雄略天皇は "ワカタケル" か

1. 稲荷山鉄剣出土後、雄略天皇は "ワカタケル" と なってしまった


稲荷山古墳から鉄剣(稲荷山鉄剣) が出土し、銘字 [獲加多支鹵] が "ワカタケル" と訓(よ)まれて しまい、大和朝廷の雄略天皇で あると言われている

しかし、この銘字は本当に "ワカタケル" と訓(よ)む ものなので あろうか

そもそも雄略天皇は "ワカタケル" と呼称される人物で あったのか?



2. 雄略天皇の諱は本当に "ワカタケル" なのか


[獲加多支鹵] を "ワカタケル" と訓んでいるのが、現在の定説で ある

そして この "ワカタケル" なる人物は、日本書紀と古事記に登場する 雄略天皇 の諱(忌み名:いみな) 若(も)しくは諡(贈り名:おくりな) で ある "ワカタケル" と一致すると言う
先(ま)ずは日本書紀の記述で あるが、
【日本書紀】 卷第十四 大泊瀬幼武天皇 雄略天皇

撰者 : 舎人親王 等

大泊瀬幼武天皇(おほはつせのわかたけのすめらみこと) 雄略天皇(いうりゃくてんわう)
大泊瀬幼武天皇 雄朝嬬稚子宿禰天皇第五子也
天皇產而神光滿殿 長而伉健過人

と ある

諱と諡は、以下の日本書紀の解説に記載されている もので ある
岩波文庫 【日本書紀】 (三)

校注者 : 坂本太郎 家永三郎 井上光貞 大野晋

もう一度読み返して見よう

雄略天皇の諱は 大泊瀬幼武、訓みは オホハツセノワカタケ で ある
実は、雄略天皇の諱は "ワカタケル" では無い

更に別の箇所では、
【日本書紀】 卷第十四 大泊瀬幼武天皇 雄略天皇

四年 春 二月 天皇射獵於葛城山 忽見長人 來望丹谷 面貌容儀相似天皇
天皇 知是神 猶故問曰

何處公也

長人對曰

現人之神
先稱王諱 然後應噵

天皇答曰

朕是幼武尊也(おのれはこれ、わかたけのみことなり)

長人次稱曰

僕是一事主神也

遂與盤于遊田 驅逐一鹿 相辭發箭 竝轡馳騁 言詞恭恪 有若逢仙
於是日晩田罷 神侍送天皇 至來目水
是時百姓咸言

有德天皇也

これも上記 校注者の訓で あるが、明らかにワカタケなので ある

なお、稲荷山鉄剣の銘字 [獲加多支鹵] が "ワカタケル" とは とても訓めない事、以下で述べている

獲加多支鹵の訓は "ワカタケル" で正しいか -銘文を中古音で訓む-

では もう一つの史書で ある古事記を見てみよう
【古事記】 下卷 雄略天皇

撰者 : 太 安萬侶 等

大長谷若建命 坐長谷朝倉宫 治天下也

古事記 下卷 雄略天皇

以下を見るに 大長谷若建命 の訓は書かれていないが、大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと) と あるので、オホハツセノワカタケルノミコト と訓ませると言う前提で書かれているので あろう

雄略天皇 - Wikipedia

ただ、本当に オホハツセノワカタケルノミコト なのかと言えば、

古事記編 神とも出会った恋多き王 雄略天皇の伝説を歌とともにめぐる|なら記紀・万葉

上記には

『古事記』が描く第21代天皇・大長谷若建命(おおはつせわかたけのみこと・雄略天皇)は、とりわけ多くの逸話に彩られています。

と書かれており、こちらが正しいと すれば 大長谷若建命 は オホハツセノワカタケノミコト と訓むのが正しいと言う事に なる

これは一体どう言う事なので あろうか……



3. 雄略天皇の本来の諱は ワカタケ か


古事記や日本書紀が著(あらわ)された当時の表音を追跡するのは難しいと思うが、何とか手段が無いもので あろうか…
どうにも私には、雄略天皇の諱は元々 ワカタケで あったものを、稲荷山鉄剣 出土に際し銘文中の銘字 [獲加多支鹵] に合わせて"ワカタケル" と改竄されてしまったよう に思えてしまう
では誰が改竄したのかと言えば、それは俊 俊男大野 晋で あろう
井上 光貞, 佐伯 有清, 直木 孝次郎, 門脇 禎二, 鎌田 元一, 黛 弘道 等の諸氏も同じ貉(むじな) の類で あるのかも知れないが

稲荷山鉄剣 の銘字 [獲加多支鹵] と雄略天皇の諱が一致すると言う事を理由に 獲加多支鹵=雄略天皇 と言う通説が成り立っている訳(わけ)で あるが、若し これが崩れる(いや、崩れていると思うが) ので あれば、従来の説に とって深刻な影響を及ぼす事に なる



4. ワカタケ 若しくは ワカタケル は雄略天皇だけ なのか


上記の貉達は ワカタケル = 雄略天皇 と決め付けているが、抑々(そもそも) この名は唯一無二の特別な名で、それだけで人物を特定して良いので あろうか?

実は ワカタケ ないし ワカタケル と呼ばれた者は他(ほか)にも以下の通り存在していた事が確認出来る
【日本書紀】 卷第第四 大日本根子彥太瓊天皇 孝靈天皇

(二年)春 二月 丙辰 朔 丙寅 立細媛命爲皇后一云 春日千乳早山香媛 一云 十市縣主等祖女眞舌媛也 后生大日本根子彥國牽天皇
妃倭國香媛亦名絚某姉 生倭迹々日百襲姬命,彥五十狹芹彥命亦名吉備津彥命,倭迹々稚屋姬命
亦妃絚某弟 生彥狹嶋命,稚武彥命 弟稚武彥命 是吉備臣之始祖也

稚武彦命(わかたけひこのみこと) と ある
この人物は古事記でも登場して おり、
【古事記】 中卷 孝靈天皇

大倭根子日子賦斗邇命 坐黑田廬戸宫 治天下也
此天皇娶十市縣主之祖大目之女 名細比賣命 生御子 大倭根子日子國玖琉命一柱 玖琉二字以音
又娶春日之千千速眞若比賣 生御子 千千速比賣命一柱
又娶意富夜⿇登玖邇阿禮比賣命 生御子 夜⿇登登母母曾毘賣命 次日子刺肩别命 次比古伊佐勢理毘古命 亦名大吉備津日子命 次倭飛羽矢若屋比賣四柱
又娶其阿禮比賣命之弟 蠅伊呂杼 生御子 日子寤間命 次若日子建吉備津日子命二柱
此天皇之御子等 幷八柱男王五女王三
故大倭根子日子國玖琉命者 治天下也
大吉備津日子命與若建吉備津日子命 二柱相副而於針間氷河之前居忌瓮而針間爲道口 以言向和吉備國也
故此大吉備津日子命者吉備上道臣之祖也若日子建吉備津日子命吉備下道臣,笠臣祖 次日子寤間命者針間牛鹿臣之祖也 次日子刺肩别命者高志之利波臣,豐國之國前臣,五百原君,角鹿海直之祖也
天皇御年 壹佰陸歲
御陵在片岡馬坂上也

古事記 中卷 孝靈天皇 1

古事記 中卷 孝靈天皇 2


古事記では以下に写本画像が公開されているので、こう言う時には非常に助かる

国立国会図書館デジタルコレクション - 古事記. 中,下

若日子建吉備津日子命(わかひこたけきびつひこのみこと) は若建吉備津日子命(わかたけきびつひこのみこと) とも書かれている
兄が 大吉備津日子命 で ある事が読み取れるので、"若" には年下や弟と言った程度の意味合い を持たされている ので あろう

他にも、
【日本書紀】 卷第七 大足彥忍代別天皇 景行天皇

(五十一年)初日本武尊 娶兩道入姬皇女爲妃 生稻依別王 次足仲彥天皇 次布忍入姬命 次稚武王 其兄稻依別王 是犬上君,武部君 凡二族之始祖也
又妃吉備武彥之女吉備穴戸武媛 生武卵王與十城別王 其兄武卵王是讚岐綾君之始祖也 弟十城別王是伊豫別君之始祖也
次妃穗積氏忍山宿禰之女弟橘媛 生稚武彥王

稚武王(わかたけのみこ) に稚武彦王(わかたけひこのみこ) と、ワカタケ なる者が二人も現(あら)われている
何とも豪勢な大盤振る舞い では ある

なお、若字 には然程(さほど)の意義は無く人名の中核は タケ,タケル の箇所に あると見做(みな)す ので あれば、更に以下の様な人物も挙げて良い事に なる
【日本書紀】 卷第七 大足彥忍代別天皇 景行天皇

(十二年)十一月 到日向國 起行宮以居之 是謂高屋宮
十二月 癸巳 朔 丁酉 議討熊襲
於是天皇詔群卿曰

朕聞之 襲國有厚鹿文,迮鹿文者 是兩人熊襲之渠帥者也 衆類甚多
是謂熊襲八十梟帥 其鋒不可當焉 少興師則不堪滅賊 多動兵是百姓之害

何不假鋒刃之威 坐平其國

時有一臣進曰

熊襲梟帥有二女 兄曰市乾鹿文乾 此云賦 弟曰市鹿文 容既端正 心且雄武
宜示重幣以撝納麾下
因以伺其消息 犯不意之處 則會不血刃 賊必自敗

天皇詔

可也

於是示幣欺其二女而納幕下
天皇則通市乾鹿文而陽寵 時市乾鹿文奏于天皇曰
無愁熊襲之不服

妾有良謀 卽令從一二兵於己

而返家 以多設醇酒令飲己父 乃醉而寐之
市乾鹿文 密斷父弦 爰從兵一人進殺熊襲梟帥
天皇則惡其不孝之甚而誅市乾鹿文 仍以弟市鹿文賜於火國造

(廿七年)冬 十月 丁酉 朔 己酉 遣日本武尊令擊熊襲 時年十六
於是日本武尊
吾得善射者欲與行

其何處有善射者焉

或者啓之曰

美濃國有善射者 曰弟彥公

於是日本武尊 遣葛城人宮戸彥 喚弟彥公
故弟彥公 便率石占横立及尾張田子之稻置,乳近之稻置而來 則從日本武尊而行之

(廿七年)十二月 到於熊襲國
因以伺其消息及地形之嶮易
時熊襲有魁帥者 名取石鹿文 亦曰川上梟帥 悉集親族而欲宴
於是日本武尊 解髮作童女姿 以密伺川上梟帥之宴時 仍佩劒裀裏 入於川上梟帥之宴室 居女人之中
川上梟帥 感其童女之容姿 則携手同席 舉坏令飲而戲弄
于時也更深 人闌 川上梟帥且被酒
於是日本武尊 抽裀中之劒 刺川上梟帥之胸
未及之死 川上梟帥叩頭曰

且待之 吾有所言

日本武尊 留劒待之 川上梟帥啓之曰

汝尊誰人也

對曰

吾是大足彥天皇之子也 名曰本童男也
川上梟帥亦啓之曰

吾是國中之强力者也 是以當時諸人 不勝我之威力而無不從者
吾多遇武力矣 未有若皇子者
是以賤賊陋口以奉尊號 若聽乎


聽之

卽啓曰

自今以後 號皇子應稱日本武皇子

言訖乃通胸而殺之
故至于今 稱曰日本武尊 是其緣也
然後遣弟彥等 悉斬其黨類 無餘噍
既而從海路還倭 到吉備 以渡穴海
其處有惡神 則殺之
亦比至難波 殺柏濟之惡神濟 此云和多利
廿八年 春 二月 乙丑 朔 日本武尊奏平熊襲之狀曰

臣頼天皇之神靈 以兵一舉 頓誅熊襲之魁帥者 悉平其國
是以西洲既謐 百姓無事
唯吉備穴濟神及難波柏濟神 皆有害心 以放毒氣 令苦路人 並爲禍害之藪
故悉殺其惡神 並開水陸之徑

天皇於是 美日本武之功而異愛

熊襲八十梟帥(くまそのやそたける) や 川上梟帥(かわかみのたける) と言った人物が現われている
もっとも、これは諱(いみな) では無く称号や襲名号と言ったもので あるのかも知れない
それぞれの諱は 取石鹿文(とりいしかや)[註1],有厚鹿文(あつかや)[註1],迮鹿文(せかや)[註1] と言う らしい
ついでに日本武尊(やまとたけるのみこと) の名も見えるが、これも諱では無く追号と言うべきか

註1:

倭語では母音が音便化してしまう(上代仮名遣 有坂法則)ので、本来は 取石鹿文(とりいしかあや),有厚鹿文(あつかあや),迮鹿文(せかあや) で あったのかも知れない

【古事記】 中卷 景行天皇

於是天皇 惶其御子之建荒之情 而詔之

西方有熊曾建二人 是不伏无禮人等 故取其人等

而遣
當此之時 其御髮結額也
爾小碓命 給其姨倭比賣命之御衣御裳 以劒納于御懷 而幸行
故到于熊曾建之家見者 於其家邊軍圍三重 作室以居
於是言動爲御室樂 設備食物
故遊行其傍 待其樂日
爾臨其樂日 如童女之髮梳垂其結御髮 服其姨之御衣御裳 旣成童女之姿交立女人之中 入坐其室內
熊曾建兄弟二人見感其孃子 坐於己中而盛樂
故臨其酣時 自懷出劔 取熊曾之衣衿以劔自其胸刺通之時 其弟建見畏逃出
乃追至其室之𠋣本 取其背皮[註2]劔自尻刺通
爾其熊曾建白言

莫動其刀 僕有白言

爾暫許押伏
於是白言

汝命者誰

爾詔

吾者坐纒向之日代宫 所知大八嶋國大帶日子淤斯呂和氣天皇之御子 名倭男具那王者也
意禮熊曾建二人不伏無禮聞看 而取殺意禮詔而遣

爾其熊曾建

信然也 於西方除吾二人無建强人 然於大倭國益吾二人 而建男者坐祁理
是以吾獻御名 自今以後應稱倭建御子

是事白訖 卽如熟苽振折而殺也
故自其時稱御名謂倭建命
然而還上之時 山神,河神及穴戸神皆言向和而參上
卽入坐出雲國欲殺其出雲建而到 卽結友
故竊以赤檮作詐刀爲御佩共沐肥河
倭建命自河先上 取佩出雲建之解置橫刀 而詔

易刀

故後出雲建自河上 而佩倭建命之詐刀
於是倭建命誂云

伊奢合刀

爾各拔其刀之時 出雲建不得拔詐刀
倭建命拔其刀 而打殺出雲建
爾御歌曰

夜都米佐須 伊豆毛多祁流賀 波祁流多知 都豆良佐波麻岐 佐味那志爾阿波禮

故如此撥治 參上覆奏

註2:

写本上部に 皮以之誤 と ある

古事記 中卷 景行天皇 1

古事記 中卷 景行天皇 2

古事記 中卷 景行天皇 3


ここにも 熊曽建 や 出雲建 と言った ワカタケ,ワカタケル に似た人物が色々と登場している
出雲建 が諱で あったか どうかは分からない
いずれにしても、単に タケル だけでは あちらこちら に似た様な呼称の人物が存在していたので、地名や勢力の名称を冠(かん)して呼称されたので あろう

上記の 日本書紀 景行天皇 の箇所で現れる 稚武彦王 で あるが、古事記にも同一人物と覚(おぼ)しき 者の記載が ある
【古事記】 中卷 景行天皇

倭建命 娶伊玖米天皇之女 布多遲能伊理毘賣命自布下八字以音 生御子 帶中津日子命一柱
又娶其入海弟橘比賣命 生御子 若建王一柱
又娶近淡海之安國造之祖 意富多牟和氣之女 布多遲比賣 生御子 稻依别王一柱
又娶吉備臣建日子之妹 大吉備建比賣 生御子 建貝兒王一柱
又娶山代之玖玖麻毛理比賣 生御子 足鏡别王一柱
又一妻之子 息長田别王
凡是倭建命之御子等 幷六柱

若建王 と あるが、これが ワカタケ で無くて何と読むのか
他にも、吉備臣建日子 と 大吉備建比売 父娘(おやこ)が書かれているが、どうやら タケ は女性でも使われる事が あった らしい

古事記 中卷 景行天皇 4

古事記 中卷 景行天皇 5




5. 雄略天皇は ワカタケル では無く、稲荷山鉄剣銘は人物を特定出来ない


雄略天皇はワケタケで あり、ワカタケル では無い
そして タケ を含む者は史書に載録されている者だけで複数人存在している
当然の事で あるが、残念ながら文献に記録されていない者も いた筈で あり、ワカタケ,ワカタケル,タケ,タケル と言う呼称だけでは人物を特定し得ない様に思われる

つまり、ワカタケ,ワカタケル と あるから それならば雄略天皇に確定、とは ならないので ある

公開 : 2016年6月13日
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