隋書 軍尼は軍管区

1. 軍尼はくにの訓では無い


隋書 俀国伝 は、三国志 魏志 倭人伝 以来の長い期間を措(お)いて久し振りに中国王朝の使者に よる倭国(俀国)訪朝と言う国家行事が行われた事も あって、当時の日本の状況を記録する素晴らしい情報量を誇っている

しかしながら、今までの定説と されている読解には、些(いささ)か なりとも疑問を覚(おぼ)えていた
例えば、隋書 中に記述されている 軍尼 と言う語は、一般的には倭語に おける国(クニ) と解されている

いやいや、そのような馬鹿な事は無いで あろう

軍尼 とは言わば今日(こんにち)の語で言うと差(さ)し詰(づ)め軍管区と言うべき もの なので ある



2. 軍尼の従来読解人


軍尼 と言う語が現(あらわ)れるのは、以下の箇所で ある
【隋書】 卷八十一 列傳 第四十六 東夷傳 俀國傳

撰者 : 唐朝 魏徴 等

軍尼一百二十人 猶中國牧宰
八十戸置一伊尼翼 如今里長也
十伊尼翼屬一軍尼
其服飾 男子衣裠襦 其袖微小 履如屨形 漆其上 繋之於脚
人庶多跣足 不得用金銀爲飾
故時衣横幅 結束相連而無縫 頭亦無冠 但垂髪於兩耳上
至隋其王始制冠 以錦綵爲之 以金銀鏤花爲飾
婦人束髪於後 亦衣裠襦 裳皆有襈攕(亦衣裠襦,裳 皆有襈攕と読むべきか?) 竹爲梳
編草爲薦 雜皮爲表 縁以文皮
有弓矢矟弩欑斧 漆皮爲甲 骨爲矢鏑 雖有兵 無征戦
其王朝會必陳設儀杖 奏其國樂
戸可十萬

関連する語である戸数の記述までを掲(かか)げるに留(とど)めたが、隋書 の原文は、以下を参照されたい

隋書 俀国伝

この文面に対する従来説の読解は、凡(およ)そ以下の様な もので あろう
【日本の古代】 6 王権をめぐる戦い 35 国造と屯倉 P.121

編集 : 岸 俊男
(担当執筆 : 鎌田 元一)

『隋書』倭国伝[註1]には、六〇〇(文帝開皇二十)年の遣使の記事に続き、倭国[註1]の制度や風俗を述べたなかに、次のような記載がみえる。

軍尼くにあり、一百二十人、中国の牧宰ぼくさいのごとし。八十戸に一伊尼翼いなぎを置く、今の里長りちょうのごときなり。

十伊尼翼は一軍尼に属す。

文中「軍尼」とあるのは国語のクニ(国)を写したもので、「一百二十」とあることから、それは具体的には国造を指したものといわれる。
また「伊尼翼」の「翼」はおそらく「冀」の誤写[註2]で、イナギ(稲城)の事であろうと考えられている。
すなわち当時の倭国[註1]には一二〇の国があり、それぞれの国造のもとに一〇人ずつの稲城が属したというのである。
そしてその稲城は中国で言えば里長のようなもので、八〇戸ごとに一人の稲城が置かれたという。

【井上光貞 わたくしの古代史学】 P.99

著者 : 井上 光貞

この論文では、″国造制″の研究の上で(一)これまで無造作に使われてきた国造本紀を成立事情がまだ明らかでないとして除外することにした。
そして(二)七世紀前半に百二十の軍尼(クニ=「国」)、一国に十の伊尼翼(翼は冀のあやまりでイナギ、「県」の長)[註2]という二重構造があるとする隋書倭国伝[註1]を重視しながら、(三)記紀など古代文献にみえる国造、県主の記載を整理づけることによって、国造制の成立をみていこうとしたのであった。

私の主張の第一点は、倭国伝[註1]の二重構造の地方制度、すなわち″国県制″の存在は国内文献でもたどれるとしたことであった。
畿内に倭、山代、河内などの国造の名が見いだされるいっぽう、たとえば倭の地域にも、春日、磯城、高市、十市などの県主、葛城、菟田、猛田、層富、山辺などの県が見出される。
また同じく先進地方の北九州でも筑紫国造の地域に、伊都、崗、水沼などの県主、儺、山門、八女、上妻、松浦、嶺などの県がある。
これらは、国造の支配する国ごとに十ぐらいの県があったことを示している。
またその長の県主のカバネを稲置であると解すれば、倭国伝[註1]の記載は細部にいたるまで国内文献と合致するのである。

【日本古代国家の研究】 P.310

著者 : 井上 光貞

隋書の記載は、冠位の場合についても明らかなように、細部にいたれば不正確であって、軍尼はクニ、すなわち地方行政体のことであるのに百二十人というように人数であらわしている。
隋書の記載はまたあまりにも簡単である。
伊尼翼は地方行政体ではなくて国の下級組織としてのある種の行政体の長官であろうと考えるのであるが、その行政体が日本で何と呼ばれるものであったかも書いてはないのである。

この点について私は、その行政体の名は県であり、伊尼翼は古来多くの学者があててきたように伊尼冀イナギの誤り[註2]で、わが稲置イナギにあたるものであると考える。
その証拠の一つは記紀の記載である、
すなわち、古事記は成務朝のこととして「定賜大国・小国之国造、亦定賜国国之堺及大県・小県之県主也」といい、日本書紀は「令諸国以国郡立造長、県邑置稲置」と記してある。
このうち、古事記の方は、国と並列的に県を置いたとも、解せば解し得られる記述であるが、日本書紀の記載は、国郡・県邑という熟字の使い方が、郡県の制を前提とした書きぶりのようであって、従って、上に国を置き、下に県を置く二重組織をいったものであろう。
しかも、書紀に、邑に稲置丶丶をおくというのと、隋書が国の下に伊尼翼を置くというのとは、翼を冀の誤りと解すれば、まことによく合致するのである。
中田薫氏はこれを一つの証として、伊尼翼が伊尼冀の誤りであるという通説を支持するとともに、伊尼翼のおかれた行政体は県であるとされたのである。
私もまた同様に考えるのである。

中田氏のみでなく太田・曾我部両氏も、中田氏と同じく、隋書の記載を信用するばかりでなく、伊尼翼が稲置であることも認めるのであるが、しかしその稲置のおかれた地方団体の名称については、太田市の説は必ずしも明確でない。
また曾我部氏は中田説と全く異なる見解をだされている。
すなわち曾我部氏は、成務朝に国・県・邑をおいた時、国の長官は国造、県のそれは県主、邑のそれは稲置であったと解され、それが数百年の後、国・邑の二段階制に移ったとみなし、隋書の国の長官は国造であるけれども、稲置のおかれたのは県ではなくて邑であった、と述べていられるのである。
博士がこのように考えられた理由の一つは、上記の成務朝の古伝承の記述が古事記と日本書紀との間に相違があり、前者は国造の下に県主をおくとあるのに、後者は県邑に稲置をおくとする点であった。
もし県邑を県の意味とすると、その長官が県主か稲置かわからなくなってしまうからであろう。
じっさい、県の長官がそのいずれであったかは古来、学者の頭を悩ましてきたところだが、曾我部氏は、県邑の邑に重きをおき、県主は県の、稲置は邑の長官であると考えることによって、その矛盾を解決しようとされたのであろう。
しかし私はこの説をとらない。
何となれば、津田左右吉氏の詳しい文献批判によって、古事記と日本書紀の古伝承は、もとは一つの源すなわち旧辞に由来するものであることが明らかになっている。
源が一つである以上は、古事記の県主も、日本書紀の県邑の稲置も同じものをさしているはずである。
古事記と日本書紀の筆者は、同じ旧辞によりながら表現をかえてあらわしたものにすぎないであろう。
まして書紀の文章の「国郡立造長、県邑置稲置」という記事について、国に対応する文字は邑であるとみるのは不自然なよみ方ではあるまいか。

【日本古代国家の研究】 P.601

次に国造はいうまでもなく地方官であるが、隋書に、当時の地方組織を述べて「軍尼一百二十人あり、中国の牧宰のごとし。八十戸ごとに一伊尼翼を置く」という。
伊尼翼とは伊尼(イナギ)の誤り[註2]であろう。
またつづいて「今の里長のごときなり。十伊尼翼、一軍尼に属す」とある。
軍尼は国であって国造が百二十人いたというのであり、一国ごとに十人のイナギがあり、一イナギは八十戸をすべていたというのである。
当時の人口から推定して、数字には誤りがあるようであり、おそらく八十という戸数は、実際はもっと多かったものと考えられる。
これらの記事によれば、当時の地方組織はかなりに中央集権化され、二段階の系列化がおこなわれていたというのである。
また、国の下位の地方組織はおそらく県であって、イナギはその長の稲置に当るものであったと考えられ(4)
もっともこの隋書の記事については、種々の解釈がおこなわれており、なかにはその信憑性を疑う人もある。
私も、このような組織が全国一律にでき上がっていたと考えることはできない。
しかし、大和政権の政治組織や文化に多大の影響を与えた新羅・百済は、すでに六世紀に記述のような郡県制を確立しつつあった。
大和政権の力が、地方の中小族長にも広くおよんでいたということは、後期古墳文化の郡集墳によってもみられることである。
隋書の記載は、畿内とその周辺にはかかる組織もできていて、国家はまたこれを全国に及ぼそうとしていたことを日本人から聞いて記述したものであろう。
また、このように中央集権が進んだ結果、国造は地方官と化し、その民には課役も課せられるようになったであろう。
国史の名の最後にある公民とは、おそらく、そのような人民をさすものであっ(5)

註1:

歴史学者は何故か隋書 倭国伝と書きたがるが、実際に残されているのは隋書 俀国伝で ある
如何(いか)なる理由に よりて これを改竄せしめんと図(はか)るのか、理解に苦しむ

註2:

自身の論説に都合良く改竄する輩(やから)の、何と業の深い事か
何でも大和朝廷内の故事に故事(こじ)付ける手法は、大和朝廷至上主義と言う宗教の徒の常套手段で ある
現時点に おいては、伊尼翼 が正しいのか それとも 伊尼冀 の誤写で あるのか、判断を下せないと言うのが、客観的な判断で あろう


取り敢えず本考察に おいては、隋書原文に記載されている 伊尼翼 を採用するものと する
歴史学者は、以下の等式を以(もっ)て この記述を正しいものと する論拠と している様で ある

80 戸 = 1 伊尼翼
1 伊尼翼 x 10 = 1 軍尼 = 800 戸
1 軍尼 x 120 = 96000 戸 ≒ 十万戸


一軍尼が 800戸で それが 120 あるので合計で 9万6千戸と なり、俀国の戸数で ある十万戸に近いから妥当な値で ある、と主張したい らしい

いやいや、冗談では無い
この論法には重大な陥穽かんせいが潜んでいる



3. 通説への疑問


.1 表音


従来説には幾つかの不可解な点が あるので あるが、先(ま)ずは表音の観点から是非を明らかにして行きたい

考察を進めるための大前提として、軍尼 と 伊尼翼 の表音を把握して おきたいと思う
と言うより この様な基本的な確認作業すらも行わずして従来説の如(ごと)き愚にも付かぬ論説を押し通して来た日本の歴史学界および歴史学者と言うものが、如何に馬鹿げた もので あるかが分かるで あろう

なお、伊尼翼 は 伊尼冀 の誤写で あるとする主張が大手を振って罷(まか)り通って いるため、冀 字の表音も念のため掲げて おく
各字の表音は以下の通りで ある

軍尼と伊尼翼(冀)の表音
字音候補 上古音 中古音 中世音 現代音 呉音 漢音 万葉仮名
- kɪuən(クゥン) kɪuən(クゥン) kiuən(キゥン) ts̆üən(スィゥン) クン クン 該当する表音無し
音一 nɪer(ニェ) ṇɪi(ṇḍɪi) (ニィ,ニドュィ) ni(ニ) ni(ニ) ジ(ヂ) ニ,ヂ
音二 ner(ネ) nei(ndei) (ネイ,ネドュイ) niəi(ニェィ) ni(ニ) ネイ デイ
- ・iər(イ) ɪi(イ) i(イ) i(イ)
- d̩iək(ディェク) yiək(ィェク) iəi(イェィ) i(イ) イキ ヨク 該当する表音無し
- kɪəg(キェ) kɪi(キィ) ki(キ) ts̆i(スィ) 該当する表音無し

順を追って明らかに して行こう
隋書は隋唐代の記録なので、これに用いられた表音は中古音と言う事に なる

先ず 軍尼 の 軍 字の表音は中古音で クゥン と なる

次に 尼 字で あるが、これは複数の表音が あるので、仲々(なかなか)に難しい
思うに これは、以下の理由が あるものと思われる

1) 中国 南北朝時代を経て、地方毎に漢語の発音が異なる状況が発生した


まぁ これは多くの人が認識している事なので、特に疑問は無いと思う

2) 日本に漢字と発音を伝えられた時期と伝来地が異なる


これも特に疑問は無いと思う
強(し)いて補足するに、北朝と南朝で漢語の発音が異なって しまったと言う事に加え、途中で百済や新羅を経由して漢字が日本に齎(もたら)される事も あったと思われるため、百済人が漢字を伝来した時点では既に中国では発音が変遷してしまっていた、と言う事態も考えられるで あろう

3) 尼字は漢語の発音が難しいため、聞き手次第で異なる表音に聞こえて しまった


これに ついて言及している歴史学者と言う者を、私は聞いた事が無い
実際に発音記号通りに発音して見ると分かるので あるが、尼 字の表音は簡単な様で実は意外と難しい

現代 北京語の発音は ne で あるが、これを片仮名で表すと明らかに ネ では無い
日本人には この発音は殆(ほとん)ど無理で、聞き取ると ニ,ネ,ナ を混ぜて割った様な不思議な発音なので ある
恐らく これは古来からの 尼 字の独特の表音を継承しているのでは無いかと考えている

この様に 尼 字の表音は難しいため、この表音を聞く者が違うと発音が異なるものと認識したで あろう事、察するに余り ある
故に、尼 字は複数の表音が残っているので あろう

この論は恐らく私以外には唱(とな)えている者は今の所存在して いないかと思っているが、こう言った発想は、歴史学者には到底思い付かないもので あろう
何故なら、歴史学者とは机上で適当に愚にも付かぬ言葉遊びにたわむれるだけで実際に発音して見る等(など)と言った基本且(か)つ重要な事を、決して実践しようとは しない人種だからで ある
いやまぁ本当に、学者と言うのは気楽な商売な もので ある

上記を繋(つな)げると、軍尼 は漢語で

クゥンニィ, クゥンニドュィ, クゥンネイ, クゥンネドュイ


と言った表音と なる事が分かる
ニドュィ や ネドュイ と言った表音は非常に難解で、残念ながら現代日本人には最早 発音する事能(あた)わぬ ものと思われる
これは私の私見では あるが、無理を承知で強いて片仮名で書き表すと ニドュィ が現代日本語の ヂ(ジ) に近く、ネドュイ は現代語の デイ 若(も)しくは デ で あろう

当然ながら これは漢語で あるので、これに相応する倭語は

クンニ, クンヂ(ジ), クンネイ, クンデイ


と なると思うが、訓読みで対応しそうな語が全く思い付かず、意味する所も良く分からない
或(あるい)いは倭語では無く、漢語や百済語の語彙を導入して使用していたもので あるのかも知れない

さて、もう既に察しが付いていると思うが、軍尼 は倭語で言う くに と言う語では無いので ある
何故なら、軍 字は明らかにはつ音(=ン)を伴う表音 クン で あるため、当時の倭人及び漢族は倭語の くに と同音で あると認識する可能性は、絶望的に低い様に思える
若し倭語 国 を漢語で表音したと すれば、


久 玖 區(区) 矩 勾(句)



尓 迩 仁 尼 爾 邇 珥 瓊


と言った漢字が選ばれる可能性が高いのでは無いかと思われる
両字の候補から 国 として採用されそうな表字を挙げて おくと、

玖尼, 矩爾


この辺(あた)りが妥当で あろう
これ等の漢字は、万葉仮名として使用実績が あるので、敢えて これらの漢字を使用しない理由が見付からないので ある
しかし、当然の事で あるが、隋書には その様には記載されて いない

次に 伊尼翼(冀) の表音で あるが、これは それぞれ以下の通りと なる

伊尼翼

イ ニィ ィェク, イ ニドュィ ィェク, イ ネイ ィェク, イ ネドュイ ィェク


伊尼冀

イ ニィ キィ, イ ニドュィ キィ, イ ネイ キィ, イ ネドュイ キィ


率直に言おう、伊尼冀 は 稲置いなぎ,稲城 では無い

尼 字は表音が複数あるが、しかし ナ 音は存在しない
また、語末の 冀 字は明らかに ギ では無く キ であり、濁音清音の差違が明瞭で あるため、これを混同する事は考えにくい ので ある
勿論 稲城 には いなき と言う表音も あるが、尼 字が ナ音では無いと言う事実は大きい

上記 国(くに) 同様、稲置,稲城 を漢字で表字させようとすると、私で あれば以下の漢字群を候補として挙げるで あろう





奈 那 娜 南 難 儺


ギ甲類

藝(芸) 伎 岐 枳 祇 儀 蟻


ギ乙類

凝 擬 宜 義


稲置,稲城 の ギ音は甲類なのか乙類なのか分からないが、試(こころ)みに双方から挙げて おくと、

伊奈儀,伊奈宜


先ず以(もっ)て この辺りかと思う
こちらも、万葉仮名として実績が ある漢字群で ある
しかし、これも 軍尼 同様で あるが隋書には その様には記載されて いない

どうやら 伊尼冀=稲城 等と言う不可解な主張は根拠が根も葉も無い妄想の様で ある

では何故この様な奇怪な論説が罷り通る様に なって しまったのか?

それは勿論、大和朝廷第一主義教と言う狂信的な信者のせるわざで あった、としか言い様が無い
要するに、中国文献から大和朝廷に関連しそうな語彙を引っ張り出して来ては強引に故事(こじ)付けて、恰(あたか)も大和朝廷内の歴史で あるかの様に偽装或いは捏造して憚(はばか)らず、歴史に通(つう)ぜぬ一般人に己(おの)が身勝手な論説を擦り込んで洗脳しようとする、不逞のやから の仕業(しわざ) なので ある

この手の輩は大学教授や助教授等の職に就(つ)いている者も多く、社会的には地位が高いと見做(みな)され権威も備(そな)わっているため、講義を受ける生徒や他の一般講師は真っ向からは批判しにくい様で、これも又大和朝廷第一主義教信徒を のさばらせ跋扈させてしまう要因と なってしまっている らしい
何とも困った事では あるが、何分 宗教なので、理論や道理を受け付けず、理非を弁(わきま)えない事 夥(おびただ)しいので、手が付けられない感が ある
対処としては、彼等が奉じる信教の教義を少しずつ理論的に、根拠の無い妄想,妄執で ある事を突き付けて行くしか無さそうで ある

孰(いず)れに しても言える事は、隋書原文に ある 伊尼翼 を 伊尼冀 にじ曲げて大和朝廷内の 稲置,稲城 に故事付けようと した試みは、水泡すいほうしたと言う事で あろう


.2 隋書以外の史書に見える 伊尼翼


実は、伊尼翼 を 伊尼冀 の誤写で あると主張する論者に とって非常に都合の悪い史書が存在している
それは 北史 と言う史書で ある
【北史】 卷九十四 列傳第八十二 倭國

撰者 : 唐朝 李 大師, 李 延壽(寿)

有軍尼一百二十人 猶中國牧宰
八十戶置一伊尼翼 如今里長也
伊尼翼屬一軍尼
其服飾 男子衣裙襦 其袖微小 履如屨形 漆其上 繫之脚
人庶多跣足 不得用金銀爲飾
故時衣橫幅 結束相連而無縫 頭亦無冠 但垂髮於兩耳上
至隋其王始制冠 以錦綵爲之 以金銀鏤花爲飾
婦人束髮於後 亦衣裙襦 裳皆有襈攕(亦衣裙襦,裳 皆有襈攕と読むべきか?) 竹聚以爲梳
編艸爲薦 雜皮爲表 緣以文皮
有弓矢,刀,矟,弩,欑,斧 漆皮爲甲 骨爲矢鏑 雖有兵無征戰
其王朝會必陳設儀仗 (奏 脱落か)其國樂
戶可十萬

こちらも上記 隋書 同様、戸数の記述までに留めて おいたが、北史 の原文は以下を参照されたい

北史 倭国伝 他

写本を見ているので異体字の差違は当然生じているが、それ以外には殆(ほとん)ど差違は見当たらない
恐らく これは、北史 の撰者 李 延寿 と 隋書 の撰者 魏 徴 が同じ原史料を基(もと)に編纂したか、若しくは 隋書 の原本を 李 延寿 が写したので あろう
何故そう言えるかと言えば、隋書は 貞観十年(西暦636年)に列伝編纂が完了しており、北史の編纂完了は その直後で ある事が分かっているから で ある

この両史書を見る限り、隋書原本に 伊尼冀 と書かれていたと すると、北史にも 伊尼冀 と記されて いなければ道理に合わない事に なる
となれば、両書共に 伊尼冀 を 伊尼翼 に誤写したのでは無く、両書共に 伊尼翼 が正しかったと言う事に なるので ある

因(ちな)みに、伊尼翼 の表音で あるが、呉音漢音と上古音中古音の関連性が読み取れて興味深い
改めて上表の 軍尼 と 伊尼翼(冀) の表音 を見て頂(いただ)きたい ので あるが、

上古音: d̩iək(ディェク) → 呉音: イキ
中古音: yiək(ィェク) → 漢音: ヨク


と言った日本への伝来を経(へ)ているのでは無いかと思う

先ず上記音で あるが、d̩iək の先頭音は ディェ と なるが、古代の倭語には ディ と言う発音は存在しないため、強制的に近似の発音に置き換えられて しまう事に なる
また その後に曖昧表音の ə 音が続くが これは消失し易(やす)い
最後に語末の k は ク 音で あるが、日本語では母音を伴わない子音のみの発音と言うのは あり得ないので、これも強制的に母音が付加されて しまう
そのために漢語では ディェク と言う表音も、倭語に なると語頭の ディ の子音 d が欠落して母音が強調されて イェク と なり、また母音の連続は倭語としては安定しないので曖昧母音が脱落して しまい、k に母音が付加されて呉音 イキ が成立したので あろう

次に中古音 yiək で あるが、ヤ行音の yi と ye は只(ただ)で さえ安定しにくい上、更に曖昧母音 ə が続いて しまって いるので、ヤ行音の中でも安定し易い発音で ある ヨ に置き換えられて しまったので あろう
子音 k に ついては呉音と同様、強制的に母音が付加されて漢音の ヨク が成立したものと思われる

子音 k に ついては呉音と同様、強制的に母音が付加されて漢音の ヨク が成立したものと思われる

それでは、伊尼翼 と言う語は畢竟 倭語では どう言った語を意味しているので あろうか

上記で 伊尼翼 の表音を記しているが、これは それぞれ以下の通りと なる

イニヱク, イヂ(ジ)ヱク, イネヱク, イデヱク


語尾の ク 音は、呉音を見るに キ 音として使用していた可能性も ある
その場合は、

イニヱキ, イヂ(ジ)ヱキ, イネヱキ, イデヱキ


と なる
ただ、一見して何の意味を持つ語なのか、何とも良く分からないが、以下の様な語が当て嵌(は)まるで あろうか


い(間投助詞)
斎(い)


伊尼

往(去)(い)に
往(去)地(じ)
往ね
出(い)で



役(えき)
駅(えき)


尼翼

荷役(にえき), 荷駅(にえき)
地駅(じえき)


上記の組み合わせとしては、往荷いにえき が最も可能性が高いのでは無いかと考える
何故なら、荷役は賦役(ぶえき)に通じ易い語だからで ある
賦役とは何かと言うと、これは領主国主が領民農民に課した労役で あり、簡単に言えば税穀(ぜいこく)や材木等を運搬したり、或いは官舎や堤防の築造を担(にな)わせたりと言った強制労働を指す

次の候補としては えき,往に駅 で あろうか
駅と言っても現代の鉄道が停車する路線駅の事では無く、古代に おける宿駅の方の意で ある
この駅には官舎と馬が用意されていて伝令や文書の配送に使われていたと言う
語義を考慮すれば、往荷駅 や 往ね駅(往に駅) は充分に通じるのでは無いかと思う

なお、可能性は低いかも知れないが、若し 伊尼翼=往ね駅 で あったとすれば、

いねゑき → いねき → いなき → いなぎ(稲置,稲城)


と言った表音変遷が行われたと する想定も、考慮に入れて良いのかも知れない


.3 人口は区画されて収まるもの では無い


次は行政区分と人口に ついて で ある
日本の地理地形は非常に複雑なので、人口が均等化されている状況等と言うのは あり得ないので ある
上記の 伊尼翼 と 軍尼 に属する戸数に ついてを再掲するが、

80 戸 = 1 伊尼翼
1 伊尼翼 x 10 = 1 軍尼 = 800 戸
1 軍尼 x 120 = 96000 戸 ≒ 十万戸


軍尼=国 とする従来説では、一国は一律 800 戸で ある事に なる
この様な馬鹿な事が あるで あろうか? いや、無い
絶対に無い
あり得ない

現代の都道府県を思い浮かべれば一目瞭然で あるが、人口の差異が 400人未満と言う近似の県が一部あるに せよ、人口が全般的に均質化されている状況は全く見られない

都道府県の人口一覧 - Wikipedia

こう考えると、軍尼 が 国では絶対に あり得ない事が分かるかと思う
また 伊尼翼 で あるが、これも恰度(ちょうど) 80 戸ずつ と言うのも明らかに不自然では ある
何故なら山間部では人口密度が低くなる傾向が あり、一つの聚落(しゅうらく) で 80 戸にも満たないと言う事は実際に あり得ると思う
逆に平野部では、聚落一つで 80 戸を越えている事も、当然起きていたと思われる

前掲書から再度引用するが、
【日本の古代】 6 王権をめぐる戦い 35 国造と屯倉 P.122

たとえば、そのいうところによれば、一二〇の国はみなそれぞれ均等に八〇〇戸ずつからなっていたことになるが、そのようなことは常識的にいっても考えがたいであろう。

全く その通り と言うしか無い
となれば、やはり これは 伊尼翼 に せよ 軍尼 に せよ行政区画(現代で言う所の県や郡市町村と言った行政単位)を越えた組織で あると考えるべき なので ある



4. 結論


行政区分とは別の組織として区分けされているものとして、比較的我々に接する機会が あるかも知れないものとしては、災害緊急避難先や防災マップと言ったものが ある
或いは、今までに一度も激甚災害や地震火事等の大規模災害に見舞われた事が無い人に とっては、身近な存在とは意識していない者も多いかも知れないが

例えば救急車は何処どこから来るのか考えた事が あろうか?

実は救急車は消防署から来るので あるが、消防管轄区は複数市町村を跨(またが)っている事も あり、また災害の規模や同時災害の有無等に よっては消防管轄外から駆け付ける事も ある
そう、救急車や消防車と言うものは、必ずしも同じ市内の消防署から来ると言う事では無く、行政区分とは関係無く来る事も ある

行政区分から外(はず)れた組織として消防を挙げたが、恐らくは現代の日本人には軍管区と言うものを理解出来ないと思うので、分かり易い例として示したもので ある

古代での国家統治に おいては軍と政は我々現代日本人が認識するよりも密接かつ不分離なので、行政と軍政が併存していたので あろう
そして古代に あっては人口の把握の重要度は、平和惚(ぼ)けした現代日本人が考える以上に高かったものと考えられる
何故なら、平時は人口の多寡は徴税の歳入に直接関(かか)わり、また一朝時(いっちょうじ) ある時には軍兵として徴兵する必要が常に あり、人口は徴集可能な兵力数値に直結した からで ある

こう言った理由に より、領国内の戸数を把握し必要に応じて徴兵や伝令を行う軍政上の組織の設置が古代日本に おいて必要と せられたので あろう
そして この軍政組織の名称が、軍尼 や 伊尼翼 と言ったものでは無かったと思われる

つまり、隋書に登場する 軍尼 とは国(くに) の事では無く、現代の語で言うと軍管区の様な存在で あったものと思われる



5. 関連 URI


参考と なる URI は以下の通り

隋書 俀国伝 他
北史 倭国伝 他
軍管区 - Wikipedia
稲置 - Wikipedia
駅 - Wikipedia

公開 : 2015年4月19日
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