魏朝の遼東経略

1. 冴え渡る曹魏朝 明帝と司馬 懿の軍略


魏朝の遼東経略には感心させられる

日本では三国志演義の影響により、どうも魏や 司馬 懿 が悪役と されて しまい、司馬 懿の事蹟が正当に評価されていない感が ある様に見受けられる

特に、平和ボケして軍略戦闘と言うものを知らな過ぎる歴史研究者が多いので、古史を通じ、日本人の頭と見識が改まれば良いと思う
そのためには、魏朝の遼東経略は非常に良い材料と言える

本考察で言う遼東経略の定義で あるが、東漢末から辺域に蟠踞(ばんきょ)して来た軍閥 公孫氏が身の程を知らず挙兵したため、もう既に天下を統一した気分に陥(おちい)って しまっている魏朝 明帝の鉄拳制裁ならぬ黄鉞制裁を受けた顛末を指している
範囲は遼東以東を指し、遼東郡のみ ならず楽浪郡及び帯方郡を含む ものと する

ここで、魏 明帝 の思惑や司馬 懿の意図が何で あったのかを整理したい



2. 明帝の論理


魏 明帝は 蜀 諸葛 亮 亡き後、国外の憂いは もう無くなったと思っていて、土木工事等を強行する
そこに遼東郡 公孫 淵 が独立して しまい、断固として踏み潰さねば ならない仕儀と相成(あいな)る
しかしながら、廷臣は多く反対したと言う
【三國志】 卷三 魏志 明帝紀 第三

初帝議 遣宣王討淵發卒四萬人 議臣皆以爲四萬兵多 役費難供
帝曰

四千里征伐 雖云用奇亦當任力 不當稍計役費

遂以四萬人行
及宣王至遼東 霖雨不得時攻 羣臣或以爲淵未可卒破 宜詔宣王還
帝曰

司馬懿臨危制變 擒淵可計日待也

卒皆如所策

これ、本気で議論した上で反対しているので あろうか

四万の軍を動員するのは軍費(ぐんぴ)が嵩(かさ)むので止めてくれ、と言っている
群臣は完全に腰が引けて しまって いるが、それでは隙を見て離叛する軍閥が後を絶たない事にも なり兼ねない
費用云々と言うのは単なる口実で、要するに遠くて危険な討伐戦争等には関わりたくないと言うのが、当時の将相諸臣の本音で あったのかも知れない

司馬 懿 軍の遼東入郡後も、長雨で攻撃の戦機が掴(つか)めないから引き返せ、と言う
前(さき)に 毌丘 倹 が公孫 淵 征討に失敗し、撤退の原因を十日の連雨で遼水が氾濫したからだと伝えている
【三國志】 卷三 魏志 明帝紀 第三

(景初元年)(237年)遣幽州刺史毌丘儉率諸軍及鮮卑,烏丸屯遼東南界 璽書徵公孫淵
淵發兵反 儉進軍討之 會連雨十日 遼水大漲 詔儉引軍還

【三國志】 卷八 魏志 二公孫陶四張傳 第八 公孫度傳

景初元年 乃遣幽州刺史毌丘儉等 齎璽書徵淵
淵遂發兵逆於遼隧 與儉等戰 儉等不利而還

しかし ながら、私から見れば これは単なる敗戦の糊塗(こと)、責任転嫁で あろう
単に、毌丘 倹の軍才が公孫 淵に及ばず、後(おく)れを取ったと言うだけの事で ある
毌丘 倹の形勢不利に十日の連雨は直接の敗因では ない
【三國志】 卷二十二 魏志 桓二陳徐衞盧傳 第二十二 衞臻傳

幽州刺史毌丘儉 上疏曰

陛下卽位已來未有可書
吳蜀恃險 未可卒平
聊可以此方無用之士 克定遼東

臻曰

儉所陳 皆戰國細術 非王者之事也
吳頻歲稱兵寇亂邊境而猶案甲養士 未果尋致討者 誠以百姓疲勞故也
且淵生長海表相承三世 外撫戎夷 內脩戰射
而儉欲以偏軍長驅 朝至夕卷 知其妄矣

儉行軍遂不利

衛臻、仲々(なかなか)に酷いな
毌丘 倹を妄言の徒と一蹴しているが、確かに言われても致し方無し

毌丘 倹の敗戦は別に しても、何と なれば、何が何でも戦役を無かった事に したいと言う思惑を感じざるを得ない
これは もう暴力団が意味も無く因縁を吹っ掛けて金銭を脅し取ろうと する行動と何等(なんら)変わらない

勿論これには別の思惑も あったので あろう
これに ついては、以下の 3. 司馬懿の受難 で述べる

臣下軒並み反対と言う状況で あるが、それでも征戦を断行する辺(あた)り、明帝の戦争指導力は流石と言う他無い
軍費を顧(かえり)みては ならぬ、と言われれば、もう これ以上反対の仕様(しよう)が無いで あろう

さて、帯方郡 以東が離反したと なると、新たに各郡太守を任命しなければ ならない
さもなくば、公孫 淵の挙兵を正当な行動で あると認める事に なるからで ある
故に、任地に赴任するか どうかは別として、形式上は楽浪郡及帯方郡の各太守を任命する事に なる

尤(もっと)も、空位空官の任命のみでは飽き足らなかったのか、明帝は任官した両太守を強引に任地に送り出して しまう
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 韓傳

景初中 明帝密遣帶方太守劉昕,樂浪太守鮮于嗣 越海定二郡

この果断な判断力と行動力は大したものと評するべきで あろう
黄海渡洋上陸が成功するものと考えたのは、明帝自身で あったか、それとも誰ぞ将帥か謀臣から献策を受けたのか、良く分からない
司馬 懿ならば考えそうな気も するが、どうか
【晉書】 卷一 帝紀第一 宣帝

(青龍)四年 獲白鹿獻之
天子曰

昔周公旦輔成王 有素雉之貢
今君受陝西之任 有白鹿之獻 豈非忠誠協符 千載同契 俾乂邦家 以永厥休邪

及遼東太守公孫文懿(淵)反 徵帝詣京師

司馬 懿が長安から洛陽に徴(ちょう)されたのが青龍四年(236年)で ある様に見えて しまう
【三國志】 卷三 魏志 明帝紀 第三

(景初元年)(秋七月?)詔靑,兗,幽,冀四州大作海船

景初元年、恐らく七月に黄海渡洋船を建艦させている事が分かる
軍艦ではなく軍船で あるから建船と言うべきか

何故黄海渡洋船と言えるかで あるが、上記に海船を作ると あるので、これは黄河を航行する程度の小型船では無いと判断出来る

渡洋水軍を用意させる時点では、司馬 懿は魏都 洛陽に いた事に なる
【晉書】 卷一 帝紀第一 宣帝

(青龍四年)天子曰

此不足以勞君 事欲必克 故以相煩耳
君度其作何計

對曰

棄城預走 上計也
據遼水以距大軍 次計也
坐守襄平 此成擒耳

天子曰

其計將安出

對曰

惟明者能深度彼己 豫有所棄 此非其所及也
今懸軍遠征 將謂不能持久 必先距遼水而後守 此中下計也

天子曰

往還幾時

對曰

往百日 還百日 攻百日 以六十日爲休息 一年足矣

明帝は自身親征した経験も あり、戦(いくさ)と言うものを とても良く分かっている
司馬 懿が三国時代と言う動乱の世を戦争の才で伸(の)し上がって来た生き残りの一人で あると言う事を充分に把握し、自身は戦争指導のみに徹し、軍略は司馬 懿に全幅の信を置いて これに傾聴しようと している

君主の器、充分と言えるで あろう
尤(もっと)も、名君と言って良いか どうかは、何とも言えないが

これは私見で あるが、遼東征討時点で第一級の軍略眼と戦争経験を有している東漢末 黄巾之乱 以来の生き残りは、もう司馬 懿と孫権と陸遜の三人だけと なって しまって いたのでは ないかと思う

司馬 懿は 魏 国軍の最後の切札なので ある



3. 司馬懿の受難


強敵 諸葛 亮が陣没し、魏朝内に おいて司馬 懿の立場は、少々微妙なものと なって しまった
言うなれば、西漢 創業時に おける軍事の天才 韓信 と同じく、諸将諸官から警戒される状況に至ったので ある

ここで遼東独立の報を受けて洛陽に召喚される事に なるが、恐らく本心では公孫 淵に感謝して いたのでは あるまいか

韓信の境遇は、以下より読む取る事が出来るで あろう
【史記】 卷九十二 列傳 淮陰侯列傳 第三十二

項王亡將鐘離眛家在伊廬 素與信善
項王死後 亡歸信
漢王怨眛 聞其在楚 詔楚捕眛
信初之國 行縣邑 陳兵出入
漢六年 人有上書告楚王信反
高帝以陳平計 天子巡狩會諸侯 南方有雲夢 發使告諸侯會陳

吾將游雲夢

實欲襲信 信弗知
高祖且至楚 信欲發兵反 自度無罪 欲謁上 恐見禽
人或說信曰

斬眛謁上 上必喜 無患

信見眛計事
眛曰

漢所以不擊取楚 以眛在公所
若欲捕我以自媚於漢 吾今日死 公亦隨手亡矣

乃罵信曰

公非長者

卒自剄
信持其首 謁高祖於陳
上令武士縛信 載後車
信曰

果若人言

狡兔死 良狗亨
高鳥盡 良弓藏
敵國破 謀臣亡

天下已定 我固當亨

上曰

人告公反

遂械系信
至雒陽 赦信罪 以爲淮陰侯

韓信は 鐘離 眛 の首を持って陳で高祖 劉邦に拝謁した
高祖は衛兵に韓信を捕縛させ、後車(後方の非武装輸送車の意か)に乗せた
韓信は後悔して言った

果たして昔の人の言った通りで あった

逃げるに巧みな兎を狩り取ると、役に立った猟犬は煮(亨=烹)殺されて食される
高い空を飛ぶ鳥を射尽くすと、優れた弓は蔵に納められる
敵国が滅ぶと、謀臣は粛正される

天下は既に定まり、自分も煮殺されると言う事か

高祖は言う

或(あ)る者が密告した、貴公が謀反に及んだと

斯(か)くて韓信に枷を嵌(は)め縄に繋(系=縣)いた
ここで言う、昔の人とは、以下の人物を指す
【史記】 卷四十一 世家 越王句踐世家 第十一

范蠡遂去 自齊遺大夫種書曰

蜚鳥盡 良弓藏
狡兔死 走狗烹
越王爲人長頸鳥喙 可與共患難 不可與共樂
子何不去

種見書 稱病不朝
人或讒種且作亂 越王乃賜種劍曰

子教寡人伐吳七術 寡人用其三而敗吳
其四在子 子爲我從先王試之

種遂自殺

范蠡 斯くて越を去り、斉より越 大夫 文種に書で伝えた

空を飛ぶ鳥が尽きると、優れた弓は蔵に押し込められる
逃げるに巧みな兎を狩り取ると、良く働いた猟犬は煮殺されて食される
越王 句践 の容貌は首が長く鴉(からす)の嘴(くちばし) を思わせ、凶相と されている容姿を しており、共に艱難 難局を乗り越える事は出来るが、治世栄光を共に過ごす事は困難で あろう
あなたは何故逃げないのか?

文種は書を見て、病称して出仕しない様に なった
文種が挙兵を企んでいると讒言する者が あり、句践は文種に剣を下賜(=伏剣自決の意、首に剣を当てて前のめりに倒れさせて自殺せしめる)して言った

大夫は私に呉を討つための術策 七条を教え、私は 三条まで採用して呉を破った
死地を脱したくば、まだ四条は残っているので ここで用いよ、先王聖人の道に則(のっと)り我に試すが宜(よろ)しかろう

文種は斯くて剣に伏(ふ)して自決した
と言う事で、司馬 懿は身の保全を兼ねて、遼東経略に乗り出す事と なったので あろう
公孫 淵の挙兵は、司馬 懿に とって渡りに船で あったと言う事で ある

所が、ここで思わぬ横槍が入る
【三國志】 卷三 魏志 明帝紀 第三

二年 春正月 詔太尉司馬宣王帥衆討遼東

干竇[註1]晉紀曰

帝問宣王

度淵將何計以待君

宣王對曰

淵棄城預走 上計也
據遼水拒大軍 其次也
坐守襄平 此爲成禽耳

帝曰

然則三者何出

對曰

唯明智審量彼我 乃預有所割棄 此旣非淵所及
又謂今往縣遠不能持久 必先拒遼水 後守也

帝曰

往還幾日

對曰

往百日 攻百日 還百日 以六十日爲休息 如此 一年足矣

魏名臣奏載散騎常侍何曾表曰

臣聞先王制法 必於全愼
故建官授任 則置假輔 陳師命將 則立監貳 宣命遣使 則設介副 臨敵交刃 則參御右 蓋以盡謀思之功 防安危之變也
是以在險當難 則權足相濟 隕缺不預 則手足相代 其爲固防 至深至遠
及至漢氏 亦循舊章 韓信伐趙 張耳爲貳 馬援討越 劉隆副軍
前世之迹 著在篇志
今懿奉辭誅罪步騎數萬 道路迴阻四千餘里 雖假天威有征無戰寇或潛遁 消散日月

命無常期 人非金石 遠慮詳備 誠宜有副
今北邊諸將及懿所督 皆爲僚屬 名位不殊 素無定分 卒有變急 不相鎮攝
存不忘亡 聖達所戒

宜選大臣名將威重宿著者 盛其禮秩 遣詣懿軍 進同謀略 退爲副佐
雖有萬一不虞之災 軍主有儲 則無患矣

毌丘儉志記云 時以儉爲宣王副也

註1:

竇字 は 寶字 の誤か

散騎常侍 何曽 上表して述べる

司馬 懿 は軍命を受けて謀叛を誅伐するべく歩騎数万を擁し、道路は険阻にして距離四千余里、天朝の武威を仮託されて征戦して敵が行方を眩(くら)まして伏遁走し不戦に終わって しまったと しても、月日は経過するものです
人は石や金属では ないため命は有限で あり、不慮の事に備えて副将を任命するべきでしょう
北辺の諸将(幽州の州軍か、東夷の援軍か)と 司馬 懿 の麾下の者は、皆 同僚の属将で あるため軍内の序列に差違が無く、又統帥権の委譲代行を定めて いなかったため、俄(にわ)かに急変が発生した場合、軍令を執る者が定まり ません
存命中に病気事故の事態を留意する事は、聖人達人の戒(いまし)むる所でしょう
大臣名将の重鎮宿老を選び、位階と禄高(ろくだか)を高くして 司馬 懿 に同行させ、軍を進めるに当たっては策戦軍略に参加させ、戦後処理に当たっては軍政事務の支援を行わせるのが良いでしょう
万一災禍が生じても、統帥系統に備えが あれば軍旅に 患いは ありません

こうして 毌丘 倹 が 司馬 懿 の副将に抜擢されたので ある
魏朝諸官は 司馬 懿 に軍功を独占される事を快(こころよ)く思って いないので あろう
若(も)し統帥系統に口出しを しなければ、司馬 懿 は必ず長子 司馬 師 を同行する事に なっていたかと思う
連年 諸葛 亮 と隴,雍の地で対峙していた頃から転戦の中引き連れていた訳で気心も知れて おり、且(か)つ自身の後継者として側近くに置いて更に経験を積ませたいと思っていた筈で ある

これを阻止すべく、何曽 は妨害を図ったと言う事に なる
つまり軍重鎮 司馬 懿を抑えるため、ここで 毌丘 倹 を して控制(こうせい)せしめようと画策したもので あろう
要は軍部次席の驍将を老練な軍略家への対抗馬と して押し出そうとしたと言う事で ある

なお、散騎常侍の 何曽 は後の 後奈良院御撰何曾 とは何の関係も無い

さて、上記で遼東着到後も長雨が どうこうと何かと口実を設けて 司馬 懿 を退却させたかった理由で あるが、これも何曽 同様、軍功を司馬 懿に集中される事を嫌ったからで あろうと思料(しりょう)する
加えて、毌丘 倹 は敗戦の理由として長雨を挙げているので、もし 司馬 懿 が長雨の中で勝戦を勝ち取ってしまうと 毌丘 倹 の面目丸潰れと なりかねないので、毌丘 倹 を擁護したいと言う意図も あったのかとも思う



4. 明帝と司馬 懿の軍略大綱


明帝は かなり優秀な皇帝で ある
司馬 懿 に全幅の信頼を寄せている事が感得(かんとく)出来るし、文官等と違って戦地に赴いた事も あるため、司馬 懿 の意図も把握していた(よう)に読める
上記で既に引用した箇所で あるが、
【晉書】 卷一 帝紀第一 宣帝

(青龍四年)天子曰

此不足以勞君 事欲必克 故以相煩耳
君度其作何計

對曰

棄城預走 上計也
據遼水以距大軍 次計也
坐守襄平 此成擒耳

天子曰

其計將安出

對曰

惟明者能深度彼己 豫有所棄 此非其所及也
今懸軍遠征 將謂不能持久 必先距遼水而後守 此中下計也

天子曰

往還幾時

對曰

往百日 還百日 攻百日 以六十日爲休息 一年足矣

明帝言う、

これは貴卿が出馬するに足る出兵では無いが、必ず勝たねば ならないので、貴卿を煩(わずら)わせる事と なった
貴卿ならば如何(いか)なる軍略を図(はか)るか

司馬 懿 答えて言う、

預(あず)けられた城を放棄して奥地に脱出し、焦土戦を図るが上策
遼水に沿って軍を展開し、大軍の渡河を妨害牽制するのが次策
時間を空費するまま襄平城に籠城して しまうと、俘虜と なるだけ

明帝言う、

公孫 淵の出方を案ずるに、孰(いず)れ の計略を採るで あろうか

司馬 懿 答えて言う、

賢明なる者で あれば彼我の状況を充分に比べ考え、本拠 襄平を放棄する事を選ぶでしょうが、公孫 淵には それに及びます まい
軍を進めて(懸=引っ提げて、位の意か)悠遠の地まで出征し、そこで持久戦と なると兵站を維持出来ず長期滞陣は難しく なるので、公孫 淵は必ず持久戦に持ち込もうとして先(ま)ず遼水で侵入を防ごうとした後に襄平に退却して籠城するでしょう、つまり公孫 淵は中策と下策を採用します
明帝言う、

出発して帰還するまで、いか程(ほど)の時日(じじつ)を要するか

司馬 懿 答えて言う、

往路百日、帰路百日、攻戦百日、六十日を休息に当てて、一年で片付けられます

魏朝は他の二朝と比べて、とても恵まれている

君臣が このような話を出来るのは、君主の懐が深く臣下が有能で ある事が必須で ある
しかしながら蜀は 劉禅 の器 英邁(えいまい)とは言い難(がた)く、臣下に人材乏しくて どうにも ならない
呉は孫権の在位が長く続いて老害を撒(ま)き散らした感が あり、継嗣争いで陸遜が死ぬと言う馬鹿さ加減で あった
文帝,明帝の在位が今少し長ければ、或いは西晋を待たずに魏朝が三国を統一して いたのでは ないかとさえ思ってしまう

脇道に逸(そ)れた

明帝と司馬 懿の問答で あるが、ここで司馬 懿の懸念が吐露されている
司馬 懿に とって尤も面倒な事態、それは遼東放棄と焦土戦の強行で あったと言う事で ある

確かに遠征軍は常に兵站を気に しながら戦闘を行う必要が あるため、可能な限り速戦即決が望ましく、極力 長滞陣(ながたいじん)は避けたい所では あろう
そして これは隴,涼に おける諸葛 亮との連戦で、誰よりも思い知らされているのが司馬 懿で あった

思うに司馬 懿は、公孫 淵が遼水から漸進ならぬ漸退戦術で時間稼ぎを しつつ、徐々に楽浪郡に後退されて最後に帯方郡で徹底抗戦されて しまう事態を嫌ったので あろう事、想像するに難くない
帯方郡で終われば まだ良いが、最悪 更に遠く韓,濊方面若しくは北の高句麗方面に逃げ込まれ、そこで東夷諸国を糾合して游撃戦(ゲリラ戦)等(など)を展開されてしまうと もう目も当てられない事に なる

司馬 懿が直接干戈(かんか)を交(まじ)えた相手は漢族しか経験が無かったのでは ないかと思うが、魏朝は建国以前からの煩(わずら)いと して、塞外の異民族との戦闘を余儀無くされて来ている
思うに、明帝は司馬 懿以上に、東夷,北狄との戦闘を警戒していたのでは あるまいか
【三國志】 卷三 魏志 明帝紀 第三

(景初)二年 春正月 詔太尉司馬宣王帥衆討遼東
秋八月 燒當羌王芒中,注詣等叛 涼州刺史率諸郡攻討 斬注詣首

景初二年八月にも羌王が離叛して おり、涼州 刺史が 芒中,注詣 を斬首している
文章は簡潔過ぎて詳細を捉えにくいが、恐らくは涼州の一部乃至(ないし)大部を既に実効支配していた羌族が、涼州内に更なる勢力圏を望んで侵攻して来たと言う事で あろう
当時の魏朝には国外戦争を買って出る余力は無かったと思われるので、 明帝は これを国家間戦争に進展させる考えは恐らく無く、国内擾乱で留(とど)めようと したものと思われる
これを見ても分かる通り、この時点では未(ま)だ高句麗 等の東夷諸国とは事を構える気は無かったと考えられる

なお、公孫 淵 誅伐後は東夷諸国も征討の対象と なる
【三國志】 卷二十八 魏志 王毌丘諸葛鄧鍾傳 第二十八 毌丘儉傳

正始中 儉以高句驪數侵叛 督諸軍步騎萬人 出玄菟從諸道討之
句驪王宮 將步騎二萬人 進軍沸流水上 大戰梁口
宮連破走
儉遂束馬縣車 以登丸都屠句驪所都 斬獲首虜以千數
句驪沛者名得來 數諫宮臣松之按東夷傳 沛者句驪國之官名 宮不從其言
得來歎曰

立見此地將生蓬蒿

遂不食而死 舉國賢之
儉令諸軍不壞其墓 不伐其樹 得其妻子 皆放遣之
宮單將妻子逃竄 儉引軍還
六年 復征之 宮遂奔買溝
儉遣玄菟太守王頎追之

世語曰 頎字孔碩 東萊人 晉永嘉中大賊王彌 頎之孫

過沃沮千有餘里 至肅慎氏南界 刻石紀功 刊丸都之山 銘不耐之城
諸所誅納 八千餘口
論功受賞 侯者百餘人
穿山 溉灌 民賴其利

これは これで表向きの意図が あって行われたので あろうが、遼東経略の副将 毌丘 倹が上将軍と なるので、要するに上記 3. 司馬懿の受難 で述べた様に、司馬 懿の大功との差違を埋めるために東夷諸国が犠牲と なって現地に投入される事に なる
兎にも角(かく)にも、司馬 懿の一人勝ち状態は絶対に認めないと言う人達が いたと言う事で ある

又々脇道に逸れたが、司馬 懿が吐露した懸念を明帝が捨て置かずに捉え、そして明帝は(しか)るべき手抜かり無く打つので ある
見事!



5. 明帝 黄海渡洋策戦を決行


魏朝は景初二年と思われる年に、黄海渡洋策戦を決行する

上記 2. 明帝の論理 で引用している箇所を再度掲(かか)げるが、
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 韓傳

景初中 明帝密遣帶方太守劉昕,樂浪太守鮮于嗣 越海定二郡

帯方,楽浪両太守を秘密裏に派遣した者を明帝と指定して記述している

となると、この策戦の戦争指導は司馬 懿ではなく直接 明帝が執り行ったものと読み取るべきで あろう

この策戦の目的は、司馬 懿の発言に ある通り、
【晉書】 卷一 帝紀第一 宣帝

(青龍四年)
對曰

棄城預走 上計也
據遼水以距大軍 次計也
坐守襄平 此成擒耳

襄平城を投げ棄てて極東に逃れ、魏軍に焦土戦を強要せしめるが上策なりと司馬 懿から聞いた明帝は、ここで考えたので あろう

公孫 淵を遼東から脱出させずに襄平城に封じ込めるためには、開戦緒戦で楽浪,帯方両郡を制圧して しまうのが最善で ある、と

これが本策戦の目的と実施内容で ある

尚(なお)、実は他にも目的が明帝の脳裏には浮かんでいたで あろう
それは、黄海制海権を呉 水軍から奪取する事で ある

実は東シナ海から黄海に至る海域は、青龍年間までは呉 水軍の活動領域で あった
【三國志】 卷三 魏志 明帝紀 第三

(景初元年)初權遣使浮海與高句驪通 欲襲遼東

【三國志】 卷四十七 吳志 吳主傳 第二

(嘉禾二年)(233年)三月 遣舒綜還
使太常張彌 執金吾許晏 將軍賀達等 將兵萬人 金寶珍貨 九錫備物 乘海授淵

呉の孫権は水軍を出動させて海を越えて遼東に出兵しようと考えて いたと言う
その数年前に、呉が将兵一万を遼東に派遣し、呉の九錫や財宝類を下賜していたが、公孫 淵 が呉使を斬って馘(くび)を魏に差し出したため、大いに怒(いか)り憤(いきどお)って自ら報復せんと考えたので あろう

呉が送った将兵は全軍が水軍で あったのか、それとも舟艇(しゅうてい)に陸兵を乗せていて水兵との合計が一万で あったのかは分からない
ただ、兵が一万いて水軍が護衛する輸送船団が夥(おびただ)しい輜重(しちょう)を乗せて、東シナ海から黄海を突っ切って遼東までを我が物顔で海上輸送した事に なる
と言う事は、この時点で黄海の制海権は呉が有していたと見做(みな)さざるを得ない

明帝、これを苦虫を噛み潰すかの如く怒りつつも呉 水軍相手では手の出し様が無く、憤懣(ふんまん)を抑えるも さぞかし苦労したで あろう

そして この状況を打破するために何が必要かと言えば、もう これしか無い
【三國志】 卷三 魏志 明帝紀 第三

(景初元年)詔靑,兗,幽,冀四州大作海船

明帝は景初元年に、断固として多数の船を建造させたので ある

なお、楽浪,帯方両郡の占領が景初二年の出来事で ある事は、以下で述べた通りで ある
魏は景初二年時点で帯方郡を制圧していた



6. 東夷諸国を抱き込む


東漢朝から魏朝は、東夷諸国の叛服(はんぷく)常ならぬ状況に悩まされて来た

明帝は遼東郡の東南、帯方,楽浪両郡への退路を断(た)つ一方で、もう一方の退路(やく)する妙手を放った
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 高句麗傳

景初二年 太尉司馬宣王率衆討公孫淵 宮遣主簿大加將數千人助軍

元々 高句麗 は公孫氏の影響下に あったものと思われる
これを明帝の外交手腕で、魏朝側に寝返らせてしまったと言う事で あろう

これで北への退路も封じられ、公孫 淵は襄平城に籠城したまま完全に孤立無援と なった
これでは もう公孫勢の形勢 逆睹(ぎゃくと)し難く、襄平の命数定まったと言う他無い

そして遂に この征伐戦に、倭国も間接的に巻き込まれる事に なる
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳

景初二年 六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都

倭国は この時、魏軍軍政下に ある帯方郡に朝献した訳で あるが、始めから魏朝に朝献する予定で あったのか どうかは分からない

と言うのも、倭国は連年 遼東太守 公孫氏に対して朝献していたものと思われる からで ある
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 序文

而公孫淵仍父祖三世有遼東 天子爲其絶域委以海外之事 遂隔斷東夷 不得通於諸夏

黄海から先の海外諸国の事は公孫氏に委(ゆだ)ねていたと ある

或いは、倭国は帯方郡を勢力圏に置いていた公孫氏に朝献しようと した所を魏軍に抑留されて しまったと言う可能性も ある
その場合、帯方郡太守 劉昕 の計(はか)らいか倭国使の機転に より、魏朝への直接朝献と言う事で糊塗(こと)したと言う事に なる

いずれに せよ倭国側に とっては、極めて都合の良い状況では あった



7. 軍状推移


最後に、遼東経略の軍状推移を見て行こう

景初元年(237年)、公孫 淵が自立して燕王を称した
同年(七月?)、明帝は黄海渡洋策戦および呉水軍からの制海権奪取のため、水軍軍船の大建造に着手した
【三國志】 卷三 魏志 明帝紀 第三

(景初元年)淵自儉還 遂自立爲燕王置百官 稱紹漢元年
(秋七月?)詔靑,兗,幽,冀四州大作海船

景初二年(238年)正月、明帝は遂に太尉 司馬 懿に公孫 淵討伐の詔勅を下した
景初二年まで討伐を待ったのは、私見では あるが黄海渡洋水軍の創建を待っていたのでは ないかと思われる
明帝が渡洋策戦の勝戦を確信したので、総司令官に征伐を命じたと言う事に なる
因(ちな)みに太尉とは国軍総司令の事で ある
【三國志】 卷三 魏志 明帝紀 第三

(景初)二年 春正月 詔太尉司馬宣王帥衆討遼東

景初二年、部将 牛金や胡遵と共に騎馬歩兵合計四万を率いて洛陽を出発した
胡遵と言うのは名を知らぬが、牛金は曹操在世時から各地を転戦した歴戦の驍将で ある
地方軍閥の公孫 淵とは器が違い過ぎる
【晉書】 卷一 帝紀第一 宣帝

景初二年 帥牛金,胡遵等步騎四萬 發自京都

景初二年、明帝は別働軍の水軍を出航させ、黄海渡洋策戦を決行
何月の事かは不明で あるが、密(ひそ)かに遣わしたと ある以上、司馬懿が遼東に到着する前で あろう
公孫 淵が襄平城に包囲されてからでは、覚(さと)られぬ様に行動する必要は無いからで ある
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 韓傳

景初中 明帝密遣帶方太守劉昕,樂浪太守鮮于嗣 越海定二郡

景初二年六月、魏軍遼東に到着
司馬 懿は行軍に百日かかると答えて いたので、司馬 師と分かれて軍を進めたのは三月前後で あろうか
【三國志】 卷八 魏志 二公孫陶四張傳 第八 公孫度傳

(景初二年)六月 軍至遼東

景初二年六月、倭国女王卑弥呼の朝献使が帯方郡に入貢
公孫氏影響下の東夷 倭国が魏朝側に着いた訳で あるが、明帝の これを喜ぶ事 如何許(いかばか)り の事で あったか、察するに余り ある
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳

景初二年 六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都

景初二年、公孫 淵は遼隧で魏軍を待ち受ける
兵数は歩騎数万、当時の数万の概数は恐らく四万よりも若干多いと思われるため、防衛軍の方が多少多い
遼隧で邀撃(ようげき)する公孫淵軍は概(おおむ)ね五万から六万と言った所か
【三國志】 卷八 魏志 二公孫陶四張傳 第八 公孫度傳

(景初二年)淵遣將軍卑衍,楊祚等 步騎數萬屯遼隧 圍塹二十餘里

【晉書】 卷一 帝紀第一 宣帝

(景初二年)文懿果遣步騎數萬 阻遼隧 堅壁而守 南北六,七十里 以距帝

景初二年、遂に遼隧で戦端が開く
勝利に次ぐ勝利で、殆(ほとん)ど神懸(かみがか)かりで ある
隴,涼の地で連年 諸葛 亮に実地研鑚を受けた効果と言うべきか、それとも堅忍持久戦を強いられた憤懣が爆発したと言うべきか

更に言えば、司馬 懿が船を使って戦を していると言うのは非常に珍しい
恐らく、司馬 懿に とって初めての水を利用した戦で あったのでは ないかと思われる
思うに これは、楽浪,帯方両郡での黄海渡洋戦に触発されたもの かも知れない
【三國志】 卷八 魏志 二公孫陶四張傳 第八 公孫度傳

(景初二年)宣王軍至 令衍逆戰
宣王遣將軍胡遵等 擊破之
宣王令軍 穿圍 引兵東南向
而急東北 卽趨襄平
衍等恐襄平無守夜走
諸軍進至首山
淵復遣衍等迎軍 殊死戰
復擊大破之

【晉書】 卷一 帝紀第一 宣帝

(景初二年)帝盛兵多張旗幟出其南 賊盡銳赴之
乃泛舟潛濟以出其北 與賊營相逼 沉舟焚梁 傍遼水作長圍 棄賊而向襄平
諸將言曰

不攻賊而作圍 非所以示衆也

帝曰

賊堅營高壘 欲以老吾兵也
攻之正入其計 此王邑所以恥過昆陽也
古人曰

敵雖高壘 不得不與我戰者 攻其所必救也
賊大衆在此 則巢窟虛矣
我直指襄平 必人懷內懼 懼而求戰 破之必矣

遂整陣而過 賊見兵出其後 果邀之
帝謂諸將曰

所以不攻其營 正欲致此 不可失也

乃縱兵逆擊 大破之 三戰皆捷

景初二年、日和見で洞が峠(ほらがとうげ)を決め込んでいた高句麗が遂に動く
恐らく、明帝に呼び付けられて戦場に来るには来たが、戦況次第では どちらにも転(ころ)べる様に、戦場附近を迂路迂路(うろうろ) していたので あろう
# 尤(もっと)も、実は筒井 順慶と洞が峠には何の関係も無いらしいが

しかし、遼隧で魏軍優勢の報が知らされると、勝馬(かちうま)に乗るべく司馬 懿に助勢したものと思われる
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 高句麗傳

景初二年 太尉司馬宣王率衆討公孫淵 宮遣主簿大加將數千人助軍

景初二年、司馬 懿、襄平城を包囲
襄平籠城戦が始まる
【三國志】 卷八 魏志 二公孫陶四張傳 第八 公孫度傳

(景初二年)遂進軍造城下 爲圍塹
會霖雨三十餘日 遼水暴長 運船自遼口 徑至城下
雨霽起土山 脩櫓爲發石連弩射城中
淵窘急 糧盡 人相食 死者甚多
將軍楊祚等降

【晉書】 卷一 帝紀第一 宣帝

(景初二年)賊保襄平 進軍圍之

景初二年八月、公孫 淵軍 遂に壊滅
【三國志】 卷八 魏志 二公孫陶四張傳 第八 公孫度傳

(景初二年)八月 丙寅 夜大流星長數十丈 從首山東北 墜襄平城東南
壬午 淵衆潰

景初二年八月、公孫 淵と子の 公孫 脩、襄平城を放棄
襄平から東南に脱出したと言う事は、楽浪郡を頼ったと言う事か
しかし当然で あるが、捕捉されて斬刑に処される
【三國志】 卷八 魏志 二公孫陶四張傳 第八 公孫度傳

(景初二八月)與其子脩將數百騎 突圍東南走
大兵急擊之 當流星所墜處 斬淵父子 城破
斬相國以下首級以千數 傳淵首洛陽
遼東,帶方,樂浪,玄菟悉平

【三國志】 卷三 魏志 明帝紀 第三

(秋八月)丙寅 司馬宣王圍公孫淵於襄平 大破之 傳淵首于京都 海東諸郡平

【晉書】 卷一 帝紀第一 宣帝

(景初二年)文懿攻南圍突出 帝縱兵擊敗之 斬于梁水之上星墜之所

司馬 懿、究極の残酷処置を強行
【晉書】 卷一 帝紀第一 宣帝

既入城 立兩標以別新舊焉 男子年十五已上七千餘人皆殺之 以爲京觀
偽公卿已下皆伏誅 戮其將軍畢盛等二千餘人 收戶四萬口三十餘萬

公卿とは日本で言う "くぎょう" の事では無く、"こうけい" と読み、三公九卿を指す
公孫 淵が任命した高官は全員死刑、将官以下の各指揮官二千人も死刑、襄平市民の十五歳以上の男子は皆殺し

恐らく司馬 懿は二度と国内から叛乱が起きない様に見せしめ としたので あろう
冷酷な対処では あるが、国事を預かる者と しては已(や)むを得ないのかも知れぬ



8. 関連 URI


参考と なる URI は以下の通り

曹叡 - Wikipedia
司馬懿 - Wikipedia
公孫淵 - Wikipedia
遼隧の戦い - Wikipedia
洞ヶ峠 - Wikipedia

公開 : 2014年7月24日
戻る
pagetop