【逆説の日本史】 1 古代黎明編 P.88この人は基本的な事が、本当に理解出来ていない
むしろ、日本列島人は自らの集団の名を「ワ」と呼んでいた。
そして、そう言っていたからこそ、中国人はそれを記録したと考える。
勿論これは日本語であるから、「遠い」とか「背が低い」という意味ではない。
では、「ワ」とは何か?
「倭」というのは中国語ではなく、もとは日本語(正確に言えば日本列島原住民語)であり、その「ワ」という音に対して古代中国人が同音の「倭」を当て字したのだ。
だから「倭」という字の固有の意味、たとえば「遠い」とか「みにくい」といくら考えてもムダなのである。
| 項 | 説明 |
| 解字 | 人+音符委 で、しなやかでたけが低く背の曲がった小人をあらわす |
| 単語家族 | 矮(背が低い)と同系 |
| 語 | 音 | 説明 |
| 倭移 | イシ | なよなよしたさま |
| 倭遅 | イチ | 曲がりくねってさま |
| 倭木 | イ(ヰ)ボク | 杉の漢名 日本の特産で各地に見られるスギ科の常緑高木 |
【說文解字】 卷八 人部 倭倭字の声音は委で あり、発音は ワ行音で母音がイ段 で あると記録されている
著 : 東漢朝 許愼
順皃(=貌?)從人 委聲 詩曰周道倭遟 於爲切
【說文解字注】倭字と委字の字義は ほぼ等しく、声音は ヰ で あると記録されている
著 : 清朝 段 玉裁
倭 須皃 倭與委義略同 隨也 隨從也 廣韵作愼皃 乃梁時避諱所改耳
从人 委聲 於爲切 十六部 音轉則烏何切 詩曰周道倭遟 小雅四牡文 傳曰倭遟 歴遠之皃
按倭遟合二字成語 韓詩作威夷 故與須訓不同 而亦無不合也
| 字音候補 | 上古音 | 中古音 | 中世音 | 現代音 |
| 音一 | ・uar(ゥァ) | ・ua(ゥァ) | ・uo(ゥォ) | ・uə(ゥォ) |
| 音二 | ・ɪuar(ゥィゥァ) | ・ɪuĕ(ゥィェ) | uəi(ゥェィ) | uəi(ゥェィ) |
| 字と字音候補 | 上古音 | 中古音 | 中世音 | 現代音 |
| 委 | ・ɪuar(ゥィゥァ) | ・ɪuĕ(ゥィェ) | uəi(ゥェィ) | uəi(ゥェィ) |
| 倭 音二 | ・ɪuar(ゥィゥァ) | ・ɪuĕ(ゥィェ) | uəi(ゥェィ) | uəi(ゥェィ) |
| 倭 音一 | ・uar(ゥァ) | ・ua(ゥァ) | ・uo(ゥォ) | ・uə(ゥォ) |
【後漢書】 卷八十五(一百十五) 列傳卷七十五 東夷傳 倭傳倭国王帥升 は ワこくおうスイショウ では無く ヰこくおうスイショウ/ヰこくおうスェション と なる
撰者 : 南朝劉氏宋朝 范曄
安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見
【山海經】 卷十二 海內北經 第十二
編者 : 不明
葢(蓋古字)國在鉅燕南倭北 倭屬燕
【論衡】 第五卷 異虛篇 第一八著 : 東漢朝 王充
使暢草生於周時天下太平 倭人來獻暢草暢草亦草野之物也
【論衡】 第八卷 儒增篇 第二十六
周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯艸 食白雉服鬯艸 不能除凶
【論衡】 第十九卷 恢國篇 第五八成王 とは名を 誦(しょう) と言って周朝の二代目の王で、概(おおむ)ね 紀元前一千年 頃の人で ある
武王伐紂 庸蜀之夷 佐戰牧野
成王時 越常獻雉 倭人貢暢
【逆説の日本史】 1 古代黎明編 P.89カラオケ云々は どうでも良いが、ワ と言う倭語に ついて、今少し厳密に考えて見よう
カラオケは、いや「ワ」は、あくまで日本語である。
【逆説の日本史】 1 古代黎明編 P.88ワ と言う倭語は あったかも知れないが、倭字と言う漢字は漢語で ある
「倭」というのは中国語ではなく、もとは日本語(正確に言えば日本列島原住民語)であり、その「ワ」という音に対して古代中国人が同音の「倭」を当て字したのだ。
だから「倭」という字の固有の意味、たとえば「遠い」とか「みにくい」といくら考えてもムダなのである。
【逆説の日本史】 1 古代黎明編 P.99この人は何処(どこ)まで分かっていないので あろう
次に「環」もある。
これも中国語発音は「カン」であるから、やはりもとは大和言葉の「ワ」だろう。
| 字 | 上古音 | 中古音 | 中世音 | 現代音 |
| 環 | ɦuăn(ゥァン) | ɦuăn(ゥァン) | huan(フアン) | huan(フアン) |
【古代日本のルーツ長江文明の謎】 P.89安田氏の関心は長江流域の都市形成と城壁の発生に ある らしいが、どうやら農耕聚落の環濠が発展して城塞都市での城壁に発展したものと考えている様に思われる
著者 : 安田 喜憲
この時期、すでに長江の中流域では巨大な農耕集落ができていたと思われる。
湖南省の彭頭山遺跡は、一万年前から環濠をもった集落を形成していたことがわかっている。
水田では稲を作っていたが、気候が乾燥し干ばつとなると稲作は危機を迎える。
六三〇〇年前に起こった乾燥化の中で長江流域の人々は、どうしたか。
彼らは、城塞をつくったのである。
城塞の後ろにため池をつくり、ため池によって水の灌漑をコントロルするようになった。
この城塞の誕生が、都市型の集落の形成につながり、長江文明誕生のきっかけになったのではないだろうか。
【逆説の日本史】 1 古代黎明編 P.99上記の主張、環(わ) が倭語で あるとする考えが成立しなくなって しまった今、これも途端に怪(あや)しく なってしまうで あろう
まず「輪」である。
この中国語発音は「リン」であるから、これは外来語ではない。
もともと日本に「ワ」という言葉があり、それと中国語の「輪」が同じ意味であることから、「輪」という字を「ワ」と読むことになったのだろう。
1) 倭人は最初に、環濠を わ と言う概念で把握した
2) 環濠の形状で ある円形を、わ と言う概念に含むと言う事で認識を更新した
3) 拡大解釈された概念の中の狭義の概念を、環(わ) と言う語で名称した
4) 拡大解釈された概念の中の広義の方に、輪(わ) と言う呼称を命名した
と言う事で ある
この可能性は充分に あると思うのであるが、如何(いかが) で あろうか
【逆説の日本史】 1 古代黎明編 P.100環濠と言うのは、古代中国人より稲作と共に日本に齎されたもので あると言う事は、上記で述べた通りで ある
ここで、一つ重大なことを思い出す。
それは古代の日本の集落(あるいはクニ)が周囲に濠を「めぐら」した「環濠集落」だったということだ。
倭とは実は「環」であり、古代日本人は、集落のことを「環」と呼んでいたのではないか。
古代中国人は日本人(原住民)に「おまえたちの国の名は何だ?」とたずねた。
その問いに対し日本人は、まだ「クニ」という概念をよく理解できなかったので、「ロシア」とか「ヤマト」とかいう国の固有名詞ではなく、単に自分たちが考える「クニ」という概念に一番近いもの、すなわち「環」である、と答えたのではないか。
【漢書】 卷二十八 地理志第八下 燕地倭人の領域は百余りの国に分かれている事を、倭人自身が認識している事が読み取れる
撰者 : 東漢朝 班固 班昭 馬続(ばしょく) 等
然東夷天性柔順 異於三方之外 故孔子悼道不行 設浮於海 欲居九夷 有以也夫
師古曰
論語稱 孔子曰
道不行 乘桴浮於海 從我者其由也歟
言欲乘桴筏而適東夷 以其國有仁賢之化 可以行道也 桴音孚 筏音伐
樂浪海中有倭人 分爲百餘国 以歳時來獻見云
如淳曰 如墨委面 在帶方東南萬里
臣瓚曰 倭是國名 不謂用墨 故謂之委也
師古曰 如淳云 如墨委面 蓋音委字耳 此音非也 倭音一戈反 今猶有倭國 魏略云 倭在帶方東南大海中 依山島爲國 度海千里 復有國 皆倭種
東夷 諸国の天性は従順で、北狄,西戎,南蛮の三方とは異なる 故に孔子が聖人の道が廃れている事を悼み、海に筏(いかだ)を浮かべて東夷の九夷(九州に いた倭人か?) に移り住もうと望んだので あるが、尤(もっと)も な事で ある
顔籀 註記する:
論語に孔子の言葉が以下の通り収録されている
聖人の道が行われず 桴(いかだ)に乗って海に浮かび倭に向かう時 従う者は仲由(子路)のみか
東夷に適(い)こうとして桴筏に乗ろうとして言った その国は先王の仁賢の徳化が有る 向かって聖人の道を行うべし 桴の字音は孚 筏の字音は伐
楽浪郡の先の海の彼方(かなた)に倭人が居る 百余国に分かれている 年毎に来朝して朝貢を続けていたと伝えている
如淳 註記する:
顔に墨刑の様な入墨(いれずみ)を彫(ほ)っている、委面(ヰメン)と言う[註1] 帯方郡の東南一万里に有り
臣瓚 註記する:
倭は国名で あり、入墨を習俗としていたからでは無く、単に昔は倭を委と呼んだので ある[註2]
顔籀 註記する:
委面とは、字音は委字のヰで発音してヰメンで あるから、倭字の字音とは異なる
倭字の発音はワ行ア段で ワ で あり、今も倭国は存在している[註3]
魏略に云う、倭は帯方郡の東南 大海の中に あり、山と島が連(つら)なって国が ある 海を渡る事千里 又国有り 皆倭種
[註1]
如 淳は魏朝の人なので、未だ倭字に ヰ と言う音が ある事を知っている
だから 倭(ヰ)=委(ヰ) の認識を持っていて、委面の人だから人偏を付加して倭字を作り、それで倭人と呼ぶ様に なったと考えている
[註2]
臣 瓚は晋朝の人なので、もう この時には倭字の発音は ワ に転じている
その上で尚(なお)、倭の旧称が委で あると主張しているので、何らかの史料文献に基づいているのかも知れない
漢代の 漢委奴国王 は 漢倭奴国王 の古称で あると認識している事に なる
[註3]
顔 籀は唐朝の人なので、もう 倭(ヰ)=委(ヰ) と言う古(いにしえ)の認識が消失している
故に、委(ヰ)≠倭(ワ) と考えていて、如 淳の註記が誤りで あると主張している
実際に間違っているのは、顔 籀の方で ある
【逆説の日本史】 1 古代黎明編 P.93倭人と言う呼称は周代、縄文時代から使用されていて、倭と言う国号は漢代から文献に見える
それは同じ古代でも、少し時代が進み中国との交流が進んだ頃、日本列島人は自らのことを「倭」ではなく「和」と称することになったことだ。
「倭」から「和」への転換、これは一体どうして行われたのだろうか。
通説では、「倭」という字が「みにくい」という意味をふくむ「悪字」なので、日本列島人自らがこれを「和」と改めたのだとしており、おそらくこれは正しいだろう。
自分の国がそんな「悪字」で書かれることは、どの国の国民でも許せないに違いない。
【逆説の日本史】 1 古代黎明編 P.96この人は、知りもしないのに良くも まぁ適当な嘘八百を並べるのか、感心してしまう
では、日本列島人はどうして「倭」が悪字だと分かったのだろう。
それはそのことを知っている人間が教えてくれたに違いない。
それは中国人以外に考えられない。
そしてその時点で日本列島人は、「倭」をやめて別の字にしたいとリクエストを出したはずだ。
その時もし「同じ音の違う字にして下さい」というリクエストをしたのならば、「和」という字が選ばれるはずがないのである。
「和」と「倭」は同音ではないのだから。
【舊唐書】 卷一九九上 列傳 第一四九上 東夷傳 日本傳読解は以下の通り
撰者 : 後晋朝 劉昫 張昭遠 王伸 等
日本國者 倭國之別種也
以其國在日邊 故以日本爲名
或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本
或云 日本舊小國 併倭國之地
井沢氏は もう少し歴史の勉強を した方が良いのでは ないかと、心底思う日本国は倭国の別種(別の王朝と言う意か?)で ある
その国は(世界の東端の)日が昇る地に あるので、日の本と言う国名を(日本国人が)名付けた
別の見解として、倭国と言う国名は文雅(ぶんが)では無い事を倭国人自らが嫌い、(倭国人が)日本と言う国名に改称した
また別の見解として、日本は元々小国で あったが、倭国の領域(出雲や吉備、熊襲と言った地域の事か?)を併合した
| 名称使用の目的 | 旧名称 | 新名称 |
| 国内向け | 大和(ヤマト)人 | 和(わ)人 |
| 国号(国外向け) | 倭国 | 日本国 |
1) 倭字は委字より作られたものであり、倭字の本来の字音は ワ では無く ヰ で あった
2) ヰ 音は周代から漢代まで使用されて おり、ヰ から ワ に発音が転じたのは、恐らく東漢代から魏代に かけての時期かと思われる
3) 倭人は周朝初期から文献に登場して おり、倭人と言う呼称は今から三千年以上も前から使用されていて、日本の時代区分では縄文時代と なる
4) 環(わ) と言う語は弥生時代に稲作と共に導入されたもので あり、漢語の環(ワン) から作られた倭語で ある
5) 縄文時代からは環濠の出土を確認出来ないので、縄文時代には 環(わ) と言う概念は存在していなかった ものと思われる
6) 周代の倭字の字音は ヰ なので、倭人が ワ と名乗った所で、当時の漢族が その音に倭字を当てる事は あり得ない
7) 縄文時代には環(わ) の概念は未だ存在していないものと思われるので、当時の日本人が自らを ワ と称する事は あり得ない
8) 倭国から和国に変遷したのでは無く、倭国から日本国に改称されたので あり、その過程に漢族は関与していない
9) 和人とは国内向けの呼称である大和人を省略した ものと思われる
倭の起源は倭人が自らを環(わ)と称したと言う井沢氏の主張は、上記より二重三重いや それ以上の理由で成立の余地は無い事が分かる