【日本書紀】 卷第九 氣長足姬尊 神功皇后
撰者 : 舎人親王 等
卅九年 是年也太歲己未
魏志云
明帝景初三年 六月 倭女王遣大夫難斗米等詣郡 求詣天子朝獻
太守鄧夏 遣吏將送詣京都也
卌年 魏志云
正始元年 遣建忠校尉梯携等 奉詔書印綬 詣倭國也
卌三年 魏志云
正始四年 倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻
卌六年 春 三月 乙亥 朔 遣斯摩宿禰 于卓淳國斯麻宿禰者 不知何姓人也

【日本書紀】 (二)校注者が四人も いて圧巻で あるが、神功紀の校注者は上記の 井上 光貞 が担当している と ある
校注者 : 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋
岩波文庫
干支は一周が 60年なので、二運周で あれば 120年と言う事に なる百済記は干支を以て年次を示したが、書紀は干支二運をくりあげて配当した。
従って述作部分を除き、干支二運さげれば史実。
まず本年条(上記引用 卌六年を指す)は、成立後間もない百済国とはじめて通じた事情。
年は丙寅、書紀紀年で二四六年、干支二運さげて三六六年のこと。
卅九年 : 書紀紀年 239年 / 景初三年 / 西暦 359年
卌年 : 書紀紀年 240年 / 正始元年 / 西暦 360年
卌三年 : 書紀紀年 243年 / 正始四年 / 西暦 363年
【日本書紀】 卷第九 氣長足姬尊 神功皇后
六十六年 是年 晉武帝泰初[註]二年 晉起居注云
武帝泰初二年 十月 倭女王遣重譯貢獻
六十九年 夏 四月 辛酉 朔 丁丑 皇太后崩於稚櫻宮時年一百歲
冬 十月 戊午 朔 壬申 葬狹城盾列陵
是日 追尊皇太后 曰氣長足姬尊
是年也 太歲己丑


泰初 は 泰始の誤か
上記に
六十六年 : 書紀紀年 266年 / 泰始二年 / 西暦 386年
a) 何故 邪馬臺国 の国名表記が隠されている のか
日本書紀は、魏志や晋書を引用して おきながら、女王の居所 邪馬壹(邪馬臺)国の国名を引用していない のか
邪馬臺国 = ヤマト が正しいので あれば、日本書紀の編者は 邪馬臺 の名を堂々と書き
しかし日本書紀の編者は 邪馬臺 の国名を出したく なかったので、敢えて握り潰したので あろう
何故か?
以下で記したが、邪馬臺 は ヤマト とは読めないから で ある
臺字訓 邪馬臺はヤマトと読めるのか
日本書紀の編者は、邪馬臺 の表音は ヤマダイ で あると認識していたため、ヤマトとは何の関係も無い 邪馬臺 の名は絶対に、口が裂けても(いや ここは手指が折られても と称するべきか)、書き記す事は不可能で あったと言う事なので ある
b) 何故 卑弥呼と壱与を神功皇后と同一人物の如く偽装しているのか
これも敢えて言おう、偽装で ある
年代を見る限り、卑弥呼 と 壱与 は三世紀の女王で あり、神功皇后 は四世紀の王后で あるので、明らかに世代が異なる
故に、卑弥呼 と 壱与 の人物比定として 神功皇后 が
それでは何故 日本書紀の編者は、卑弥呼 と 神功皇后 を さも同一人物で あるかの様に読者に誤認識を させる様に誘引しているのか?
それは つまり、卑弥呼 と 壱与 は大和朝廷の王族とは何の関係も無い人物で あると言う事を日本書紀の編者は充分に把握して おり、それを隠すために歴史を捏造し人物の偽装を
なお、歴史学者も今と なっては 神功皇后=卑弥呼,壱与 との図式は支持していない らしい
【古代日本と朝鮮・中国】 P.84この人は女王国関西説を
著者 : 直木 孝次郎
書紀編者が神功を
卑弥呼 に擬 したらしいのと同様に、卑弥呼の例をもって解釈しようとする人があるかもしれないが、両者の間には百五十年の時差があり、邪馬 台 九州説をとればなおさら、畿 内 大和 説 をとっても、政治的・社会的条件がいちじるしく異なっているから、卑弥呼とは別個に考えなければならない。
神功皇后の実在を認める人びとは、この女帝の孤立的出現をどう説明するのであろうか、私にはほとんど不可能としか思われない。