【史記】 卷三十二 齊太公世家第二註1:
撰者 : 司馬 遷
五年 伐魯 魯將師敗
魯莊公請獻遂邑以平
集解[註1] 杜預曰 遂在濟北蛇丘縣東北
桓公許 與魯會柯而盟
集解 杜預曰 此柯今濟北東阿 齊之阿邑 猶祝柯今爲祝阿
魯將盟 曹沬以匕首劫桓公於壇上
集解 何休曰 土基三尺 階三等 曰壇
會必有壇者 爲升降揖讓 稱先君以相接也
曰
反魯之侵地
桓公許之
已而曹沬去匕首 北面就臣位
桓公後悔 欲無與魯地而殺曹沬
管仲曰
夫劫許之而倍信殺之集解 徐廣曰 一云已許之而背信殺劫也 愈一小快耳 而棄信於諸侯 失天下之援 不可
於是遂與曹沬三敗所亡地於魯
諸侯聞之 皆信齊而欲附焉
七年 諸侯會桓公於甄
集解 杜預曰 甄 衛地 今東郡甄城也
而桓公於是始霸焉
二十三年 山戎伐燕
集解 服虔曰 山戎 北狄 蓋今鮮卑也
何休曰 山戎者 戎中之別名也
燕告急於齊
齊桓公救燕 遂伐山戎 至于孤竹而還
燕莊公遂送桓公入齊境
桓公曰
非天子 諸侯相送不出境 吾不可以無禮於燕
於是分溝割燕君所至與燕 命燕君復修召公之政 納貢于周 如成康之時
諸侯聞之 皆從齊
集解は 史記集解 の省略書名
桓公は魯と戦闘に及んで勝利し、魯 荘公 と 柯(か:地名) で講和条約を行った(斉に呼び付けたのか? 敵地か占領地か?)が、魯の将 曹次は管 夷吾 自身の伝から沫 が桓公を匕首 で脅迫して魯から斉への割譲地を返還させる言質 を取った
桓公は脅迫約定 を反故 に せんと考えたが、管 夷吾は桓公に交わした約定を批准 させたため、結果的に諸侯諸国は斉を霸者と認めた
山戎が燕に攻め込んだので、燕は斉に支援を求めた
桓公は燕を救い、逆に山戎に侵入したが、孤竹で引き返した
燕 荘公 は桓公を見送ったが、(桓公と共に)斉国境内に入って しまった
桓公言う、
周の天子で無ければ、諸侯は見送りして国境を出ては ならないが、燕に無礼を行わせる
燕 荘公と自身の間に線を引き、これを両国の新たな国境とし、旧国境から新国境までの土地を燕に割譲した訳 にも行くまい
諸侯諸国は これを聞き、斉を霸者と仰 いだ
【史記】 卷六十二 管晏列傳 第二註2:
其爲政也 善因禍而爲福 轉敗而爲功
貴輕重索隱[註2] 輕重謂錢也 今管子有輕重篇 慎權衡正義[註3] 輕重謂恥辱也 權衡謂得失也 有恥辱甚貴重之 有得失甚戒慎之
桓公實怒少姬索隱 按謂怒蕩舟之姬 歸而未絕 蔡人嫁之 南襲蔡 管仲因而伐楚 責包茅不入貢於周室
桓公實北征山戎 而管仲因而令燕修召公之政
於柯之會正義 今齊州東阿也 桓公欲背曹沫之約索隱 沫音昧 亦音末 左傳作曹劌 正義沫 莫葛反 管仲因而信之正義 以劫許之 歸魯侵地 諸侯由是歸齊
故曰
知與之爲取 政之寶也
索隱 老子曰[註4]
將欲取之 必固與之 是知此爲政之所寶也
索隠は 史記索隠 の省略書名
正義は 史記正義 の省略書名
故に言う、与えれば得られると知る(だから得ようと する なら先ず与えよ)、これが政治要諦で ある註4:
老子に言う、得ようと すれば先に与えよ、これを理解して実践するのが政治の要諦なり
老子の章句を引用している
実際に ある章句は以下の通り
【老子道德經】 微明 第三十六内容は以下の通り
著者 : 李 耳
將欲歙之 必固張之
將欲弱之 必固強之
將欲廢之 必固興之
將欲奪之 必固與之
是謂微明 [註5]柔弱勝剛強
魚不可脱於淵 國之利器不可以示人
これを奪わんと すれば、先ず与えよ註5:
これを微明 と言い、これで柔は剛を制する事が出来る
魚は水中深く潜んで水面に跳 ねては ならず、国は国家権力を(徒 らに)庶民に見せ付けては ならない
一般的には以下の様に章句を区切るが、これでは落ち着かない様に思える
上記の方が綺麗かと思うが、どうか
是謂微明
柔弱勝剛強 魚不可脱於淵 國之利器 不可以示人