【卑弥呼と宇佐王国 神話から古代への軌跡】 P.202狗奴国と呉朝に おいて何かしらの交流が行われていた可能性は否定し得ない所では あるが、
著者 : 清輔 道生
当時、中国は三国時代で、北方の魏は邪馬台国を、江南の呉は狗奴国を支援していたと推定される
(この呉は太伯が建国した呉ではなく、三国時代、孫権が旧呉の地に建国したものである。
建康に都し、四代六十年続き、二八〇年、晋に滅ぼされた)。
呉と狗奴すなわち隼人は、歴史的・文化的・人種的に密接なつながりがあったのではなかったろうか。
【卑弥呼と宇佐王国 神話から古代への軌跡】 P.255深いと言い切ってしまって良いか どうかは疑問が残る
(1) 狗奴国とは隼人の一派クマ族の建てた国で、呉の国と関係が深い。
【三國志】 卷四十七 吳志二 吳主傳 第二珠璣は真円では無いが一応は円形の真珠で あろうか
撰者 : 西晉(晋)朝 陳壽(寿)
(嘉禾)四年(西暦235年) 夏 遣呂岱討桓等
秋 七月 有雹 魏使以馬求易珠璣,翡翠,瑇瑁
權曰
此皆孤所不用 而可得馬 何苦而不聽其交易
西域を さいいき と読まれる事が多いが、せいいき が正しいかと思う
日本の西日本は
【三國志】 卷四十七 吳志二 吳主傳 第二天下に瑞祥が起きて王朝が代わるか或いは新規に
黃龍元年(西暦229年) 春 公卿,百司皆勸權正尊號
夏 四月 夏口,武昌並言 黃龍,鳳凰見
丙申 南郊卽皇帝位
吳錄載 權告天文曰
皇帝臣權敢用玄牡昭告于皇皇后帝
漢享國二十有四世 歷年四百三十有四 行氣數終 祿祚運盡 普天弛絕 率土分崩
孽臣曹丕遂奪神器 丕子叡繼世作慝 淫名亂制
權生於東南 遭值期運 承乾秉戎 志在平世 奉辭行罰 舉足爲民
羣臣將相 州郡百城 執事之人 咸以爲天意已去於漢 漢氏已絕祀於天 皇帝位虛 郊祀無主
休徵嘉瑞 前後雜沓 曆數在躬 不得不受
權畏天命 不敢不從 謹擇元日 登壇燎祭 卽皇帝位
惟爾有神饗之 左右有吳 永終天祿
【三國志】 卷二 魏志 文帝紀 第二註2:
(黄初)七年(226年) 春 正月 將幸許昌
許昌城南門無故自崩 帝心惡之遂不入
壬子 行還洛陽宮
三月 築九華臺
夏 五月 丙辰 帝疾篤
召中軍大將軍曹眞,鎭軍大將軍陳羣,征東大將軍曹休,撫軍大將軍司馬宣王 竝受遺詔輔嗣主
遣後宮淑媛,昭儀巳[註3]下歸其家
丁巳 帝崩于嘉福殿 時年四十魏書曰 𣩵於崇華殿前
六月 戊寅 葬首陽陵 自𣩵及葬 皆以終制從事
魏氏春秋曰
明帝將送葬 曹眞,陳羣,王朗等以暑熱固諫 乃止
孫盛曰
夫窀穸之事 孝子之極痛也 人倫之道於斯莫重
故天子七月而葬 同軌畢至
夫以義感之情 猶盡臨隧之哀 況乎天性發中 敦禮者重之哉
魏氏之德 仍世不基矣
昔華元厚葬 君子以爲棄君於惡 羣等之諫 棄孰甚焉
鄄城侯曹植爲誄曰
惟黃初七年五月七日 大行皇帝崩 嗚呼哀哉
于時天震地駭 崩山隕霜 陽精薄景 五緯錯行 百姓呼嗟 萬國悲傷 若喪考妣 恩過慕[註4]唐 擗踊郊野 仰想穹蒼 僉曰何辜 早世殞喪 嗚呼哀哉
悲夫大行 忽焉光滅 永棄萬國 雲往雨絶
承問荒忽 惛懵哽咽 袖鋒抽刃 歎自僵斃 追慕三良 甘心同穴
感惟南風 惟以鬱滯 終於偕沒 指景自誓
考諸先記 尋之哲言 生若浮寄 唯德可論 朝聞夕逝 孔志所存
皇雖一沒 天祿永延 何以述德 表之素旃 何以詠功 宣之管絃
乃作誄曰
皓皓太素 兩儀始分 中和産物 肇有人倫 爰曁三皇 寔秉道眞 降逮五帝 繼以懿純 三代制作 踵武立勲
季嗣不維 網漏于秦 崩樂滅學 儒坑禮焚 二世而殲 漢氏乃因 弗求古訓 嬴政是遵 王綱帝典 閴爾無聞
求光幽昧 道究運遷 乾坤𢌞歷 簡聖授賢 乃眷大行 屬以黎元
龍飛啓祚 合契上玄 正行定紀 攺號革年 明明赫赫 受命于天
仁風偃物 德以禮宣 祥惟聖質 嶷在幼妍
庶幾六典 學不過庭 潛心無罔 亢志靑冥
才秀藻朗 如玉之瑩 聽察無嚮 瞻覩未形
其剛如金 其貞如瓊 如冰之潔 如砥之平
爵公無私 戮違無輕 心鏡萬機 攬照下情
思良股肱 嘉昔殷呂 搜揚側陋 舉湯代禹
㧞才巖穴 取士蓬戸 唯德是縈 弗拘禰祖
宅土之表 道義是圖 弗營厥險 六合是虞
齊契共遵 下以純民 恢拓規矩 克紹前人
科條品制 襃貶以因 乘殷之輅 行夏之辰
金根黃屋 翠葆龍鱗 紼冕崇麗 衡紞維新 尊肅禮容 矚之若神
方牧妙舉 欽於恤民 虎將荷節 鎭彼四鄰 朱旗所剿 九壤被震 疇克不若 孰敢不臣 縣旌海表 萬里無塵
虜備凶徹 鳥殪江岷 權若涸魚 乾腊矯鱗 肅愼納貢 越裳效珍 條支絶域侍子內賔
德儕先皇 功侔大古
上靈降瑞 黃初叔祜 河龍洛龜 陵波游下
平鈞應繩 神鸞翔舞 數莢階除 系風扇暑
皓獸素禽 飛走郊野 神鍾寶鼎 形自舊土
雲英甘露 瀸塗被宇 靈芝冒沼 朱華蔭渚
囘囘凱風 祁祁甘雨 稼穡豐登 我稷我黍
家佩惠君 戸蒙慈父
圖致太和 浴德全義
將登介山 先皇作儷
鐫石紀勲 兼錄衆瑞 方隆封禪 歸功天地 賔禮百靈 勲命視規 望祭四嶽 燎封奉柴 肅于南郊 宗祀上帝
三牲旣供 夏禘秋嘗 元侯佐祭 獻璧奉璋
鸞輿幽藹 龍旂太常 爰迄太廟 鍾鼓鍠鍠 頌德詠功 八佾鏘鏘
皇祖旣饗 烈考來享 神具醉止 降茲福祥
天地震蕩 大行康之 三辰暗昧 大行光之 皇紘絶維 大行綱之 神器莫綂 大行當之 禮樂廢弛 大行張之 仁義陸沈 大行揚之 潛龍隱鳳 大行翔之 疏狄遐康 大行匡之
在位七載 元功仍舉 將永太和 絶跡三五 宜作物師 長爲神主 壽終金石 等算東父 如何奄忽 摧身后土 俾我煢煢 靡瞻靡顧
嗟嗟皇穹 胡寧忍務 嗚呼哀哉
明監吉凶 體遠存亡 深垂典制 申之嗣皇
聖上虔奉 是順是將 乃剏玄宇 基爲首陽 擬迹穀林 追堯慕唐 合山同陵 不樹不疆 塗車芻靈 珠玉靡藏
百神警侍 來賔幽堂 耕禽田獸 望魂之翔
於是俟大隧之致功兮 練元辰之淑禎 潛華體於梓宮兮 馮正殿以居靈
顧望嗣之號咷兮 存臨者之悲聲 悼晏駕之旣疾兮 感容車之速征
浮飛魂於輕霄兮 就黃墟以滅形 背三光之昭晰兮 歸玄宅之冥冥
嗟一往之不反兮 痛閟闥之長扃
咨遠臣之眇眇兮 感凶諱以怛驚 心孤絶而靡告兮 紛流涕而交頸
思恩榮以橫奔兮 閡闕塞之嶢崢 顧衰絰以輕舉兮 迫關防之我嬰
欲高飛而遙逝兮 憚天網之遠經 遙投骨於山足兮 報恩養於下庭
慨拊心而自悼兮 懼施重而命輕 嗟微軀之是效兮 甘九死而忘生 幾司命之役籍兮 先黃髮而隕零 天蓋高而察卑兮 冀神明之我聽
獨鬱伊而莫愬兮 追顧景而憐形 奏斯文以寫思兮 結翰墨以敷誠 嗚呼哀哉)
一般的には 誄詞 と呼ばれているが、余りにも堂々として いて(いや、堂々過ぎて)、誄詩 と言った方が
已字 の誤か
思慕過唐 の誤らしい
しかし これ等の貢献が 呉主伝 に記述されていないのか、良く分からない【三國志】 卷六十 吳志十五 賀全呂周鍾離傳 第十五
岱既定交州 復進討九真斬,獲以萬數
又遣從事南宣國化暨徼外 扶南,林邑,堂明,諸王各遣使奉貢
權嘉其功 進拜鎭南將軍
【三國志】 卷三十三 蜀志 後主傳 第三註5:
(建興)五年(227年) 春 丞相亮出屯漢中 營沔北陽平石馬
諸葛亮集載 禪三月下詔曰
朕聞天地之道 福仁而禍淫 善積者昌 惡積者喪 古今常數也
是以湯,武修德而王 桀,紂極暴而亡
曩者漢祚中微 網漏凶慝 董卓造難 震蕩京畿
曹操階禍 竊執天衡 殘剝海內 懷無君之心
子丕孤𥪡 敢𡬶亂階 盜據神器 更姓攺物 世濟其凶 當此之時 皇極幽昧 天下無主 則我帝命 隕越於下
昭烈皇帝體明叡之德 光演文武 應乾坤之運 出身平難 經營四方 人鬼同謀 百姓與能 兆民欣戴 奉順符䜟 建位易號 丕承天序 補弊興衰 存復祖業 膺誕皇綱 不墜於地
萬國未靜 早世遐殂 朕以㓜冲 繼綂馮鴻基 未習保傅之訓 而嬰祖宗之重
六合壅否 社稷不建 永惟所以 念在匡救 光載前緒 未有攸濟 朕甚懼焉
是以夙興夜寐 不敢自逸 每從菲薄以益國用 勸分務穡以阜民財 授方任能以參其聽 斷私降意以養將士
欲奮劔長驅 𢫾討凶逆 朱旗未舉 而丕複隕喪 斯所謂不然我薪而自焚也
殘類餘醜 又支天禍 恣睢河,洛 阻兵未弭
諸葛丞相弘毅忠壯 忘身憂國 先帝托以天下 以勗朕躬
今授之以旄鉞之重 付之以專命之權 綂領步騎二十萬衆 董督元戎 龔行天伐 除患寧亂 克複舊都 在此行也
昔項籍總一彊衆 跨州兼土 所務者大 然卒敗垓下 死於東城 宗族如焚 爲笑千載 皆不以義 陵上虐下故也
今賊傚尤 天人所怨 奉時宜速 庶憑炎精 祖宗威靈相助之福 所向必克
吳王孫權同恤災患 潛軍合謀 犄[註6]角其後
涼州諸國王各遣月支,康居胡侯支富,康植等二十餘人詣受節度
大軍北出 便欲率將兵馬 奮戈先驅 天命旣集 人事又至 師貞勢并 必無敵矣
夫王者之兵 有征無戰 尊而且義 莫敢抗也 故鳴條之役 軍不血刃 牧野之師 商人倒戈
今旍麾首路 其所經至 亦不欲窮兵極武
有能棄邪從正 簞食壺漿以迎王師者 國有常典 封寵大小 各有品限
及魏之宗族,枝葉,中外 有能規利害 審逆順之數 來詣降者 皆原除之
昔輔果絕親於智氏 而蒙全宗之福 微子去殷 項伯歸漢 皆受茅土之慶 此前世之明驗也
若其迷沈不反 將助亂人 不式王命 戮及妻孥 罔有攸赦
廣宣恩威 貸其元帥 弔其殘民
他如詔書律令 丞相其露布天下使稱朕意焉
方字 は 才字 の誤か
犄字 は 掎字 の誤か
【三國志】 卷三 魏志三 明帝紀 第三魏朝から [親魏大月氏王] の金印を紫綬された 大月氏国 の 波調(ヴァースデーヴァ 一世) の朝献が記録されている
(太和)(三年)(=229年)(十二月) 癸卯 大月氏王波調遣使奉獻 以調爲親魏大月氏王
(青龍)四年(236年) 五月 乙卯 司徒董昭薨
丁巳 肅慎氏獻楛矢
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳倭国朝献に ついては特に触れる必要は あるまい
景初二年(238年) 六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都
【三國志】 卷四 魏志 三少帝紀 第四 齊王芳西域から燃え尽きない石綿の布らしい 火浣布 が
(景初三年)(=239年)二月 西域重譯獻火浣布[註7] 詔大將軍,太尉臨試以示百寮
(正始)四年(243年) 冬 十二月 倭國女王俾彌呼 遣使奉獻
かかんぷ と読む らしいが、かかんふ で良いと私は思う
【三國志】 卷四 魏志 三少帝紀 第四 陳留王韓,濊貊 諸地域から楽浪郡に朝貢が行われたので あろうか
(景元)(二年)(=261年)秋 七月 樂浪外夷韓,濊貊各率其屬來朝貢
(景元)(三年)(=262年)夏 四月 遼東郡言 肅慎國遣使重譯入貢 獻其國弓三十張 長三尺五寸 楛矢長一尺八寸 石弩三百枚 皮,骨,鐵雜鎧二十領 貂皮四百枚
【三國志】 卷四十七 吳志 吳主傳 第二夷洲 は台湾の事で あろうと思うが、さて 亶洲 とは何処で あろうか?
(黃龍)二年(230年) 春 正月 魏作合肥新城
詔立都講祭酒 以教學諸子
遣將軍衞溫,諸葛直將甲士萬人 浮海求夷洲及亶洲 亶洲在海中
長老傳言 秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海 求蓬萊神山及仙藥 止此洲不還 世相承有數萬家其上
人民時有至會𥡴貨布 會𥡴東縣人海行 亦有遭風流移至亶洲者
所在絕遠 卒不可得至 但得夷洲數千人還
(黃龍)三年(231年) 春 二月 遣太常潘濬 率衆五萬 討武陵蠻夷
衞溫,諸葛直 皆以違詔無功下獄 誅
【漢書】 卷二十八下 地理志第八下 吳地更に もう一つ、後漢書 倭伝にも関連して いそうな記述が見て取れる
撰者 : 東漢朝 班固 班昭 馬続(ばしょく) 等
會𥡴海外有東鯷人孟康曰 音題 晉灼曰 音鞮 師古曰 孟音是也 分爲二十餘國 以歲時來獻見云
【後漢書】 卷八十五(一百十五) 列傳卷七十五 東夷傳 倭傳亶洲(澶洲) と 東鯷人 が どの様に関連しているのかは何とも言えないが、恐らくは 亶洲 と呼称される島嶼部に 東鯷人 が居住していたので あろう
撰者 : 南朝劉氏宋朝 范曄
會𥡴海外有東鯷人鯷音 達奚反 分爲二十餘國
又有夷洲及澶洲
傳言 秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海事見史記
求蓬萊神仙不得 徐福畏誅不敢還 遂止此洲 丗丗相承有數萬家
人民時至會𥡴市
會𥡴東冶縣人有入海行遭風 流移至澶洲者 所在絕遠 不可往來
沈瑩 臨海水土志曰
夷洲在臨海東南 去郡二千里 土地無霜雪 草木不死 四面是山谿
人皆髡髮穿耳 女人不穿耳
土地饒沃 旣生五穀 又多魚肉
有犬尾短如麕尾狀
此夷舅姑子婦臥息共一大牀 略不相避
地有銅鐵 唯用鹿格爲矛以戰鬬 摩礪靑石以作弓矢
取生魚肉雜貯大瓦器中 以鹽鹵之 歷月所(餘の誤か)日乃啖食之 以爲上肴也
【孫子】(孫武兵法) 用閒第十三註8:
著者 : 東周朝 春秋時代 呉 孫武
孫子曰 凡興師十萬 出征千里 百姓之費 公家之奉 日費千金
內外騷動 怠於道路 不得操事者 七十萬家
古者八家爲鄰一家從軍七家奉之言十萬之師舉不事耕稼者七十萬家
相守數年 以爭一日之勝 而愛爵祿百金 不知敵之情者 不仁之至也 非人之將也 非主之佐也 非勝之主也
故明君賢將 所以動而勝人 成功出於衆者 先知也
先知者 不可取於鬼神不可禱祀求而 不可象於事不可以事類求 不可驗於度不可以事數度
必取於人 知敵之情者也因間人也
故用閒有五 有因[註8]閒 有內閒 有反閒 有死閒 有生閒
五閒俱起 莫知其道 是謂神紀 人君之寶也因時任用五閒也
因[註8]閒者 因其鄕人而用之
內閒者 因其官人而用之
反閒者 因其敵閒而用之
死閒者 爲誑事於外 令吾聞知之 而傳於敵閒也
生閒者 反報也
故三軍之事 莫親於閒 賞莫厚於閒 事莫密於閒 非聖智不能用閒 非仁義不能使閒 非微妙不能得閒之實 微哉微哉 無所不用閒也
閒事未發 而先聞者 閒與所告者皆死
凡軍之所欲擊 城之所欲攻 人之所欲殺 必先知其守將,左右,謁者,門者,舍人之姓名 令吾閒必索知之
必索敵人之閒來閒我者 因而利之 導而舍之 故反閒可得而用也舍居止也
因是而知之 故鄕閒,內閒可得而使也 因是而知之 故死閒爲誑事可使告敵 因是而知之 故生閒可使如期
五閒之事 主必知之 知之必在於反閒 故反閒不可不厚也
昔殷之興也 伊摯在夏伊尹也 周之興也 呂牙在殷呂望也 故明君賢將能以上爲閒者 必成大功
此兵之要 三軍之所恃而動也
因字 鄕字 の誤か 或いは 鄕字 の古形 嚮字 が正しいか
表音は
いや別に狗奴国限定では無く、狗奴国では無い倭国内の何処か の国でも良いので あるが
【古代中世における 日中関係史の研究】 P.19
著者 : 大庭 脩
その一つは、景初四年鏡についてである。
景初の年号は、魏の明帝曹叡の建てたもので、元年が西紀二三七年にあたることは周知のとおりであるが、明帝は景初三年一月昨日に死んだ。
曹叡には子がなかったので、斉王の曹芳がこの日皇太子に立てられ、即日皇帝の位に就いた。
しかし元旦に皇帝が死んだのでそのまま改元せず、さらに正月が忌日になるのを避けて、景初三年十二月を二度やって正始元年に改めた。
これだけ複雑な過程のあった景初三年であるから、景初四年にあたる年は改元必至の年であった。
中国では、いわゆる正朔を奉ずるという思想に示されるように、王朝の定める暦に従うことが、その王朝に服することを意味し、正朔の象徴的な存在が元号である。
一九七三年に発掘された居延漢簡のなかに「漢元始廿六年」という紀年の簡があるが、それは西紀二六年にあたり、後漢の建武二年であるが、これは王莽の新王朝を認めず、漢平帝の元始の年号を引き続き使用しているという意味がある。
景初四年の元号は、魏の改元を知らない地域でつくられたか、曹芳の即位を認めないという意思表示かいずれかの解釈が必要になる。
景初四年鏡の製作の議論の前提に鏡の製作に関する自らの仮説があり、それに合うように年号論を強弁するのは、我われの分野からみれば首をかしげざるを得ない。
鏡についてもう一つ触れておきたいのは赤烏元年鏡の存在である。
呉の赤烏元年は二三八年で、魏の景初二年にあたる。
和泉黄金塚古墳出土の景初三年銘鏡や景初四年鏡、正始元年鏡などの魏の鏡が注目を集め、種々論議のあるなかで、絶対年代がほぼ同じ呉鏡についての議論が少ないのは解しがたい。
呉の工人説などが出ている以上は、呉鏡も魏鏡も同じ原則で取り扱うべきではなかろうか。
【古代中世における 日中関係史の研究】 P.95誠に
二三九年は魏の景初三年、呉の赤烏二年で、景初三年と赤烏元年の記念鏡が日本列島から出土している。
これらの鏡が何故、日本列島から出土したのかを考えるときには、双方に同じ原則を適用すべきで、恣意的な解釈は避けるべきである。
一方が魏帝の賜与品ならば、他方は呉帝の賜与品と考えてみるべきだし、一方が伝世鏡なら、他方もそうだと考えねばならぬ。
一方が仿製鏡だというなら、他方もそうだと考えてみる必要がある。
この点で論理の整合性が強く要求され、恣意は排除されねばならない。
そして一番難しいことは、両社に適用する原則が違う場合、その合理的根拠を見出すことであろう。
私は三世紀における江南と日本列島の交渉があった可能性は認めたいと思っている。
しかし、それを証拠だてる船の問題が解決できない。
先に述べた魏や呉の遠交近攻の作戦は、あくまで沿岸航路であって、四方を海に囲まれた陸地の見えない状態で、どうして間違いなく目的地まで航行したかを確認する手だてがないのである。