1. 倭人伝短里説を否定する論者は壱岐島を引き合いに出すが…
以前に短里説を批判した論者の言説を当方が批判した事が あったが、その人が主張する根拠の一つが、壱岐島の大きさ で あった
倭人伝には壱岐島の大きさが以下の
様に記されている
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳
撰者 : 西晉(晋)朝 陳壽(寿)
又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴
この論者とは、以下で掲載した方で ある
田次 伸也 説は正しいか (1)
曰く、
壱岐島の大きさは方三百里よりも小さいので短里で書かれているのでは無いとの事で あった
ただ、上記に書かれている 田次 伸也 氏の Webページは何故か消失していまって いるので、現時点では正確に引用出来ないので あるが、大略としては
過っていないと思う
確かに、壱岐島は方三百里よりも小さい
ここで私が着目したいのは、航空写真や
GNSS測量(GPS測量) も無い古代では どの様に
島嶼の大きさ を計測したのか、と言う事で ある
恐らく当時は歩測による測量を行っていたので あろう
或いは、指南車に よる車輪の回転数に より距離を算出したのかも知れない
指南車に ついては以下を参照
久保田穣説は正しいか
いずれにせよ、島嶼の外周を歩行で一巡した距離を島の大きさ と判断したので あろうか と考える
この場合、島の形状が正方形で あれば直線状に歩行出来るので外周距離の 1/4 が一辺の距離と等しくなるが、もし島の周辺沿岸部が複雑に入り組んでいる場合は直進出来ずに紆余曲折しなければ進めないので歩行距離が長くなる事に なる
さて この時、理論的には島嶼の実際の大きさ より歩行測量値の方が大きく ならないで あろうか?
当時は この差違値を補正する事は出来なかったので あろう
そのため、倭人伝 に
記された壱岐島の大きさ は現在の実際値よりも大きく なってしまい、これが現在人で ある我々から見れば誇大値として
映ってしまっているので あろう
これは古代に おける測量技術の限界と言う事由に起因しているに過ぎず、別に魏使や史官に よる誇張 云々と言う言説を差し
挟む必要は あるまい
と同時に、実際の壱岐島が方三百里よりも小さい から と言って 倭人伝 に おける里程を恣意的に解釈しよう とするのは歴史研究者として公平な態度では無い と言う事でも ある
2. 絶好の比較記事が存在している
実は島嶼測量が実際値よりも大きい と言う記述に ついては、漢代に おける絶好の比較記事を
見出
せる
【漢書】 卷二十八下 地理志第八下 粤地
撰者 : 東漢朝 班固 班昭 馬続(ばしょく) 等
自合浦徐聞南入海得大州 東西,南北方千里
武帝元封元年(紀元前110年) 略爲儋耳,珠厓郡
民皆服布如單被穿中央爲貫頭 男子耕農種禾稻,紵麻 女子桑蠶織績
亡馬與虎 民有五畜 山多麈,麖 兵則矛,盾,刀,木弓,弩,竹矢或骨鏃
自初爲郡,縣吏,卒中國人多侵陵之故率數歳壹反
元帝時遂罷弃之
ここに登場している 大州 とは 海南島 を指しているもの と思われる
大きさ は方千里と あるので、漢代の長里で東西と南北が共に千里で ある と
見做されていた事が分かる
次は 後漢書 である
(続く)
公開 : 2017年5月4日