自古及今 未有不亡之国

1. 現実主義者 曹丕


三国鼎立時代の 魏朝 文帝(曹丕)は現実主義者で あったと伝えるが それを如実に示す文が ある

曹魏王朝の実質的な創業者は曹操で あるが 曹操は東漢朝の庇護者と言う貌(かお)も持ち合わせていたため 自身の代では易姓革命を実施したくは なかったのかも知れない
こう言う事情により 建国者は曹操ではなく次代の曹丕が泥を被る事に なったと言う事で あろう

王朝の創始者と言うものは 打ち建てし国が永世に続く事を願うもので あろうが 曹丕は その妄念が夢幻で しか ないものと喝破している
永遠に続く王朝は存在しない と言う事を



2. 出典


この出典は以下の通り
【三國志】 卷二 魏志 文帝紀 第二

撰者 : 西晉(晋)朝 陳壽(寿)

冬十月甲子 表首陽山東爲壽陵 作終制曰

禮 國君即位爲椑 存不忘亡也
昔堯葬穀林通樹之 禹葬會𥡴農不易畝
故葬於山林 則合乎山林
封樹之制 非上古也 吾無取焉
壽陵因山爲體 無爲封樹 無立寢殿造園邑通神道
夫葬也者藏也 欲人之不得見也
骨無痛痒之知 冢非棲神之宅 禮不墓祭 欲存亡之不黷也 爲棺槨足以朽骨 衣衾足以朽肉而已
故吾營此丘墟不食之地 欲使易代之後不知其處
無施葦炭 無藏金銀銅鐵 一以瓦器 合古塗車,芻靈之義
棺但漆際會三過 飯含無以珠玉 無施珠襦,玉匣 諸愚俗所爲也
季孫以璵璠斂 孔子歴級而救之 譬之暴骸中原
宋公厚葬 君子謂華元,樂莒不臣 以爲棄君於惡
漢文帝之不發 霸陵無求也 光武之掘 原陵封樹也
霸陵之完 功在釋之 原陵之掘 罪在明帝
是釋之忠以利君 明帝愛以害親也
忠臣孝子 宜思仲尼,丘明,釋之之言 鑒華元,樂莒,明帝之戒
存於所以安君,定親 使魂靈萬載無危 斯則賢聖之忠孝矣
自古及今 未有不亡之國 亦無不掘之墓也
喪亂以來 漢氏諸陵無不發掘
至乃燒取玉匣金縷 骸骨并盡 是焚如之刑 豈不重痛哉
禍由乎厚葬封樹

桑,霍爲我戒

不亦明乎
其皇后及貴人以下 不隨王之國者 有終沒皆葬澗西 前又以表其處矣
蓋舜葬蒼梧 二妃不從 延陵葬子 遠在嬴,博
魂而有靈無不之也 一澗之閒 不足爲遠
若違今詔 妄有所變改造施 吾爲戮尸地下 戮而重戮 死而重死
臣子爲蔑死君父 不忠不孝 使死者有知 將不福汝
其以此詔藏之宗廟 副在尚書,祕書,三府

往古(いにしえ)より今に至るまで、未(いま)だ滅亡していない国は有り得ず、又盗掘されない墓等存在しない
見事な悟道で ある



3. 所感


この箇所は王朝の命数に ついて述べているのでは なく、墓の副葬品等に ついて曹丕の存念を吐露(とろ)している所で あるが、図(はか)らずも と言うか、副産物として心情が零(こぼ)れ落ちたと言う所で あろう

いや、これ位の割り切りの良さが無ければ、王朝を創始すると言う事は出来ないのかも知れないが、この王朝の命数と墓の薄葬の考え方に ついては、敬服する

そう言えば、曹丕の父 曹操も墓に ついては以下の通り薄葬を是と する考えを持っていたので、父子の念相通じていたと言う事か

斂以時服 無蔵金玉珍宝



4. 関連 URI


参考と なる URI は以下の通り

曹丕 - Wikipedia

公開 : 2014年7月10日
戻る
pagetop