも "告喩" している事、明瞭で ある

では 壱与 は死んだのか?
とんでもない、壱与 は 張政 に告喩された後も死んで等(など)いない

よって、爲檄告喻之 と 卑彌呼以死 の文には何等(ら)連続性は無い事、火を見るよりも明らかで あろう
つまり、張政 は 卑弥呼 に死を宣告した訳では無いし、また 卑弥呼 も死ねと言われて死んだ訳では ないので ある

そう、これにより氏の "卑弥呼は殺されたのだ、と言う確信" は、脆(もろ)くも且(か)つ明解に、崩れ去った ので ある
更に言えば、井沢 氏は 魏志 倭人伝 を読解する上で基本と なる書籍すら読んでいない可能性が ある

これで氏の主張は完全に地に墜ちた訳で あるが、ついで なので他の箇所も読解して おく

原文を読む限り、卑弥呼 の墓は円墳で あり、前方後円墳では ない事が分かる
となると、卑弥呼 の墓の候補と されている箸墓古墳は、原文に適(そぐ)わないので ある
これに ついては、以下を参照

卑弥呼の墓は前方後円墳か

また、箸墓古墳には(現時点での調査範囲でしか無いが)徇葬者が確認されていないので、ますます 卑弥呼 の墓では ない様に見受けられる
更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
復立卑彌呼宗女壹與 年十三爲王 國中遂定
特に敢えて記述する事も無さそうなので、進める
政等以檄告喻壹與
ここで出て来る檄は、難升米 に対して行った激励とは異なり、国内の御家騒動を鎮(しず)めた功績を褒め讃(たた)えたもので あろう
この場面も檄の文面が示されていないが、張政 達が倭国側の誰かと対面した事が窺(うかが)えないため、書面を用いて意を 壱与 に伝えたので あろう
よって、私は この箇所を、張政 が 壱与 を文書で激賞した と読解した
なお、13歳の 壱与 が漢文を読解出来たのかは疑問で あるが、帯方郡との折衝に場数を踏む 難升米 が在世で あれば、教授を受ける事も可能で あったで あろう

因(ちな)みに、私は 難升米 を倭人では無く漢族で あろうと考えている
これに ついては、以下を参照

難升米は漢族

横道に逸れたので、戻す
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還 因詣臺獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 靑大句珠二枚 異文雜錦二十匹
臺とは魏臺、つまり魏の皇帝が いる朝廷を指している
詣臺 と あるので、掖邪拘(掖邪狗) 等は一旦帯方郡に向かった後、更に足を伸ばして魏朝の都 洛陽の朝廷に朝献した事が分かる


3. 以死 の事例と賜死(しし)の事例


今までは 三国志 の 魏志 倭人伝 に限定して論を進めて来たが、以死 の句が三国志全体で どの様な用法で使用されているのかを確認して おくのも、重要と言えるで あろう

と言う事で、三国志中から 以死 の用例を全て抽き出し、以下の様に整理して みた

卑弥呼以死 三国志中から以死の用例を全て抽(ぬ)き出す

これを見ると、やはり 張政 の告諭と卑弥呼 の死が関連しているかの如き読解は不可能で ある事が分かる

最後に、三国志では誰かに死を強要する場合に使用される語として、死を賜(たま)と言うものが ある
【三國志】 卷五 魏志 后妃傳第五 文昭甄皇后傳

黃初元年 十月 帝踐阼
踐阼之後 山陽公奉二女以嬪于魏
郭后李,陰貴人並愛幸 后愈失意有怨言 帝大怒
二年 六月 遣使賜死 葬于鄴

若し 張政 が 卑弥呼 を自決させたので あれば、以下の様に記述されて然るべきで ある
遣塞曹掾史張政等因齎詔書,黄憧 拜假難升米爲檄告喩之 賜死卑彌呼 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
しかし この様には書かれては いない
やはり 卑弥呼 は殺されたのでは無く、自然死で ある

公開 : 2014年5月29日
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