臣は投杼(とうちょ)を恐る、息壤は()るか

1. 宜陽占領は難事、臣を(ざん)する曽母(そうぼ)の投杼を恐る


戦国時代の秦朝は韓王国 宜陽県(恐らくは名称も宜陽城)攻略を目論(もくろ)む が、その人選として甘茂(かんぼう)()げられた

(しか)るに、宜陽攻略を難事と見た甘茂は秦 武王に釘を刺す
さて その釘とは如何(いか)なるか
【戰國策】 卷第四 秦二

原書名 : 国策,国事,短長,事語,長書,脩書と呼称されていた原史料群を改名編纂したか

編纂 : 西漢朝 劉(きょう) 原著者群は不明

甘茂至 王問其故
對曰

宜陽大縣也 上黨,南陽積之久矣 名爲縣其實郡也
今王倍數險 行數[註1]千里而攻之難矣
臣聞 張儀西幷巴,蜀之地 北取西河之外 南取上庸 天下不以爲多張儀 而賢先王
魏文侯令樂羊將攻中山 三年而拔之 樂羊反而語功 文侯示之謗書一篋 樂羊再拜𥡴首曰

此非臣之功 主君之力也

今臣覉旅之臣也 樗里疾,公孫衍二人者 挾韓而議 王必聽之
是王欺魏 而臣受公仲侈[註2]之怨也
昔者曾子處費 費人有與曾子同名族者而殺人 人告曾子母曰

曾參殺人

曾子之母曰

吾子不殺人

織自若
有頃焉 人又曰

曾參殺人

其母尚織自若也
頃之 一人又告之曰

曾參殺人

其母懼 投杼踰墻而走
夫以曾參之賢與母之信也 而三人疑之 則慈母不能信也
今臣賢不及曾子 而王之信臣又未若曾子之母也 疑臣者不適三人 臣恐王爲臣之投杼

王曰

寡人不聽請與子盟

於是與之盟於息壤

註1:

數字 を衍字と する書版も ある


註2:

侈字 を 朋字 と する書版も ある


戰國策 卷第四 秦二 01

戰國策 卷第四 秦二 02

戰國策 卷第四 秦二 03


上記の影本画像は以下で公開されているものを利用している

中國哲學書電子化計劃

人は他人の成功を羨み、引き()り下ろそうと する
特に権力欲と言う代物は魔性を備えている らしい

更に言えば、人には疑心暗鬼と言う虫が()
始めは疑念を抱いておらず とも、後には妄想に(とら)われてしまうもの なので あろう
(ゆえ)に、甘茂は

宜陽攻略は容易では無いので時間が かかるが、その間に讒言に惑わされぬ(よう)

と秦 武王と 息壤(そくじょう)の盟 を立てたので ある

(ちな)みに、曽参の母親が投げ出した 杼 とは、以下の様な物で ある

シャトル (織物) - Wikipedia



2. 息壤は あるか?


実は甘茂は蜀 平定の勲功を()てた ばかり なので ある
これに嫉妬羨望を(かん)ずる者は いるもので、案の定と言うか何と言うか…
樗里(ちょり) 疾 や 公孫 (えん) と言った者が、足を引っ張って来た
【戰國策】 卷第四 秦二

果攻宜陽五月 而不能拔也
樗里疾,公孫衍二人在爭之王 王將聽之 召甘茂而告之
甘茂對曰

息壤在彼

王曰

有之

因悉起兵 復使甘茂攻之 遂拔宜陽

甘茂に代わって自身で代役を名乗り出ては いないので、恐らくは二人共 軍才には乏しかったので あろう
これ以上 甘茂に軍功を挙げられては面白くないと言う事で、

甘茂は無能にて、宜陽を占領せしめる事は出来ますまい
(はよ)(ほか)の者に代わらせねば なりませぬ

とでも秦 武王に吹き込んで失脚を目論(もく)んだ ので あろう
しかし、甘茂と息壤で 誓い を立てて おきながら結局は信じ切れずに召喚尋問してしまうのでは、王としての器が知れてしまう
武王 (など)と大層な(贈り名)(たてまつ)られては いるが、実は君主としては大した事は無かったので あろう
その秦 武王に、甘茂が答えて(いわ)く、
息壤は ありましょうか? (≈息壤を覚えて おられましょうか!)

いずれに せよ、甘茂は宜陽を落城させる
秦は有能な将帥を失脚させず に済んだので ある

公開 : 2017年6月10日
戻る
pagetop