崔杼弑其君光

1. 太史簡のみならず崔杼も評価さるるべし


斉 荘公 に自邸の妻を姦された大夫 崔杼、邸兵に命じて 荘公 を追捕
塀に追い詰められ た荘公、自害の勧めも聞かず、命惜しさに塀を乗り越えて逃れんとす
邸兵矢を放ちて股に命中、塀から転落して死亡せり

崔杼 は太史に 荘公 病死せり と史実改竄を迫る



2. 出典


春秋 左氏伝 と 史記 で記述に差違は あるが、大意は同じ
【春秋】 左氏傳 卷第三十六 襄公 二十五年 經

夏五月乙亥 齊崔杼弑其君光

【春秋】 左氏傳 卷第三十六 襄公 二十五年 傳

乙亥 公問崔子 遂從姜氏 姜入于室 與崔子自側戸出 公拊楹而歌
侍人賈舉止衆從者 而入閉門 甲興
公登臺而請

弗許

請盟

弗許

請自刃於廟

勿許

皆曰

君之臣杼疾病 不能聽命 近於公宮 陪臣干掫有淫者 不知二命

公踰牆 又射之 中股 反隊 遂弑之

大史 書曰 齊崔杼弑其君光
崔子殺之
其弟嗣書 而死者二人
其弟又書 乃舍之

南史氏聞大史盡死 執簡以往
聞既書矣 乃還

上記は【春秋】 の注釈書の 1つ 【春秋左氏傳】
撰者は 魯 太史 の 左 丘明
【史記】 卷三十二 齊太公世家 第二

棠公妻好 棠公死 崔杼取之 莊公通之 數如崔氏 崔杼之冠賜人
待者曰

不可

崔杼怒 因其伐晉 欲與晉合謀襲齊而不得閒
莊公嘗笞宦者賈舉 賈舉復侍 為崔杼閒公以報怨
五月 莒子朝齊 齊以甲戌饗之
崔杼稱病不視事
乙亥 公問崔杼病 遂從崔杼妻 崔杼妻入室 與崔杼自閉戶不出 公擁柱而歌
宦者賈舉遮公從官而入 閉門 崔杼之徒持兵從中起
公登臺而請解

不許

請盟

不許

請自殺於廟

不許

皆曰

君之臣杼疾病 不能聽命 近於公宮 陪臣爭趣有淫者 不知二命

公踰牆 射中公股 公反墜 遂弒之
晏嬰立崔杼門外曰

君為社稷死則死之 為社稷亡則亡之 若為己死己亡 非其私暱 誰敢任之

門開而入 枕公尸而哭 三踴而出
人謂崔杼

必殺之

崔杼曰

民之望也 舍之得民

丁丑 崔杼立莊公異母弟杵臼 是為景公
景公母 魯叔孫宣伯女也
景公立 以崔杼為右相 慶封為左相
二相恐亂起 乃與國人盟曰

不與崔慶者死

晏子仰天曰

嬰所不(獲)唯忠於君利社稷者是從

不肯盟 慶封欲殺晏子
崔杼曰

忠臣也 舍之

齊太史書曰

崔杼弒莊公

崔杼殺之 其弟復書 崔杼復殺之 少弟復書 崔杼乃舍之



3. 所感


晋 董狐 よりも こちらの方が良く知られている故事で あろうか
斉太史簡 を顕彰する故事では あるが、寧ろ私は弑殺された 荘公 に非が あると思う
崔杼 は 太公望呂尚 庶流で ある崔氏の出であり、荘公 の純然たる臣下では無い事も考慮すべき で あろう
また、荘公 は無道の振る舞い あり、自身の安寧のため兄弟を戮した と言う
そして 崔杼 は大変に有能なのである

古来より 崔杼 を批難する者が多いが、君公とは言え妻女を寝取られて黙っていられるのか?
それは単なる腑抜け腰抜けの輩でしか無く、報復した 崔杼 こそが正しいので ある



4. 関連 URI


参考と なる URI は以下の通り

崔杼 - Wikipedia

公開 : 2014年3月22日
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