説相攻撃状 三国志中から 相攻撃 の用例を全て抽(ぬ)き出す

1. 卑弥呼が殺害されたのか どうか を検証する


本考察の目的は 三国志 魏志 倭人伝 に ある 説相攻撃状 の句を読解するための資(し)と する事に ある

具体的には、三国志中から 相攻撃 の用例を全て抽き出し、以下の形態として(とら)える事と する

人物,勢力A_人物,勢力B_相攻撃_勝敗結果C


勿論 各々(おのおの)の文面では勝敗の結果が書き記されていない(とう)に より上記の形態の通りとは なって いない箇所も あるが、文脈から適宜 補うものと する

この調査により、この 相攻撃 の句形が どの(よう)な意で使用されているのかを明らかに して行く

尚、この調査結果は、以下に反映している
女王国は狗奴国に敗れたのか



2. 相攻撃 の事例


では具体的に、相攻撃 と言う語を抽き出して行く
確認すると この語が ある箇所は全部で 10箇所あり、以下の通りで ある

なお、若(も)し(ほか)にも記述箇所が あって私の確認漏れ等あれば ご一報いただきたい


1) 相攻擊連月 死者萬數

【三國志】 卷六 魏志 董二袁劉傳 第六 董卓傳

諸將爭權 遂殺稠 幷其衆
汜與傕轉相疑 戰鬭長安中
傕質天子於營 燒宮殿城門 略官寺
盡收乘輿服御物 置其家
傕使公卿詣汜請和 汜皆執之
相攻擊連月 死者萬數

李傕と郭汜は長安城内で市街戦を行い、月が変わっても続き、死者は 1万人を数えた
ここで言う死者は、兵の戦死だけでは なく市街戦で巻き添えに遭って殺害された官吏や民衆を含む値で あろう
どうやら、長安城内での市街戦は勝敗が決しなかった様で ある


2) 進屯屬國 與胡相攻擊五六年

【三國志】 卷八 魏志 二公孫陶四張傳 第八 公孫瓚傳

公孫瓚 字伯珪 遼西令支人也
爲郡門下書佐
有姿儀 大音聲 侯太守器之 以女妻焉
遣詣涿郡盧植 讀經
後復爲郡吏
劉太守坐事 徵詣廷尉
瓚爲御車 身執徒養
及劉徙日南 瓚具米肉於北芒上 祭先人
舉觴祝曰

昔爲人子 今爲人臣 當詣日南
日南瘴氣 或恐不還
與先人辭於此

再拜慷慨而起
時見者莫不歔欷
劉道得赦還
瓚以孝廉爲郎 除遼東屬國長史
嘗從數十騎 出行塞 見鮮卑數百騎
瓚乃退入空亭中
約其從騎曰

今不衝之 則死盡矣

瓚乃自持矛 兩頭施刃 馳出刺胡 殺傷數十人
亦亡其從騎半 遂得免
鮮卑懲艾 後不敢復入塞
遷爲涿令
光和中 涼州賊起
發幽州突騎三千人 假瓚都督行事傳 使將之
軍到薊中
漁陽張純 誘遼西烏丸丘力居等叛 劫略薊中 自號將軍
略吏民 攻右北平遼西屬國諸城 所至殘破
瓚將所領追討純等 有功
遷騎都尉
屬國烏丸貪至王 率種人詣瓚降
遷中郎將 封都亭侯
進屯屬國 與胡相攻擊五六年
丘力居等鈔畧靑,徐,幽,冀
四州被其害 瓚不能禦

公孫 瓚 は烏丸? に侵入して駐屯し(た事も あり)、烏丸? と 5,6年も戦い続けたと言う
烏丸? の 丘力居 等は青州,徐州,幽州,冀州 の四州に侵掠して略奪を行い被害が続いたが、公孫瓚は侵入を阻止出来なかった

公孫 瓚は防戦失敗と判断されて いるが、戦闘に敗れたと言う事では無い
この判定は公孫 瓚から すれば酷かも知れない
5~6年も対峙し、勝敗は決しなかったと言う事で あろう


次の 3) と 4) は同じ伝で、相攻撃 が二回表れる


3) 兄弟還相攻擊 是敗亡之道也

【三國志】 卷十一 魏志 袁張涼國田王邴管傳 第十一 王脩傳

袁譚在靑州 辟脩爲治中從事
別駕劉獻 數毀短脩
後獻以事當死 脩理之得免
時人 益以此多焉
袁紹又辟脩 除卽墨令
後復爲譚別駕
紹死 譚,尚有隙
尚攻譚 譚軍敗
脩率吏民往救譚
譚喜曰

成吾軍者 王別駕也

譚之敗 劉詢起兵漯陰 諸城皆應
譚歎息曰

今舉州背叛 豈孤之不德邪

脩曰

東萊太守管統雖在海表 此人不反
必來

後十餘日 統果棄其妻子來赴譚 妻子爲賊所殺
譚更以統爲樂安太守
譚復欲攻尚 脩諫曰

兄弟還相攻擊 是敗亡之道也

譚不悅 然知其志節
後又問脩

計安出

脩曰

夫兄弟者 左右手也
譬人將鬭而斷其右手而曰

我必勝

若是者可乎 夫棄兄弟而不親 天下其誰親之
屬有讒人 固將交鬭其間 以求一朝之利
願明使君 塞耳勿聽也
若斬佞臣數人 復相親睦以禦四方 可以橫行天下

袁紹亡き後、その子達の袁譚(兄)と袁尚(弟)の兄弟が仲違(たが)いと なった
俗に言う、御家騒動を演じて しまって いる
袁尚は袁譚を襲撃し、袁譚は戦闘でに敗退した
袁譚は袁尚に報復を望むが、王脩が諌(いさ)めた
兄弟で攻撃しあって いれば、滅亡への道を進む事に なる、と

この箇所は戦闘を繰り返す前の仮定の話で あり、結果も又仮定で ある
結末は予言通りでは あったが


4) 遂與尚相攻擊 請救於太祖

【三國志】 卷十一 魏志 袁張涼國田王邴管傳 第十一 王脩傳

譚不聽 遂與尚相攻擊 請救於太祖
太祖既破冀州 譚又叛
太祖遂引軍攻譚于南皮
脩時運糧在樂安 聞譚急 將所領兵及諸從事數十人 往赴譚
至高密 聞譚死 下馬號哭曰

無君 焉歸

遂詣太祖 乞收葬譚屍
太祖欲觀脩意 默然不應
脩復曰

受袁氏厚恩
若得收斂譚屍 然後就戮 無所恨

太祖嘉其義 聽之
以脩爲督軍糧 還樂安
譚之破 諸城皆服
唯管統以樂安 不從命
太祖命脩取統首
脩以統亡國之忠臣 因解其縛 使詣太祖
太祖悅而赦之
袁氏政寬 在職勢者多畜聚
太祖破鄴 籍沒審配等家財物貲 以萬數
及破南皮 閱脩家 穀不滿十斛 有書數百卷
太祖歎曰

士 不妄有名

乃禮辟爲司空掾 行司金中郎將 遷魏郡太守
爲治 抑彊扶弱 明賞罰 百姓稱之
魏國既建 爲大司農郎中令
太祖議行肉刑 脩以爲時未可行 太祖採其議
徙爲奉尚
其後 嚴才反與其徒屬數十人攻掖門
脩聞變 召車馬未至 便將官屬 步至宮門
太祖在銅爵臺望見之曰

彼來者 必王叔治也

相國鍾繇謂脩

舊京城有變 九卿各居其府

脩曰

食其祿 焉避其離 居府 雖舊 非赴難之義

頃之 病卒官
子忠 官至東萊太守 散騎常侍
初 脩識高柔于弱冠 異王基于幼童
終皆遠至 世稱其知人

しかしながら袁譚は王脩の諌言を聴かず、再び袁尚と戦火を交(まじ)え、骨肉の争いを続けた
袁譚は曹操に救援を求めたが、後に袁譚は曹操に叛いたので、曹操に誅されたと言う事で ある

勝敗が決して いたのかは不明で あるが、袁譚は曹操に救援を求めて いるので、袁譚の方が不利で あったの かも知れない


5) 武威顏俊 張掖和鸞 酒泉黃華 西平麴演等 並舉郡反 自號將軍 更相攻擊

【三國志】 卷十五 魏志 劉司馬梁張溫賈傳 第十五 張既傳

是時 武威顏俊 張掖和鸞 酒泉黃華 西平麴演等 並舉郡反 自號將軍 更相攻擊
俊遣使送母及子詣太祖爲質 求助
太祖問既 既曰

俊等 外假國威 內生傲悖
計定勢足 後卽反耳
今方事定蜀 且宜兩存而鬭之
猶卞莊子之刺虎 坐收其斃也

太祖曰


歲餘 鸞遂殺俊 武威王祕又殺鸞
是時不置涼州 自三輔拒西域皆屬雍州
文帝卽王位 初置涼州 以安定太守鄒岐爲刺史
張掖張進 執郡守舉兵拒岐
黃華 麴演各逐故太守 舉兵以應之
既進兵爲護羌校尉蘇則 聲勢
故則得以有功
既進爵都鄉侯
涼州盧水胡伊健妓妾 治元多等反 河西大擾
帝憂之 曰

非既莫能安涼州

乃召鄒岐 以既代之
詔曰

昔賈復請擊郾賊
光武笑曰

執金吾擊郾 吾復何憂

卿謀略過人 今則其時
以便宜從事 勿復先請

遣護軍夏侯儒 將軍費曜等 繼其後
既至金城 欲渡河 諸將守以爲

兵少道險 未可深入

既曰

道雖險 非井陘之隘
夷狄烏合 無左車之計
今武威危急 赴之宜速

遂渡河
賊七千餘騎逆拒軍於鸇陰口
既揚聲軍由鸇陰 乃潛由且次出至武威
胡以爲神 引還顯美
既已據武威 曜乃至 儒等猶未達
既勞賜將士 欲進軍擊胡
諸將皆曰

士卒疲倦 虜衆氣銳 難與爭鋒

既曰

今軍無見糧 當因敵爲資
若虜見兵合退依深山 追之則道險窮餓
兵還 則出候寇鈔
如此 兵不得解 所謂

一日縱敵 患在數世


遂前軍顯美
胡騎數千 因大風欲放火燒營 將士皆恐
既夜藏精卒三千人爲伏
使參軍成公英督千餘騎挑戰 敕使陽退
胡果爭奔之 因發伏截其後 首尾進擊 大破之
斬首獲生以萬數
帝甚悅 詔曰

卿踰河歷險 以勞擊逸 以寡勝衆
功過南仲 勤踰吉甫
此勳非但破胡 乃永寧河右
使吾長無西顧之念矣

徙封西鄉侯 增邑二百 幷前四百戶

涼州 武威 の 顏俊 に 張掖 の 和鸞、酒泉 の 黃華 や 西平 の 麴演 等は、それぞれが郡を掌握し自立して将軍と自称し、互いに戦闘に及んだ
顔俊は母子を人質として曹操に差し出し、救援を求めた
曹操は(対応を)張既に尋ねたので、張既が答えた

嘗(かつ)て卞莊子(ベンソウシ)が二匹の虎を殺す際に二虎競食させ、傷付きながらも生き残った方に止(とど)めを刺し、簡単に両虎を始末した
この故事に則(のっと)り、今は蜀の平定を図り、涼州は互いに共食い させるべし

曹操は言った、上策で ある

ここは各勢力入り乱れての乱戦と言う事で あろう
当然の事ながら、勝敗等付く訳が無い


次は東夷伝で ある
ここは東夷諸国が まとめて書かれている章なので、相攻撃 の語が多数出て来ている


6) 後數與軻比能更相攻擊

【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 鮮卑傳

鮮卑 歩度根既立
衆稍衰弱 中兄扶羅韓 亦別擁衆數萬爲大人
建安中 太祖定幽州 歩度根與軻比能等 因烏丸校尉閻柔 上貢獻
後代郡烏丸能臣氐等叛 求屬扶羅韓 扶羅韓將萬餘騎迎之
到桑乾 氏(氐か?)等議 以爲扶羅韓部威禁寬緩 恐不見濟 更遣人呼軻比能
比能卽將萬餘騎到 當共盟誓
比能便於會上殺扶羅韓 扶羅韓子泄歸泥及部衆 悉屬比能
比能自以殺歸泥父 特又善遇之
歩度根由是怨比能
文帝踐阼 田豫爲烏丸校尉 持節幷護鮮卑 屯昌平
歩度根遣使獻馬 帝拜爲王
後數與軻比能更相攻擊 歩度根部衆稍寡弱 將其衆萬餘落 保太原,鴈門郡
歩度根乃使人招呼泄歸泥曰

汝父爲比能所殺 不念報仇 反屬怨家
今雖厚待汝 是欲殺汝計也
不如還我 我與汝是骨肉至親 豈與仇等

由是歸泥 將其部落逃歸歩度根 比能追之弗及
至黃初五年 歩度根詣闕貢獻 厚加賞賜
是後一心守邊 不爲寇害 而軻比能衆遂彊盛
明帝卽位 務欲綏和戎狄 以息征伐 羈縻兩部而已
至靑龍元年 比能誘歩度根深結和親
於是歩度根 將泄歸泥及部衆悉 保比能 寇鈔幷州 殺略吏民
帝遣驍騎將軍秦朗征之 歸泥叛比能 將其部衆降 拜歸義王 賜幢麾,曲蓋,鼓吹 居幷州如故
歩度根爲比能所殺

鮮卑の(族長とでも言うべきか) 歩度根 には兄弟と思われる 扶羅韓 と言う者が いた
氐と言うもの(部族名か氏族名か?) が所属を頼りない扶羅韓から 鮮卑 大人 として推戴されていた 軻比能 に代えたいと考えると、軻比能は扶羅韓を殺害した
扶羅韓の子 泄帰泥 と氐の者達は軻比能に所属する事に なった
歩度根は(甥の)泄帰泥が軻比能に従属している(従属させられている) 事を怨んでいたが、魏 文帝より王に封(ほう)ぜられ、その後 軻比能と戦火を交えた
軻比能との戦闘を繰り返し、歩度根は弱体化して行った
歩度根は軻比能に殺された

数(しばしば) や 更(こもごも)と あるので、歩度根と軻比能は血みどろの戦闘状態を継続したと言う事で あろう
結果的に勝者は軻比能と なった訳で あるが、各戦闘の勝敗までは不明で ある


7) 後與東部鮮卑大人素利及歩度根三部爭鬭 更相攻擊

【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 鮮卑傳

軻比能本小種鮮卑
以勇健 斷法平端 不貪財物 衆推以爲大人
部落近塞 自袁紹據河北 中國人多亡叛歸之 教作兵器鎧楯 頗學文字
故其勒御部衆 擬則中國 出入弋獵 建立旌麾 以鼓節爲進退
建安中 因閻柔上貢獻
太祖西征關中 田銀反河間 比能將三千餘騎隨柔擊破銀
後代郡烏丸反 比能復助爲寇害 太祖以鄢陵侯彰爲驍騎將軍 北征 大破之
比能走出塞 後復通貢獻
延康初 比能遣使獻馬 文帝亦立比能爲附義王
黃初二年 比能出諸魏人在鮮卑者五百餘家 還居代郡
明年 比能帥部落大人小子代郡烏丸修武盧等三千餘騎 驅牛馬七萬餘口交市 遣魏人千餘家居上谷
後與東部鮮卑大人素利及歩度根三部爭鬭 更相攻擊
田豫和合 使不得相侵
五年 比能復擊素利 豫帥輕騎徑進 掎其後
比能使別小帥瑣奴拒豫
豫進討 破走之 由是懷貳
乃與輔國將軍鮮于輔 書曰

夷狄不識文字 故校尉閻柔 保我於天子
我與素利爲讐 往年攻擊之 而田校尉助素利
我臨陳使瑣奴往 聞使君來 卽便引軍退
歩度根數數鈔盜 又殺我弟 而誣我以鈔盜
我夷狄雖不知禮義 兄弟子孫受天子印綬 牛馬尚知美水草 況我有人心邪 將軍當保明我於天子

輔得書以聞 帝復使豫招納安慰
比能衆遂彊盛 控弦十餘萬騎
每鈔略得財物 均平分付 一決目前 終無所私 故得衆死力 餘部大人皆敬憚之 然猶未能及檀石槐也

軻比能は鮮卑東部の大人 素利や歩度根の三部(三部落か? それとも三部隊か)と互いに勢力を争ったと言う事で ある
烏丸校尉 田豫 は三者の勢力闘争を仲介しようと したが、軻比能は素利を撃破した
軻比能と歩度根の闘争は既述なので、これ以上は触れない

軻比能は 輔国将軍 鮮于 輔 に文書で訴えた

我と素利は讐敵で あるため何年も素利と戦って来たが、田豫 校尉 は素利を支援した
歩度根は度々我等の土地に侵入して略奪し、我が弟を殺した
鮮于 将軍よ、我等の主張を魏朝天子に取り次いで いただきたい


乱戦模様に見受けられるが、とても勝敗どころでは 無い様である


8) 素利與比能更相攻擊

【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 鮮卑傳

素利,彌加,厥機皆爲大人 在遼西,右北平,漁陽塞外 道遠初不爲邊患 然其種衆多於比能
建安中 因閻柔上貢獻 通市 太祖皆表寵以爲王
厥機死 又立其子沙末汗爲親漢王
延康初 又各遣使獻馬
文帝立素利,彌加爲歸義王
素利與比能更相攻擊
太和二年 素利死
子小 以弟成律歸爲王 代攝其衆

文帝(曹丕)は素利と彌加を帰義王に封じた
素利は軻比能と勢力闘争を続けていたが、太和二年(228) に死んだ

素利が死んだ事は分かるが、敗死したかどうかは不明で ある


9) 於是將士形勢自倍 乃渡江立屯 與相攻擊 曹仁退走 遂據南郡 撫定荊州

【三國志】 卷五十四 吳志 周瑜魯肅呂蒙傳 第九 呂蒙傳

是歲 又與周瑜程普等 西破曹公於烏林 圍曹仁於南郡
益州將襲肅 舉軍來附 瑜表以肅兵益蒙
蒙盛稱肅 有膽用 且慕化遠來 於義宜益 不宜奪也
權善其言 還肅兵
瑜使甘寧 前據夷陵 曹仁分衆攻寧 寧困急 使使請救
諸將 以兵少 不足分
蒙謂瑜普曰

留淩公績 蒙與君行
解圍 釋急 勢亦不久
蒙保 公績能十日守也

又說瑜 分遣三百人柴斷險道 賊走可得其馬
瑜從之
軍到夷陵 卽日交戰 所殺過半
敵夜遁去 行遇柴道 騎皆舍馬步走
兵追蹙擊 獲馬三百匹 方船載還
於是將士形勢自倍 乃渡江立屯 與相攻擊 曹仁退走 遂據南郡 撫定荊州
還拜偏將軍 領尋陽令

魏の曹仁と呉の呂蒙が夷陵で戦闘と なり、曹仁は敗れて夜に戦場を離脱した
呉は曹仁を追撃し、魏軍の騎兵が乗り捨てた軍馬を三百頭 鹵獲(ろかく)した
呉は長江を渡って陣を設(もう)け、そこで曹仁と再度衝突したが、曹仁は敗走したので、斯(か)くして南郡を制圧し、刑州を平定した

この箇所は他の箇所と違い、相攻撃 の後に勝敗が書かれている希少な事例で ある
ここ以外での記述は 相攻撃 の勝敗結果が示されて おらず、勝者敗者の識別が明らかでは無かった

してみると、相攻撃 と言うのは戦闘状態を表す語では あるが、その後に結果が書かれて いれば勝敗が決したと言う事に なる
当然の事ながら、相攻撃 の結果が記されていないので あれば、それは勝敗が決しなかったと言う事に なると判断して良いで あろう

長々と原文を掲示して来たが これが 10箇所の最後、女王国と狗奴国が戦火を交えている場面で ある


10) 説相攻擊狀

【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳

其八年 太守王頎到官
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻擊
遣塞曹掾史張政等 因齎詔書,黄憧 拜假難升米爲檄告喻之
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
復立卑彌呼宗女壹與 年十三爲王 國中遂定

上記 1) から 9) の引用箇所から見て、ここは、狗奴国から攻め込んで来たり逆に狗奴国に攻め込んだり している状況、と(かい)するのが正しい

女王国が狗奴国から一方的に攻撃されているのでは なく、逆に女王国から狗奴国に攻勢を かけた事も ある、と書いているので ある
結果が記されて いないので、両国間の戦火は乱戦若(も)しくは混戦と なり、勝敗が付かなかったと言う事で あろう
また、期間も示されては いないので、5年~6年と言った長期間の戦争状態では ない様に思える
恐らくは数ヶ月間程度で終息したのでは無いか

戦闘の状況を意訳すると、戦況は一進一退し膠着状態、つまり千日手の手詰まり状況に陥ったと言う事で あろうか

つまり、女王国は狗奴国に敗れていない ので ある

公開 : 2014年6月29日
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