狗奴国と呉国は通交していない

1. 狗奴国と呉国は通交していたと考える論の是非


狗奴国と呉朝が通交していたと唱える論者が いる様で ある
例えば、
【卑弥呼と宇佐王国 神話から古代への軌跡】 P.202

著者 : 清輔 道生

当時、中国は三国時代で、北方の魏は邪馬台国を、江南の呉は狗奴国を支援していたと推定される
(この呉は太伯が建国した呉ではなく、三国時代、孫権が旧呉の地に建国したものである。
建康に都し、四代六十年続き、二八〇年、晋に滅ぼされた)。

呉と狗奴すなわち隼人は、歴史的・文化的・人種的に密接なつながりがあったのではなかったろうか。

狗奴国と呉朝に おいて何かしらの交流が行われていた可能性は否定し得ない所では あるが、
【卑弥呼と宇佐王国 神話から古代への軌跡】 P.255

(1) 狗奴国とは隼人の一派クマ族の建てた国で、呉の国と関係が深い。

深いと言い切ってしまって良いか どうかは疑問が残る
無論、確かに狗奴国が鹿児島の隼人族と関係が あったと言う事は あるかも知れない

一応、呉朝が周辺諸国と交易を行っていたかも知れないと言う形跡は以下の様な記述から何とか見出せ無くも無いかも知れない
【三國志】 卷四十七 吳志二 吳主傳 第二

撰者 : 西晉(晋)朝 陳壽(寿)

(嘉禾)四年(西暦235年) 夏 遣呂岱討桓等
秋 七月 有雹 魏使以馬求易珠璣,翡翠,瑇瑁
權曰

此皆孤所不用 而可得馬 何苦而不聽其交易

珠璣は真円では無いが一応は円形の真珠で あろうか
名称としては半円真珠と言うらしい
璣 は ちか に王偏をした字なので、字面から見た字義は "円に近い珠(=真珠)" と なる
真珠は西域[註1]等で淡水真珠が採集可能で あるが、西域と通交の ある魏朝が呉朝に要求しているので あるから、これは海水真珠で あろう
その産地は南シナ海から東シナ海に かけての地域と なる
古代の九州は天然真珠の採集地では あるが、真円真珠かと思うので、ここに現れている珠璣とは関係無いのかも知れない

註1:

西域を さいいき と読まれる事が多いが、せいいき が正しいかと思う
日本の西日本は西国さいごくで あるが、漢籍を読むならば基本的には漢音で読むべきで あろう


翡翠は硬玉で あろうか
西域の于闐うてん,ホータンからも軟玉翡翠を採掘出来るが、これも真珠同様 西域から入手出来るものを敢えて呉国に望んでいるので あるから、硬玉の事で あろう
硬玉翡翠と言えば、産地は日本の糸魚川とインドシナ(ミャンマー)しか無いと思う

瑇瑁たいまいは海亀の鼈甲べっこうで あろうか
採狩さいしゅ地は南シナ海から東シナ海に かけての地域が想定される
当然沖縄でも海亀を捕獲可能で ある

これを見れば、呉は海洋諸地域との交易に より海産貴重物や宝玉を入手しているので、沖縄や南九州との交流が あった可能性は多分に ある

しかしながら、王朝を興すに当たっては必要な手続と言うものがるので ある
呉朝の建国は以下の通りに行われているが、
【三國志】 卷四十七 吳志二 吳主傳 第二

黃龍元年(西暦229年) 春 公卿,百司皆勸權正尊號
夏 四月 夏口,武昌並言 黃龍,鳳凰
丙申 南郊卽皇帝位
吳錄載 權告天文曰

皇帝臣權敢用玄牡昭告于皇皇后帝
漢享國二十有四世 歷年四百三十有四 行氣數終 祿祚運盡 普天弛絕 率土分崩
孽臣曹丕遂奪神器 丕子叡繼世作慝 淫名亂制
權生於東南 遭值期運 承乾秉戎 志在平世 奉辭行罰 舉足爲民
羣臣將相 州郡百城 執事之人 咸以爲天意已去於漢 漢氏已絕祀於天 皇帝位虛 郊祀無主
休徵嘉瑞 前後雜沓 曆數在躬 不得不受
權畏天命 不敢不從 謹擇元日 登壇燎祭 卽皇帝位
惟爾有神饗之 左右有吳 永終天祿

天下に瑞祥が起きて王朝が代わるか或いは新規におこされるので あるが、それだけでは無く もう一つ必要な要素が ある
いや、絶対に必要と言う事では無いのでは あるが、開かれた王朝の正当性を喧伝するためにも、大概は付随して起きる重要な出来事が ある
それは夷蛮国に よる朝貢で ある

例えば以下の 曹植 の誄詞るいし[註2]を見るに、魏朝は 粛慎 と 越裳 より貢献が行われ 條支 からは王族と思われる者が賓客(待遇は人質か) として差し出されている事が分かる
引用すると長くなるので あるが、
【三國志】 卷二 魏志 文帝紀 第二

(黄初)七年(226年) 春 正月 將幸許昌
許昌城南門無故自崩 帝心惡之遂不入
壬子 行還洛陽宮
三月 築九華臺
夏 五月 丙辰 帝疾篤
召中軍大將軍曹眞,鎭軍大將軍陳羣,征東大將軍曹休,撫軍大將軍司馬宣王 竝受遺詔輔嗣主
遣後宮淑媛,昭儀巳[註3]下歸其家
丁巳 帝崩于嘉福殿 時年四十魏書曰 𣩵於崇華殿前
六月 戊寅 葬首陽陵 自𣩵及葬 皆以終制從事
魏氏春秋曰

明帝將送葬 曹眞,陳羣,王朗等以暑熱固諫 乃止

孫盛曰

夫窀穸之事 孝子之極痛也 人倫之道於斯莫重

故天子七月而葬 同軌畢至
夫以義感之情 猶盡臨隧之哀 況乎天性發中 敦禮者重之哉
魏氏之德 仍世不基矣
昔華元厚葬 君子以爲棄君於惡 羣等之諫 棄孰甚焉
鄄城侯曹植爲誄曰

惟黃初七年五月七日 大行皇帝崩 嗚呼哀哉
于時天震地駭 崩山隕霜 陽精薄景 五緯錯行 百姓呼嗟 萬國悲傷 若喪考妣 恩過慕[註4]唐 擗踊郊野 仰想穹蒼 僉曰何辜 早世殞喪 嗚呼哀哉
悲夫大行 忽焉光滅 永棄萬國 雲往雨絶
承問荒忽 惛懵哽咽 袖鋒抽刃 歎自僵斃 追慕三良 甘心同穴
感惟南風 惟以鬱滯 終於偕沒 指景自誓
考諸先記 尋之哲言 生若浮寄 唯德可論 朝聞夕逝 孔志所存
皇雖一沒 天祿永延 何以述德 表之素旃 何以詠功 宣之管絃
乃作誄曰

皓皓太素 兩儀始分 中和産物 肇有人倫 爰曁三皇 寔秉道眞 降逮五帝 繼以懿純 三代制作 踵武立勲
季嗣不維 網漏于秦 崩樂滅學 儒坑禮焚 二世而殲 漢氏乃因 弗求古訓 嬴政是遵 王綱帝典 閴爾無聞
求光幽昧 道究運遷 乾坤𢌞歷 簡聖授賢 乃眷大行 屬以黎元
龍飛啓祚 合契上玄 正行定紀 攺號革年 明明赫赫 受命于天
仁風偃物 德以禮宣 祥惟聖質 嶷在幼妍
庶幾六典 學不過庭 潛心無罔 亢志靑冥
才秀藻朗 如玉之瑩 聽察無嚮 瞻覩未形
其剛如金 其貞如瓊 如冰之潔 如砥之平
爵公無私 戮違無輕 心鏡萬機 攬照下情
思良股肱 嘉昔殷呂 搜揚側陋 舉湯代禹
㧞才巖穴 取士蓬戸 唯德是縈 弗拘禰祖
宅土之表 道義是圖 弗營厥險 六合是虞
齊契共遵 下以純民 恢拓規矩 克紹前人
科條品制 襃貶以因 乘殷之輅 行夏之辰
金根黃屋 翠葆龍鱗 紼冕崇麗 衡紞維新 尊肅禮容 矚之若神
方牧妙舉 欽於恤民 虎將荷節 鎭彼四鄰 朱旗所剿 九壤被震 疇克不若 孰敢不臣 縣旌海表 萬里無塵
虜備凶徹 鳥殪江岷 權若涸魚 乾腊矯鱗 肅愼納貢 越裳效珍 條支絶域侍子內賔
德儕先皇 功侔大古
上靈降瑞 黃初叔祜 河龍洛龜 陵波游下
平鈞應繩 神鸞翔舞 數莢階除 系風扇暑
皓獸素禽 飛走郊野 神鍾寶鼎 形自舊土
雲英甘露 瀸塗被宇 靈芝冒沼 朱華蔭渚
囘囘凱風 祁祁甘雨 稼穡豐登 我稷我黍
家佩惠君 戸蒙慈父
圖致太和 浴德全義
將登介山 先皇作儷
鐫石紀勲 兼錄衆瑞 方隆封禪 歸功天地 賔禮百靈 勲命視規 望祭四嶽 燎封奉柴 肅于南郊 宗祀上帝
三牲旣供 夏禘秋嘗 元侯佐祭 獻璧奉璋
鸞輿幽藹 龍旂太常 爰迄太廟 鍾鼓鍠鍠 頌德詠功 八佾鏘鏘
皇祖旣饗 烈考來享 神具醉止 降茲福祥
天地震蕩 大行康之 三辰暗昧 大行光之 皇紘絶維 大行綱之 神器莫綂 大行當之 禮樂廢弛 大行張之 仁義陸沈 大行揚之 潛龍隱鳳 大行翔之 疏狄遐康 大行匡之
在位七載 元功仍舉 將永太和 絶跡三五 宜作物師 長爲神主 壽終金石 等算東父 如何奄忽 摧身后土 俾我煢煢 靡瞻靡顧
嗟嗟皇穹 胡寧忍務 嗚呼哀哉
明監吉凶 體遠存亡 深垂典制 申之嗣皇
聖上虔奉 是順是將 乃剏玄宇 基爲首陽 擬迹穀林 追堯慕唐 合山同陵 不樹不疆 塗車芻靈 珠玉靡藏
百神警侍 來賔幽堂 耕禽田獸 望魂之翔
於是俟大隧之致功兮 練元辰之淑禎 潛華體於梓宮兮 馮正殿以居靈
顧望嗣之號咷兮 存臨者之悲聲 悼晏駕之旣疾兮 感容車之速征
浮飛魂於輕霄兮 就黃墟以滅形 背三光之昭晰兮 歸玄宅之冥冥
嗟一往之不反兮 痛閟闥之長扃
咨遠臣之眇眇兮 感凶諱以怛驚 心孤絶而靡告兮 紛流涕而交頸
思恩榮以橫奔兮 閡闕塞之嶢崢 顧衰絰以輕舉兮 迫關防之我嬰
欲高飛而遙逝兮 憚天網之遠經 遙投骨於山足兮 報恩養於下庭
慨拊心而自悼兮 懼施重而命輕 嗟微軀之是效兮 甘九死而忘生 幾司命之役籍兮 先黃髮而隕零 天蓋高而察卑兮 冀神明之我聽
獨鬱伊而莫愬兮 追顧景而憐形 奏斯文以寫思兮 結翰墨以敷誠 嗚呼哀哉)

註2:

一般的には 誄詞 と呼ばれているが、余りにも堂々として いて(いや、堂々過ぎて)、誄詩 と言った方が相応ふさわしいか

註3:

已字 の誤か

註4:

思慕過唐 の誤らしい


粛慎 は魏の東北に位置しているので魏朝に貢献するのは自然で あるし、條支 は西域をて公使を派遣して来ているので これも魏と通交するのは道理にかなっている
されど、何故 越裳 は地理的に近い呉では無く敢えて魏に貢献して来たので あろうか?
通説では 越裳 は東漢朝に おける交趾郡(現在の ヴィェトナム北部 紅河中下流域) と されている
何故 ヴィェトナム から呉を越えて敢えて魏朝に貢献していたのか?

もっとも、孫権が皇帝を名乗るのは 229年の事なので、越裳 に とって貢献すべき中国王朝は 226年時点に おいて魏朝しか存在して おらず、それで態々わざわざ建業を通り越して洛陽まで向かったと言う事なのかも知れない
ただ、それにしても不審を感じてしまうので あるが、孫権は一応魏朝から呉王に封じられているので、越裳 は間接的に呉に貢献して更に呉から魏へ呉国通交使なり越裳貢献使なりが向かうのでは無いのか?
恰度ちょうど倭国の貢献使は直接洛陽に向かわず、一旦は帯方郡に貢献した様に
或いは、孫権は 222年年に魏の 黄初 とは異なる元号 黄武 を既に使用していた訳で あるが、それを 越裳 が知っていて敢えて呉への滞在を避けていたのかも知れない
この場合、越裳 は意図して呉への貢献を嫌ったと言う事に なる

なお、夷蛮地域からの朝貢は魏晋朝に対してのみ正当と される と規定するのが三国志の撰録方針なので、呉朝への朝献記事は意図的に削除されている可能性も ある
しかし、三国志 本文のみ ならず 裴 松之 の註記にも一向に 越裳 からの貢献使に関する記事が全く見出せないのは、少々せない
越裳 だけでは無く、夷蛮通交に関する記事が全般的に現われていないので ある
いや、全般的と書いてしまうと正確では ないか
例えば以下には印度支那半島の諸王が呉に貢献した事が記録されている

【三國志】 卷六十 吳志十五 賀全呂周鍾離傳 第十五
岱既定交州 復進討九真斬,獲以萬數
又遣從事南宣國化暨徼外 扶南,林邑,堂明,諸王各遣使奉貢
權嘉其功 進拜鎭南將軍

しかし これ等の貢献が 呉主伝 に記述されていないのか、良く分からない
呉朝への貢献自体は行われていたが、史書に残されなかったので あろうか?

いや、それも考えにくい
少なくとも呉朝には、東漢末の荒廃により中原地域の文化人が多数江東,江南地方に避難していた筈なので、史局で歴史を記録する史官には事欠かなかった筈なので ある
洛陽から建業までの移動は洛陽から蜀 成都までの移動よりも遥かに容易で あろう
何よりも、益州の州行政官吏 程度しか登用し切れて おらず歴史記録が大いに疎漏している蜀朝に おいても、夷蛮地域からの通交の痕跡を見出す事が可能なので ある

以下は 【諸葛亮集】 文集 卷一 爲後帝伐魏詔 の部分が註記として引用されている
【三國志】 卷三十三 蜀志 後主傳 第三

(建興)五年(227年) 春 丞相亮出屯漢中 營沔北陽平石馬
諸葛亮集載 禪三月下詔曰

朕聞天地之道 福仁而禍淫 善積者昌 惡積者喪 古今常數也
是以湯,武修德而王 桀,紂極暴而亡
曩者漢祚中微 網漏凶慝 董卓造難 震蕩京畿
曹操階禍 竊執天衡 殘剝海內 懷無君之心
子丕孤𥪡 敢𡬶亂階 盜據神器 更姓攺物 世濟其凶 當此之時 皇極幽昧 天下無主 則我帝命 隕越於下
昭烈皇帝體明叡之德 光演文武 應乾坤之運 出身平難 經營四方 人鬼同謀 百姓與能 兆民欣戴 奉順符䜟 建位易號 丕承天序 補弊興衰 存復祖業 膺誕皇綱 不墜於地
萬國未靜 早世遐殂 朕以㓜冲 繼綂馮鴻基 未習保傅之訓 而嬰祖宗之重
六合壅否 社稷不建 永惟所以 念在匡救 光載前緒 未有攸濟 朕甚懼焉
是以夙興夜寐 不敢自逸 每從菲薄以益國用 勸分務穡以阜民財 授方任能以參其聽 斷私降意以養將士
欲奮劔長驅 𢫾討凶逆 朱旗未舉 而丕複隕喪 斯所謂不然我薪而自焚也
殘類餘醜 又支天禍 恣睢河,洛 阻兵未弭
諸葛丞相弘毅忠壯 忘身憂國 先帝托以天下 以勗朕躬
今授之以旄鉞之重 付之以專命之權 綂領步騎二十萬衆 董督元戎 龔行天伐 除患寧亂 克複舊都 在此行也
昔項籍總一彊衆 跨州兼土 所務者大 然卒敗垓下 死於東城 宗族如焚 爲笑千載 皆不以義 陵上虐下故也
今賊傚尤 天人所怨 奉時宜速 庶憑炎精 祖宗威靈相助之福 所向必克
吳王孫權同恤災患 潛軍合謀 犄[註6]角其後
涼州諸國王各遣月支,康居胡侯支富,康植等二十餘人詣受節度
大軍北出 便欲率將兵馬 奮戈先驅 天命旣集 人事又至 師貞勢并 必無敵矣
夫王者之兵 有征無戰 尊而且義 莫敢抗也 故鳴條之役 軍不血刃 牧野之師 商人倒戈
今旍麾首路 其所經至 亦不欲窮兵極武
有能棄邪從正 簞食壺漿以迎王師者 國有常典 封寵大小 各有品限
及魏之宗族,枝葉,中外 有能規利害 審逆順之數 來詣降者 皆原除之
昔輔果絕親於智氏 而蒙全宗之福 微子去殷 項伯歸漢 皆受茅土之慶 此前世之明驗也
若其迷沈不反 將助亂人 不式王命 戮及妻孥 罔有攸赦
廣宣恩威 貸其元帥 弔其殘民
他如詔書律令 丞相其露布天下使稱朕意焉

註5:

方字 は 才字 の誤か

註6:

犄字 は 掎字 の誤か


月支 とは 月氏 の事で あろうか
康居は 大月氏 のぐ北に ある
蜀 五虎将の馬超は羌族系統らしく、涼州刺史を任ぜられ(空位空官の名誉職で あるが) 涼州および 氐,羌 諸族との関係が深かった事が分かっている
そのため、涼州から西に ある西域諸国との独自の交流人脈を築いていたのかも知れない
いずれにせよ言える事は、蜀朝の様な弱小の地方政権で あろうと、夷蛮諸国との通交は行われていたと言う事で ある

魏朝への貢献記事は上記の誄詞以外にも以下の通り記録に残っている
【三國志】 卷三 魏志三 明帝紀 第三

(太和)(三年)(=229年)(十二月) 癸卯 大月氏王波調遣使奉獻 以調爲親魏大月氏王

(青龍)四年(236年) 五月 乙卯 司徒董昭薨
丁巳 肅慎氏獻楛矢

魏朝から [親魏大月氏王] の金印を紫綬された 大月氏国 の 波調(ヴァースデーヴァ 一世) の朝献が記録されている
以調 と あるので、或いは 波 が氏姓で 調 を名ととらえていたのかも知れない
そして 粛慎 からも貢献が行われている
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳

景初二年(238年) 六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都

倭国朝献に ついては特に触れる必要は あるまい
【三國志】 卷四 魏志 三少帝紀 第四 齊王芳

(景初三年)(=239年)二月 西域重譯獻火浣布[註7] 詔大將軍,太尉臨試以示百寮

(正始)四年(243年) 冬 十二月 倭國女王俾彌呼 遣使奉獻

西域から燃え尽きない石綿の布らしい 火浣布 がもたらされたと あるが、具体的には西域の何処どこで あろうか
燃やして燃え尽きぬ布等存在しないと合理主義者の文帝はのたまったが、若し在世時に 火浣布 を見ていれば、さて どう考えたで あろうか

註7:

かかんぷ と読む らしいが、かかんふ で良いと私は思う

【三國志】 卷四 魏志 三少帝紀 第四 陳留王

(景元)(二年)(=261年)秋 七月 樂浪外夷韓,濊貊各率其屬來朝貢

(景元)(三年)(=262年)夏 四月 遼東郡言 肅慎國遣使重譯入貢 獻其國弓三十張 長三尺五寸 楛矢長一尺八寸 石弩三百枚 皮,骨,鐵雜鎧二十領 貂皮四百枚

韓,濊貊 諸地域から楽浪郡に朝貢が行われたので あろうか
帯方郡では無く? まぁ これだけでは どこへ朝貢使がおもむいたのかは分からない
粛慎 は遼東郡に貢献したものと思われる

これ等を見るに、魏朝は漢魏革命を強く意識しており、これは夷蛮地域からの貢献を魏が中国正統王朝の継承者で ある事の裏付け と見做していると言う事なので あろう

さて呉朝と夷蛮地域との通交で あるが、【三国志】 からは これ以上は記録を読み取れない
【三国志】以外の史書、例えば 【呉書】 や 【江表伝】 を見れば何か見出せるかも知れないが、如何いかんせん史書としての信憑性は三国志に比べて見劣りしてしまうので、少々微妙では ある



2. 亶洲探索時、呉は何故 倭国人や東鯷人を水先案内人として傭わなかったのか?


上記で延々と呉と夷蛮諸国との通交の記録が見当たらないと述べて来ているが、これは文献上の裏付け を行っているだけで、実は余り意義は無い
これより述べる事に比べれば、単なる 録 に過ぎないので ある

実は呉は版図に関しては非常に広いものの東漢末から三国時代に おける人口密度はだ低く、魏朝に比べて人口が少ないので ある
呉朝の人口に ついては以下を参照

田次 伸也 説は正しいか (1)

抑々江南地方は後の唐王朝の中頃に なると人口が飛躍的に向上するものと思うが、東漢代の時点では それ程人口が多い地域では無い
2世紀後半から 3世紀初頭の時点では東漢朝の失政等に起因する中原の混乱期に戦火や饑饉、苛酷な徴税を嫌って避難して来た人達が多数いた筈で あるが、曹操に よる中原平定に より治安がかい復され平和に生活出来る状況に戻ると、当然ながら江南から中原に北帰ほっきする人達が現われ、呉朝の人口流出は看過す べからざる国家課題と なったものと思われる

これをかい避 すべく孫権が採った策で あるが、何と夷蛮地域からの拉致,誘拐で あった
【三國志】 卷四十七 吳志 吳主傳 第二

(黃龍)二年(230年) 春 正月 魏作合肥新城
詔立都講祭酒 以教學諸子
遣將軍衞溫,諸葛直將甲士萬人 浮海求夷洲及亶洲 亶洲在海中
長老傳言 秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海 求蓬萊神山及仙藥 止此洲不還 世相承有數萬家其上
人民時有至會𥡴貨布 會𥡴東縣人海行 亦有遭風流移至亶洲者
所在絕遠 卒不可得至得夷洲數千人還
(黃龍)三年(231年) 春 二月 遣太常潘濬 率衆五萬 討武陵蠻夷
衞溫,諸葛直 皆以違詔無功下獄 誅

夷洲 は台湾の事で あろうと思うが、さて 亶洲 とは何処で あろうか?
亶洲 は 夷洲 よりも遠方に ある らしい
三国志には これ以上の記述は無さそうなので他史書を探して見ると、漢書 地理志 呉地 に関連して いそうな記載が ある
【漢書】 卷二十八下 地理志第八下 吳地

撰者 : 東漢朝 班固 班昭 馬続(ばしょく) 等

會𥡴海外有東鯷人孟康曰 音題 晉灼曰 音鞮 師古曰 孟音是也 分爲二十餘國 以歲時來獻見云

更に もう一つ、後漢書 倭伝にも関連して いそうな記述が見て取れる
【後漢書】 卷八十五(一百十五) 列傳卷七十五 東夷傳 倭傳

撰者 : 南朝劉氏宋朝 范曄

會𥡴海外有東鯷人鯷音 達奚反 分爲二十餘國
又有夷洲及澶洲
傳言 秦始皇遣方士徐福將童男女數千人入海事見史記
求蓬萊神仙不得 徐福畏誅不敢還 遂止此洲 丗丗相承有數萬家
人民時至會𥡴市
會𥡴東冶縣人有入海行遭風 流移至澶洲者 所在絕遠 不可往來

沈瑩 臨海水土志曰

夷洲在臨海東南 去郡二千里 土地無霜雪 草木不死 四面是山谿
人皆髡髮穿耳 女人不穿耳
土地饒沃 旣生五穀 又多魚肉
有犬尾短如麕尾狀
此夷舅姑子婦臥息共一大牀 略不相避
地有銅鐵 唯用鹿格爲矛以戰鬬 摩礪靑石以作弓矢
取生魚肉雜貯大瓦器中 以鹽鹵之 歷月所(餘の誤か)日乃啖食之 以爲上肴也

亶洲(澶洲) と 東鯷人 が どの様に関連しているのかは何とも言えないが、恐らくは 亶洲 と呼称される島嶼部に 東鯷人 が居住していたので あろう
台湾よりも遠いと言う三国志の記述から すれば、地理上はフィリピンか沖縄の どちらか と言う可能性が高い
フィリピンは中華王朝から すれば東夷では無く南蛮に含まれそうな感じでは あるので、恐らくは沖縄の方が該当するものと思われる
別に沖縄に限定する必要も無いかも知れず、以下の様に西南諸島から薩南諸島の島嶼群として想定して おけば良いのかも知れない

越裳は東鯷か

所で、平和惚(ぼ)け している現代の日本人には危機意識が足りていないので読み取れないかと思うが、上記の夷洲,亶洲寇掠こうりゃく策戦さくせんは明らかに おかしい
何が おかしいのか?
それは先ず以下を読み進めて いただきたい
【孫子】(孫武兵法) 用閒第十三

著者 : 東周朝 春秋時代 呉 孫武

孫子曰 凡興師十萬 出征千里 百姓之費 公家之奉 日費千金
內外騷動 怠於道路 不得操事者 七十萬家
古者八家爲鄰一家從軍七家奉之言十萬之師舉不事耕稼者七十萬家

相守數年 以爭一日之勝 而愛爵祿百金 不知敵之情者 不仁之至也 非人之將也 非主之佐也 非勝之主也

故明君賢將 所以動而勝人 成功出於衆者 先知也
先知者 不可取於鬼神不可禱祀求而 不可象於事不可以事類求 不可驗於度不可以事數度
必取於人 知敵之情者也因間人也
故用閒有五 有因[註8]閒 有內閒 有反閒 有死閒 有生閒
五閒俱起 莫知其道 是謂神紀 人君之寶也因時任用五閒也
[註8]閒者 因其鄕人而用之
內閒者 因其官人而用之
反閒者 因其敵閒而用之
死閒者 爲誑事於外 令吾聞知之 而傳於敵閒也
生閒者 反報也
故三軍之事 莫親於閒 賞莫厚於閒 事莫密於閒 非聖智不能用閒 非仁義不能使閒 非微妙不能得閒之實 微哉微哉 無所不用閒也
閒事未發 而先聞者 閒與所告者皆死
凡軍之所欲擊 城之所欲攻 人之所欲殺 必先知其守將,左右,謁者,門者,舍人之姓名 令吾閒必索知之
必索敵人之閒來閒我者 因而利之 導而舍之 故反閒可得而用也舍居止也
因是而知之 故鄕閒,內閒可得而使也 因是而知之 故死閒爲誑事可使告敵 因是而知之 故生閒可使如期
五閒之事 主必知之 知之必在於反閒 故反閒不可不厚也
昔殷之興也 伊摯在夏伊尹也 周之興也 呂牙在殷呂望也 故明君賢將能以上爲閒者 必成大功
此兵之要 三軍之所恃而動也

註8:

因字 鄕字 の誤か 或いは 鄕字 の古形 嚮字 が正しいか
表音は郷間きょうかんが正しいと思われる


これでも分からないと言う者は、流石に もう平時に しか 行きて行けない魯鈍者ろどんもので あると言わざるを得ない
時が平和で あり続ければ それでも困らないかも知れないが、若し万が一 一朝時いっしょうじある時には それでは生き残れまい
ここで一朝時とは何か? と聞かれても困るが、地震,噴火,颱風,洪水その他の激甚大災害で あったり無差別凶悪殺戮事件で あったり或いは IS 等に よるテロリズムや他国の軍隊に よる占領が挙げられるかと思う
そう言った事が起きないと思い込みたい者は その様に勝手に思い込んで いれば良いが、自然災害で家を失う事態は それこそ何時いつ起きても おかしく無い
非常時に生き抜く覚悟が無くて生き残れなくても、それは自業自得と言うもので あろう

余談にれたので戻すが、軍隊が兵船に搭乗して遠洋航海を行う事態に なれば、海路を知る者を水先案内人としてやとわずに出航するとは考えにくい ので ある

これは別に航海に限った事では無いが、軍隊が侵掠対象地に侵入する場合は必ず敵地の地元民等を脅迫するか買収するか して道先案内を行わせるもので ある
こう言う事を せずに道路,地形,城塞等々を把握せずに敵地に侵入して迷子に なったり して兵をそこねる様な失態を犯せば、将として失格と言わざるを得ない
戦闘に勝つか負けるか、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされている状況では、将帥も兵卒も恥や外聞に捉われては いられないので あろう
戦時は合理主義が要求される時代で あるから侵入軍は敵の民間人を傭う事に躊躇ためらいは無く、また傭われる側も戦乱の世で領主から酷税等で虐げられていたり すれば罪悪感は薄く、相応の利潤,得益が得られるので あれば平然と寝返るなり情報を売り渡すで あろう

事が海上で あれば水先案内人の存在は更に重要度が増す事に なる
陸地ならば道に迷っても取り敢えず四方八方に移動して住民や通行人を捕らえて道を聞くと言った事を行って生き長らえられるかも知れないが、海上で遭難してしまうと兵食は確保しにくくなり真水は雨でも降らない限り入手出来ず、飢え死に して軍兵の全滅を招いてしまい兼ねない
全滅まで行かずとも、狭い船内に多数の兵員その他が押し込まれたままでは兵員の士気が阻喪そそうし衛生状態が悪化して疫病が起こり易く なるので、何としても海で迷子に なるのは避けねば ならない筈で ある

ここで一つの仮定を設けるが、若し狗奴国と呉国で通交が行われていた[註9]と すれば、倭人は いずれの行路をるで あろうか?
対馬海峡経由の行路は卑弥呼と魏朝が抑えているので、畢竟別の行路を探らねば ならなくなる
となれば、九州南端から西南諸島を経由して呉へ向かう道を採用せざるを得ない
ならば、行路途中の海路は倭人が把握していた筈なので ある

註9:

いや別に狗奴国限定では無く、狗奴国では無い倭国内の何処か の国でも良いので あるが


ついでに言えば、九州南部と呉の間には東鯷人も いた筈で あるが、東シナ海は東鯷人の庭も同然なので、倭人よりも東シナ海の海路を知り尽くしていたものと思う
ならば 衛温 と 諸葛 直 も夷洲,亶洲への海路を把握している者を必ず傭おうとした筈なので ある

まぁ孫権と呉の知識人達が東鯷人の事を何処まで聞き知っていたかは定かでは無いが、少なくとも亶洲の事は知っていた筈で あり、知らなければ抑々 亶洲 に攻め込もう等とは考えまい
故に、孫権と会稽人の亶洲漂着は同時代での出来事で ある可能性は多分に ある

もっとも、後漢書の記述は漢書と史記と三国志の それぞれの記述を切り取って繋いだだけ と言う可能性も ある
この点に おいて 范曄 は信を置けない微妙な文を史書に残す傾向が あるので、何とも言えない所では ある

ただ、いずれに せよ 呉朝と倭国、ないし呉朝と東鯷人との間で通交が行われていたので あれば、衛温 および 諸葛 直 は亶洲侵攻策戦に おいて倭人なり東鯷人を郷間として水先案内を行わせないと言うのは あり得ないので ある



3. 呉紀年銘鏡を どう捉えるか


次に考慮すべきは、古墳から出土している魏,呉,晋各朝の暦年銘鏡を どの様に捉えるか、と なる
と言うのも、女王国関西論者は魏朝の暦年が記銘されている鏡を卑弥呼に下賜されたものと思い込もう とする傾向が あるので、充分に注意せねば なるまい

これに ついては、以下の著論は大いに客観的な論を述べていて好感を持てる
【古代中世における 日中関係史の研究】 P.19

著者 : 大庭 脩

その一つは、景初四年鏡についてである。
景初の年号は、魏の明帝曹叡の建てたもので、元年が西紀二三七年にあたることは周知のとおりであるが、明帝は景初三年一月昨日に死んだ。
曹叡には子がなかったので、斉王の曹芳がこの日皇太子に立てられ、即日皇帝の位に就いた。
しかし元旦に皇帝が死んだのでそのまま改元せず、さらに正月が忌日になるのを避けて、景初三年十二月を二度やって正始元年に改めた。
これだけ複雑な過程のあった景初三年であるから、景初四年にあたる年は改元必至の年であった。
中国では、いわゆる正朔を奉ずるという思想に示されるように、王朝の定める暦に従うことが、その王朝に服することを意味し、正朔の象徴的な存在が元号である。
一九七三年に発掘された居延漢簡のなかに「漢元始廿六年」という紀年の簡があるが、それは西紀二六年にあたり、後漢の建武二年であるが、これは王莽の新王朝を認めず、漢平帝の元始の年号を引き続き使用しているという意味がある。
景初四年の元号は、魏の改元を知らない地域でつくられたか、曹芳の即位を認めないという意思表示かいずれかの解釈が必要になる。

景初四年鏡の製作の議論の前提に鏡の製作に関する自らの仮説があり、それに合うように年号論を強弁するのは、我われの分野からみれば首をかしげざるを得ない。

鏡についてもう一つ触れておきたいのは赤烏元年鏡の存在である。
呉の赤烏元年は二三八年で、魏の景初二年にあたる。
和泉黄金塚古墳出土の景初三年銘鏡や景初四年鏡、正始元年鏡などの魏の鏡が注目を集め、種々論議のあるなかで、絶対年代がほぼ同じ呉鏡についての議論が少ないのは解しがたい。
呉の工人説などが出ている以上は、呉鏡も魏鏡も同じ原則で取り扱うべきではなかろうか。

【古代中世における 日中関係史の研究】 P.95

二三九年は魏の景初三年、呉の赤烏二年で、景初三年と赤烏元年の記念鏡が日本列島から出土している。
これらの鏡が何故、日本列島から出土したのかを考えるときには、双方に同じ原則を適用すべきで、恣意的な解釈は避けるべきである。
一方が魏帝の賜与品ならば、他方は呉帝の賜与品と考えてみるべきだし、一方が伝世鏡なら、他方もそうだと考えねばならぬ。
一方が仿製鏡だというなら、他方もそうだと考えてみる必要がある。
この点で論理の整合性が強く要求され、恣意は排除されねばならない。
そして一番難しいことは、両社に適用する原則が違う場合、その合理的根拠を見出すことであろう。
私は三世紀における江南と日本列島の交渉があった可能性は認めたいと思っている。
しかし、それを証拠だてる船の問題が解決できない。
先に述べた魏や呉の遠交近攻の作戦は、あくまで沿岸航路であって、四方を海に囲まれた陸地の見えない状態で、どうして間違いなく目的地まで航行したかを確認する手だてがないのである。

誠にもって至当で厳正、剴切がいせつにして合理的な主張で あると言うべきで あろう

魏朝の暦年が あれば魏朝からの下賜とし、呉朝の紀年銘鏡は由来不明と逃げを打つと言うのは、見ていて仲々に見苦しい観が ある
自身自説に都合が良い事柄のみ を採用し、己に都合が悪ければ目をらす と言うは、厚顔にして恥を知れと言う他無い
現時点で呉国と倭国との間に通交の痕跡なり文献なり が見付かっていない以上、呉の紀年銘鏡は呉朝からの下賜物では無いと言わざるを得ない ので ある

ならば上記引用文に従い、呉紀年銘鏡および魏紀年銘鏡は共に公式に下賜されたものでは無いと見做すのが妥当で あり、公式では無いと するならば残りの解は ただ一つ、それは つまり私的な交流や交易により魏,呉朝から倭国にもたらされた物で あるとだんじざるを得ない

そう、単に それだけの事なので ある



4. 倭国を呉に近い と思わせん と意図して倭人伝を記述云々の妖説は荒唐無稽


魏晋朝は倭国の所在地を呉国や台湾に近いとは思っていない
魏晋の漢土本土からは遠いとは思っていたで あろうが、それでも朝鮮半島の向いに位置する島嶼部と認識していた筈で ある

時々倭国を呉朝への牽制と して呉国に近い位置に あると思わせ様と していた等と主張している者が あるが、上記の通り呉国首脳や将帥達は東シナ海特に呉国の近海には倭国は存在しないと言う事を痛い程に承知していたからで ある
何しろ 亶洲 すら探索し切れなかった呉水軍で ある
もし倭国が近くに あると分かっていたので あれば、孫権は 亶洲 と同様に見付け出して住民を掠取りゃくしゅせん と欲した筈で ある

また、陳寿が三国志を編纂した時点で魏,呉共に滅びていた訳で あるから、陳寿が他意を以て勝手に作文したのと言う事も あり得まい

つまり、倭国が呉に近い場所に ある と思わせよう としていた等と言う主張は愚論妄説に過ぎないので ある

公開 : 2016年6月22日
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