【三國志】 卷三 魏志 明帝紀 第三これ、本気で議論した上で反対しているので あろうか
初帝議 遣宣王討淵發卒四萬人 議臣皆以爲四萬兵多 役費難供
帝曰
四千里征伐 雖云用奇亦當任力 不當稍計役費
遂以四萬人行
及宣王至遼東 霖雨不得時攻 羣臣或以爲淵未可卒破 宜詔宣王還
帝曰
司馬懿臨危制變 擒淵可計日待也
卒皆如所策
【三國志】 卷三 魏志 明帝紀 第三
(景初元年)(237年)遣幽州刺史毌丘儉率諸軍及鮮卑,烏丸屯遼東南界 璽書徵公孫淵
淵發兵反 儉進軍討之 會連雨十日 遼水大漲 詔儉引軍還
【三國志】 卷八 魏志 二公孫陶四張傳 第八 公孫度傳しかし ながら、私から見れば これは単なる敗戦の糊塗(こと)、責任転嫁で あろう
景初元年 乃遣幽州刺史毌丘儉等 齎璽書徵淵
淵遂發兵逆於遼隧 與儉等戰 儉等不利而還
【三國志】 卷二十二 魏志 桓二陳徐衞盧傳 第二十二 衞臻傳衛臻、仲々(なかなか)に酷いな…
幽州刺史毌丘儉 上疏曰
陛下卽位已來未有可書
吳蜀恃險 未可卒平
聊可以此方無用之士 克定遼東
臻曰
儉所陳 皆戰國細術 非王者之事也
吳頻歲稱兵寇亂邊境而猶案甲養士 未果尋致討者 誠以百姓疲勞故也
且淵生長海表相承三世 外撫戎夷 內脩戰射
而儉欲以偏軍長驅 朝至夕卷 知其妄矣
儉行軍遂不利
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 韓傳この果断な判断力と行動力は大したものと評するべきで あろう
景初中 明帝密遣帶方太守劉昕,樂浪太守鮮于嗣 越海定二郡
【晉書】 卷一 帝紀第一 宣帝司馬 懿が長安から洛陽に徴(ちょう)されたのが青龍四年(236年)で ある様に見えて しまう
(青龍)四年 獲白鹿獻之
天子曰
昔周公旦輔成王 有素雉之貢
今君受陝西之任 有白鹿之獻 豈非忠誠協符 千載同契 俾乂邦家 以永厥休邪
及遼東太守公孫文懿(淵)反 徵帝詣京師
【三國志】 卷三 魏志 明帝紀 第三景初元年、恐らく七月に黄海渡洋船を建艦させている事が分かる
(景初元年)(秋七月?)詔靑,兗,幽,冀四州大作海船
【晉書】 卷一 帝紀第一 宣帝明帝は自身親征した経験も あり、戦(いくさ)と言うものを とても良く分かっている
(青龍四年)天子曰
此不足以勞君 事欲必克 故以相煩耳
君度其作何計
對曰
棄城預走 上計也
據遼水以距大軍 次計也
坐守襄平 此成擒耳
天子曰
其計將安出
對曰
惟明者能深度彼己 豫有所棄 此非其所及也
今懸軍遠征 將謂不能持久 必先距遼水而後守 此中下計也
天子曰
往還幾時
對曰
往百日 還百日 攻百日 以六十日爲休息 一年足矣
【史記】 卷九十二 列傳 淮陰侯列傳 第三十二
項王亡將鐘離眛家在伊廬 素與信善
項王死後 亡歸信
漢王怨眛 聞其在楚 詔楚捕眛
信初之國 行縣邑 陳兵出入
漢六年 人有上書告楚王信反
高帝以陳平計 天子巡狩會諸侯 南方有雲夢 發使告諸侯會陳
吾將游雲夢
實欲襲信 信弗知
高祖且至楚 信欲發兵反 自度無罪 欲謁上 恐見禽
人或說信曰
斬眛謁上 上必喜 無患
信見眛計事
眛曰
漢所以不擊取楚 以眛在公所
若欲捕我以自媚於漢 吾今日死 公亦隨手亡矣
乃罵信曰
公非長者
卒自剄
信持其首 謁高祖於陳
上令武士縛信 載後車
信曰
果若人言
狡兔死 良狗亨
高鳥盡 良弓藏
敵國破 謀臣亡
天下已定 我固當亨
上曰
人告公反
遂械系信
至雒陽 赦信罪 以爲淮陰侯
韓信は 鐘離 眛 の首を持って陳で高祖 劉邦に拝謁したここで言う、昔の人とは、以下の人物を指す
高祖は衛兵に韓信を捕縛させ、後車(後方の非武装輸送車の意か)に乗せた
韓信は後悔して言った
果たして昔の人の言った通りで あった
逃げるに巧みな兎を狩り取ると、役に立った猟犬は煮(亨=烹)殺されて食される
高い空を飛ぶ鳥を射尽くすと、優れた弓は蔵に納められる
敵国が滅ぶと、謀臣は粛正される
天下は既に定まり、自分も煮殺されると言う事か
高祖は言う
或(あ)る者が密告した、貴公が謀反に及んだと
斯(か)くて韓信に枷を嵌(は)め縄に繋(系=縣)いた
【史記】 卷四十一 世家 越王句踐世家 第十一
范蠡遂去 自齊遺大夫種書曰
蜚鳥盡 良弓藏
狡兔死 走狗烹
越王爲人長頸鳥喙 可與共患難 不可與共樂
子何不去
種見書 稱病不朝
人或讒種且作亂 越王乃賜種劍曰
子教寡人伐吳七術 寡人用其三而敗吳
其四在子 子爲我從先王試之
種遂自殺
范蠡 斯くて越を去り、斉より越 大夫 文種に書で伝えたと言う事で、司馬 懿は身の保全を兼ねて、遼東経略に乗り出す事と なったので あろう
空を飛ぶ鳥が尽きると、優れた弓は蔵に押し込められる
文種は書を見て、病称して出仕しない様に なった
逃げるに巧みな兎を狩り取ると、良く働いた猟犬は煮殺されて食される
越王 句践 の容貌は首が長く鴉(からす)の嘴(くちばし) を思わせ、凶相と されている容姿を しており、共に艱難 難局を乗り越える事は出来るが、治世栄光を共に過ごす事は困難で あろう
あなたは何故逃げないのか?
文種が挙兵を企んでいると讒言する者が あり、句践は文種に剣を下賜(=伏剣自決の意、首に剣を当てて前のめりに倒れさせて自殺せしめる)して言った
大夫は私に呉を討つための術策 七条を教え、私は 三条まで採用して呉を破った
文種は斯くて剣に伏(ふ)して自決した
死地を脱したくば、まだ四条は残っているので ここで用いよ、先王聖人の道に則(のっと)り我に試すが宜(よろ)しかろう
【三國志】 卷三 魏志 明帝紀 第三註1:
二年 春正月 詔太尉司馬宣王帥衆討遼東
干竇[註1]晉紀曰
帝問宣王
度淵將何計以待君
宣王對曰
淵棄城預走 上計也
據遼水拒大軍 其次也
坐守襄平 此爲成禽耳
帝曰
然則三者何出
對曰
唯明智審量彼我 乃預有所割棄 此旣非淵所及
又謂今往縣遠不能持久 必先拒遼水 後守也
帝曰
往還幾日
對曰
往百日 攻百日 還百日 以六十日爲休息 如此 一年足矣
魏名臣奏載散騎常侍何曾表曰
臣聞先王制法 必於全愼
故建官授任 則置假輔 陳師命將 則立監貳 宣命遣使 則設介副 臨敵交刃 則參御右 蓋以盡謀思之功 防安危之變也
是以在險當難 則權足相濟 隕缺不預 則手足相代 其爲固防 至深至遠
及至漢氏 亦循舊章 韓信伐趙 張耳爲貳 馬援討越 劉隆副軍
前世之迹 著在篇志
今懿奉辭誅罪步騎數萬 道路迴阻四千餘里 雖假天威有征無戰寇或潛遁 消散日月
命無常期 人非金石 遠慮詳備 誠宜有副
今北邊諸將及懿所督 皆爲僚屬 名位不殊 素無定分 卒有變急 不相鎮攝
存不忘亡 聖達所戒
宜選大臣名將威重宿著者 盛其禮秩 遣詣懿軍 進同謀略 退爲副佐
雖有萬一不虞之災 軍主有儲 則無患矣
毌丘儉志記云 時以儉爲宣王副也
竇字 は 寶字 の誤か
散騎常侍 何曽 上表して述べる魏朝諸官は 司馬 懿 に軍功を独占される事を快(こころよ)く思って いないので あろう
司馬 懿 は軍命を受けて謀叛を誅伐するべく歩騎数万を擁し、道路は険阻にして距離四千余里、天朝の武威を仮託されて征戦して敵が行方を眩(くら)まして伏遁走し不戦に終わって しまったと しても、月日は経過するものです
こうして 毌丘 倹 が 司馬 懿 の副将に抜擢されたので ある
人は石や金属では ないため命は有限で あり、不慮の事に備えて副将を任命するべきでしょう
北辺の諸将(幽州の州軍か、東夷の援軍か)と 司馬 懿 の麾下の者は、皆 同僚の属将で あるため軍内の序列に差違が無く、又統帥権の委譲代行を定めて いなかったため、俄(にわ)かに急変が発生した場合、軍令を執る者が定まり ません
存命中に病気事故の事態を留意する事は、聖人達人の戒(いまし)むる所でしょう
大臣名将の重鎮宿老を選び、位階と禄高(ろくだか)を高くして 司馬 懿 に同行させ、軍を進めるに当たっては策戦軍略に参加させ、戦後処理に当たっては軍政事務の支援を行わせるのが良いでしょう
万一災禍が生じても、統帥系統に備えが あれば軍旅に 患いは ありません
【晉書】 卷一 帝紀第一 宣帝
(青龍四年)天子曰
此不足以勞君 事欲必克 故以相煩耳
君度其作何計
對曰
棄城預走 上計也
據遼水以距大軍 次計也
坐守襄平 此成擒耳
天子曰
其計將安出
對曰
惟明者能深度彼己 豫有所棄 此非其所及也
今懸軍遠征 將謂不能持久 必先距遼水而後守 此中下計也
天子曰
往還幾時
對曰
往百日 還百日 攻百日 以六十日爲休息 一年足矣
明帝言う、魏朝は他の二朝と比べて、とても恵まれている
これは貴卿が出馬するに足る出兵では無いが、必ず勝たねば ならないので、貴卿を煩(わずら)わせる事と なった
司馬 懿 答えて言う、
貴卿ならば如何(いか)なる軍略を図(はか)るか
預(あず)けられた城を放棄して奥地に脱出し、焦土戦を図るが上策
明帝言う、
遼水に沿って軍を展開し、大軍の渡河を妨害牽制するのが次策
時間を空費するまま襄平城に籠城して しまうと、俘虜と なるだけ
公孫 淵の出方を案ずるに、孰(いず)れ の計略を採るで あろうか
司馬 懿 答えて言う、
賢明なる者で あれば彼我の状況を充分に比べ考え、本拠 襄平を放棄する事を選ぶでしょうが、公孫 淵には それに及びます まい
軍を進めて(懸=引っ提げて、位の意か)悠遠の地まで出征し、そこで持久戦と なると兵站を維持出来ず長期滞陣は難しく なるので、公孫 淵は必ず持久戦に持ち込もうとして先(ま)ず遼水で侵入を防ごうとした後に襄平に退却して籠城するでしょう、つまり公孫 淵は中策と下策を採用します
明帝言う、
出発して帰還するまで、いか程(ほど)の時日(じじつ)を要するか
司馬 懿 答えて言う、
往路百日、帰路百日、攻戦百日、六十日を休息に当てて、一年で片付けられます
【三國志】 卷三 魏志 明帝紀 第三景初二年八月にも羌王が離叛して おり、涼州 刺史が 芒中,注詣 を斬首している
(景初)二年 春正月 詔太尉司馬宣王帥衆討遼東
秋八月 燒當羌王芒中,注詣等叛 涼州刺史率諸郡攻討 斬注詣首
【三國志】 卷二十八 魏志 王毌丘諸葛鄧鍾傳 第二十八 毌丘儉傳これは これで表向きの意図が あって行われたので あろうが、遼東経略の副将 毌丘 倹が上将軍と なるので、要するに上記 3. 司馬懿の受難 で述べた様に、司馬 懿の大功との差違を埋めるために東夷諸国が犠牲と なって現地に投入される事に なる
正始中 儉以高句驪數侵叛 督諸軍步騎萬人 出玄菟從諸道討之
句驪王宮 將步騎二萬人 進軍沸流水上 大戰梁口
宮連破走
儉遂束馬縣車 以登丸都屠句驪所都 斬獲首虜以千數
句驪沛者名得來 數諫宮臣松之按東夷傳 沛者句驪國之官名 宮不從其言
得來歎曰
立見此地將生蓬蒿
遂不食而死 舉國賢之
儉令諸軍不壞其墓 不伐其樹 得其妻子 皆放遣之
宮單將妻子逃竄 儉引軍還
六年 復征之 宮遂奔買溝
儉遣玄菟太守王頎追之
世語曰 頎字孔碩 東萊人 晉永嘉中大賊王彌 頎之孫
過沃沮千有餘里 至肅慎氏南界 刻石紀功 刊丸都之山 銘不耐之城
諸所誅納 八千餘口
論功受賞 侯者百餘人
穿山 溉灌 民賴其利
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 韓傳帯方,楽浪両太守を秘密裏に派遣した者を明帝と指定して記述している
景初中 明帝密遣帶方太守劉昕,樂浪太守鮮于嗣 越海定二郡
【晉書】 卷一 帝紀第一 宣帝襄平城を投げ棄てて極東に逃れ、魏軍に焦土戦を強要せしめるが上策なりと司馬 懿から聞いた明帝は、ここで考えたので あろう
(青龍四年)
對曰
棄城預走 上計也
據遼水以距大軍 次計也
坐守襄平 此成擒耳
【三國志】 卷三 魏志 明帝紀 第三
(景初元年)初權遣使浮海與高句驪通 欲襲遼東
【三國志】 卷四十七 吳志 吳主傳 第二呉の孫権は水軍を出動させて海を越えて遼東に出兵しようと考えて いたと言う
(嘉禾二年)(233年)三月 遣舒綜還
使太常張彌 執金吾許晏 將軍賀達等 將兵萬人 金寶珍貨 九錫備物 乘海授淵
【三國志】 卷三 魏志 明帝紀 第三明帝は景初元年に、断固として多数の船を建造させたので ある
(景初元年)詔靑,兗,幽,冀四州大作海船
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 高句麗傳元々 高句麗 は公孫氏の影響下に あったものと思われる
景初二年 太尉司馬宣王率衆討公孫淵 宮遣主簿大加將數千人助軍
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳倭国は この時、魏軍軍政下に ある帯方郡に朝献した訳で あるが、始めから魏朝に朝献する予定で あったのか どうかは分からない
景初二年 六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 序文黄海から先の海外諸国の事は公孫氏に委(ゆだ)ねていたと ある
而公孫淵仍父祖三世有遼東 天子爲其絶域委以海外之事 遂隔斷東夷 不得通於諸夏
【三國志】 卷三 魏志 明帝紀 第三景初二年(238年)正月、明帝は遂に太尉 司馬 懿に公孫 淵討伐の詔勅を下した
(景初元年)淵自儉還 遂自立爲燕王置百官 稱紹漢元年
(秋七月?)詔靑,兗,幽,冀四州大作海船
【三國志】 卷三 魏志 明帝紀 第三景初二年、部将 牛金や胡遵と共に騎馬歩兵合計四万を率いて洛陽を出発した
(景初)二年 春正月 詔太尉司馬宣王帥衆討遼東
【晉書】 卷一 帝紀第一 宣帝景初二年、明帝は別働軍の水軍を出航させ、黄海渡洋策戦を決行
景初二年 帥牛金,胡遵等步騎四萬 發自京都
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 韓傳景初二年六月、魏軍遼東に到着
景初中 明帝密遣帶方太守劉昕,樂浪太守鮮于嗣 越海定二郡
【三國志】 卷八 魏志 二公孫陶四張傳 第八 公孫度傳景初二年六月、倭国女王卑弥呼の朝献使が帯方郡に入貢
(景初二年)六月 軍至遼東
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳景初二年、公孫 淵は遼隧で魏軍を待ち受ける
景初二年 六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都
【三國志】 卷八 魏志 二公孫陶四張傳 第八 公孫度傳
(景初二年)淵遣將軍卑衍,楊祚等 步騎數萬屯遼隧 圍塹二十餘里
【晉書】 卷一 帝紀第一 宣帝景初二年、遂に遼隧で戦端が開く
(景初二年)文懿果遣步騎數萬 阻遼隧 堅壁而守 南北六,七十里 以距帝
【三國志】 卷八 魏志 二公孫陶四張傳 第八 公孫度傳
(景初二年)宣王軍至 令衍逆戰
宣王遣將軍胡遵等 擊破之
宣王令軍 穿圍 引兵東南向
而急東北 卽趨襄平
衍等恐襄平無守夜走
諸軍進至首山
淵復遣衍等迎軍 殊死戰
復擊大破之
【晉書】 卷一 帝紀第一 宣帝景初二年、日和見で洞が峠(ほらがとうげ)を決め込んでいた高句麗が遂に動く
(景初二年)帝盛兵多張旗幟出其南 賊盡銳赴之
乃泛舟潛濟以出其北 與賊營相逼 沉舟焚梁 傍遼水作長圍 棄賊而向襄平
諸將言曰
不攻賊而作圍 非所以示衆也
帝曰
賊堅營高壘 欲以老吾兵也
攻之正入其計 此王邑所以恥過昆陽也
古人曰
敵雖高壘 不得不與我戰者 攻其所必救也
賊大衆在此 則巢窟虛矣
我直指襄平 必人懷內懼 懼而求戰 破之必矣
遂整陣而過 賊見兵出其後 果邀之
帝謂諸將曰
所以不攻其營 正欲致此 不可失也
乃縱兵逆擊 大破之 三戰皆捷
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 高句麗傳景初二年、司馬 懿、襄平城を包囲
景初二年 太尉司馬宣王率衆討公孫淵 宮遣主簿大加將數千人助軍
【三國志】 卷八 魏志 二公孫陶四張傳 第八 公孫度傳
(景初二年)遂進軍造城下 爲圍塹
會霖雨三十餘日 遼水暴長 運船自遼口 徑至城下
雨霽起土山 脩櫓爲發石連弩射城中
淵窘急 糧盡 人相食 死者甚多
將軍楊祚等降
【晉書】 卷一 帝紀第一 宣帝景初二年八月、公孫 淵軍 遂に壊滅
(景初二年)賊保襄平 進軍圍之
【三國志】 卷八 魏志 二公孫陶四張傳 第八 公孫度傳景初二年八月、公孫 淵と子の 公孫 脩、襄平城を放棄
(景初二年)八月 丙寅 夜大流星長數十丈 從首山東北 墜襄平城東南
壬午 淵衆潰
【三國志】 卷八 魏志 二公孫陶四張傳 第八 公孫度傳
(景初二八月)與其子脩將數百騎 突圍東南走
大兵急擊之 當流星所墜處 斬淵父子 城破
斬相國以下首級以千數 傳淵首洛陽
遼東,帶方,樂浪,玄菟悉平
【三國志】 卷三 魏志 明帝紀 第三
(秋八月)丙寅 司馬宣王圍公孫淵於襄平 大破之 傳淵首于京都 海東諸郡平
【晉書】 卷一 帝紀第一 宣帝司馬 懿、究極の残酷処置を強行
(景初二年)文懿攻南圍突出 帝縱兵擊敗之 斬于梁水之上星墜之所
【晉書】 卷一 帝紀第一 宣帝公卿とは日本で言う "くぎょう" の事では無く、"こうけい" と読み、三公九卿を指す
既入城 立兩標以別新舊焉 男子年十五已上七千餘人皆殺之 以爲京觀
偽公卿已下皆伏誅 戮其將軍畢盛等二千餘人 收戶四萬口三十餘萬