卑弥呼と壱与は神功皇后か

1. 日本書紀に登場する神功皇后を卑弥呼や壱与と同一視する不可思議な説


魏志倭人伝に登場する三世紀に生きた 卑弥呼 が、日本書紀や古事記に登場する 神功皇后 に該当すると主張する人達を見かける

近年では、卑弥呼 ではなく 壱与 が 神功皇后 で あろうと考える人も いるようで ある

さて、これは正しいので あろうか?



2. 日本書紀の記述を検分する


日本書紀の 神功皇后 の巻から、三国志や晋書に関する記述が表れる所を引用しよう
影本画像は国立国会図書館で公開しているものを利用している
【日本書紀】 卷第九 氣長足姬尊 神功皇后

撰者 : 舎人親王 等

卅九年 是年也太歲己未

魏志云

明帝景初三年 六月 倭女王遣大夫難斗米等詣郡 求詣天子朝獻
太守鄧夏 遣吏將送詣京都也

卌年 魏志云

正始元年 遣建忠校尉梯携等 奉詔書印綬 詣倭國也

卌三年 魏志云

正始四年 倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻

卌六年 春 三月 乙亥 朔 遣斯摩宿禰 于卓淳國斯麻宿禰者 不知何姓人也

日本書紀 神功皇后 1

ここは、日本書紀の解説を見よう
【日本書紀】 (二)

校注者 : 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋
岩波文庫

校注者が四人も いて圧巻で あるが、神功紀の校注者は上記の 井上 光貞 が担当している と ある

この解説の P.173 には以下の様に述べられている

百済記は干支を以て年次を示したが、書紀は干支二運をくりあげて配当した。
従って述作部分を除き、干支二運さげれば史実。
まず本年条(上記引用 卌六年を指す)は、成立後間もない百済国とはじめて通じた事情。
年は丙寅、書紀紀年で二四六年、干支二運さげて三六六年のこと。

干支は一周が 60年なので、二運周で あれば 120年と言う事に なる
神功卌六年が書紀紀年 246年で西暦 366年と言う事は、

卅九年 : 書紀紀年 239年 / 景初三年 / 西暦 359年
卌年 : 書紀紀年 240年 / 正始元年 / 西暦 360年
卌三年 : 書紀紀年 243年 / 正始四年 / 西暦 363年


と言う年代値が得られる

何の事は無い、卑弥呼 の時代と 神功皇后 の時代は 120年の差違が あるにもかかわらず、卑弥呼=神功皇后 として同一人物に見做みなしたかった日本書紀の編者は強引に 卑弥呼 の事蹟を 神功皇后 の巻にじ込んだ ので ある

いやはや、余りにも無理を押し通し過ぎでは ある
【日本書紀】 卷第九 氣長足姬尊 神功皇后

六十六年 是年 晉武帝泰初[註]二年 晉起居注云

武帝泰初二年 十月 倭女王遣重譯貢獻

六十九年 夏 四月 辛酉 朔 丁丑 皇太后崩於稚櫻宮時年一百歲
冬 十月 戊午 朔 壬申 葬狹城盾列陵
是日 追尊皇太后 曰氣長足姬尊
是年也 太歲己丑

日本書紀 神功皇后 2

日本書紀 神功皇后 3

註:

泰初 は 泰始の誤か

上記にならうと、以下の通りの年代値が得られる

六十六年 : 書紀紀年 266年 / 泰始二年 / 西暦 386年


しかし、卑弥呼は泰始二年(266年) の時点では既に亡くなって いる!

この時点での倭国女王は壱与で あると思われるが、日本書紀の編者は この矛盾を頬被ほおかむり して逃げっぱな状態で ある

言う までも無い事では あるが、景初正始年間の倭国女王は 卑弥呼 で あって 壱与 では無い

つまり、神功皇后 は 卑弥呼 でも なければ 壱与 でも ないので ある

敢えて言う、これは日本書紀の編者が犯した歴史の捏造なので ある



3. 根本的な疑問


上記を見て、私は根本的な疑問を感じざる を得ない

つまり、

a) 何故 邪馬臺国 の国名表記が隠されている のか


日本書紀は、魏志や晋書を引用して おきながら、女王の居所 邪馬壹(邪馬臺)国の国名を引用していない のか

邪馬臺国 = ヤマト が正しいので あれば、日本書紀の編者は 邪馬臺 の名を堂々と書きしるせば良いので ある
しかし日本書紀の編者は 邪馬臺 の国名を出したく なかったので、敢えて握り潰したので あろう

何故か?
以下で記したが、邪馬臺 は ヤマト とは読めないから で ある

臺字訓 邪馬臺はヤマトと読めるのか

日本書紀の編者は、邪馬臺 の表音は ヤマダイ で あると認識していたため、ヤマトとは何の関係も無い 邪馬臺 の名は絶対に、口が裂けても(いや ここは手指が折られても と称するべきか)、書き記す事は不可能で あったと言う事なので ある


b) 何故 卑弥呼と壱与を神功皇后と同一人物の如く偽装しているのか


これも敢えて言おう、偽装で ある

年代を見る限り、卑弥呼 と 壱与 は三世紀の女王で あり、神功皇后 は四世紀の王后で あるので、明らかに世代が異なる
故に、卑弥呼 と 壱与 の人物比定として 神功皇后 がせられるのは、絶対に あり得ない事なので ある

それでは何故 日本書紀の編者は、卑弥呼 と 神功皇后 を さも同一人物で あるかの様に読者に誤認識を させる様に誘引しているのか?

それは つまり、卑弥呼 と 壱与 は大和朝廷の王族とは何の関係も無い人物で あると言う事を日本書紀の編者は充分に把握して おり、それを隠すために歴史を捏造し人物の偽装をはかったものと考えざるを得ないので ある

なお、歴史学者も今と なっては 神功皇后=卑弥呼,壱与 との図式は支持していない らしい
【古代日本と朝鮮・中国】 P.84

著者 : 直木 孝次郎

書紀編者が神功を卑弥呼ひみこしたらしいのと同様に、卑弥呼の例をもって解釈しようとする人があるかもしれないが、両者の間には百五十年の時差があり、邪馬やまたい九州説をとればなおさら、ない大和やまとせつをとっても、政治的・社会的条件がいちじるしく異なっているから、卑弥呼とは別個に考えなければならない。
神功皇后の実在を認める人びとは、この女帝の孤立的出現をどう説明するのであろうか、私にはほとんど不可能としか思われない。

この人は女王国関西説をりつつも 神功皇后 は架空とする人で あるので私とは見解が異なる事が多いので あるが、神功皇后 と 卑弥呼,壱与 は同一人物では無いと考える点に おいては、確かに同意するもので ある

公開 : 2014年8月21日
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