倭の起源は自らを環と称したからか

1. 倭人が自らを環と称したのが倭の起源と言う主張


井沢氏は著書で、倭人が自身達を ワ と呼び、その音を漢族が同音の倭字を当て字したと主張している
引用しよう
【逆説の日本史】 1 古代黎明編 P.88

むしろ、日本列島人は自らの集団の名を「ワ」と呼んでいた。
そして、そう言っていたからこそ、中国人はそれを記録したと考える。
勿論これは日本語であるから、「遠い」とか「背が低い」という意味ではない。

では、「ワ」とは何か?

「倭」というのは中国語ではなく、もとは日本語(正確に言えば日本列島原住民語)であり、その「ワ」という音に対して古代中国人が同音の「倭」を当て字したのだ。
だから「倭」という字の固有の意味、たとえば「遠い」とか「みにくい」といくら考えてもムダなのである。

この人は基本的な事が、本当に理解出来ていない

今回は この主張が正しいのか どうか、明らかにして行こう



2. 考察


.1 倭字作成の経緯と実際の発音


上記主張の前提条件は、漢語に おける倭字の発音が ワ で あると言う事で ある
では、倭字の発音は本当に ワ で あったのか、確認しよう

そのために、先(ま)ずは倭と言う字が作られた経緯に ついて、確認しておく必要が ある

学研新漢和大字典 で倭字の項を繙(ひもと)いて見ると、以下の様(よう)に記されている

倭字の成り立ち
説明
解字 人+音符委 で、しなやかでたけが低く背の曲がった小人をあらわす
単語家族 矮(背が低い)と同系

解字とは漢字の成立過程等(など)が説明されているので あるが、これを見る限り、字音は 委字 を引いて おり、委字に人偏(にんべん)を付加する経緯で この漢字が成立した事が読み取れる
つまり、元々の倭字の音は、ワ では無く委字の音で ある イ(ヰ) で あった事が分かる

他に、倭字を用いた語の説明が載(の)っているが、意外な事に、倭字を イ(ヰ) と発音する語が以下の様に載っていた

倭字の語
説明
倭移 イシ なよなよしたさま
倭遅 イチ 曲がりくねってさま
倭木 イ(ヰ)ボク 杉の漢名
日本の特産で各地に見られるスギ科の常緑高木

これらを見ると、倭字は イ(ヰ) と発音された時期が存外に長かった事が窺(うかが)えるので ある

学研新漢和大字典のみでは客観性を欠く可能性も あるので、他の文献も確認して おきたい
【說文解字】 卷八 人部 倭

著 : 東漢朝 許愼

順皃(=貌?)從人 委聲 詩曰周道倭遟 於爲切

倭字の声音は委で あり、発音は ワ行音で母音がイ段 で あると記録されている

発音が反切で書かれているので日本人には分かりにくいかも知れないが、平たく言えば字音を行音と母音で分けて記載する手法で ある
ワ行音で母音がイ段と言う事は、ヰ(ウィ:平仮名の ゐ) と言う発音を示している

許慎は東漢朝の人なので、少なくとも東漢代までは倭字の発音は ワ では無く ヰ で あった事が分かる
【說文解字注】

著 : 清朝 段 玉裁

倭 須皃 倭與委義略同 隨也 隨從也 廣韵作愼皃 乃梁時避諱所改耳
从人 委聲 於爲切 十六部 音轉則烏何切 詩曰周道倭遟 小雅四牡文 傳曰倭遟 歴遠之皃
按倭遟合二字成語 韓詩作威夷 故與須訓不同 而亦無不合也

倭字と委字の字義は ほぼ等しく、声音は ヰ で あると記録されている

段 玉裁 は清朝の考証学者なので、字音の考証を古代まで溯(さかのぼ)って追跡出来たと言う事で あろう

孰(いず)れの文献に おいても、倭字の発音が古代では(恐らく東漢代までは) ワ では無く ヰ で あった事が確認出来る

さて、それでは倭字の漢語での発音を確認して おこう

倭字の発音
字音候補 上古音 中古音 中世音 現代音
音一 ・uar(ゥァ) ・ua(ゥァ) ・uo(ゥォ) ・uə(ゥォ)
音二 ・ɪuar(ゥィゥァ) ・ɪuĕ(ゥィェ) uəi(ゥェィ) uəi(ゥェィ)

次に倭字の基に なった委字の発音を確認し、倭字の発音と比較して見よう

委字と倭字の発音
字と字音候補 上古音 中古音 中世音 現代音
・ɪuar(ゥィゥァ) ・ɪuĕ(ゥィェ) uəi(ゥェィ) uəi(ゥェィ)
倭 音二 ・ɪuar(ゥィゥァ) ・ɪuĕ(ゥィェ) uəi(ゥェィ) uəi(ゥェィ)
倭 音一 ・uar(ゥァ) ・ua(ゥァ) ・uo(ゥォ) ・uə(ゥォ)

見比べると一目瞭然で あるが、倭字の音二 と委字は非常に良く似ている事が分かる
これにより、倭字が委字を基(もと) に派生して出来た事が、とても良く分かる

上記を見るに、発音が分かれた時代も、何と無く予測可能で ある
上古音の時代末期、恐らくは漢朝の時代に、委字を基として委字と倭字が枝分かれ したもの と考えられる
何故かと言えば、上古音の委字:・ɪuar と倭字 音二:・ɪuar では発音の共通部分が見受けられ、と同時に委字:・ɪuar と倭字 音一:・uar にも同様に発音の共通部分が存在する事を確認出来るが、中古音の時代に なると委字と倭字 音一の発音には共通部分が ほぼ消失しているから で ある

これを日本の時代区分で照らし合わせると、上古音の時代で ある中国の周代は日本の縄文時代で あり、中国の漢代は日本の弥生時代と なる
そして それぞれの両時代の倭字の発音は、周代(縄文)では ヰ漢代(弥生)では ヰ と ワ の混用(倭字 音二の ヰ の音が遺存していて優勢) で あると思われる

つまり、倭人が自身を ワ と主張したとしても、それを聞いた周代や漢代 当時の漢族は ワ=倭 と言う音の認識が無い若(も)しくは低いので、ワ の発音に倭字を採用する可能性は著しく低いと考えられる


ここで少し本考察の趣旨から離れるが、漢委奴国王 印と言う金印に ついて触れて おきたい

この金印文の音訓で あるが、東漢代初期は上古音の時代に含まれるので、上記に より 漢委奴国王(カンヰナこくおう) と なる
委字 は 倭字 の省画と思われるが、漢委奴国王 が 漢倭奴国王 と刻印されていたと しても音訓は カンのヰナこくおう で変わらない

漢委奴国王 金印紫綬の後に倭が歴史に登場するのは以下の通り東漢朝 西暦107年 に おける 倭国王帥升 の貢献で あるが、
【後漢書】 卷八十五(一百十五) 列傳卷七十五 東夷傳 倭傳

撰者 : 南朝劉氏宋朝 范曄

安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見

倭国王帥升 は ワこくおうスイショウ では無く ヰこくおうスイショウ/ヰこくおうスェション と なる

以下は参考までに

漢委奴国王印は奴国に下賜された金印ではない
倭国王帥升の倭名は据塩,季潮(すえしお)

本論に戻る

中古音の開始は現時点で判然と しないが、私の考察では東漢朝後期から魏晋朝の頃で あろうと考えており、日本では恰度(ちょうど) 卑弥呼が歴史に登場した時期に ほぼ適合する
この頃の漢族は、恐らくは倭を ワ と発音したので あろう

と言う事で、魏晋朝の漢族で あれば 倭=ワ の認識は あったと思われるが、それより以前の周代や漢代では、倭=ヰ と言う発音なので ある

金印ついで で あるが、漢魏易姓革命に より王朝を嗣(つ)いだ魏朝では、親魏倭王 の金印を シンギヰおう では無く シンギワおう と表音していたものと思われる

それでは、抑々(そもそも)倭人と言う存在は、中国では何時(いつ)から認識されていたので あろうか?


.2 周朝に朝貢していた倭人


周代には既に中国文献に倭および倭人が登場している事が、以下の通り確認出来る
【山海經】 卷十二 海內北經 第十二

編者 : 不明

葢(蓋古字)國在鉅燕南屬燕

【論衡】 第五卷 異虛篇 第一八

著 : 東漢朝 王充

使暢草生於周時天下太平 倭人來獻暢草暢草亦草野之物也

【論衡】 第八卷 儒增篇 第二十六

周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯艸 食白雉服鬯艸 不能除凶

【論衡】 第十九卷 恢國篇 第五八

武王伐紂 庸蜀之夷 佐戰牧野
成王時 越常獻雉 倭人貢暢

成王 とは名を 誦(しょう) と言って周朝の二代目の王で、概(おおむ)ね 紀元前一千年 頃の人で ある
在位は紀元前1042年から紀元前1021年と言うから、今から三千年以上も前の人と言う事に なる
尤(もっと)も、余りに時代が古過ぎて在位年代を確定しにくく、見解次第で多少の誤差が ある

と言う事は、紀元前十一世紀頃の縄文時代には、倭人が周朝に朝貢して その存在を知られていたと言う事に なる

さて、となると紀元前一千年の頃に、ワ と言う倭語は存在していたので あろうか?


.3 環(わ) は漢語を輸入して倭語と なった


ここで少し整理してみたい
【逆説の日本史】 1 古代黎明編 P.89

カラオケは、いや「ワ」は、あくまで日本語である。

カラオケ云々は どうでも良いが、ワ と言う倭語に ついて、今少し厳密に考えて見よう
ワ が倭語で あったとして、それは縄文倭語で あったか、それとも弥生倭語で あったかのか
【逆説の日本史】 1 古代黎明編 P.88

「倭」というのは中国語ではなく、もとは日本語(正確に言えば日本列島原住民語)であり、その「ワ」という音に対して古代中国人が同音の「倭」を当て字したのだ。
だから「倭」という字の固有の意味、たとえば「遠い」とか「みにくい」といくら考えてもムダなのである。

ワ と言う倭語は あったかも知れないが、倭字と言う漢字は漢語で ある
基本的な事なので、取り違いを しては ならない

ワ と言う倭語が縄文時代から存在していたので あれば気に する必要は無いと思うが、若し弥生時代に出来た倭語で あれば、注意を要する必要が あろう

井沢氏は漢族が倭人の語を使用し始めたのは漢代若しくは魏代と考えているのかも知れないが、上記 .2 周朝に朝貢していた倭人 で述べた通り、実は周代から倭人と言う語が使用されていた事が確認出来る

若し ワ と言う倭語が弥生時代に作られたもので、縄文時代には存在しなかったので あれば、縄文時代から倭人と言う語が使用されていた事実を説明出来ない事態に陥ってしまう事に なる
【逆説の日本史】 1 古代黎明編 P.99

次に「環」もある。
これも中国語発音は「カン」であるから、やはりもとは大和言葉の「ワ」だろう。

この人は何処(どこ)まで分かっていないので あろう

環字の音に カン が あるのは確かで あるが、古代に おいても カン で あったか どうかは、充分に確認する必要が ある

既述の学研新漢和大字典で環字を引くと、カン と言う字音は漢音で ある事が分かる

漢音と言うのは中国北方音で あるから、隋唐朝の音で あろう
恐らくは遣唐使が日本に齎(もたら)した、比較的新しい音読で あると思われる

とても縄文だの弥生だのと言う時代には程(ほど)遠い字音を引き合いにしているのは、何かしらの意図(悪意と言い換えても良いかも知れない)を以(もっ)て書いているので あろうか

環字の発音を調べたので、以下の通り掲(かか)げるが、

環字の発音
上古音 中古音 中世音 現代音
ɦuăn(ゥァン) ɦuăn(ゥァン) huan(フアン) huan(フアン)

上古音,中古音 共に ɦuăn と あるので、この発音を倭語で言い表すと、ワン と なる
実際に声に出して見ると分かるが、短く ゥァン と発音して、他の人に どう聞こえたか確かめて欲しい
ワン と聞こえたと言うで あろう

倭語に おいては撥音(ン)は変化し易(やす)い音で あり、また表音に困る音でも ある
そのため、古代の倭語では撥音が消失してしまう事も ある

例えば 王仁(わに) と言う人物が いて、別表記では 和邇吉師(わにきし) とも呼ばれるが、漢語表音は ワンニン で ある
倭語では ワン や ニン と表音するのは語として落ち着かず、音が安定しない事が あり、その場合は撥音が消失してしまう現象が発生する
王仁も、ワンニン から わに へと表音変遷が行われたものと推察される

これと同様に、環(ワン)字も撥音が消失して ワン→わ と言う表音変遷を経(へ)たものと予想される

つまり、環字の訓読みで使用される わ と言う表音は、元々は漢語の ワン が変化したもので あり、環(わ) は始めから倭語として存在していた訳では無さそうで ある

思うに、弥生時代に稲作と共に環濠と言うものも倭人が中国から輸入し、その過程で 環(わ) と言う倭語が形成されたもので あろうと考えるのが、妥当で あろう
例えば以下を読むに、稲作が長江流域で行われ始めた時点より環濠という
【古代日本のルーツ長江文明の謎】 P.89

著者 : 安田 喜憲

この時期、すでに長江の中流域では巨大な農耕集落ができていたと思われる。
湖南省の彭頭山遺跡は、一万年前から環濠をもった集落を形成していたことがわかっている。
水田では稲を作っていたが、気候が乾燥し干ばつとなると稲作は危機を迎える。

六三〇〇年前に起こった乾燥化の中で長江流域の人々は、どうしたか。
彼らは、城塞をつくったのである。
城塞の後ろにため池をつくり、ため池によって水の灌漑をコントロルするようになった。
この城塞の誕生が、都市型の集落の形成につながり、長江文明誕生のきっかけになったのではないだろうか。

安田氏の関心は長江流域の都市形成と城壁の発生に ある らしいが、どうやら農耕聚落の環濠が発展して城塞都市での城壁に発展したものと考えている様に思われる
いずれにせよ、世界で稲作が初めて行われた地域は長江流域で あるとの説が有力で あり、その地域では稲作と環濠が密接に関連している様子が読み取れる
一万年前と言えば日本では縄紋時代で あるが、長江流域より縄紋時代晩期から弥生時代に かけて稲作と共に環濠が倭に齎されたと解して良いと思われる

序(つい)で に書いておくと、
【逆説の日本史】 1 古代黎明編 P.99

まず「輪」である。
この中国語発音は「リン」であるから、これは外来語ではない。
もともと日本に「ワ」という言葉があり、それと中国語の「輪」が同じ意味であることから、「輪」という字を「ワ」と読むことになったのだろう。

上記の主張、環(わ) が倭語で あるとする考えが成立しなくなって しまった今、これも途端に怪(あや)しく なってしまうで あろう

これは一つの可能性で あるが、先ず環濠と言うものが輸入されて環(わ) と言う概念が形成され、その後に環濠の形状に関しても概念の拡大化が行われて わ に含む様に なったと言う事も あるかも知れない

つまり、

1) 倭人は最初に、環濠を わ と言う概念で把握した

2) 環濠の形状で ある円形を、わ と言う概念に含むと言う事で認識を更新した

3) 拡大解釈された概念の中の狭義の概念を、環(わ) と言う語で名称した

4) 拡大解釈された概念の中の広義の方に、輪(わ) と言う呼称を命名した


と言う事で ある
この可能性は充分に あると思うのであるが、如何(いかが) で あろうか
【逆説の日本史】 1 古代黎明編 P.100

ここで、一つ重大なことを思い出す。

それは古代の日本の集落(あるいはクニ)が周囲に濠を「めぐら」した「環濠集落」だったということだ。

倭とは実は「環」であり、古代日本人は、集落のことを「環」と呼んでいたのではないか。

古代中国人は日本人(原住民)に「おまえたちの国の名は何だ?」とたずねた。

その問いに対し日本人は、まだ「クニ」という概念をよく理解できなかったので、「ロシア」とか「ヤマト」とかいう国の固有名詞ではなく、単に自分たちが考える「クニ」という概念に一番近いもの、すなわち「環」である、と答えたのではないか。

環濠と言うのは、古代中国人より稲作と共に日本に齎されたもので あると言う事は、上記で述べた通りで ある

縄文時代の倭人は、どうも環濠と言うものを作らない傾向が ある事が、縄文時代の遺跡から分かって いる
勿論、縄文時代にも土塁の様なものは あるが、聚落の外円部を濠で一周すると言う事を した形跡が、見当たらないので ある
# 尚、これは現段階での考古学上の見解で あるが、今後の遺跡の新発見等に より見解が変わる可能性は ある

取り敢えず現時点で言える事は、環濠は弥生時代から確認出来るもので あるが、倭人と言う呼称は縄文時代から確認出来ると言う厳然たる事実で ある
つまり、縄文時代の倭人は、聚落を ワ と呼称する概念は存在しなかったものと思われる

なお、井沢氏は倭人の国の概念が確立していないと考えている様で あるが、実は倭人は国と言うものを早い段階から意識していたのでは無いかと読み取れる文献が ある
【漢書】 卷二十八 地理志第八下 燕地

撰者 : 東漢朝 班固 班昭 馬続(ばしょく) 等

然東夷天性柔順 異於三方之外 故孔子悼道不行 設浮於海 欲居九夷 有以也夫

師古曰

論語稱 孔子曰

道不行 乘桴浮於海 從我者其由也歟
言欲乘桴筏而適東夷 以其國有仁賢之化 可以行道也 桴音孚 筏音伐

樂浪海中有倭人 分爲百餘国 以歳時來獻見云

如淳曰 如墨委面 在帶方東南萬里
臣瓚曰 倭是國名 不謂用墨 故謂之委也
師古曰 如淳云 如墨委面 蓋音委字耳 此音非也 倭音一戈反 今猶有倭國 魏略云 倭在帶方東南大海中 依山島爲國 度海千里 復有國 皆倭種

倭人の領域は百余りの国に分かれている事を、倭人自身が認識している事が読み取れる

註記の箇所は、如 淳, 顔 籀(ちゅう)(字:師古), 臣 瓚 の三人が各々煩(うるさ)い位に述べあっているが、これらも含めて、読解を記す

東夷 諸国の天性は従順で、北狄,西戎,南蛮の三方とは異なる 故に孔子が聖人の道が廃れている事を悼み、海に筏(いかだ)を浮かべて東夷の九夷(九州に いた倭人か?) に移り住もうと望んだので あるが、尤(もっと)も な事で ある

顔籀 註記する:

論語に孔子の言葉が以下の通り収録されている

聖人の道が行われず 桴(いかだ)に乗って海に浮かび倭に向かう時 従う者は仲由(子路)のみか
東夷に適(い)こうとして桴筏に乗ろうとして言った その国は先王の仁賢の徳化が有る 向かって聖人の道を行うべし 桴の字音は孚 筏の字音は伐
楽浪郡の先の海の彼方(かなた)に倭人が居る 百余国に分かれている 年毎に来朝して朝貢を続けていたと伝えている

如淳 註記する:

顔に墨刑の様な入墨(いれずみ)を彫(ほ)っている、委面(ヰメン)と言う[註1] 帯方郡の東南一万里に有り

臣瓚 註記する:

倭は国名で あり、入墨を習俗としていたからでは無く、単に昔は倭を委と呼んだので ある[註2]

顔籀 註記する:

委面とは、字音は委字のヰで発音してヰメンで あるから、倭字の字音とは異なる
倭字の発音はワ行ア段で ワ で あり、今も倭国は存在している[註3]
魏略に云う、倭は帯方郡の東南 大海の中に あり、山と島が連(つら)なって国が ある 海を渡る事千里 又国有り 皆倭種

[註1]

如 淳は魏朝の人なので、未だ倭字に ヰ と言う音が ある事を知っている
だから 倭(ヰ)=委(ヰ) の認識を持っていて、委面の人だから人偏を付加して倭字を作り、それで倭人と呼ぶ様に なったと考えている

[註2]

臣 瓚は晋朝の人なので、もう この時には倭字の発音は ワ に転じている
その上で尚(なお)、倭の旧称が委で あると主張しているので、何らかの史料文献に基づいているのかも知れない
漢代の 漢委奴国王 は 漢倭奴国王 の古称で あると認識している事に なる

[註3]

顔 籀は唐朝の人なので、もう 倭(ヰ)=委(ヰ) と言う古(いにしえ)の認識が消失している
故に、委(ヰ)≠倭(ワ) と考えていて、如 淳の註記が誤りで あると主張している
実際に間違っているのは、顔 籀の方で ある



.4 倭国から日本国へ


ここで、単純な事実を整理したい
【逆説の日本史】 1 古代黎明編 P.93

それは同じ古代でも、少し時代が進み中国との交流が進んだ頃、日本列島人は自らのことを「倭」ではなく「和」と称することになったことだ。
「倭」から「和」への転換、これは一体どうして行われたのだろうか。

通説では、「倭」という字が「みにくい」という意味をふくむ「悪字」なので、日本列島人自らがこれを「和」と改めたのだとしており、おそらくこれは正しいだろう。
自分の国がそんな「悪字」で書かれることは、どの国の国民でも許せないに違いない。

倭人と言う呼称は周代、縄文時代から使用されていて、倭と言う国号は漢代から文献に見える
その後、倭国は国号を日本国に更(あらた)めている

倭から和に単純に転換したのでは無いので あるが、どうも井沢氏は日中史の基礎を知らな過ぎる
【逆説の日本史】 1 古代黎明編 P.96

では、日本列島人はどうして「倭」が悪字だと分かったのだろう。
それはそのことを知っている人間が教えてくれたに違いない。
それは中国人以外に考えられない。
そしてその時点で日本列島人は、「倭」をやめて別の字にしたいとリクエストを出したはずだ。
その時もし「同じ音の違う字にして下さい」というリクエストをしたのならば、「和」という字が選ばれるはずがないのである。
「和」と「倭」は同音ではないのだから。

この人は、知りもしないのに良くも まぁ適当な嘘八百を並べるのか、感心してしまう

倭が雅字では無い事を気付いたのは、実は古代の倭国人なので ある

この事は以下の様に文献にも記録されていて、倭国が日本国に国号を更改(こうかい)した経緯が読み取れる
つまり、倭国人が自ら漢文典籍を学習し、倭国の呼称を止(や)めて日本国を名乗ったので ある
更に言うと、日本の国号を考案したのは、当時の倭国人(日本国人) なので ある
【舊唐書】 卷一九九上 列傳 第一四九上 東夷傳 日本傳

撰者 : 後晋朝 劉昫 張昭遠 王伸 等

日本國者 倭國之別種也
以其國在日邊 故以日本爲名
或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本
或云 日本舊小國 併倭國之地

読解は以下の通り

日本国は倭国の別種(別の王朝と言う意か?)で ある
その国は(世界の東端の)日が昇る地に あるので、日の本と言う国名を(日本国人が)名付けた
別の見解として、倭国と言う国名は文雅(ぶんが)では無い事を倭国人自らが嫌い、(倭国人が)日本と言う国名に改称した
また別の見解として、日本は元々小国で あったが、倭国の領域(出雲や吉備、熊襲と言った地域の事か?)を併合した

井沢氏は もう少し歴史の勉強を した方が良いのでは ないかと、心底思う
何と言うか、もう馬鹿丸出しで ある

尚、和字に ついては本考察の趣旨から離れるので ここで深くは触れないが、恐らくは狭義の奈良県ヤマト国を大和国と呼称し、日本国内向けに大和朝廷に属する者と言う意で 大和人 と言う名称が使われたのでは無いかと思う
考えられる経緯としては、大和人→和人 と言う所で あろうか
その後、既に大倭と言う語が存在していたため それに倣(なら)って次第に語義が広義化して利用されるに至ったものと思われる

例えば沖縄では、九州以東の者を ヤマトンチュ と呼ぶらしいが、これは当時の風習が遺存しているものと考える事が出来る

国号に ついては、倭国から日本国に更改して以降は対外的に日本国が正式国号として使用されている
少なくとも和国と言う名称を正式国号として他国に対して称したと言う事例は、無いと思う

分かり易く表に まとめると、以下の通りと なる

国内外での名称
名称使用の目的 旧名称 新名称
国内向け 大和(ヤマト)人 和(わ)人
国号(国外向け) 倭国 日本国



3. 結論


上記考察に より、以下の事が判明した

1) 倭字は委字より作られたものであり、倭字の本来の字音は ワ では無く ヰ で あった

2) ヰ 音は周代から漢代まで使用されて おり、ヰ から ワ に発音が転じたのは、恐らく東漢代から魏代に かけての時期かと思われる

3) 倭人は周朝初期から文献に登場して おり、倭人と言う呼称は今から三千年以上も前から使用されていて、日本の時代区分では縄文時代と なる

4) 環(わ) と言う語は弥生時代に稲作と共に導入されたもので あり、漢語の環(ワン) から作られた倭語で ある

5) 縄文時代からは環濠の出土を確認出来ないので、縄文時代には 環(わ) と言う概念は存在していなかった ものと思われる

6) 周代の倭字の字音は ヰ なので、倭人が ワ と名乗った所で、当時の漢族が その音に倭字を当てる事は あり得ない

7) 縄文時代には環(わ) の概念は未だ存在していないものと思われるので、当時の日本人が自らを ワ と称する事は あり得ない

8) 倭国から和国に変遷したのでは無く、倭国から日本国に改称されたので あり、その過程に漢族は関与していない

9) 和人とは国内向けの呼称である大和人を省略した ものと思われる


倭の起源は倭人が自らを環(わ)と称したと言う井沢氏の主張は、上記より二重三重いや それ以上の理由で成立の余地は無い事が分かる



4. 関連 URI


参考と なる URI は以下の通り

許慎 - Wikipedia
反切 - Wikipedia
段玉裁 - Wikipedia
成王 (周) - Wikipedia
王仁 - Wikipedia

公開 : 2014年9月23日
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