難升米は漢族

1. 倭人伝表音調査の余禄


先日 魏志倭人伝 の表音に ついて調べてみた際に、望外の収穫が あった

魏志倭人伝の表音は上古音か

それは、魏志倭人伝 で外交折衝をになって登場する 難升米ナンショウマイ が、実は倭人では無く漢族で あろう と言う事が分かったので ある



2. 難升米の登場と表音


魏志倭人伝 内に おいて 難升米 が登場する箇所は、以下の通りで ある
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳

撰者 : 西晉(晋)朝 陳壽(寿)

景初二年 六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都

三国志 魏志 倭人伝 1

三国志 魏志 倭人伝 2

ず、難升米 の表音は以下の通りと なる

魏志倭人伝の表音 - 難升米
名称 上古音 中古音 一般的な日本語表音
難升米 nan-thiəŋ-mer(ナンションメ) nan(ndan)-ʃɪəŋ-mei(mbei)(ナンションメイ) なしめ/ナンショウマイ

この表音は、以下の Webサイトを参考に した

魏志倭人伝の固有名詞の漢字
魏志倭人伝の固有名詞の漢字-2

# ただし、この Webサイトに ある字音は必ずしも正確で無い箇所が幾つも あり、多少は疑ってかかる必要が ある
# 実は要訂正箇所を上記 Webサイト管理人に指摘した事が あるが、受けれられず無視された事が ある


難升米は なしめ と表音するのが一般的で あるが、上記を見る限り流石に無理が あろう
第一字の 難字 の表音は明らかに ナ では無い

# なしめ と読んだ論者は言語学の知識が無かったか、漢語の表音を軽視していたのであろう


何故なら、ナ音を表すので あれば 那字 が既に使用されているから で ある

時代は下るが、日本書紀に おいても 那津なのつ と言った表記を見出す事が出来る
【日本書紀】 卷第十八 武小廣國押盾天皇 宣化天皇

撰者 : 舎人親王等

修造官家那津之口

これに より、恐らくは漢語の 那字 と倭語の 那字 は同音として使用されていたもの と予想される
し 難升米 が倭語で なしめ と名乗ったので あれば、難升米 では無く 那升米 と表記されるのが妥当で あろう

しかし 魏志倭人伝 には 難升米 と記録されているので、なしめ では ない とはんじざるを得ない ので ある

故に、難字 は ナン と読まなければ ならない

難升米 の表音が、上古音の ナンションメ か中古音の ナンションメイ なのかは現時点では分からない
ただ、倭人名で ナン と言う語頭から始まる名は多大な違和感をおぼえる

恐らく この者は倭人では無く、漢族が倭国に渡来した帰化人で あろう
何故なら、以下のように 難升米 が魏使との外交折衝を担う者として終始動いているから で ある
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳

景初二年 六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都
其年 十二月 詔書報倭女王曰

制詔親魏倭王卑彌呼 帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米 次使都市牛利奉汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈 以到 汝所在踰遠 乃遣使貢獻 是汝之忠孝 我甚哀汝 今以汝爲親魏倭王 假金印紫綬 裝封付帶方太守假授汝 其綏撫種人 勉爲孝順

難升米 は大夫を名乗り、魏朝との交渉では主使を務めている事が分かる
この大夫は、支那での 卿,大夫,士 と言った階級の一つで ある

難升米 は大夫の中でも筆頭交渉役として起用されているわけで、大夫と言うよりは もう卿に近いのでは ないかと思う
下で述べるが、難升米 は客卿で あったのでは ないか と思われる

今以難升米爲率善中郎將 牛利爲率善校尉 假銀印靑綬 引見勞賜遣還

今以絳地交龍錦五匹臣松之以爲 地應爲綈 漢文帝著皂衣 謂之戈綈是也 此字不體 非魏朝之失 則傳冩者誤也 絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹 荅汝所獻貢直

又特賜汝 紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠,鉛丹各五十斤
皆裝封付難升米,牛利還到録受 悉可以示汝國中人 使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也

不思議な事に、これを最後に何故か 都市牛利 は登場しなく なる
失脚したので あろうか?

正始元年 太守弓遵遣建中校尉梯儁等 奉詔書,印綬詣倭國 拜假倭王 并齎詔 賜金,帛,錦罽,刀,鏡,采物
倭王因使上表荅謝恩詔
其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆,掖邪拘等八人 上獻生口,倭錦,絳靑縑,緜衣,帛布,丹木,𤝔,短弓矢
掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬

三国志 魏志 倭人伝 3

大夫として 伊声耆 に 掖邪拘(掖邪狗) と言った人物が登場する
この者達が 都市牛利 に取って代わった のかも知れない

其六年 詔賜倭難升米黃幢 付郡假授

黃幢を 難升米 に手渡す栄誉を得ている事が分かる
黃幢とは魏朝の軍旗で あるため実は これは大変に名誉な事で あり、本来ならば倭王が直接拝領するもので あろう

何故 難升米 が直接受け取って いるのか は分からないが、魏朝側では 難升米 をことに重視していたと言う事か
あるいは、言語の通訳が不要で ある者を魏朝側が指定し、難升米 が その候補として挙げられた と言う事やも知れぬ

当時の国際共通語は漢語で あった訳で あるが、帰化人ならば当然母国語の漢語を話す事が出来る
そのため、倭国は他国との外交交渉のために積極的に漢族を登用したので あろう
そして その中の出世頭として、難升米 は 客卿 として倭国女王 卑弥呼 に仕えて いたのでは ないか と考える

其八年 太守王頎到官
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻擊狀
遣塞曹掾史張政等 因齎詔書,黄憧 拜假難升米爲檄告喻之

又もや ここで 難升米 が 張政 と直接対面して魏帝の詔書を拝領し、張政 から告諭されている
拝仮していると言う事は通訳を間にはさまずに意思疏通が可能で あったと言う事を示唆しているのかも知れない

そして これで 卑弥呼 の時代は終わり、この後は 壱与 の治世と なって 難升米 は表舞台から姿を消して しまう
何故なら、張政 から直接告諭を受ける者が 難升米 から倭王 壱与 に代わったから で ある

政等以檄告喻壹與
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還 因詣臺獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔,靑大句珠二枚,異文雜錦二十匹

倭国大夫群に あっては、掖邪拘(掖邪狗) が主導権を握った模様で ある

これは私見では あるが、難升米 は 卑弥呼 個人の 出頭人 として寵を得て重用ちょうようされていたのでは ないか
勿論この時代には出頭人と言う語は存在しないが、難升米 は客卿で あったのでは無いか と想像される

客卿とは、他国出身者を卿(大臣閣僚と書けば分かり易いか)として臨時に待遇すると言う措置で ある
臨時に、と言う所が非常に重要なので あるが、要するに一代限りと言う期間限定の待遇なので ある
出頭人も一代限り、客卿も一代限り で共通する

そして これは、主君で ある 卑弥呼 が死ねば それまでの地位を失って没落する事を意味する

故に倭国王が 壱与 に代替わり した後では、難升米 は もう登場しないので ある

更に言えば、掖邪拘(掖邪狗) は 卑弥呼 と 壱与 の両王に仕えているので客卿では無い事に なる
客卿では無いと言う事は、掖邪拘(掖邪狗) は倭人で ある事を示しているので あろう



3. 難升米が使者に立つと重訳は不要なのか


晋書を読むと、魏と魏晋朝の官吏は間に何人か通訳を挟んでいた事が読み取れる
【晉書】 卷一 帝紀第一 宣帝

撰者 : 唐朝 房 玄齢, 李 延壽(寿) 等

魏正始元年(西暦240年)春正月 東倭重譯納貢 焉耆,危須諸國 弱水以南 鮮卑名王 皆遣使來獻

【晉書】 卷九十七 列傳第六十七 四夷 東夷傳 倭人傳

泰始初註1 遣使重譯入貢

註1:

泰始二年(266年)の貢献を指す


正始元年(240年)の貢献は三国志には書かれていないが、240年に上表した際に貢献も行ったのか、梯儁の来倭よりも前に貢献していたのであろう
梯儁が来倭した月は書かれていないが、貢献は春正月と書かれているので、順序としては正月の貢献の後に梯儁が来倭した事に なる
240年正月の貢献時の倭国使者は記録されていないが、難升米では無かったのかも知れない
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳

(其八年)壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還 因詣臺獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔,靑大句珠二枚,異文雜錦二十匹

正始八年(247年)の倭国使者に難升米が含まれているかどうかは分からないが、主使が掖邪狗に代えられているように思えるので、難升米は含まれていない可能性が高いと思われる
どうやら247年を境に難升米は歴史舞台から消えているので、泰始二年(266年)にも含まれていなかったものと思われる
となると、難升米が使者に立っていない状況では重訳が必要と なっているようにも映る
勿論これだけでは何とも言えない所では あるが、難升米が漢族系帰化人であると仮定すると難升米が漢語-倭語の通訳を行うだけで済むので、重訳は不要であったのかも知れない



4. 難升米の姓と名


難升米 の姓と名の区切り が分からないので、難 升米 なのか 難升 米 なのかは不明で ある

都市牛利 の様に名のみ を記述する箇所が あれば分かり易かったので あるが...
これは言っても詮無せんない事では ある

# もっとも、これは 陳寿 が 都市 牛利 と認識していただけで姓名では無く名で あるのかも知れない

# 或いは、名と認識していたが単純に名を省略した と言う事かも知れぬ


思うに、難 升米 の方が可能性は高いで あろうか



5. 難升米の退場理由


難升米は 247年の時点から存在を確認出来なくなる
理由としては以下が考えられるであろうか

a) 卑弥呼の死去により失脚した

b) 卑弥呼が死去したため殉死した(もしくは殉死させられた)

c) 病死もしくは寿命死

d) 政変に巻き込まれて殺害された


ここで、d) の政変死について触れておきたい
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳

(其八年)遣塞曹掾史張政等 因齎詔書,黄憧 拜假難升米爲檄告喻之
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
復立卑彌呼宗女壹與 年十三爲王 國中遂定

当時の出来事の流れとしては、

1) 張政が来倭した際に卑弥呼は死去しており、難升米のみ対面した

2) 卑弥呼の墓に殉葬が行われた

3) 男王が即位して政変が起きた

4) 壱与が即位した


と言う事に なると思われるが、3) に巻き込まれた可能性は ありそうでは ある
殉死の可能性も あるが、難升米は奴婢では無いため可能性は低いと思われる
政変死の他の理由としては、やはり卑弥呼と壱与の代替わり による失脚であろう



6. 関連 URI


参考と なる URI は以下の通り

大夫 - Wikipedia
卿 - Wikipedia

公開 : 2014年9月3日
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