【三國志】 卷四 魏志 三少帝紀 第四 齊王芳以死 関連箇所の読解は以下の通り
六年 春二月 己丑 鎭東將軍毌丘儉上言
昔諸葛恪圍合肥新城 城中遣士劉整出圍傳消息 爲賊所得 考問所傳
語整曰
諸葛公欲活汝 汝可具服
整罵曰
死狗 此何言也 我當必死爲魏國鬼 不苟求活 逐汝去也
欲殺我者 便速殺之
終無他辭
又遣士鄭像出城傳消息
或以語恪 恪遣馬騎尋圍跡索 得像還
四五人的(靮か)頭面縛 將繞城表 勑語像使大呼言
大軍已還洛 不如早降
像不從其言 更大呼城中曰
大軍近在圍外 壯士努力
賊以刀築其口 使不得言 像遂大呼 令城中聞知
整,像爲兵 能守義執節 子弟宜有差異
詔曰
夫顯爵所以褒元功 重賞所以寵烈士
整,像召募通使 越蹈重圍 冒突白刃 輕身守信 不幸見獲 抗節彌厲 揚六軍之大勢 安城守之懼心 臨難不顧 畢志傳命
昔解楊執楚 有隕無貳 齊路中大夫以死成命
方之整,像 所不能加
今追賜整,像爵關中侯 各除士名 使子襲爵 如部曲將死事科
斉 孝王 の 中大夫 路卬、使者として呉王楚王が挙兵し臨菑を包囲した事を長安に伝令した殺されたが使命を果たした、と書かれている文で ある
臨菑城外で呉楚軍に捕まり、城内に降伏を呼び掛ければ助命すると取引を持ちかけ られた
路卬は城内に大声で伝えた、
長安を発した援軍は近くまで来ている
路卬は呉楚の将帥に殺害されたが、使命は果たした
【三國志】 卷九 魏志 諸夏侯曹傳 第九 曹爽傳以死 関連箇所の読解は以下の通り
十年正月 車駕朝高平陵 爽兄弟皆從
宣王部勒兵馬 先據武庫
遂出 屯洛水浮橋
奏爽曰
臣昔從遼東還 先帝詔陛下,秦王及臣升御牀 把臣臂 深以後事爲念
臣言
二祖亦屬臣以後事
(爲念 脱落か)此自陛下所見 無所憂苦
萬一有不如意 臣當以死奉明詔
黃門令董箕等 才人侍疾者 皆所聞知
今大將軍爽 背棄顧命 敗亂國典 內則僭擬 外專威權 破壞諸營 盡據禁兵 羣官要職 皆置所親
殿中宿衞歷世舊人 皆復斥出 欲置新人 以樹私計
根據槃互 縱恣日甚
外既如此
又以黃門張當爲都監 專共交關 看察至尊 侯伺神器 離間二宮 傷害骨肉
天下洶洶 人懷危懼
陛下但爲寄坐 豈得久安
此非先帝詔陛下及臣升御牀之本意也
臣雖朽邁 敢忘枉言
昔趙高極意 秦氏以滅
呂霍早斷 漢祚永世
此乃陛下之大鑒 臣受命之時也
太尉臣濟 尚書令臣孚等 皆以爽爲有無君之心 兄弟不宜典兵宿衞 奏永寧宮
皇太后令敕臣 如奏施行
臣輒敕主者及黃門令 罷爽羲訓吏兵 以侯就第 不得逗留以稽車駕 敢有稽留便以軍法從事
臣輒力疾 將兵屯洛水浮橋 伺察非常
司馬宣王(=司馬懿) が 曹爽 を失脚させるために上奏して言う、ここでは誰も死んでは いないが、死んで責任を取る、と気概を示している文で ある
嘗(かつ)て太祖(曹操)高祖(曹丕)は臣に後事を託された
陛下(曹叡)も その場で御覧に なられており、憂える事無し
万一御意向に添わぬ事と なりました ならば、臣は死を以て先帝の遺詔に奉ぜん
【三國志】 卷十一 魏志 袁張涼國田王邴管傳 第十一 田疇傳以死 関連箇所の読解は以下の通り
遼東 斬送袁尚首 令
三軍敢有哭之者斬
疇以嘗爲尚所辟 乃往弔祭 太祖亦不問
疇盡將其家屬及宗人三百餘家 居鄴
太祖賜疇車馬穀帛 皆散之宗族和知
從征荊州還 太祖追念疇功殊美 恨前聽疇之讓 曰
是成一人之志而虧王法大制也
於是乃復以前爵封疇
疇上疏陳誠以死自誓
太祖不聽 欲引拜之 至于數四 終不受
有司 劾疇狷介違道 苟立小節 宜免官加刑
太祖重其事依違者 久之
乃下世子及大臣 博議
世子以疇同於子文辭祿申胥逃賞 宜勿奪 以優其節
尚書令荀彧司隸校尉鍾繇 亦以爲可聽
太祖猶欲侯之
疇素與夏侯惇善 太祖語惇曰
且往以情喻之
自從君所言 無告吾意也
惇就疇宿 如太祖所戒
疇揣知其指 不復發言
惇臨去 乃拊疇背曰
田君主意殷勤
曾不能顧乎
疇答曰
是何言之過也
疇負義逃竄之人耳
蒙恩全活 爲幸多矣
豈可賣盧龍之塞以易賞祿哉
縱國私疇 疇獨不愧於心乎
將軍雅知疇者 猶復如此
若必不得已 請願效死刎首於前
言未卒 涕泣橫流
惇具答太祖
太祖喟然 知不可屈 乃拜爲議郎
年四十六卒 子又早死
文帝踐阼 高疇德義 賜疇從孫續 爵關內侯 以奉其嗣
曹操は遼東に逃れた袁尚を斬り、次の様に命じたここでも誰も死なずに進行し、曹操に仕える位ならば死んで見せる、と覚悟を示している文で ある
全将兵に おいて、袁尚の死を悼(いた)む者あらば斬刑に処す
田疇 は嘗(かつ)て袁尚に抜擢された恩が あり、袁尚の葬儀に赴(おもむ)いて葬祭を執り行った
これを知った曹操、敢えて罪は不問と した
田疇は一族一門三百余家の者達を残らず連れ出し、鄴に移り住んだ
曹操は田疇に貴人用の馬車や食材、織物を贈ったが、田疇は親類や知人に分け与えて しまった
曹操は刑州征戦後帰還すると、田疇の行いは賞賛に値するもので あると思い返し、以前寄贈した時には謙譲して田疇 自身は何も受け取らなかった事を残念に思い、言った
これでは一人の節義は貫かれるが、天下の政(まつりごと)では大きな損失である、断じて この人材を登用せねば ならぬ
曹操は袁尚に仕えていた頃の爵に戻して改めて田疇を自身に再出仕させようと した
田疇は曹操に上疏した
義を全(まっと)う出来なければ自ら死する覚悟を しています、出仕は平(ひら)に御容赦願います様に
曹操は許さず、爵封を拝領させようと使者を立てる事四回に及んだが、田疇は決して受けなかった
【三國志】 卷十二 魏志 崔毛徐何邢鮑司馬傳 第十二 崔琰傳以死 関連箇所の読解は以下の通り
太祖爲丞相 琰復爲東西曹掾屬徵事
初授東曹時 教曰
君有伯夷之風 史魚之直
貪夫慕名而清 壯士尚稱而厲
斯可以率時者已
故授東曹 往踐厥職
魏國初建 拜尚書
時未立太子 臨菑侯植有才而愛
太祖狐疑 以函令密訪於外
唯琰露板答曰
蓋聞春秋之義 立子以長
加五官將仁孝聰明 宜承正統
琰以死守之
植 琰之兄女壻也
太祖貴其公亮 喟然歎息 遷中尉
王太子が未だ定められていない頃、臨菑侯 曹植 は詩才等の才能が あり、敬され継嗣候補と目されていたこの箇所は非常に明解で、死んでも長幼の序を守る、と曹操および その周囲に対して宣言している場面で ある
曹操は継嗣者を迷い、書を封じて秘(ひそ)かに使者を臣達に訪問させ、継嗣者を記した書を封じて返させた
一人 崔琰 のみは木簡に継嗣者を書き、人に見られる状態で封緘(ふうかん)せずに回答した
【春秋】 の歴史書に聞く(転じて 昔からの正しい慣習では、位の意か)、継嗣は年長者を立てるべし
崔琰は曹植の姻戚で あったが、敢えて曹植を継嗣者には挙げなかった
五官中郎将(曹丕)は 仁 孝 を備え 聡明で あり、国の跡目は正しく受け継がれるでしょう
一命を賭して これ(=春秋之義)に従います
曹操は公正な言動を讃えつつも、封緘せよと命じたにも拘わらず これを無視した事を嘆き、中尉に送った(栄達か左遷か どちらで あろうか)
【三國志】 卷十二 魏志 崔毛徐何邢鮑司馬傳 第十六 蘇則傳以死 関連箇所の読解は以下の通り
徵拜侍中 與董昭同寮
昭嘗枕則膝臥 則推下之曰
蘇則之膝 非佞人之枕也
初則及臨菑侯植 聞魏氏代漢 皆發服悲哭
文帝聞植如此而不聞則也
帝在洛陽 嘗從容言曰
吾應天而禪 而聞有哭者 何也
則謂爲見問 鬚髯悉張欲正論以對
侍中傅巽掐則曰
不謂卿也
於是乃止
文帝問則曰
前破酒泉,張掖 西域通使 燉煌獻徑寸大珠
可復求市益得不
則對曰
若陛下化洽中國 德流沙漠 卽不求自至
求而得之 不足貴也
帝默然
後則從行獵 槎桎拔失鹿
帝大怒 踞胡牀拔刀 悉收督吏將斬之
則稽首曰
臣聞 古之聖王不以禽獸害人
今陛下方隆唐堯之化
而以獵戲多殺羣吏 愚臣以爲不可 敢以死請帝曰
卿直臣也
遂皆赦之
然以此見憚
黃初四年左遷東平相 未至道病薨 諡曰剛侯
子怡嗣
怡薨 無子 弟愉襲封
愉咸熙中爲尚書
蘇則 は文帝の鹿狩(しかがり)に随行したが、鹿の足枷が外れて鹿が逃げて しまったこの箇所は、飼育要員を殺すならば自分も殺せ、と迫っている迫力ある場面で ある
文帝は大いに怒り、床几に座って足を崩したまま刀を抜き、鹿舎の飼育役人 達を全員斬り捨てようと した
蘇則は地面に頭を付けて諌言した
昔の聖天子は動物に関する過失で人を処刑する事は無かったと聞きます
文帝は言った、
陛下は今まさに唐に封ぜられた帝尭の聖徳を興隆させようと して おいでです
しかしながら、狩猟での瑣事(さじ)で役人を多数殺害して しまうなど、しては ならない事です、一命を賭して お止めします
蘇則は直言直諌(ちょっかん)の臣で ある
鹿舎の飼育役人は赦(ゆる)されたが、蘇則は東平の相に左遷された
【三國志】 卷十二 魏志 崔毛徐何邢鮑司馬傳 第十六 杜畿傳以死 関連箇所の読解は以下の通り
太祖既定河北而高幹舉幷州反
時河東太守王邑被徵
河東人衞固,范先 外以請邑爲名而內實與幹通謀
太祖謂荀彧曰
關西諸將 恃險與馬 征必爲亂
張晟寇殽,澠間南通劉表 固等因之
吾恐其爲害深
河東被山帶河四鄰多變 當今天下之要地也
君爲我舉蕭何寇恂 以鎭之
彧曰
杜畿 其人也
於是追拜畿爲河東太守
固等使兵數千人絕陝津 畿至不得渡
太祖遣夏侯惇討之 未至
或(彧の誤か)謂畿曰
宜須大兵
畿曰
河東有三萬戶 非皆欲爲亂也
今兵迫之急 欲爲善者無主必懼而聽於固
固等勢專必以死戰
討之不勝 四鄰應之天下之變未息也
討之而勝 是殘一郡之民也
且固等 未顯絕王命 外以請故君爲名 必不害新君
吾單車直往 出其不意
固爲人 多計而無斷 必偽受吾
吾得居郡一月 以計縻之足矣
遂詭道從郖津度
范先欲殺畿以威衆 且觀畿去就
於門下斬殺主簿已下三十餘人 畿舉動自若
於是固曰
殺之無損 徒有惡名
且制之在我
遂奉之
畿謂衞固,范先曰
衞,范河東之望也 吾仰成而已
然君臣有定義 成敗同之 大事當共平議
以固爲都督 行丞事 領功曹
將校吏兵三千餘人 皆范先督之
固等喜 雖陽事畿 不以爲意
固欲大發兵 畿患之說固曰
夫欲爲非常之事 不可動衆心
今大發兵 衆必擾
不如徐以貲募兵
固以爲然從之
遂爲貲調發數十日乃定 諸將貪多應募而少遣兵
又入喻固等曰
人情顧家
諸將掾吏 可分遣休息
急緩召之不難
固等惡逆衆心 又從之
於是善人在外陰爲己援 惡人分散各還其家 則衆離矣
會白騎攻東垣 高幹入濩澤 上黨諸縣殺長吏 弘農執郡守
固等密調兵 未至
畿知諸縣附己 因出 單將數十騎赴張辟 拒守
吏民多舉城助畿者 比數十日得四千餘人
固等與幹,晟共攻畿不下 略諸縣 無所得
會大兵至 幹,晟敗 固等伏誅
其餘黨與皆赦之 使復其居業
曹操は河北を平定したが、高幹が并州で兵を挙げたこの箇所も実際には誰も死んで おらず、仮定の話として書かれている
河東(郡か)の衛固や范先は、これに呼応した
曹操は鎮圧のため、荀彧に西漢相国 蕭何 や東漢 雍奴威侯 寇恂 に比せられる人物を挙げよと言うと、荀彧は 杜畿 を挙げた
杜畿は河東太守に抜擢されて鎮圧を任されたが、衛固等は陝津(地名? 陝西の渡し場? 三門峡?) を占拠したため、河東に渡れなかった
曹操は 夏侯 惇 を派遣したが、未だ到着して いなかった
荀彧は杜畿に言った
これは相当数の軍兵が必要で あろう
杜畿は答えた
河東郡には三万戸程あるが、全員が兵乱に賛同している訳では ない
この状況下で大軍で包囲して急に圧倒して しまうと、去就を決め兼ねている者も大軍に威圧されて恐怖を感じ、河東太守が不在で官民が頼りとする人も いないと なると、不安を感じて衛固を頼もしく思い支持して しまう
衛固等の軍勢が一枚岩で あれば、死力を尽くして抵抗するで あろう
河東郡を鎮圧出来なければ近隣四方が彼らに呼応し、并州の兵乱は収まらない
鎮圧出来たとしても、河東郡の民を残暴の被害に遭わせる事に なる
衛固らは未だ朝命に従わないとは明らかに して おらず、表向きは河東前太守 王邑 の継任を望んでいると言っている以上、新任者 杜畿 を殺害してしまう口実が無いので、殺せない
自分は車一輛のみで直(ただ)ちに赴(おもむ)き、予想外の行動を取って先手を押さえる
衛固は小利口者で あるが決断が伴わないので、自分を疑っても その場では赴任を拒める度胸は無い
自分が河東郡に一ヶ月就務して いれば、衛固一党と郡民を離間させて我等に靡(なび)かせる事が出来る
【三國志】 卷十七 魏志 張樂于張徐傳 第十七 徐晃傳以死 関連箇所の読解は以下の通り
太祖授晃兵 使擊卷,原武賊破之
拜裨將軍
從征呂布 別降布將趙庶,李鄒等
與史渙斬眭固於河內
從破劉備 又從破顏良
拔白馬 進至延津 破文醜
拜偏將軍
與曹洪擊濦彊賊祝臂 破之
又與史渙擊袁紹運車於故市
功最多 封都亭侯
太祖既圍鄴破邯鄲 易陽令韓範偽以城降而拒守 太祖遣晃攻之
晃至 飛矢城中 爲陳成敗
範悔 晃輒降之
既而言於太祖曰
二袁未破 諸城未下者 傾耳而聽 今日滅易陽 明日皆以死守 恐河北無定時也
願公降易陽 以示諸城 則莫不望風
太祖善之
別討毛城 設伏兵掩擊 破三屯
從破袁譚於南皮 討平原叛賊克之
從征蹋頓 拜橫野將軍
從征荊州 別屯樊 討中廬,臨沮,宜城賊
又與滿寵討關羽於漢津 與曹仁擊周瑜於江陵
十五年 討太原反者 圍大陵拔之 斬賊帥商曜
韓遂,馬超等反關右(註) 遣晃屯汾陰以撫河東
賜牛酒 令上先人墓
太祖至潼關 恐不得渡 召問晃
晃曰
公盛兵於此 而賊不復別守蒲阪 知其無謀也
今假臣精兵渡蒲坂津 爲軍先置 以截其裏 賊可擒也
太祖曰
善
使晃以步騎四千人渡津
作塹柵未成 賊梁興夜將步騎五千餘人攻晃 晃擊走之
太祖軍得渡 遂破超等
使晃與夏侯淵平隃麋,汧諸氐 與太祖會安定 太祖還鄴
使晃與夏侯淵平鄜,夏陽餘賊 斬梁興 降三千餘戶
從征張魯 別遣晃討攻櫝,仇夷諸山氐 皆降之
遷平寇將軍
解將軍張順圍 擊賊陳福等三十餘屯 皆破之
曹操が鄴を包囲し邯鄲を陥(お)とすと、易陽の令 韓範 は独力では抵抗を続ける事が出来ないと判断し、その場だけは曹操に降服して、有耶無耶に した後で更に抵抗(籠城)を続けたいと考えた註:
曹操は 徐晃 を派遣して攻城させた
徐晃は城内に矢を射掛(いか)け、降服した際の寛大な処置と徹底抗戦した場合の極刑を伝え、降服を説得した
韓範は曹操を騙した事を後悔し、徐晃は降服を受け入れた
徐晃は降服受け入れを既了(手続が完了して、位の意か)させて、曹操に献言した
二袁(袁譚,袁尚の事か)は未だ抗戦を続けて おり、諸城で今尚(なお)降服していない勢力が、情勢を注視して推移を窺(うかが)っている
曹操は上計なりと認めた
今易陽の降服(転じて韓範の降服の意)を受け入れずに根こそぎ殲滅してしまうと、抵抗勢力は死物狂(しにものぐる)いで徹底抗戦を続けてしまい、河北を平定し切れなく なり兼ねない
公(曹操)が易陽の降服を受け入れて残りの諸城に寛大な処置を示せば、皆公の聖徳に浴すを望み降服するでしょう
関西 の誤かと思ったが、どうも南面した右側と言う事らしい
函谷関を基点に南側に向いて右手側が 関西(かんせい) = 関右(かんゆう) と言う意で あるかと思われる
では函谷関の左は 関左 かと言えば、この語は三国志中には一度も登場せず、関東 の語が使われている
恐らくは この延長で 隴右,河右 も 隴西,河西 と同義と捉えている
【三國志】 卷十八 魏志 二李臧文呂許典二龐閻傳 第十八 李通傳以死 関連箇所の読解は以下の通り
建安初 通舉衆詣太祖於許
拜通振威中郎將 屯汝南西界
太祖討張繡 劉表遣兵以助繡 太祖軍不利
通將兵夜詣太祖 太祖得以復戰
通爲先登 大破繡軍
拜裨將軍 封建功侯
分汝南二縣 以通爲陽安都尉
通妻伯父犯法 朗陵長趙儼收治致之大辟
是時殺生之柄 決於牧,守 通妻子號泣以請其命
通曰
方與曹公戮力
義不以私廢公
嘉儼執憲不阿 與爲親交
太祖與袁紹相拒於官渡
紹遣使拜通征南將軍 劉表亦陰招之 通皆拒焉
通親戚部曲流涕曰
今孤危獨守 以失大援 亡可立而待也
不如亟從紹
通按劍以叱之曰
曹公明哲 必定天下
紹雖彊盛 而任使無方 終爲之虜耳
吾以死不貳
卽斬紹使 送印綬詣太祖
又擊郡(羣の誤か)賊瞿恭,江宮,沈成等 皆破殘其衆 送其首
遂定淮,汝之地
改封都亭侯 拜汝南太守
時賊張赤等五千餘家聚桃山 通攻破之
劉備與周瑜圍曹仁於江陵 別遣關羽絕北道
通率衆擊之 下馬拔鹿角入圍 且戰且前 以迎仁軍 勇冠諸將
通道得病薨 時年四十二
追增邑二百戶 幷前四百戶
文帝踐阼 諡曰剛侯
詔曰
昔袁紹之難 自許,蔡以南 人懷異心
通秉義不顧 使攜貳率服 朕甚嘉之
不幸早薨 子基雖已襲爵 未足酬其庸勳
基兄緒 前屯樊城 又有功 世篤其勞
其以基爲奉義中郎將,緒平虜中郎將 以寵異焉
曹操と袁紹は共に官渡に留(とど)まって対峙したここも実際には誰も死んで おらず、仮定の話、覚悟の宣言で ある
袁紹は李通を征南将軍として招聘するために使者を寄越(よこ)し、劉表も又秘(ひそ)かに招聘したが、 李通は共に断った
李通の親戚及麾下の将兵は涙を流して訴えた
現在の状況は孤立し、陽安郡城を一人で守って危機に瀕して おり、曹操からの支援は途切れて しまい、滅亡は立ち所(たちどころ、転じて直ぐ目の前に、位の意か)に待ち受けて いる
李通は片手を剣の柄に かけて、叱り付けた
直(す)ぐに袁紹側に与(くみ)した方が良い
曹公(曹操)は英雄で、必ず天下を平定するだろう
李通は袁紹の使者を斬り、征南将軍の印綬を曹操に差し出した
袁紹は今は強勢だが、人材登用が合理的では ないため、その内に臣民が見放して俘虜と なろう
自分は死んでも二心を抱かない
【三國志】 卷二十一 魏志 王衞二劉傅傳 第二十一 劉廙傳以死 関連箇所の読解は以下の通り
魏諷反 廙弟偉爲諷所引 當相坐誅
太祖令曰
叔向 不坐弟虎 古之制也
特原不問 徙署丞相倉曹屬
廙上疏謝曰
臣罪應傾宗 禍應覆族
遭乾坤之靈 值時來之運
揚湯止沸 使不燋爛
起烟於寒灰之上 生華於已枯之木
物不答施於天地 子不謝生於父母 可以死效
難用筆陳
廙著書數十篇及 與丁儀共論刑禮 皆傳於世
文帝卽王位爲侍中 賜爵關內侯
黃初二年卒 無子
帝以弟子阜嗣
魏諷 が挙兵し、劉廙の弟劉偉は魏諷に与(くみ)して連座刑で誅殺される事と なったここでも誰も死んで おらず、覚悟の宣言、言葉の綾で ある
曹操は言う
羊舌 肸(ようぜつ きつ) は 羊舌 虎 の罪科に連座せざるは昔からの慣(なら)わしで ある
魏諷との関係は特に問わず、丞相府付 倉曹と言う属官に遷(うつ)した
劉廙が謝意を述べ奉(たてまつ)る
我が罪は一家を傾かせ、罪科は一族に及ぶのが道理
天地の神霊に遭(あ)い、時の運を得たり
鍋を手に取ると沸騰が収まり、吹き零(こぼ)れを防げた
火が消えた灰の上に煙が立ち上り、枯れ木に花が咲いた
物は天地より受けた恩沢に報いる事は無く、子は生を父母に感謝せざれども、自分は死力を尽くして曹公に尽力致します
この思い、言葉で申し述べる事叶いませぬ
【三國志】 卷二十一 魏志 王衞二劉傅傳 第二十一 傅嘏傳以死 関連箇所の読解は以下の通り
時論者議欲自伐吳 三征獻策各不同
詔以訪嘏
嘏對曰
昔夫差 陵齊勝晉 威行中國 終禍姑蘇
齊閔兼土拓境 闢地千里 身蹈顛覆
有始不必善終 古之明效也
孫權自破關羽 幷荊州之後 志盈欲滿 凶宄以極
是以宣文侯深建宏圖大舉之策
今權以死 託孤於諸葛恪
若矯權苛暴 蠲其虐政 民免酷烈 偷安新惠 外內齊慮 有同舟之懼 雖不能終自保完 猶足以延期挺命於深江之外矣
而議者 或欲汎舟徑濟橫行江表 或欲四道並進攻其城壘 或欲大佃疆埸觀釁而動
誠皆取賊之常計也
然自治兵以來出入三載 非掩襲之軍也
賊之爲寇幾六十年矣 君臣偽立吉凶共患 又喪其元帥上下憂危
設令列船津要堅城據險 橫行之計其殆難捷
惟進軍大佃 最差完牢
隱兵出民表 寇鈔不犯
坐食積穀 不煩運士
乘釁討襲 無遠勞費
此軍之急務也
昔樊噲願以十萬之衆橫行匈奴 季布面折其短
今欲越長江涉虜庭 亦向時之喻也
未若明法練士錯計於全勝之地振長策以禦敵之餘燼
斯必然之數也
司馬彪戰略 載嘏此對 詳於本傳 今悉載之以盡其意
彪曰
嘉平四年四月 孫權死
征南大將軍王昶,征東將軍胡遵,鎮南將軍毌丘儉等 表請征吳
朝廷以三征計異 詔訪尚書傅嘏 嘏對曰
昔夫差勝齊陵晉 威行中國 不能以免姑蘇之禍
齊閔辟土兼國 開地千里 不足以救顛覆之敗
有始不必善終 古事之明效也
孫權自破蜀兼平荊州之後 志盈欲滿 罪戮忠良 殊及胤嗣 元凶已極
相國宣文侯先識取亂侮亡之義 深建宏圖大舉之策
今權已死 託孤於諸葛恪
若矯權苛暴 蠲其虐政 民免酷烈 偷安新惠 外內齊慮 有同舟之懼 雖不能終自保完 猶足以延期挺命於深江之表矣
昶等或欲汎舟徑渡 橫行江表 收民略地 因糧於寇
或欲四道並進 臨之以武 誘間攜貳 待其崩壞
或欲進軍大佃 偪其項領 積穀觀釁 相時而動
凡此三者 皆取賊之常計也
然施之當機 則功成名立 苟不應節 必貽後患
自治兵已來 出入三載 非掩襲之軍也
賊喪元帥 利存退守 若撰飾舟楫 羅船津要 堅城清野 以防卒攻 橫行之計 殆難必施
賊之為寇 幾六十年 君臣偽立 吉凶同患 若恪蠲其弊 天去其疾 崩潰之應 不可卒待
今邊壤之守 與賊相遠 賊設羅落 又持重密 間諜不行 耳目無聞
夫軍無耳目 校察未詳 而舉大衆以臨巨險 此為希幸徼功 先戰而後求勝 非全軍之長策也
唯有進軍大佃 最差完牢
可詔昶,遵等 擇地居險 審所錯置 及令三方一時前守
奪其肥壤 使還耕塉土 一也
兵出民表 寇鈔不犯 二也
招懷近路 降附日至 三也
羅落遠設 間構不來 四也
賊退其守 羅落必淺 佃作易之 五也
坐食積穀 士不運輸 六也
釁隙時聞 討襲速決 七也
凡此七者 軍事之急務也
不據則賊擅便資 據之則利歸於國 不可不察也
夫屯壘相偪 形勢已交 智勇得陳 巧拙得用 策之而知得失之計 角之而知有餘不足 虜之情偽 將焉所逃 夫以小敵大 則役煩力竭 以貧敵富 則斂重財匱
故
敵逸能勞之 飽能飢之
此之謂也
然後盛衆厲兵以震之 參惠倍賞以招之 多方廣似以疑之
由不虞之道 以間其不戒 比及三年 左提右挈 虜必冰散瓦解 安受其弊 可坐筭而得也
昔漢氏歷世常患匈奴 朝臣謀士早朝晏罷 介冑之將則陳征伐 搢紳之徒咸言和親 勇奮之士思展搏噬
故樊噲願以十萬之衆橫行匈奴 季布面折其短
李信求以二十萬獨舉楚人 而果辱秦軍
今諸將有陳越江陵險 獨步虜庭 即亦向時之類也
以陛下聖德 輔相忠賢 法明士練 錯計於全勝之地 振長策以禦之 虜之崩潰 必然之數
故兵法曰
屈人之兵而非戰也 拔人之城而非攻也
若釋廟勝必然之理 而行萬一不必全之路 誠愚臣之所慮也
故謂大佃而偪之計最長
時不從嘏言
其年十一月 詔昶等征吳
五年正月 諸葛恪拒戰 大破衆軍於東關
後吳大將諸葛恪 新破東關 乘勝揚聲欲向靑,徐 朝廷將爲之備 嘏議以爲
淮,海非賊輕行之路
又昔孫權遣兵入海 漂浪沉溺 略無孑遺
恪豈敢傾根竭本寄命洪流 以徼乾沒乎
恪不過遣偏率小將素習水軍者乘海泝淮示動靑,徐
恪自幷兵來向淮南耳
後恪果圖新城 不克而歸
呉国に侵攻したい将軍が各々経略を披露したが、征南大将軍,征東将軍,鎮南将軍の献策は一致を見なかったここは他の用例とは大きく異なり、死者が出ている箇所で ある
已む無く 曹芳 は 傅嘏 に尋ねた
傅嘏は答えて言う、
春秋時代の呉王 夫差 は斉を屈伏させて晋と覇を競い、勢威は中国に広まったが、最後は姑蘇山に追い詰められて自刎(じふん)して果てた
戦国時代の 斉 湣(=閔)(ビン)王は領土を鎌切(けんせつ 鎌=兼、領土を斬り取るの意か)して国境を広げ、国土を闢(ひら)く事千里と言われるも、窮地を救う筈の味方に裏切られて殺された
始は勢威あれども必ず良い最後を迎えられるとは限らないのは、昔からの明瞭な倣(なら)い(倣=效)です
孫權は関羽を斬って荊州を併呑後、気が大きくなって欲が膨張し、奸佞の邪心極まれり
ここに至って宣文侯(=司馬 懿)、大軍を進めて孫権を排除する算段を深く考える様に なった
孫権が斯(か)くて死去し、諸葛 恪 に末子 孫亮 を託した
若(も)し諸葛 恪が孫権 在世の頃の苛斂暴戻を糾(ただ)し、暴虐な政治を蠲(虫殺:むしごろ)せば(転じて駆除すれば、の意か)、民は苛酷な収奪を免(まぬか)れて暫し新帝の恩恵に安堵し、国内外 思慮を等しくし、呉越同舟の如く臣民一致して国難に立ち向かえば、恵まれた生涯を終える事は出来ないかも知れないが、長江の深い外海に身を遠避(ざ)けて命運を延命する事は出来ましょう
【三國志】 卷二十五 魏志 辛毗楊阜高堂隆傳 第二十五 楊阜傳以死 関連箇所の読解は以下の通り
馬超之戰敗渭南也 走保諸戎
太祖追至安定 而蘇伯反河間 將引軍東還
阜時奉使 言於太祖曰
超有信布之勇 甚得羌胡心 西州畏之
若大軍還 不嚴爲之備 隴上諸郡非國家之有也
太祖善之
而軍還倉卒 爲備不周
超率諸戎渠帥以擊隴上郡縣 隴上郡縣皆應之
惟冀城 奉州郡以固守
超盡兼隴右之衆 而張魯又遣大將楊昂 以助之凡萬餘人攻城
阜率國士大夫及宗族子弟勝兵者千餘人 使從弟岳於城上作偃月營 與超接戰
自正月至八月拒守而救兵不至
州遣別駕閻溫 循水潛出求救 爲超所殺
於是刺史,太守失色 始有降超之計
阜流涕諫曰
阜等 率父兄子弟以義相勵 有死無二
田單之守 不固於此也
棄垂成之功 陷不義之名 阜以死守之遂號哭
刺史太守卒遣人請和 開城門迎超
超入 拘岳於冀
使楊昂 殺刺史太守
楊阜 は冀城城内の官吏知識階級と一門の子弟から兵に適した者千人余を率いて、従弟(従兄弟)の 楊岳 に城壁に円端型(註)の防衛補強設備を設けさせて、馬超と見(まみ)えた註:
籠城は正月に始まって八月まで守り続けたが、長安に いる 夏侯 淵 からの援軍は来なかった
涼州刺史 韋康 は別駕の 閻温 を夜陰(やいん)に紛(まぎ)れて川? 水路? に潜(もぐ)って包囲を脱(ぬ)け出させて 夏侯 淵 に救援を乞う、だが最後には馬超に捕捉されて殺された
涼州刺史と涼州郡太守は愕然として恐れ、遂に馬超への降服を算段した
楊阜は涙を流して諌言した
我等は父兄子弟を引き連れて義に則(のっと)り勤めて来て おり、死ぬ事は あっても二心あって裏切る事は有り得ない
楊阜は遂に慟哭した
戦国時代、斉の 田単 が籠った城は この冀城よりも固くは なかった
苦労し漸(ようや)くに して為遂(しと)げられそうな勲功を捨て、裏切り者の汚名を受けるので あれば、自分は冀城を死守せん
それでも刺史と郡太守は遂に使者を送って降服し、城門を開いて馬超を迎え入れた
馬超は冀城に入城して楊岳を拘束した
馬超は張魯が派遣した大将 楊昂 に命じて、刺史太守悉(ことごと)く皆殺しと した
偃月の意として半月、転じて半円形を指す事も あるが、実際には三日月に近い形状で、弓張り月とも呼称される
城壁に用いると実見上は円の外端部に見える
円端とは、円の外端部を直線で切り落とした形状で あり、一本の湾曲線と その線の両端を直線で結ばれている
これを弓と弓弦(ゆづる)の名称で表したのが、弓張り月で ある
例えば偃月刀は半円では なく三日月型の刀剣で ある
この補強設備の目的は攻城弩や投石機を防ぐ防禦遮蔽物か、攻城兵の登攀(とうはん)を防ぐもので あろうと思われる
弥生の時代の高床式倉庫の柱に鼠返(ねずみがえ)し が挟(はさ)み込まれて いて、鼠が攀(よ)じ登るのを防ぐ仕組と言えば伝わるで あろうか
【三國志】 卷三十五 蜀志 諸葛亮傳 第五ここは非常に良く知られた場面で、読解の必要が無さそうで ある
章武三年春 先主於永安病篤 召亮於成都 屬以後事
謂亮曰
君才十倍曹丕 必能安國 終定大事
若嗣子可輔 輔之
如其不才 君可自取
亮涕泣曰
臣敢竭股肱之力 效忠貞之節 繼之以死
先主又爲詔 敕後主曰
汝與丞相從事 事之如父
建興元年 封亮武鄉侯,開府治事
頃之又領益州牧
政事無巨細 咸決於亮
南中諸郡 並皆叛亂
亮以新遭大喪 故未便加兵
且遣使聘吳 因結和親 遂爲與國
【三國志】 卷四十七 吳志 吳主傳 第二以死 関連箇所の読解は以下の通り
十九年五月 權征皖城
閏月 克之 獲廬江太守朱光及參軍董和男女數萬口
是歲 劉備定蜀
權以備已得益州令諸葛瑾從求荊州諸郡
備不許曰
吾方圖涼州
涼州定 乃盡以荊州與吳耳
權曰
此假而不反
而欲以虛辭引歲
遂置南三郡長吏 關羽盡逐之
權大怒 乃遣呂蒙督鮮于丹,徐忠,孫規等 兵二萬取長沙,零陵,桂陽三郡
使魯肅以萬人屯巴丘 以禦關羽
權住陸口 爲諸軍節度
蒙到二郡皆服 惟零陵太守郝普未下
會備到公安 使關羽將三萬兵至益陽
權乃召蒙等 使還助肅
蒙使人誘普
普降 盡得三郡將守
因引軍還 與孫皎,潘璋幷魯肅兵並進 拒羽於益陽
未戰會曹公入漢中
備懼失益州 使使求和
權令諸葛瑾報更尋盟好
遂分荊州 長沙,江夏,桂陽以東屬權
南郡,零陵,武陵以西屬備
備歸而曹公已還
權反自陸口 遂征合肥
合肥未下 徹軍還
兵皆就路 權與淩統,甘寧等在津北 爲魏將張遼所襲
統等以死扞權 權乘駿馬越津橋得去
孫権は劉備に刑州東側を割譲させ、次に合肥を陥(お)とさん と図る註:
合肥城は籠城し、占領出来なかったので軍を帰還させる事に した
兵に引き上げを行わせ、孫権と凌統,甘寧等は殿軍として渡河点の北側で撤収監督に当たっていた所、魏軍の将 張遼の襲撃を受けた
凌統は死を覚悟して孫権を庇って守り抜き、孫権は駿馬に乗って津橋(註)を渡って逃げ果(おお)せる事が出来た
木板(きいた)や船板(ふないた)を並べて繋いだ急造の暫定渡河架橋の意と思われる
【三國志】 卷五十四 吳志 周瑜魯肅呂蒙傳 第九 呂蒙傳直上の 13) と全く同じ場面で ある
師還 遂征合肥
既徹兵 爲張遼等所襲 蒙與淩統以死扞衞
後曹公又大出濡須
權以蒙爲督 據前所立塢 置彊弩萬張於其上 以拒曹公
曹公前鋒屯未就 蒙攻破之 曹公引退
拜蒙左護軍 虎威將軍
【三國志】 卷五十七 吳志 虞陸張駱陸吾朱傳 第十二 駱統傳以死 関連箇所の読解は以下の通り
是時 徵役繁數 重以疫癘 民戶損耗
統上疏曰
臣聞 君國者 以據疆土爲彊富 制威福爲尊貴 曜德義爲榮顯 永世胤爲豐祚
然財須民生 彊賴民力 威恃民勢 福由民殖 德俟民茂 義以民行
六者既備 然後應天受祚 保族宜邦
書曰
衆非后無能胥以寧
后非衆無以辟四方
推是言之 則民以君安 君以民濟 不易之道也
今彊敵未殄 海內未乂 三軍有無已之役 江境有不釋之備 徵賦調數 由來積紀 加以殃疫死喪之災 郡縣荒虛 田疇蕪曠
聽聞屬城 民戶浸寡 又多殘老 少有丁夫
聞此之日 心若焚燎
思尋所由 小民無知 既有安土重遷之性
且又前後出爲兵者 生則困苦無有溫飽 死則委棄骸骨不反
是以尤用戀本 畏遠同之於死
每有徵發 羸謹居家重累者先見輸送
小有財貨 傾居行賂 不顧窮盡
輕剽者則迸入險阻 黨就羣惡
百姓虛竭 嗷然愁擾 愁擾則不營業 不營業則致窮困 致窮困則不樂生 故口腹急則姦心動而攜叛多也
又聞 民閒非居處小能自供 生產兒子 多不起養 屯田貧兵亦多棄子
天則生之而父母殺之 既懼干逆和氣感動陰陽
且惟殿下開基建國乃無窮之業也 彊鄰大敵非造次所滅 疆埸常守非期月之戍
而兵民減耗後生不育 非所以歷遠年致成功也
夫國之有民 猶水之有舟
停則以安 擾則以危
愚而不可欺 弱而不可勝
是以聖王重焉 禍福由之
故與民消息 觀時制政
方今長吏親民之職 惟以辨具爲能 取過目前之急 少復以恩惠爲治 副稱殿下天覆之仁勤恤之德者
官民政俗 日以彫弊 漸以陵遲 勢不可久
夫治疾及其未篤 除患貴其未深
願殿下 少以萬機餘閒 留神思省 補復荒虛 深圖遠計 育殘餘之民 阜人財之用 參曜三光 等崇天地
臣統之大願 足以死而不朽矣
權感統言 深加意焉
孫権の治世、徴兵と戦役を度々(たびたび)行い、重ねて疫病が発生し、民は疲弊し戸数は減少した註:
駱統 が上疏して言う
臣は聞いております、国の君主たる者、国土に根付く事で富強を実現し、制度と国威が民に裕福を齎(もたら)せば家は尊貴と なり、德義を尊んで行われれば栄誉が得られて名声が上がり、王統長かれば王権は豊かと なる
これらが実現する前提として、財は必ず民衆から生(しょう)じ、富強は民力を基(もと)とし、国威は民力の勢いから醸(かも)し出され、裕福は民の貨殖から生じ、德は民度が向上(茂=盛)する事で備わり、義は民の行動規範に依存する
財,彊,威,福,德,義の六者が備われば、王朝は天命を受け、一門は隆盛を保持し国家は隆昌する
尚書(註)に言う、
民衆に君主(后=君)が おらねば、庶民(胥=庶)は安寧を得る事は出来ず
君主に民衆が おらねば、四方に国境を定めて国家として存立する事は出来ない
尚書の言に副(そ)って言うと、民は君主から安寧を得て、君主は民を救うもの、これは曲げる事が出来ない真理と言える
孫権は駱統の言に感じ入り、深く留意する事に した
今は強敵が未(いま)だ健在で、中国内は内乱が収まらず、国軍(=先中後軍)への兵役は無期限に続き、長江の国境での警備は気を弛(ゆる)める事が出来ず、強制労働への徴集と銭貨の徴発は度々強行され、兵乱が起きて兵役で国境に送り出され夫役で強制的に駆り出され臨時徴収で軍費の現地収奪が横行される年数(年=紀)の経過は積み上がる一方で あり、厄難や疫病での死や災禍に加え、郡県は荒廃し、田畑は枯れるか焼かれるか して何も残っていない
城吏に尋ねると、民戸に寡婦が増え続け(浸=浸食)、或いは老父母のみが残っている家多く、夫や壮年(丁=壮丁)の者が家に残っている家は少ないと言う
これを聞いた日は、心が焼き尽くされた感を覚(おぼ)えた
話に聞いた状況の理由を思うに、民衆は書詩行政と言ったものには興味は無く、安全に暮らせる土地に住んでいれば他所(よそ)に移ろうと思う事は無いもので ある
前後(何の前後?)に兵役として駆り出された者は、生きていても困窮辛苦に捕(とら)われて最低限の生活水準(温=冬物衣服、飽=飽食)すら無く、死すれば遺骸は遺棄されたまま家には返されない
この故(ゆえ)に家に住み土地を利用する(転じて耕す、位の意か)事が出来ず、遠く離れるは死と同じ事と恐れてしまう
徴発が行われる毎(ごと)に、収奪に疲弊して塗炭の苦に堪え忍んでいる質朴で係累が多い家庭から先ず兵役に送られる
小なりとも財貨が ある家は家計が破産してでも官吏に賄賂を贈って徴兵を免役するので貧窮に喘(あえ)ぐ事に なり、
素行の悪い破落戸(ごろつき)の類(たぐい)は人が近付かない所に潜り込んで窃盗と なって徒党を組む
民衆は疲弊し怨嗟の声轟々と挙がり、怨嗟を抱く者は生業を行わず、生業行われなければ家は貧窮を招き、貧窮を招けば生きる事を諦め、飢餓極限に至れば悪心が擡(もた)げて一揆叛乱に加わる者が多くなる
又聞く、民間の居住地では幼少者まで食を供給する事が不可能と なれば、出産した小児を養育しない事も多く、屯田村では貧困の兵は子を捨てる事が多い と
天は子を生ませたにも拘わらず父母が子を殺し、これが(既=即か) 天地の気を狂わせて陰陽五行に影響を与えて悪い状況を招く事を恐れます
殿下が皇帝と なって呉朝を興(おこ)したのは悠久の国家経略を目指したから であり、強大な隣国は直(す)ぐ(次=年、一年転じて短期) に滅びる事も無く、国境の常備防衛も長く(期=年、一年転じて短期)続けなければ ならない
而(しか)るに兵は損耗して補充が枯渇し民は徴兵されて疲弊し次代の耕作者が育成されなければ、歴年を かけて統一事業を進める事は叶(かな)いますまい
抑々(そもそも) 国に民が いるのは恰度(ちょうど)河川に船が浮かぶのと同じ事です
流れが止まれば船は揺れが収まり、急な流れが起きれば船も揺れて危(あや)うくなる
民は愚では あっても欺(あざむ)いて良いものでは なく、無力では あっても強権を かざしては なりません
この故に古の聖王は民を重んじ、禍福は民から生ずると解し、民と興隆を共にし、時事情勢を図って統治した
今の下層官吏は直接民を治める立場に ありながら、兵役の割当(辨=弁別か)と徴兵確認(具=具足か)のみを得意とし、目の前の急務を熟(こな)すのみで日々を過ごすだけで、恩德で民を治めて殿下の天を覆う仁と勤勉恤(じゅつ)民の徳を称え副える者は少ない
官民の政治と庶俗は日を追う毎に弊害が浮き彫(ぼ)りとなり、漸次隆盛は遅滞する事に なり、今の国勢も久しく維持する事は出来ないでしょう
病疾を治すので あれば進行が篤(あつ)くない内に患部を対処し病状が深刻化させない事を優先するものです
殿下に願わくは、少しでも時間に余裕が あれば、神慮顧慮を思い戴(いただ)き、荒廃した民間を回復せしめ、深慮を巡(めぐ)らし、今いる民を保護し、民間の貨財や物流を隆盛せしめる事を、太陽,月,星の輝きに比肩する如(ごと)く、天地の崇高さに等しく、実施される事を
申し上げた願い上げ、叶いますれば死して尚我が思いは朽ち果てませぬ
尚書には この語句は見当たらず、あるのは以下の通りで ある
ここも、覚悟の宣言で ある民非后罔克胥匡以生
后非民罔以辟四方
【三國志】 卷五十七 吳志 虞陸張駱陸吾朱傳 第十二 朱據傳短いので全て読解してしまうが、この箇所の読解は以下の通り
赤烏九年 遷驃騎將軍
遭二宮搆爭 據擁護太子 言則懇至 義形于色 守之以死 遂左遷新都郡丞
未到 中書令孫弘 譖潤據
因權寢疾 弘爲詔書追賜死 時年五十七
孫亮時 二子熊,損 各復領兵 爲全公主所譖 皆死
永安中 追錄前功 以熊子宣襲爵雲陽侯 尚公主
孫晧時 宣至驃騎將軍
赤烏九年(246年) 朱拠 は驃騎将軍に移された(左遷か)ここも、覚悟の宣言で ある
皇太子 孫和 と四男 孫覇 との継嗣抗争に巻き込まれ、朱拠は皇太子 孫和を擁護し、論議は懇切、義に殉じる様子は顔色にも表れ、死を賭して皇太子の継嗣を訴(うった)えたが、皇太子が廃されると その巻き添えで 新都郡 の 丞 に左遷と された
新都郡に赴く途中、中書令 孫弘 が朱拠の言行を悪(あ)し様(ざま)に潤色して讒言(ざんげん)した
孫権が病で臥(ふ)せっている隙に、孫弘は詔書を偽造し、使者を送って死罪に追い込んだ、享年五十七歳
孫亮が帝位に ある時、朱拠の二子 朱熊と朱損 は各々復権して兵を与(あず)かる位に いたが、全公主(全琮の妻)から讒訴され、二人とも死罪と なった
孫休の治世の 永安(258年-264年)中 朱拠の前(さき)の勲功を顕彰し追録する事と し、朱熊の子 朱宣 に爵位として雲陽侯を継がせ、孫休の皇后 朱皇后および朱熊と朱損の三人の母親(実母か)で ある 孫 魯育 公主(孫権の娘)の名誉を回復した
孫晧が帝位に ある時、朱宣は朱拠が列せられた驃騎将軍に復した
a) A_人物B_以死_C と捉えると、人物B が死なずに 以死 が A に対応している用例は 2件
b) 人物B が殺害されて 以死 が C に対応している用例は 1件
c) 覚悟や仮定を示し人物B が死なずに 以死 が C に対応している用例は 12件
d) 完了の事実を述べる用法 以死 = 已死 の等号が成立し、以死 が C に対応している用例は 1件
と言う事に なった
つまり、この集計結果に より以下の事が言える事に なる
A) 以死 の用法としては、直前よりも直後の文に対応する用例が圧倒的に多く、直前に対応する事例は非常に少ない
B) 以死 の直前の文を原因として その後に続く人物が殺害ないし死亡した用例は存在しない
C) この用法は覚悟や仮定を表す文章に多く表れるもので あり、実際に当該人物が死亡する用例は とても少ない
と言う訳で、整理すると
A_人物B_以死_C の用法として、要因A に より 人物B が殺害されると言う読解が成立する余地は完全に有り得ない
と言う事に なる
【三國志】 卷五十七 吳志 虞陸張駱陸吾朱傳 第十二 朱據傳張政の告諭とは関係無く卑弥呼は自然死し、遺体を葬るために国を挙げて墓が作られた
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳
其八年 太守王頎到官
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻擊狀
遣塞曹掾史張政等因齎詔書,黄憧 拜假難升米爲檄告喩之
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
復立卑彌呼宗女壹與 年十三爲王 國中遂定
政等以檄告喩壹與
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還 因詣臺獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雜錦二十匹