卑弥呼に下賜された銅鏡は三角縁神獣鏡か

1. 関西説論者は下賜銅鏡を三角縁神獣鏡に したい らしい


関西説を支持する者達には困った宿痾しゅくあが あるように思える
魏朝 明帝 が下賜を約した銅鏡百枚を 三角縁神獣鏡 とはんじている事で ある

ここで 明帝 と書いたが、通説では 卑弥呼 の魏朝貢献は景初三年と見做みなしているので明帝では無く 少帝 と言う事に なる
しかし、やはり景初二年が正しく景初三年説は誤り で あろう事、以下で触れている

魏は景初二年時点で帯方郡を制圧していた

と言う事で 三角縁神獣鏡 魏朝鋳造説の見解は例えば以下の通り と なっている
【鏡が語る古代史】 P.211

著者 : 岡村 秀典

魏の紀年鏡

二二〇年、曹丕は許で天子の位に即くと同時に、荒廃した洛陽宮の修築をはじめたが、洛陽に都城を本格的に建設することは、次の明帝によって青龍三年(二三五)に着手された。
宇宙になぞらえた太極殿たいきょくでんを新たに建造し、洛陽城全体の大規模な造営がはじまったのである。

この年につくられた方格規矩四神鏡が、京都府大田南おおたみなみ五号墳と大阪府安満宮山古墳(図43下)から出土している。
この二面は同じ型でつくられた鏡で、径一七センチ、「青龍三年、がん作」ではじまる銘文は、環境に通有の七言句である。
顔氏はすう県(山東省、『急就篇きゅうしゅうへん』顔師古注)の豪族で、作鏡者の「顔氏」はその支族であろう。

この鏡で注目すべきは、後漢前期の方格規矩四神鏡(図43上)の文様を忠実に模倣していることである。
宇宙になぞらえた洛陽宮の造営に着手した記念すべき年に、宇宙を象徴する文様の鏡を特に選んで制作したのであろう、
しかし、鈕座の方格は台形にひずみ、四神などの表現は稚拙である。
また、規矩文のL字形が逆向き(正L字形)になり、方格各辺の右側にあるべき四神がそれぞれ左側に位置している。
このような逆転は後漢鏡ではまれであり、二〇〇年ほどさかのぼる後漢鏡を横において鋳型を彫ったために、左右が反対になったのであろう。

この箇所は非常に重大な示唆を含んでいる文章で あるかと感じたが、作文した 岡村氏 は気付いていたで あろうか?
つまり、卑弥呼 朝献の数年前に当たる 235年に おいて、魏朝は東漢鏡の鏡型式を継承した銅鏡を鋳造している と言う事に なる
何故 東漢鏡を模倣したのか?
その理由の一つは氏自身が以下の通り述べている
【鏡が語る古代史】 P.210

二世紀になると、黄河流域から出土する鏡は小型鏡が大半を占め、銅鏡生産は次第に衰退に向かった。
その状況は、大型の画像鏡を作る呉派や淮派、中央の委託を受けて精細な神獣鏡・獣首鏡・八鳳鏡を制作した広漢派とは対照的である。

東漢末に中原は甚大な被害をこうむったので鏡鋳造も衰退したので あろう
それは鋳造数の減少と共に鏡工の流失による鋳造技術の低下を招いた筈で、技術力不足のため既製物の模倣を行わざる を得なかったもの と思う

そして もう一つの理由として、魏朝は前王朝である東漢朝より禅譲された正統な継承王朝で ある事をうたっているので、鏡型式も東漢朝の ものを継承していたもの と考えるのが自然で ある と言う点が挙げられる
少なくとも、王朝交代時に鏡型式を積極的に変更しなければ ならない理由に ついて、私は全く思い浮かばない ので ある。

勿論、暦法の変更(景初暦の採用)と言った変化変更は あったので鏡型式も踏襲し続けなければ ならないいわれ は無い
無い には無いが、235年に方格規矩鏡を鋳造しているのに数年後には三角縁神獣鏡を新たに特鋳する理由も また見出しにくい
それに、倭国への遣使と貢献返礼下賜は魏朝に おける国家事業なので、前例や流通実績が皆無の 三角縁神獣鏡 を下賜する事は よも あるまい
当時 民間では神獣鏡が流布され始めていたのかも知れないが、それは あくまで民生用(民間用途)で あり、魏朝が正式に国家間で下賜に用いる物品として認めていたと言う事では無い
洛陽の尚方も外交行事に使用する銅鏡と なれば国家として相応しい鏡型式の物を鋳造するものと思われるし、国家事業で あれば尚方以外の製造拠点で鋳造された民間製造鏡を国家が買い上げて外国に下賜する と言う事態は どうにも考えにくい ので ある

東漢朝代に鋳造された 方格規矩鏡内行花文鏡 は日本で多数出土しているので充分な流通実績が あり、魏朝としては返礼下賜のために鋳造する銅鏡では この いずれか の鏡型式を採用するのが自然な流れ で あった かと思うので あるが、いかがで あろうか

(続く)

公開 : 2018年12月27日
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