四知

1. 賄賂を受け取らずに言い返した名言中の名言、ここに窮まる


東漢朝 安帝の世の秀才 楊震 字 伯起 が 東莱郡 太守の時、旧知の 昌邑県 県令 王密 が面会を求める
夜、場に二人しか いない事を見計り、秘(ひそ)かに金十斤の賄賂を差し出すので あるが……



2. 出典


後漢書 と 十八史略 で少し言い回しに差違が あるが、大意は同じ
孝字は皇帝の号に定型で前置される接頭句で、意味は無い
孝安とは、安帝乃至安皇帝と言う意で ある
【後漢書】 卷54 列傳 楊震傳

大將軍鄧騭聞其賢而辟之 舉茂才 四遷荊州刺史 東萊太守
當之郡 道經昌邑 故所舉荊州茂才王密為昌邑令 謁見
至夜懷金十斤 以遺震
震曰

故人知君 君不知故人 何也

密曰

暮夜無知者

震曰

天知神知我知子知 何謂無知

密愧而出
後轉涿郡太守 性公廉 不受私謁
子孫常蔬食步行 故舊長者或欲令為開產業
震不肯曰

使後世稱為清白吏子孫 以此遺之 不亦厚乎

【十八史略】卷第三 東漢 孝安

太尉楊震自殺震關西人 時人称之曰 關西孔子楊伯起
教授生徒堂下得三鱣都講以爲有三公之象取以進曰先生自此外矣後嘗爲郡守属邑令
有懐金遺以者 曰

暮夜無知者

震曰

天知地知子知我知 何謂無知

令慚而退
及爲三公時宦者及上乳毋王聖用事皆有請託震不從又數以近習爲言共搆之



3. 所感


清々しくも見事な廉潔さ、これ以上の言葉が出ない

なお、十八史略で 神知 が 地知 に転じているが理由は寡聞にして知らない
誰かの脚色で 天知地知子知我知神知霊知 と書かれている物を読んだ気もするが、確かでは無い



4. 関連 URI


参考と なる URI は以下の通り

楊震 - Wikipedia

公開 : 2014年3月26日
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