倭の五王は本当に大和朝廷の天皇か

1. 先人達が残した通説


倭の五王に関して、名の ある先人達が知恵を絞って苦労して何とか大和朝廷の天皇家に比定して来たが、もう この(よう)な茶番は終えるべき では無いか?
通説は以下の通りで あるが、客観的に読み返して これで本当に正しいと思うか、今一度考えて見て欲しい
【日本古代国家の研究】 P.35

著者 : 井上 光貞

倭五王のうち、第三以下の倭王、すなわち済・興・武の三人が、それぞれ允恭・安康・雄略の三天皇にあたるであろうことは、ほとんど疑う余地がないであろ(1)
何となれば、宋書に記載されている済の遣使年代は四四三年・四五一年、興のそれは四六〇(2)・四六二年、武は四七七年・四七八年、さらに南斉書に四七九年、梁書に五〇二年とあるが、書紀の紀年によって知られる允恭の在位年代は四一二―四五三年、安康は四五四―四五六年、雄略は四五七―四七九年である。
書紀の紀年によって切られる允恭の在位年代は、四一二―四五三年、安康は四五四―四五六年、雄略は四五七―四七九年である。
書紀の紀年がこの辺でも造作性が濃厚であることと、彼此矛盾するのが皇位の動揺していたと考えられる安康の場合だけであ(3)ことはきわめて注意すべきことである。
またこれら三王の続柄をみると、済は興と武との父であることが知られるが、允恭記のはじめによっても、允恭二年紀においても、允恭は安康と雄略の父となっているから、その系譜関係にも矛盾はないのである。

古代の王家では、親の後を子が嗣(つ)ぎ、若年等に より子が無ければ兄の後を弟が嗣ぐのは一般的に行われていた事で あろう
別に古代に限らず、現代でも常識的に行われている事でも あり、所謂良く ある事で ある
よって、この程度の事で一致している云々と する根拠と するには脆弱に過ぎると言わざるを得ない

それに、矛盾が あれば日本書紀の造作云々と逃げる姿勢は、客観的な学者が取るべき態度では無いと言う他(ほか)無い

要するに、日本側の日本書紀や古事記での記述と中国側の宋書や梁書での記述は一致しないと見るのが客観的な判断と言う事に なる

[前掲書 続き]

さらに倭王済の「済」の字は允恭の御名ヲアサマワクコノスクネ(男浅津間若子宿禰(記)雄朝津間稚子宿禰(紀))の津と同音であり、倭王興の「興」の字音はホンであって安康の御名のアナ(穴穂)のホと同音であり、倭王武の「武」の字は雄略の御名のオホハツセワカタケ丶丶大長谷若建(記)大泊瀬幼武(紀))のタケと同義であるなどと説かれるが、はじめの二つはしばらくおいて、武の名の由来の如きは説得力を有しているのではあるまいか。

この何々で あるから何天皇の事で あると言う訳(わけ)の分からぬ故事付こじつけ論法が書き連(つら)ね られているが、これは上記の井上 光貞が初出(しょしゅつ)と言う事では無く、昔々の偉~い 偉~い学者殿血迷って垂れ流したものを伝統宜しく有り難(がた)~く拝領し奉(たてまつ)って継承して来ているので あろう
これらの真偽是非を明らかに するため、倭の五王の王号と大和朝廷側の天皇の諱(の一部)で関連していると称される用字を以下の様に掲(かか)げて おく
これに より、済字 と 津字 が同音で あるか どうかは非常に明瞭で ある

倭の五王 濟,興,武 と 津,穂 の表音
字音候補 上古音 中古音 中世音 現代音 拼音(ピンイン) 呉音 漢音 万葉仮名
濟(済) [註1] tser(ツェ) tsei(ツェィ) tsiəi(ツィェィ) ts̆i(ツィ) jì(ジー) サイ セイ 該当する表音無し
濟(済) - - - - jǐ(ジィ) サイ セイ -
- tsien(ツィェン) tsiĕn(ツィェン) tsiən(ツィェン) ts̆iən(ツィェン) jī(ジー) シン シン つ(万葉集),づ(万葉集)
[註1] hɪəŋ(ヒィォン) hɪəŋ(ヒィォン) hiəŋ(ヒィォン) s̆iəŋ(シォン) xīng(シン) コウ キョウ こ乙類(万葉集,日本書紀[註2])
- - - - xìng(シン) コウ キョウ -
穗(穂) - -(不明) ziui(ズィゥィ) suəi(スェィ) suəi(スェィ) suì(スイ) ズイ スイ ほ(日本書紀,古事記,万葉集)
- mɪuag-(mɪuo)(ミゥァ-ミゥォ) (mɪuo)-mɪu,mbɪu(ミゥ,ンビゥ) wu(ウ) u(ウ) wǔ(ウゥ) む(日本書紀,古事記,万葉集)

註1:

済字 と 興字 そして後記の 彌(弥)字 は 字音一 と 字音二 の二通りの表音が あるが、これは現代発音の拼音が異なるので一応分けて記載したに過ぎず、現代語発音以外では特に差違は無い
何故現代語で二通り発音が別れたのかは分からないが、地方毎に字音に差違が生じてしまったのか、それとも何かしらの特別な慣用表現でも あって それが残ってしまったのかも知れない

註2:

日本書紀では 興台產靈(こごとむすび)(興台産霊) と言う人名に使用されているので あるが、厳密に言えば コ音 では無く コゴ と言うべきか


先(ま)ずは倭王済と允恭天皇で あるが、済字 と 津字 は拼音まで含めても共通する表音は一箇所たりとも存在しない
これの どこが同音なので あろうか?
頭が おかしいのか? 馬鹿なのか?
良く分からない

そして これを論ずる者が見ないのは不思議で ならないので あるが、どうして允恭天皇は万葉仮名としては該当しない用字を敢えて使用したので あるか?
津字 を用いたければ自らを 倭王津 と名乗れば良いでは ないか!!!
敢えて万葉仮名では()み が存在しない字で もって王号に置き換える必要等 更々無いので ある

これは私に とって不思議で ならないので あるが、幾ら学者に教授に市井研究者の著書群を読んで見ても、何故敢えて 津字 から 済字 に置き換えたのか と言う理由を述べている書は皆無なので ある
一体何故なので あろうか?
本当に良く分からない

次に倭王興と安康天皇で あるが、興字 の ホン は漢語音で あって倭語の訓読(くんよ)み では無い
そして 穂字 の ほ は訓で あって音読(おんよ)み では無い
比較の前提が明らかに違うので ある
どうして一方は音読みで読んで おき、方や もう一方は訓読みで読んで同音で ある等(など)と寝惚(ねぼ)けた事を述べるので あろうか?
しかも、興字 は ホン で 穂字 は ほ で あるから、ホン誰が見ても同音では無い

なお、興字 は正確に表記すると ホン では無く ヒィォン で ある
「似たような ものでは ないか」
と言われるかも知れないが、当時の倭人は万葉仮名を見れば分かるが上代特殊仮名遣として母音を甲類と乙類で厳密に識別していた
一部では更に もう一種(丙類とでも言うべきか?) が あったと言う
現代人は識別不能と なっているのかも知れないが、古代人は これ程 母音を区別する聴力と文化を持っていたので ある
さすれば、ホン と ヒィォン の差違は古代日本人には明確で あったと思われる

そして倭王武で あるが、今度は雄略天皇の 大長谷若建/大泊瀬幼武 の語尾の タケ と同義で ある等と言い始める始末で ある
今までは表音から一字を取って王号と していたとの主張で あったのに、急に字義を云々する様に なったのは何故なので あろうか?
これは私の私見で あるが、諱(いみな) の タケ建字武字 を当てる様に なったのは後世の事で、雄略が在世の時代には 多気 と言った一字音毎に字を当てていたのでは無いかと思う
後世に当てた字義を云々しても詮無い事では無いかと考える

いやはや、どれも これも説得力を一毫(いちごう) たりとも有しているとは思えない程(ほど) の馬鹿馬鹿しさ で ある

[前掲書 続き]

かように年代も、続柄も、御名の一部も彼此一致しているとすれば、三人の倭王と三人の天皇とが同一人であることはほとんど決定的とみなしてよいのである。

済が允恭であるとすれば、その前の珍は、通説の通り、允恭の一つ前の反正にあてるのが妥当であろ(4)
反正の御名はミヅハワケ(水歯別(記)瑞歯別(紀))であるが、ミヅは瑞に通じ、瑞と珍とは同一の意味と説かれている。

年代は必ずしも一致しているとは言い難(がた)いものが ある

稲荷山鉄剣に銘剣されている 獲加多支鹵 大王が雄略天皇で あれば、銘字に ある辛亥の年を仮に 471年と見做(みな)すと この時点では未(ま)だ 倭王興が在世で あると思われるため、倭王武 = 獲加多支鹵大王 = 雄略天皇 説が揺らいでしまう ので ある
倭王武と 獲加多支鹵 大王に ついては以下を参照

獲加多支鹵は倭王武か

なお、続柄は人物を特定する要素としては脆弱で ある事、既記の通りで ある

余り意義は無いが、一応 瑞字 と 珍字 の表音を比べて見ると以下の通りと なる

倭の五王 珍(珎) と 瑞 の表音
字音候補 上古音 中古音 中世音 現代音 拼音 呉音 漢音 万葉仮名
珍(珎) - tɪen(ティェン) ṭɪĕn(ティェン) tʃɪən(チェン) ṭṣən(シェン) zhēn(ヂェン) チン チン 該当する表音無し
- dhiuar(ディゥァ) ʒɪuĕ(ヂィゥェ) ʃɪui(シュィゥイ) ruəi(ルゥイ) ruì(ルイ) ズイ スイ 該当する表音無し

まぁ当然と言えば当然で あるが、両字の表音は大きく異なっている
しかも、学研新漢和大字典 を見るに字義も通じているとは思えず、この人は何を書いているのか全く意味不明で ある
一体全体、瑞字 と 珍字 の意が通じる等と言った事実無根の世迷い事誰が説いているので あろうか?

[前掲書 続き]

次に続柄はどうであるか。
反正は前記允恭の兄とされるが、宋書には珍と済の系譜関係は明示されていない。
従ってこの点でも両者に矛盾はないわけである。
ただ梁書によると、珍にあたる人は弥と記され、済は弥の子となっている。
そこでもし梁書の記事によれば矛盾が生じてくる。
しかし梁書にオリジナルな材料があったかどうかは疑問であ(5)から、私はこれにそれほどこだわらないのである。
さらに年代についてみると、ここには大きな矛盾が生ずる。
何となれば宋書の文帝紀および夷蛮伝をあわせ読むと、珍は四三八年に宋に遣使し、さらに四四三年度の済の遣使以前のいつかにも宋に朝貢しているが、書紀の紀年では反正の在位年代は四〇六年─四一〇年であって、およそ一世代の相違があるからである。
しかしこの矛盾が元来表面的なものであることは、書紀の紀年問題に一度でも親しんだものにはきわめて明らかなことであろう。
要を述べると、そもそも書紀の編者は、上記允恭の崩年と、安康・雄略の在位年代については──正確な知識をもっていたか否かは別として──すなおに編年を試みているが、溯って応神のすぐ前、神功皇后紀では故意に干支二運をきりあげているのであ(6)
従って両者の中間にある応神・仁徳・履中・反正の在位年代と允恭の即位年代においては、この二運分を調整することが必要となり、それぞれの代において故意に造作や在位年数の延長をせざるを得なかったからである。
この点を念頭におけば、反正の在位年代がかなり前に遡らされることは当然のことであり、珍の遣使年次とズレてくるのは必然のことなのである。

こだわらないのでは無く、自説に都合が悪くなるので(こだわ)りたくない、が正しいか

そして紀年の矛盾を表面的なものとは(とら)えられない私は、きっと書紀の紀年に親しんでいない と言う事なので あろう

端的に言えば、井上氏は 日本側史料と中国史書を付き合わせた際に生じる矛盾には目を背けたい と言っているに過ぎない
これは もう史学者の範疇を逾(こ)えてしまって おり、明らかに宗教の輩(ともがら) と化してしまっている

そして これも意義は無いので あるが、一応 珍字 と 彌(弥)字 の比較を行っておく
以下を見るに 珍字 と 彌字 の両字は表音に類似は全く無いが、珍字 の異体字 珎字 の旁(つくり) 尓 が 彌字 の異体字で ある 弥字 にも含まれているため、梁書側の誤記もしくは通字と思われる

倭の五王 珍,彌 の表音
字音候補 上古音 中古音 中世音 現代音 拼音 呉音 漢音 万葉仮名
珍(珎) - tɪen(ティェン) ṭɪĕn(ティェン) tʃɪən(チェン) ṭṣən(シェン) zhēn(ヂェン) チン チン 該当する表音無し
彌(弥) [註1] miĕr(ミェ) miĕ,mbiĕ(ミェ,ンビェ) mi(ミ) mi(ミ) mí(ミイ) み甲類(日本書紀:歌謡,古事記:歌謡,万葉集)
ム(日本書紀)[註3]
び甲類(日本書紀:歌謡)
彌(弥) - - - - mǐ(ミ ィ) -

註3:

韓地名 忱彌多禮(忱弥多礼) として登場するので、正確に言えば万葉仮名として使用されているのでは無い


[前掲書 P.37]

珍が反正とすれば、讃は順序の上では履中となるが、通説では、一代おいて仁徳とみるのがふつうであ(7)
何となれば仁徳の御名、オホサザキ(大雀(記)大鷦鷯(紀))のサザは、持統天皇の御名、鸕野ササにもみられるごとく讃の音に通じているからである。

ザ音 と 讃字 は漢語に おいて何の関連も無い
以下を見る通り、讚(讃)字 および 贊(賛)字 の表音は サン で あって では無く また でも無い

倭の五王 讚 の表音
字音候補 上古音 中古音 中世音 現代音 拼音 呉音 漢音 万葉仮名
讚(讃) - tsan(サン) tsan(サン) tsan(サン) tsan(サン) zán(ツァ゛ン[ヅァン では無く ツァ に濁点の方が近い]) サン サン 該当する表音無し
贊(賛) - tsan(サン) tsan(サン) tsan(サン) tsan(サン) zán(ツァ゛ン) サン サン 該当する表音無し

故(ゆえ)に オホサザキ と倭王讃には何の関連性も見出せない事に なる

[前掲書 続き]

また年代についてみると、讃の遣使年代は、宋書によると四二一年・四二五年・四三〇年であって、さらの晋書の四一三年の遣使もその一つに加えられるかも知れない。
これに対して書紀の仁徳の在位年代は、三一三─三九九年であるが、この矛盾が見掛けだけのことである事は前の反正の場合と同断である。
ただ、仁徳=讃説の致命的な欠陥はその続柄である。
記紀では仁徳と反正とは父子の関係にあるが、宋書によると讃と珍は兄弟にあたるからである。
そこで翻って履中説を取り上げると、履中の御名はイザホワケ(伊耶本和気(記)去来穂別(紀))であったザは讃の字音に通じる上に、履中はたしかに反正の兄であるから、続柄の上では仁徳よりも合理的である。

繰り返すが、ザ音 と 讃字 は漢語に おいて何の関連も無い
倭語では同音が続くと後続音が濁音化する事象が発生する事が あるが、それと漢語には何の関(かか)わり も無い事では ある

[前掲書 続き]

一般にこの履中説を否定する理由は、書紀の仁徳の在位年代が八十七年というような長きにわたるのに履中はわずかに六年であって、宋書の遣使年代から推定される讃の在位年数に比して短きに失するというのにあると考えられる。
しかしこれは、この辺の書紀の紀年が上記の如くあてにならないことと、晋書の四一三年遣使が果たして讃のそれであるかどうか疑わしいことを考えると杞憂にすぎないともみられるのである。
津田左右吉氏も丸山二郎氏も讃は仁徳か履中のいずれかであろうとして判断を保留していられるが、わたしもまたこの説に従っておきたいとおもうのである。

倭の五王に関する記述を通読すれば分かる事で あるが、既記の倭王に よる二回目以降の貢献では倭王号が省略される傾向が あるが、初回時の貢献で あれば その時点での倭国の王が誰で あるのかが必ず分かる様に記載されている
これに ついては再度以下を参照

獲加多支鹵は倭王武か

都合が悪くなると中国側史書を貶(おとし)める が如(ごと)き論述に奔(はし)る のは、宗教に毒された 学者崩れ に屡々(しばしば) 見受けられる通弊で ある

ついでに もう一人、
【古代を考える 雄略天皇とその時代】 P.53

編者: 佐伯 有清

三 武(雄略)の王権と東アジア

三章 執筆 : 鈴木 靖民

比定論を本格的に進めた橋本増吉(一八八〇~一九五六)は、音韻学の成果を利用して、武は雄略すなわちオホハツセワカタケの名「タケ」によったもの、興は安康すなわちアナホのな「ホ」の音、済は允恭すなわちオアサツマワクゴの「サ」の音、珍は反正すなわちミヅハワケの「ヅ」の音にいずれもよったとして、合理的に説明しようとした。
讃については履中すなわちイザホワケの「ザ」を写したか、仁徳すなわちオホサザキの「サ」を写したかどちらかだが、記紀の仁徳・履中の治世時代、年齢をみると、仁徳とする方がよく、讃もサザキの「サ」を写したものとみなし、また珍を讃の弟とする『宋書』の記事をしりぞけた

済字 の呉音は サイ で あるが サ では無いし、珍字 に ヅ音 は存在しない
そして この 鈴木 靖民 なる者も先の井上氏と同じ穴の(むじな) で あるが、自説に都合が悪いので宋書の記述内容を虚偽と して追い()ろう としている意図が読み取れる

三 武(雄略)の王権と東アジア P.54

こうしてみると、目下のところ、武はオホハツセノワカタケ(雄略)、珍はダヂヒノミヅハ(反正)にそれぞれ当ることは確実とみなされるが、讃はホムタワケあるいはホムツワケと称された人物の意訳か、またはイザホワケ(履中)の意訳か、断定できない。
そのうちホムタワケあるいはホムツワケが記紀にいう応神皇統の応神か、仁徳か、さらにはその原型となった存在か、いろいろな可能性があって無理な比定はできない研究状況にあるのである(鈴木靖民『増補 古代国家研究の歩み』)。

自身で書いている内容が抑々(そもそも) 無理な比定で しか無いと言う自覚は無いらしい



4. 比定判定


倭の五王の王号と貢献年から推測される王位在位年、そして五王に比定される大和朝廷側の天皇群の諱と人物比定の根拠および想定される在位年、そして これ等の者達の続柄を一覧表として以下に掲げて見たい

倭の五王 と大和朝廷 天皇群との比定判定
倭王号 漢語中古音 倭王続柄 倭王在位年 比定天皇候補群 比定天皇諡号 比定者諱(諡) 天皇続柄 比定理由 想定在位年 比定判定
讚,贊(讃,賛) tsan(サン) 讃,珍は兄弟 413年(より前か?)~437年 (1) 履中 おほえのいざほわけ[大江之伊邪本和気命(記),大兄去来穂別尊(紀)] 履中,反正は兄弟 ザ は讃の音に通じる 400年?~405年? ザ と讃は別音在位年が違い過ぎる
讚,贊(讃,賛) tsan(サン) 讃,珍は兄弟 413年(より前か?)~437年 (2) 仁徳 おほさざき[大雀命(記),大鷦鷯尊(紀)] 仁徳,反正は父子 サザ は讃の音に通じる 313年?~399年?(紀),395年?~427年?(記) サザ と讃は別音で あり、続柄が異なる
讚,贊(讃,賛) tsan(サン) 讃,珍は兄弟 413年(より前か?)~437年 (3) 応神 ほむたわけ,ほむだわけ,ほむつわけ[誉田別尊(紀),品陀和気命(記),凡牟都和希王(上宮記)] 応神,仁徳は父子 270年?~312年? 比定理由が良く分からないが、続柄が異なる
珍(珎)あるいは彌(弥) ṭɪĕn(ティェン) あるいは miĕ,mbiĕ(ミェ,ンビェ) 讃,珍は兄弟で、弥,済は父子 438年~442年 (1) 仁徳 おほさざき[大雀命(記),大鷦鷯尊(紀)] 応神,仁徳は父子 313年?~399年?(紀),395年?~427年?(記) 比定理由が良く分からないが、続柄が異なる
珍(珎)あるいは彌(弥) ṭɪĕn(ティェン) あるいは miĕ,mbiĕ(ミェ,ンビェ) 讃,珍は兄弟で、弥,済は父子 438年~442年 (2) 反正 多遅比瑞歯別尊(紀)(だぢひのみづはわけ),水歯別命(記)(みづはわけ) 履中,反正,允恭は同母兄弟 ミヅは瑞に通じていて瑞と珍は同義、あるいは ヅは珍の音に近い 406年?~411年? 瑞と珍の字義は異なるし、珍とヅは別音、続柄が異なる
濟(済) tser(ツェ) 弥,済は父子で済,興と済,武も父子 443年~461年 - 允恭 をあさつまわくこのすくね,をあさづまわくごのすくね[男浅津間若子宿禰王(記),雄朝津間稚子宿禰尊(紀)] 仁徳,允恭は父子で履中,反正,允恭は同母兄弟、允恭,安康と允恭,雄略は父子 済と津は同音 412年?~453年? 済と津は別音で在位年が異なり、続柄も異なる
hɪəŋ(ヒィォン) 済,興は父子で興,武は兄弟 462年~477年 (1) 安康 あなほ[穴穂] 允恭,安康は父子で安康,雄略は同母兄弟 454年?~456年? 興と穂は別音在位年が違い過ぎる
hɪəŋ(ヒィォン) 済,興は父子で興,武は兄弟 462年~477年 (2) (木梨軽皇子) きなしのかるのみこ 允恭,木梨軽皇子は父子で木梨軽皇子,安康,雄略は同母兄弟 興と穂は同音 在位せず廃立 比定理由が良く分からないが、在位していないため比定する事自体に無理がある
mɪu,mbɪu(ミゥ,ンビゥ) 済,武は父子で興,武は兄弟 478年~不明 - 雄略 おほはつせわかたけ[大長谷若建(記),大泊瀬幼武(紀)] 允恭,安康は父子で安康,雄略は同母兄弟 武はタケと同義 457年?~479年? 在位年が違い過ぎて噛み合わないので興の世代と見做すが妥当、字義を比定理由とする前例は無い

ここまで読み進めた方々に改めて お聞きしたいので あるが、上記表を見て 讃,珍,済,興,武 の五王と 応神,仁徳,履中,反正,允恭,木梨軽皇子,安康,雄略 の大和朝廷側の皇族達が比定されるべき人物達で あると本当に思えるで あろうか?
余りに倭五王と大和朝廷側に差違が あり過ぎて、これ等を同視するのは滑稽で ある

私には どう見ても、上記より倭の五王と大和朝廷は無関係と見るのが自然な帰結で あろうと思われる
それでも尚 大和朝廷と関連あり と見る立場の人達は、何で あろうと 結論ありき で物事を考える事しか出来ない人達なので あろう

言うなれば この者達は、大和朝廷教とでも言うべき宗教の徒で あると言う他無い

率直に言おう、倭の五王は大和朝廷の天皇では無いので ある

公開 : 2016年6月3日
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