田次 伸也 説は正しいか (1)

1. Web で見付けた 田次 伸也 氏の論、何と無く奇異に感じて質問を送る


Web で偶然 田次 伸也 氏の URI を見付け、読んで見た

「卑弥呼」発見=邪馬台国問題のすべてを完全解決!!
短里はなかった

# 上記は現時点で消失しているが、閉鎖したのか別の URI に移動したのか は分からない


いやぁ、すべてを完全解決って書かれてもねぇ…何ともふるったフレーズで ありますなぁ....
読み進めるに これは何だか おかしい と感じてしまい、質問メールを送って見た

Subject: Webページについて質問があります
Date: Sun, 08 May 2016 21:56:16 +0900

こんにちは、蒲生新田と申します。

以下の Webページ、大変興味深く読ませて いただきました。

短里はなかった
http://www.eonet.ne.jp/~johashi/tanri.html

そこで質問が あるのですが、よろしいでしょうか。

(4)江東に割拠す、地方数千里」(「呉書」周瑜魯粛呂蒙伝)

『三国志』は、呉の周瑜が活躍した時の「江東」の大きさを「方数千里」と記述、 一方『史記』は、秦の末期、項羽が劉邦に負けた時の「江東」を「方千里」であるとしている。

古田氏は、「方数千里」≒「方五千里」であるから、同じ場所が5倍も異なるのは、「里」単位の基本が違うからだとし、それが「短里」であると主張する。

筆者は、氏の考え方は、極めて観念的であり、また短絡的であると考える。
なぜならば、氏は、両者の「江東」の間にある約400年という時間を軽視しているのではないかと考えられるからだ。

前者がAD200年の話であるのに対し、後者はBC202年の事件だ。
中国の歴史教科書によれば、前漢初期(≒秦朝末期)の中国の人口約二千万人は、農業の発展により前漢末期には約六千万人に達しているという。

当然ながら、「江東」も発展しているのであり、「方数千里」という表現に飛躍はないと考えられる。

いや、飛躍は あるでしょう。

それに、農業の発展と場所の広さは関係無いと思います。
例えば清朝では人口が 3億人を越えました。
しかし、それで江東が広がったと言う事は無いと思います。
もし広がったと すれば、それは清朝の版図は前王朝で ある明朝の版図よりも
広くなったと言う事でしょう。

清 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85

田次さまの論法に従うならば、農業が発展すれば する程
面積が増えてしまいます。

そのような事が あるのでしょうか?

恐らく、三国志の時代から更に 400年経った時点に おいても、
江東は地方千里と認識されていたかと思いますよ。

田次さまは短里は存在しないとの主張を行いたいものと思いますが、
さすがに少し おかしいと思います。
ご自身では おかしいと思いませんか?

--
蒲生新田
翌日、ご本人から返信を いただいた

Subject: RE: Webページについて質問がありますーーー回答
Date: Mon, 9 May 2016 15:16:05 +0900

蒲生新田 様
ご質問有難うございます。

次のような例示でもって ご質問の回答とさせていただきます。

(1)
江戸は、家康が入城するまでは 小さな寒村に過ぎず 江戸の範囲は 現在の丸の内近
辺にとどまっていたが
幕末には 新宿を含む広大なスペースが江戸と呼称された。
(2)
東北地方の陸奥は、8世紀初めには 阿武隈川下流の北岸から現在の宮城県の南半分に
限られていたが
13世紀、鎌倉時代には青森県にまで 達していた。

地名とその地名に属する土地の大きさは、いろいろな事情によって変化するのではな
いでしょうか。

蒲生新田様 大変失礼なことをお聞きしますが、このお名前は、本名でしょうか。 
小生は、ハンドルネーム、ペンネーム、偽名や匿名の方には最初の1 回を除いて回答
しないことを原則としています。
今までに、真面目な議論ができていないからです。
よろしくお願いします。

田次 伸也

いただいた返信メールには winmail.dat と言う正体不明の添付ファイルが付いていて、おやっ? これは何だ? と思って しまった
メールヘッダを見ると

Content-Type: multipart/mixed;
X-Mailer: Microsoft Office Outlook 12.0


と ある (multipart かぁ~....まぁ Outlook で あるしなぁ...)
更に調べて見ると、

Outlook を使用して送信された電子メールに Winmail.dat 添付ファイルが含まれている

あぁ~なるほど…… そうか、この方、メールはテキスト形式で送ると言う一般常識を知らない人なのだ と言う事を理解した
まぁ、こう言う人も実は結構いるので、仕方が無い

Subject に "質問がありますーーー回答" と何故か長音記号の ー が連続して書かれているが、これは ご愛敬 と言うべきで あろう
罫線記号の ─── と長音の ーーー を混同して使用している人が時々いるが、何故かは分からない
見れば差違が分かると思うが、気にしない ので あろうか…

まぁ これは瑣末な事では あるが、しかし返信は頂戴したものの回答が含まれていないように思えたので、改めて以下のメールを送って見た

Subject: Re: Webページについて質問がありますーーー回答
Date: Mon, 09 May 2016 19:12:25 +0900

田次 伸也さま
ご返信いただきまして ありがとうございます。
蒲生新田です。

On Mon, 9 May 2016 15:16:05 +0900
"Shinya Taji" wrote:

>蒲生新田 様
>ご質問有難うございます。
>
>次のような例示でもって ご質問の回答とさせていただきます。

残念ながら、こちらからの質問の回答には なっていないように思いました。


>(1)
>江戸は、家康が入城するまでは 小さな寒村に過ぎず 江戸の範囲は 現在の丸の内近
>辺にとどまっていたが
>幕末には 新宿を含む広大なスペースが江戸と呼称された。

江戸は徳川氏による計画的な都市計画が行われた結果により拡大したものかと
思いますが、農業技術の向上とは余り関係が無いような気が いたします。
いかがでしょうか。


>(2)
>東北地方の陸奥は、8世紀初めには 阿武隈川下流の北岸から現在の宮城県の南半分に
>限られていたが
>13世紀、鎌倉時代には青森県にまで 達していた。

陸奥は当時の朝廷の蝦夷征服により占領地が拡大したものと
認識して おります。
これも、農業技術とは余り関係は無さそうに思いますが、どうでしょうか。

私が お聞きしたかったのは、

|田次さまの論法に従うならば、農業が発展すれば する程
|面積が増えてしまいます。
|
|そのような事が あるのでしょうか?

と言う こちらからの質問に対する ご回答でした。
今回の ご返信では お聞き する事が叶わず、大変残念に思いました。


>地名とその地名に属する土地の大きさは、いろいろな事情によって変化するのではな
>いでしょうか。

これは逆に言えば、事情が無ければ変わらない、と言う事に
なるかと思いますよ。

それに、中国の江東は地名と言うよりは地方と呼んだ方が適切な語で あり、
江戸や陸奥と比較するのはアンフェアな気がします。
ご自身の説に有利に なるような恣意が働いているのでは ないでしょうか。

質問メールにも少し書いて ありますが、中国の江東と言えば
どこを指すのかは中国人に とって言わば共通理解で あったと思います。
江東、少し大きく言うと江南と言った語に含まれる事も ありますが、
こう言った地方の広さは時代が違っても変わらないような気がします。
加えて書きますと、江東は東が海なので、面積が広くなるのは
少し難しい地方と言って良いのでは ないでしょうか。

所で江東が広くなったと言う理由を お聞き出来て おりませんが、
その理由は田次さま も把握出来ていないから、と言う理解で
よろしいでしょうか。


>蒲生新田様 大変失礼なことをお聞きしますが、このお名前は、本名でしょうか。 
>小生は、ハンドルネーム、ペンネーム、偽名や匿名の方には最初の1 回を除いて回答
>しないことを原則としています。
>今までに、真面目な議論ができていないからです。
>よろしくお願いします。

田次さま の ご方針に こちらが口出しする事は出来ませんが、
私ども からの質問と田次 伸也さまからの返信が「真面目な議論」
では ないと ご判断されたのでしたら、大変残念に存じます。

実は わたくし、他にも幾つか田次さま の ご説には
おかしいと思っている箇所が ありまして、今後も ご質問を させて
いただきたいと思って おりました。
返す返す大変断念です。

なお、今回の ご返信に ついては後で Webページに公開する事も
検討して おりますので、ご承知いただけますと幸甚です。

--
蒲生新田

そうすると、以下の返信を いただいた

Subject: RE: Webページについて質問がありますーーー回答
Date: Mon, 9 May 2016 23:09:41 +0900

蒲生新田 様

小生の過去の経験から、お互いに本名であれば
自由で有意義で責任ある議論ができることを勉強してきました。
今回のようなケースは、ことごとく後味の悪い結果で終わっています。

現に、今回のメールにあっては、貴殿は、(メール 下から10行目)

「私ども からの質問と田次 伸也・・・」

と書きこまれており、今は 蒲生新田様は、複数の人物集団なのかと想像していま
す。

お互い 本名での意見交換を希望します。

田次 伸也

どうやら 田次 氏からのご回答は得られないと言う事で ある
残念で あるが、ご本人に回答の意思が無い らしいので、致し方無い
それにしても、"複数の人物集団" と言うのは何ともユニークな ご発想では ある

さて、ここまで読み進めて いただいた方に少しばかり考えて いただきたいので あるが、上記のメール遣り取りに ついて、論の是非は いずれに あると思われるで あろうか?



2. 短里説,長里説双方から離れた客観的な立場から里程を考える


三国志が短里で統一されていると主張する論と、全て長里で書かれていると唱える論が ある
ただ、正直な所私は この論の対立は どうでも良く、客観的な判断に従えば それで良いだけだ と考えている

これに ついては以下で触れているが、要するに三国志内では短里と長里が混在していると言う事なので ある

三国志は短里と長里が混在している

いずれにせよ、魏志倭人伝は短里で書かれていると見做せば実際の距離に近いのは明らかで あり、倭人伝に長里を適用してしまうと日本国内には収まらなく なる
ならば倭人伝の読解には短里を採用して読み進めれば良い
単にそれだけの事で あろう



3. 田次説を更に掘り下げる


.1 田次説の検証および田次説で触れていない短里の記述


さて、では今少し 田次説 の掘り下げて見たい

上記 Webページ を見るに、どうも 田次 氏は短里と言うものの存在自体を認めたくない らしい
この立場に立って、古田さん が短里と判定した箇所を否定し三国志は全て長里で書かれている と主張したいものと思う

いや、実際には信憑性が どうの や実測値とは言えない等と言った言い回し を利用して古田さんの短里の判定が非で ある と述べているにとどまり、長里で測定された距離で ある事を明らかに すると言う行為を省かれている箇所も あるが、いずれにせよ倭人伝読解の上で規準尺と なる距離記載に関しては、特に触れていない様に見える
そもそも長里,短里と言った主張の違いの基点は何かと言えば、それは倭人伝に書かれている里程が実際の距離よりも長いと言う事に発している訳で、これを上手く説明出来なければ 田次説 の主張は余り意味が無い様に思う

そして ここで私が規準尺と述べているのは何かと言えば、それは上記 2. の参照先に記した様に 対馬-壱岐 間の距離が千余里と ある事で ある
短里を否定せん と するのは結構で あるが、対馬-壱岐 間が長里で書かれていると見做したので あれば上記 田次氏の Webページを読む者に対して納得出来る理由[註1]を示さねば なるまい

註1:

これは 田次説 のみ では無く、他に短里を否定する論者にも行っていただきたい事では ある
司馬 懿 の功業をたたえるために距離を誇張したと言う不思議な論に しがみ付いている者が多いが、別に その様な事を せずとも三国志の魏志と蜀志を読めば 司馬 懿 が極めて有能な人物で あった事は充分に理解出来る
つまり、距離の誇張と言った愚にも付かぬ小細工を弄する必要等、更々さらさら無いので ある
いや、抑々論として では あるが、三国志を読まずに適当な事を平然と唱えている立場のエライ大学教授が以外と多い様で、閉口してしまう


取り敢えず ここでは上記メールにも あった箇所に ついてのみ掘り下げる[註2]

註2:

田次説 では他にも幾つか おかしい と思う箇所が あるが、それ等は別の機会に触れるかも知れない
例えば、

(2) 壱岐島の実測値が記述里程よりも少ない理由と絶好の比較記事で ある漢書と後漢書の海南島

(3) 江東沃野万里と称された文章の背景

の公開を予定している

(4)江東に割拠す、地方数千里」(「呉書」周瑜魯粛呂蒙伝)

『三国志』は、呉の周瑜が活躍した時の「江東」の大きさを「方数千里」と記述、 一方『史記』は、秦の末期、項羽が劉邦に負けた時の「江東」を「方千里」であるとしている。

古田氏は、「方数千里」≒「方五千里」であるから、同じ場所が5倍も異なるのは、「里」単位の基本が違うからだとし、それが「短里」であると主張する。

筆者は、氏の考え方は、極めて観念的であり、また短絡的であると考える。
なぜならば、氏は、両者の「江東」の間にある約400年という時間を軽視しているのではないかと考えられるからだ。

前者がAD200年の話であるのに対し、後者はBC202年の事件だ。
中国の歴史教科書によれば、前漢初期(≒秦朝末期)の中国の人口約二千万人は、農業の発展により前漢末期には約六千万人に達しているという。

当然ながら、「江東」も発展しているのであり、「方数千里」という表現に飛躍はないと考えられる。

ず言おう、農業の発展により江東が発展して地方千里が地方数千里に広がった等と言う主張こそが 田次氏 の言う観念的で短絡的では無いのか?
いや、本当に農業云々により江東が広くなったと言うので あれば、それを裏付ける何かしらの根拠を示すべきで あろう
しかし 田次氏 は何も示せて おらず、上記メールの返信でも回答を行っていない

所で、田次氏 は "農業が発展して江東が広くなったので地方千里から地方数千里と書かれる様に なった" と主張している訳で あるが、さて本当に農業が発展しているので あろうか?

いや、抑々江東は発展しているので あろうか?

以下を見ると、西晋代の人口は その前後と比べると異常に少なくなっている事が分かる

歴朝歴代の人口変遷

西漢朝最盛期の 6000万人と言う数字の根拠は、【漢書】 地理志 の平帝 元始二年(西暦紀元後2年 なので非常に分かり易い) の記録で あろう
影本画像には以下で公開されているものを利用している

中國哲學書電子化計劃
【漢書】 卷二十八下 地理志第八下 郡國[註3]

撰者 : 東漢朝 班固,班昭,馬続 等

本秦京師爲內史師古曰 京師天子所都畿內也 秦并天下攺立郡縣 而京畿所統特號內史 言共在內 以別於諸郡守也

分天下作三十六郡

漢興以其郡太大 稍復開置 又立諸侯王國
武帝開廣三邊 故自高祖增二十六 文,景各六越宋祁曰 各六越本作五十六 武帝二十八 昭帝一
訖於孝平 凡郡國一百三 縣邑千三百一十四 道三十二 侯國二百四十一
地東西九千三百二里,南北萬三千三百六十八里
提封田一萬萬[註4]四千五百一十三萬六千四百五頃師古曰 提封者大舉其封疆也 其一萬萬二百五十二萬八千八百八十九頃 邑居,道路,山川林澤羣 不可墾 其三千二百二十九萬九百四十七頃 可墾,不可墾 定墾田宋祁曰 可墾下越本無不可墾三字 淳化本無不墾二字 邵本無可字八百二十七萬五百三十六頃
民戸千二百二十三萬三千六十二 口五千九百五十九萬四千九百七十八
漢極盛矣

【漢書】 地理志 郡國 1

【漢書】 地理志 郡國 2

【漢書】 地理志 郡國 3


註3:

郡国 と言う章名は置かれて いないが、漢書 地理志 は州,川,郡,国,故地,国情と並べ書かれていて分かりにくいので、今は便宜上この様に分類しておく
史書の専門家には異論が あるかも知れない

註4:

一万万 と言った日本人には馴染みの無い不思議な数字が あるが、実は現代中国語にも この表記は遺存して おり、恐らくは古代の頃から継続して使用されているもので あろう
因みに私の記憶が正しければ 万万=億 で あった筈なので、一万万四千五百一十三万六千四百五頃 は 1億4513万6405けい と なる
漢文読解には現代漢語の知識も有用で あると言う事か


東漢朝に おいても、桓帝 永寿三年(157年) には 5648万を数えたとの記録が 【晋書】 地理志 に ある
【晉書】 卷十四 志第四 地理上

撰者 : 唐朝 房 玄齢, 李 延壽(寿) 等

自文,景與民休息 至平帝元始二年 民戸千二百二十三萬三千六十二 口五千九百五十九萬四千九百七十八 其地東西九千三百二里 南北萬三千三百六十八里
大率十里一亭 亭有長 十亭一鄉 鄉有三老 有秩,嗇夫,游徼各一人
縣大率方百里 民稠則減 稀則曠 鄉,亭亦如之 皆秦制也
光武中興 不踰前制 東海王疆以去就有禮 故優以大封 兼食魯郡二十九縣 其餘稱爲寵錫者 兼一郡而已
至桓帝永壽三年(157年) 戸千六十七萬七千九百六十 口五千六百四十八萬六千八百五十六 斯亦戸口之滋殖者也
獻帝建安元年(196年) 拜曹操爲鎭東將軍 封費亭侯
魏文帝黃初三年(222年) 初制封王之庶子爲鄉公 嗣王之庶子爲亭侯 公侯之庶子爲亭伯
劉備章武元年(221年) 亦以郡國封建諸王 或遙採嘉名 不由撿土地所出 其戸二十萬 男女口九十萬
孫權赤烏五年(242年) 亦取中州嘉號封建諸王 其戸五十二萬三千 男女口二百四十萬
晉文帝爲晉王 命裴秀等建立五等之制 惟安平郡公孚邑萬戸 制度如魏諸王
其餘縣公邑千八百戸 地方七十五里 大國侯邑千六百戸 地方七十里 次國侯邑千四百戸 地方六十五里 大國伯邑千二百戸 地方六十里 次國伯邑千戸 地方五十五里 大國子邑八百戸 地方五十里 次國子邑六百戸 地方四十五里 男邑四百戸 地方四十里
武帝泰始元年(265年) 封諸王以郡爲國
邑二萬戸爲大國 置上中下三軍 兵五千人 邑萬戸爲次國 置上軍下軍 兵三千人 五千戸爲小國 置一軍 兵千五百人
王不之國 官於京師
罷五等之制 公侯邑萬戸以上爲大國 五千戸以上爲次國 不滿五千戸爲小國
太康元年(280年) 平吳 大凡戸二百四十五萬九千八百四十 口一千六百一十六萬三千八百六十三
而江左諸國竝三分食一
元帝渡江 太興[註5]元年(318年) 始制九分食一

【晉書】 地理志 1

【晉書】 地理志 2

【晉書】 地理志 3

【晉書】 地理志 4


註5:

太興と大興が共に記録に残っていて、どちらが正しいのか分からない


東漢末から三国時代の中国は凄まじい人口激減期に突入しているのだ

劉備が蜀王朝を興した時点で戸数 20万 人口が 90万人で あったと言う事に なる
孫權の呉では 52万3千戸 240万人と あるが、残念ながら魏の人口は書かれていない
しかし、魏の人口も随分と減少していた事で あろう

西晋朝の武帝が呉を滅ぼして再統一を果たした年には、人口が 1616万で あったと言う
いや、ようやくにして 1600万人までかい復したと言うべきか

他書に なるが、魏朝の人口も把握は出来る
【通典】 卷七 食貨七

纂 : 唐朝 杜佑

厯代盛衰戸口周 漢 後漢 魏 晉 宋 齊 梁 陳 後魏 北齊 後周 隋 大唐

後漢光武建武中 兵革漸息
至中元二年(57年) 戸四百二十七萬六百三十四 口二千一百萬七千八百二十
明,章之後 天下無事 務在養民
至於孝和 人戸滋殖
桓帝永壽三年 戸千六十七萬七千九百六十 口五千六百四十八萬六千八百五十六
靈帝遭黃巾爲寇 獻帝遇董卓稱亂 大焚宮廟 劫御西遷 是以興平,建安之際 海內荒殘 人戸所存 十無一,二
魏武據中原 劉備割巴,蜀 孫權盡有江東之地
三國鼎立 戰爭不息劉備章武元年 有戸二十萬 男女口九十萬
及平蜀 得戸二十八萬 口九十四萬 帶甲將士十萬二千 吏四萬 通計戸九十四萬三千四百二十三 口五百三十七萬二千八百八十一
除平蜀所得 當時魏氏唯有戸六十六萬三千四百二十三 口有四百四十三萬二千八百八十一孫權赤烏五年 有戸五十二萬 男女口二百三十萬
晉武帝太康元年 平吳 收其圖籍 戸五十三萬 吏三萬二千 兵二十三萬 男女口二百三十萬 後宮五千餘人
九州攸同 大抵編戸二百四十五萬九千八百四十 口千六百一十六萬三千八百六十三 此晉之極盛也
蜀劉禪炎興元年(263年) 則魏常道鄕公景元四年(263年) 歲次癸未 是歲魏滅蜀
至晉武帝太康元年 歲次庚子 凡一十八年
戸增九十八萬六千三百八十一 口增八百四十九萬九百八十二
則當三國鼎峙之時 天下通計戸百四十七萬三千四百三十三 口七百六十七萬二千八百八十一 以奉三主 斯以勤矣
後趙石勒 據有河北 初文,武官上疏 請依劉備在蜀,魏王在鄴故事 魏王卽曹公 以河內,魏,汲等十一郡 并前趙國合二十四 戸二十九萬爲趙國
前秦苻堅滅前燕慕容暐 入鄴閱其名籍 戸二百四十五萬八千九百六十九 口九百九十八萬七千九百三十五
徙關東豪傑及諸雜夷十萬戸於關中
平燕定蜀之稱 僞代之盛也
時關,隴淸晏 百姓豐樂 自長安至於諸路 二十里一亭 四十里一[註6] 旅行者取給於途 工商資販於道

【通典】 食貨 1

【通典】 食貨 2

【通典】 食貨 3

【通典】 食貨 4

【通典】 食貨 5


註6:

驛字 脱落か


霊帝時の動乱以降、民戸の所存は十に一,二も無し、と称されるまで人口が減少している様子が伝わって来る

263年時点で あるが、魏が蜀を平定した際には蜀の戸数 28万で人口は 94万人で あったと言う
その年の魏朝の戸口ここうも書かれているので、これで 66万3千戸 443万人で あった事が分かる

280年の三国統一時点では呉朝の戸口は 53万戸 230万人と あり、263年時点での魏と蜀の合計は 94万3千戸 537万人なので、併せて戸 147万3千 人口767万人と なる
同年での記録では無いのが少々残念では あるが、記録が残っているだけ 良し と するべきか
実際には ここに現れている数字は徴税官吏が把握している数値のみで あって、耕地の荒廃や苛酷な徴税賦役等に堪え切れず山岳地帯や島嶼部に避難した流民は統計に含まれていないと思うが、それでも漢朝盛時の頃から すれば漢民族 存亡の危機と でも言うべき非常事態では ある

なお、上記 【晋書】 と比べると呉の赤烏五年時点の戸口は 【通典】 の記述と少し合わないが、何故なのかは分からない
普通に考えるならば 242年が 52万戸 230万人で 280年は 53万戸 240万人かと思うが、或いは 242年が 52万戸 240万人で 280年は 53万戸 230万人が正しいのかも知れない
呉が西晋に対抗するために領民に重税を課したために流民が発生して人口が減少してしまった可能性は、東漢朝末期を思うまでも無く容易に想像出来る

蜀に ついて で あるが、221年時点での蜀は 20万戸 90万人で あった事が 【晋書】 で分かるので、263年の時点では何故か戸数が 8万戸も増えているのに人口は 4万人しか増えていない
これも、蜀朝末期に徴税対象の民戸を増やして税収高を上げようとした結果で あると仮定すれば、一応は説明が付く
90万人を 20万戸で割ると 1戸当たり 4.5人と なるが、仮に父母兄妹弟で 1戸と 想定し これを父母弟妹で家族を強制的に分断する事で、統計上は 2戸と なって税が増える(ように見える)
これは単なる数のまやかしに過ぎないが、古くは秦朝で実施されていた前例が あるので、どの国の官僚も帳面上の小手先の操作で手を汚しているので あろう

官吏に ついて ついでに書くが、蜀は人口 94万人で官吏 4万人と あるが、呉は人口 230万人で官吏は 3万2千人と あり役人の数に随分 差違が ある
人数を単純に比べただけ では何とも言えないが、蜀は官吏数の比率が呉よりも多いので、さぞや仕事の無い官僚が多かった事で あろう
官吏が多ければ それ等の糊口ここう を満たすためには農民から税を搾り上げねば ならぬ訳で、蜀朝末期に おける官吏の苛斂誅求なるは想像以上に苛酷で あったものと想像する
きっと司馬 遷の言う酷吏なる国家と人民の寄生虫共が それは それは跋扈していたので あろう
官吏が多い国は必ず滅ぶ事、歴史の習いで ある

ただ、呉も末帝 孫皓は後宮 5000人余と敢えて書き残されていて、後宮に住まう厖大な妃妾ひしょう,宮女,宦官群を養うために いか程の金銭を課税したのかと思うと、呉も さぞや住みにくい社会で あったかと思う

さて、もう一度ここまで読まれた方に問おう、江東は発展しているのか?

否、三国時代は江東に限らず全国的に衰退しているのだ

田次氏 の論法に従うならば "江東は発展したので拡大した" との事で あるが、ならば衰退した際には どうなるので あろうか
縮小してしまう事に なるが、それは明らかにおかしいのでは無いか?

今更では あるが、上記に該当する箇所の原文を掲げておく
論説を展開するので あれば漢文は 書き下し のみ挙げれば良いと言う事では無く、白文を提示し読む者にも検証可能と しなければ ならないと私は考えているから で ある

# 書き下し文 と誰かの翻訳(例えば以下)しか読まずに持論を展開する横着無精者が多く、とても嘆かわしく思う

# これが また、大学教授や書籍出版で営利活動を行っている者ですら その責任を果たしていない者が多過ぎるので ある

【三國志】 卷五十四 吳志九 周瑜魯肅呂蒙傳 第九 周瑜傳

撰者 : 西晉(晋)朝 陳壽(寿)

其年(建安五年=西暦200年) 九月 曹公入荊州 劉琮舉衆降
曹公得其水軍 船,步兵數十萬 將士聞之皆恐懼[註7]
延見羣下 問以計策
議者咸曰

曹公豺虎也 然託名漢相 挾天子以征四方 動以朝廷爲辭
今日拒之 事更不順
且將軍大勢可以拒操者 長江也
今操得荊州 奄有其地
劉表治水軍蒙衝,鬭艦 乃以千數 操悉浮以沿江 兼有步兵 水陸俱下
此爲長江之險已與我共之矣
而勢力衆寡又不可論 愚謂大計不如迎之

瑜曰

不然 操雖託名漢相 其實漢賊也
將軍以神武雄才 兼杖[註8]父兄之烈 割據江東 地方數千里 兵精足用 英雄樂業
尚當橫行天下 爲漢家除殘去穢
況操自送死 而可迎之邪
請爲將軍籌之 今使北土已安 操無內憂 能曠日持久來爭疆埸 又能與我校勝負於船楫可乎
今北土旣未平安 加馬超,韓遂尚在關西 爲操後患
且舍鞍馬杖[註8]舟楫 與吳,越爭衡 本非中國所長
又今盛寒 馬無藁草 驅中國士衆 遠涉江,湖之閒 不習水土 必生疾病
此數四者 用兵之患也 而操皆冐行之 將軍禽操 宜在今日
瑜請得精兵三萬人進住夏口 保爲將軍破之

權曰

老賊欲廢漢自立[註9]矣 徒忌二袁,呂布,劉表與孤耳
今數雄巳[註10]滅 惟孤尚存 孤與老賊勢不兩立
君言當擊 甚與孤合 此天以君授孤也
江表傳曰 權拔刀斫前奏案曰

諸將吏敢復有言當迎操者 與此案同

及會罷之夜 瑜請見曰

諸人徒見操書言水步八十萬 而各恐懾不復料其虛實 便開此議 甚無謂也
今以實校之 彼所將中國人 不過十五,六萬 且軍巳[註10]久疲 所得表衆亦極七,八萬耳 尚懷狐疑
夫以疲病之卒御狐疑之衆 衆數雖多甚未足畏
得精兵五萬自足制之 願將軍勿慮

權撫背曰

公瑾 卿言至此甚合孤心 子布,文表諸人各顧妻子挾持私慮 深失所望
獨卿與子敬與孤同耳 此天以卿二人贊孤也
五萬兵難卒合 巳[註10]選三萬人 船,糧,戰具俱辦 卿與子敬,程公便在前發 孤當續發人衆 多載資,糧 爲卿後援
卿能辦之者誠决 邂逅不如意 便還就孤 孤當與孟德决之

臣松之以爲 建計拒曹公 實始魯肅
于時周瑜使鄱陽 肅勸權呼瑜 瑜使鄱陽還 但與肅闇同 故能共成大勲
本傳直云

權延見羣下 問以計策 瑜擺撥衆人之議 獨言抗拒之計

了不云肅先有謀 殆爲攘肅之善也

【三國志】 吳志 周瑜傳 1

【三國志】 吳志 周瑜傳 2

【三國志】 吳志 周瑜傳 3


註7:

懼字 が 權字 の誤で あれば その前で改行と なる
懼字 と 權字 の本が双方あり、いずれが是で あるか判断が難しい
どちらかと言えば 懼字 では無く 權字 の方が通りが良いか
なお、將士聞之皆恐懼 權延見羣下 が原形で あった可能性も ある

註8:

仗か

註9:

久字 が続いて 老賊欲廢漢自立久矣 が正しいかも知れない

註10:

已か


ここで、田次氏 も引き合いに出されている以下の 筑摩書房 【正史 三国志】 に記述されている江東の説明を引用したい

筑摩書房 正史 三国志 全8冊セット
【正史 三国志】 6 P.34

訳 : 小南 一郎

孫策は、そこで袁術に説き、呉景らに加勢して江東(9)の地の平定にあたりたいと申し出た。

【正史 三国志】 6 P.69

注(9) 長江は蕪湖から南京あたりまでの間、東北方向に流れるが、その南岸の建業から呉郡あたりまでを江東と呼ぶ

江東の領域が示されているが、これは司馬 遷が脳裏に描いていた領域と等しいと見て良いと思う
もし 田次氏 は この 注書き に賛同しないと言うので あれば、田次氏 は先ず注を施した小南 一郎 氏を批判すべきで あろう
田次氏 も 【正史 三国志】 を引き合いに出している以上、この箇所を読んでいないと言う事は あるまい

江東と言う語は この語が そのまま領域指示を行っている語彙なので あり、語の字面通り長江の東側と言う概念で あろう
江東の東は東シナ海なので物理的に広がる事は不可能であり、江東の南は越(南越や閩越) と言った別の地方と なるので、江東が南に広がる事も難しい

つまり、江東は司馬 遷の時代から陳寿の時代まで領域の変動は無かったと見て良いと思われる

なお、田次氏 は古田さんの著作 【「邪馬台国」はなかった】 を引用して批判しているので あるが、江東での短里例として挙げている同じページには荊州の距離に関する用例も挙げられている
【三國志】 卷六 魏志六 董二袁劉傳 第六 劉表傳

長沙太守張羨 叛表

英雄記曰

張羨 南陽人
先作零陵,桂陽長 甚得江,湘間心 然性屈彊不順
表薄其爲人 不甚禮也
羨由是懷恨 遂叛表焉

表圍之連年不下

羨病死 長沙復立其子懌
表遂攻幷懌
南收零,桂 北據漢川 地方數千里 帶甲十餘萬

英雄記曰

州界羣寇旣盡 表乃開立學宫[註11] 博求儒士 使綦毋闓 宋忠等撰定[註12]五經章句 謂之後定

【三國志】 魏志 劉表傳 1

【三國志】 魏志 劉表傳 2


註11:

宫字 は 宮字 の異体字で あるが、学宮 では通意しにくく、学官 の誤か

註12:

定字 或いは衍字か 撰五經章句 謂之後定 と あって 定字 が重複したか


西晋朝が倒されて間が無い後趙代の事で あるが、以下に石勒が命じた学官設立の記載が あるので、何かしらの教育の場を 学官 と称したので あろう
【晉書】 卷一百五 載記第五 石勒下

命郡國立學官 每郡置博士.祭酒二人弟子百五十人 三考修成 顯升台府
於是擢拜太學生五人爲佐著作郎 錄述時事

【晉書】 卷一百五 載記第五 石勒下


荊州の牧 劉表 の版図で あるが、北は漢川から南は零陵郡および桂陽郡、と明確に指定されている
この領域は上記の江東と同じく数千里と距離が示されているが、さて これは長里で あろうか、それとも短里で あろうか

漢川と あるが、これは漢川を境界としたか、或いは漢川流域を統治したと言う文意なのかは分からない
ここで言う漢川は漢川上流源の事では無く、荊州内に おける漢川と言う事で あろう

厳密に言えば、荊州は南北に長く東西に短い上に北部が複雑な形状を している
劉表伝 を読むに襄陽を支配していた事は分かるが、近くの南陽郡は袁術,張繍そして曹操が領有しているので、荊州北部は 地方数千里 の範疇に含まれていない事が分かる
方数千里と あると性格的に細かい日本人は正方形を思い浮かべてしまうが、古代中国人は そこまで厳密な把握を行って おらず、南北は数千里を越えているが東西は数千里より短い箇所も あり、長短併せて大体同程度の四角形ないし四辺形と見做して いたので あろう
これは 倭人伝 に あっても南北に長い形状の対馬を 方可四百余里 と記しているので、これが当時に おける一般的な地理描写の手法で ある事が読み取れる

そして 田次氏 は この記述に ついては全く言及していないが、何とも摩訶不思議奇怪千万では ある
私なりに その理由を考えて見たので あるが、考えられる想定案は以下の通りで あろうか

1) 私が参照した【「邪馬台国」はなかった】には以下が挙げられているが、田次氏 が参照された本には記載されて いなかった

南收零,桂 北據漢川 地方數千里 帶甲十餘萬
割據江東 地方數千里 兵精足用

2) 記載されていたが、田次氏 が見落とした

3) 記載の存在を確認していたが、自身の論説に都合が悪いと思い見なかった事に した


さて、どれで あろうか
流石に 3) を行っていたので あれば酷い所業と言う他無いが、しかし私には判断材料が無いので どれが正しいのかは分からない


.2 短里説の全否定を行う者の責務


上記に見る通り 田次氏 の主張は短里説の全面否定で あるものと私は読み取っている

# これが若し正しく読み取れていないので あれば、ここで書く内容は意義を なさなくなる


一応私の文意把握が正しいものとして書き進めるが、その場合は古田さんが 【「邪馬台国」はなかった】 で挙げている短里の用例を全て否定しなければ挙証責任を果たしていない事に なる筈で ある

# 古田さんの主張の一部でも否定する事が出来れば "古田さんの論説" だけは成立し得ない事に なるが、田次氏 は古田さんに対する個人攻撃を したい訳では あるまい

# 過去に古田さんと何か あって(例えば 安本 美典 氏が直ぐに思い付くが) 意趣返しを行う事が動機で批判しているので あれば別で あるが……


となれば、上記 3.1 の後半に載せた 劉表伝 に おける距離記載に ついて論及していないと言う事は、田次説としては論証不成立と言う状況に陥ってしまっている ものと思われる

これに ついては、田次氏 が改めて言及する事を期待したいが、現時点では古田さんの書籍で述べられている短里説に ついては否定し切れて おらず、むしろ批判している文面の内容が少しく事実に反している様にも見えて しまう
やはり どうも 田次氏 の論説は間違っているとしか思えないので ある

なお、繰り返すが私は三国志に長里と短里が混在していると考えているので、長里のみ で書かれていると主張する論者の論べんに全て対処する必要は無い
単に、魏志の一部(劉表伝) と呉志の一部(周瑜伝) に短里が使われている事を明らかに すれば良いだけだからで ある

# 立場が異なればになうべき責務も また大きく差違が生じると言う事ですな




4. 短里制を東夷世界に復古せしめたのは公孫氏か


これは私見では あるが、東漢朝末期より東夷世界に短里制をいたのは 公孫氏 では無いかと考えている
さすれば、東漢末以降 楽浪郡ないし帯方郡から倭国に郡使を派遣していたのは 公孫氏 で あろうと思われるので、帯方郡から倭国への距離および間に ある韓国での距離が短里で ある事を説明出来る事に なる

これも上記 2. の参照先に述べている通り で ある


5. 真面目な議論が出来ないのは本名を公開するか どうか なのか?


冒頭にメールの交換を行っていて それを掲げているが、どうも田次氏 ご本人はメール文面を Web で公開する事に賛同されて いない らしい
らしい と言うのは、公開して良いか どうか を お聞きしたが回答が得られなかったので、それで同意されていないものと判断した

ただ、実際にはメールで あろうと書籍で あろうと引用で ある事を示せば法律上は何の問題も無いので、公開する事と した

田次氏 からのメールを読む限り、どうも本名を公開すれば真面目な議論が出来るが本名では無いと責任ある議論には ならなかった らしい
その様な事が あるのか? と私には不思議で ならなかったので少し Web で調べて見ると、以下の URI が見付かった

第157話 2008/1/20 九州王朝論の独創と孤立

講演に先立ち、午前中は関西例会が行われ、短里研究で著名な谷本茂さん(会員)の研究発表がありました。
短里はなかったとする田次伸也さん(会員)への反論で、質疑応答では他の参加者も交えて、激しい論争になりました。
例会への初参加者は、その激しさに驚かれたようですが、古田史学の会・関西例会ならではの光景で、面目躍如といったところです。

なるほど、例会の発表の場で発表者に反論した訳ですな

私は "古田史学の会" の会員では無い(し過去も この会に属した事は無い) ので当然 その場に居合わせては いないが、何と無く想像は出来る
それにしても、激しい論争と言うのは どの程度のもので あったのか?
録音でも残っていれば聞いてみたい気が しなくも無い

ただ、こう言う事を すれば その場に いた人達から反感を買ってしまう事は想像するにかたく無い
発表者に対して反対意見を述べると言うのは分かるが、激しい論争にまで引っ張って しまっては ならない
それは発表者に対して礼を失すると言うもので あろう

いや、反対見解を持っていて それを論じたいと言うのは心情として理解出来なくも無いが、それでも その場だけは発表者(の立場やら何やかや…)を立てて差し上げてある程度の所で切り上げると言うのが、分別ある大人の対応と言うものでは無いかと思う
私は 田次氏 を全く知らないが、残念ながら 人となり として少し非常識な一面(それが全てと言う事では無いと思うが…) が あると言う印象を持ってしまった
大体どうして 田次氏 は その古田史学の会 とやらに入会したのか? ご自身の見解と異なるので あれば、抑々 敢えて入会する必要は無いと思う
何のために入会したのか? 始めから誰かを批判するために? 誰を? 谷本 茂さんや 古田さんを批判するために入会した?
私には良く分からない

或いは、もしかしたら その場に いた参加者の誰かが 田次氏 に反感を持って 田次氏 のメールアドレスに反論を送ると言った事を したのかも知れない
まぁ これは私の勝手な想像では あるが、もし その様な事で反論メールを送る人が何人か いて真面目な議論に ならなかったとしても、それは何と言うか因果応報自業自得身から出た錆と言われても致し方無い気が しなくも無い

取り敢えず他に この人の事を知る手掛かりが無いかと思って見たので あるが、

Amazon.co.jp: 「卑弥呼」発見 古代史の再構築と「魏志倭人伝」再読

へぇぇ~、本を書いた人なのか…

どの様な本なのか と思って この本の評価を見ようと したが、誰もレビューを書いていない らしく、良く分からなかった
いやはや、大変残念で ある
評価が高い本は読みたくなるが、レビューが 0 の本と言うものを私は買った事も読んだ事も無いため、流石に この時点で読む気は無くなって しまった

取り敢えず 田次氏 と言う人は 古田史学の会 とやらの会員で あった事が あり、会員なのに何故か古田 武彦さんの批判を行う人なので あろうと言う事は何と無く理解した

所で その当事者で ある古田さんで あるが、講演会に他の論者の参加を誘う対応として以下の出来事が あった記憶が ある

古田さん:

「ぜひ出席してください」

出席者候補さん A:

「いや私は(同じ九州説でも) 古田さんとは違うので……」

古田さん:

「そんなの違う内に入りません。ぜひ出席してください」

出席者候補さん A:

「それならば…」


何と言うか、人間力としての度量が違うのでは無いかと、率直に思ってしまった
と言う訳で、真面目な議論が出来ないのは決して本名を明かすか どうかでは無い様な気が しなくも無い

一応、Web で評価を調べて見ると、

邪馬台国は九州にあった31 | ログ速@2ちゃんねる(net)

つまり、田次さんの論は古田批判という点ではいくらか正しい
ところもあるかも知れないが、考察の範囲が狭く、結論としては間違っているのである。

2ch は結構 酷い事や信憑性が欠ける事が多々書かれている様に思うが、これは かなり的確な論評では無いかと思う

公開 : 2016年5月28日
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