漢書 西域伝

1. 漢書 西域伝 と 魏志 倭人伝


漢書 西域伝は 陳寿 が三国志編纂に際し参照した史書で ある
漢書 が編纂された東漢朝は 陳寿 が生きた西晋朝の前々王朝で あるが、直前王朝で ある魏朝は 45年しか歴史に残さぬ短命王朝で あり、陳寿 を含む三国時代に生まれた者達に とっては親の世代が生きていた時代でも あるのでいまだ記憶が生々しく、彼等に とっては ほぼ直近の王朝と言っても良いかと思う

西域伝 の記述手法は女王国所在地論争に おける行程論争に対して非常に大きな影響を及ぼしている事、確実で ある
何故なら、陳寿 自身が 三国志 東夷伝 で 史記 や 漢書 を引き合い に出しているから で ある
この東漢朝にまれた史書の存在は 魏志 倭人伝 を読解する上で避けて通れぬ重要な位置付け と なっているかと思うので、今ここに全文と影本画像を掲げる事と した

なお、里程行程記述および 倭人伝 に登場している表音字は太字で目立つように しておいた
卑弥呼 の時代に興味ある読者諸賢の参考に なれば幸い に思う

影本として主に以下を採用している

《武英殿二十四史》本《漢書》 (圖書館) - 中國哲學書電子化計劃



2. 原文


自身で書くのも何で あるが、かなりの大作で ある
ここでは註者の載録方針にのっとって上下巻に分けて掲載する

.1 西域伝 上

【漢書】 卷九十六上 西域傳第六十六上

撰者 : 東漢朝 班固 班昭 馬続(ばしょく) 等

師古曰 自烏孫國已後分爲下卷
西域以孝武時始通 三十六 其後稍分至五十餘師古曰 司馬彪續漢書云 至于哀,平 有五十五國也 皆在匈奴之西 烏孫之南
南北有大山 中央有河 東西六千餘里 南北千餘里

# 北は天山山脈 南は崑崙山脈 河はタリム川

東則接漢 阸以玉門,陽關

孟康曰 陽[註1]關皆在敦煌西界
師古曰 阸塞也

西則限以葱嶺師古曰 西河舊事云 葱嶺其山高大 上悉生葱 故以名焉

# パミール高原やカラコルム山脈の事か

註1:

陽字 を 二字 と記す書あり、玉門関と陽関の二関が正しいか

其南山東出金城 與漢南山屬焉師古曰 屬聯也 音之欲反
其河有兩原 一出葱嶺山 一出于闐師古曰 闐字與寘同 音徒賢反 又音徒見反
于闐在南山下 其河北流與葱嶺河合 東注蒲昌海
蒲昌海 一名鹽澤者也 去玉門,陽關三百餘里 廣袤三百里師古曰 袤長也 音茂

# 蒲昌海および塩沢とは彷徨さまよえる湖と されていた ロプ・ノールLop Nur湖 で ある
# 井上 靖 の【楼蘭】はかつて私も読んだ

其水亭居 冬夏不增減 皆以爲濳行地下 南出於積石 爲中國河云

# 以下は距離の記載は無いが主線行程記法の変型と見て良いか

自玉門,陽關出西域有兩道
從鄯善傍南山北 波河西行至莎車爲南道師古曰 波河循河也 鄯音上扇反 傍音步浪反 波音彼義反 此下皆同也 南道西葱嶺則出大月氏,安息師古曰 氏音支
自車師前王庭隨北山 波河西行至疏勒爲北道 北道西葱嶺則出大宛,康居,奄蔡焉耆[註2]

註2:

耆字 が無い書あり、焉耆国の誤脱と見して誤追記したか


西域諸國大率土著師古曰 言著土地而有常居 不隨畜牧移徙也 著音直略反 有城郭,田,畜 與匈奴,烏孫異俗 故皆役屬匈奴師古曰 服屬於匈奴 爲其所役使也
匈奴西邊日逐王置僮僕都尉使領西域 常居焉耆,危須,尉黎間 賦稅諸國 取富給焉師古曰 給足也

# 一大率 では無いが…

自周衰戎狄錯居涇,渭之北師古曰 錯雜也
及秦始皇攘卻戎狄 築長城界中國師古曰 爲中國之境界也 然西不過臨洮師古曰 洮音土高反
漢興至于孝武事征四夷廣威德 而張騫始開西域之迹
其後驃騎將軍擊破匈奴右地降渾邪,休屠王師古曰 屠音除 遂空其地 始築令居以西師古曰 令音鈴 宋祁曰 集韻令音連云 令居縣名在金城郡 初置酒泉郡 後稍發徙民𠑽實之 分置武威,張掖,敦煌師古曰 敦音徒門反列四郡 據兩關焉

自貳師將軍伐大宛之後西域震懼 多遣使來貢獻 漢使西域者益得職師古曰 賞其勤勞 皆得拜職也
於是自敦煌西至鹽澤往往起亭 而輪,渠犂皆有田卒數百人 置使者校尉領護師古曰 綂領保護營田之事也 以給使外國者師古曰 收其所種五穀以供之

至宣帝時 遣衞司馬使護鄯善以西數國
及破姑師未盡殄師古曰 雖破其國未能滅之 分以爲車師前,後王及山北六國
時漢獨護南道未能盡并北道也 然匈奴不自安矣
其後日逐王畔單于將衆來降 護鄯善以西使者鄭吉迎之
旣至漢 封日逐王爲歸德侯 吉爲安遠侯
是歲神爵三年(西暦 紀元前59年)[註3]也 乃因使吉并護北道 故號曰都護

註3:

註記に 神爵二年 が正しい と ある

都護之起 自吉置矣師古曰 都猶總也 言總護南北之道
僮僕都尉由此罷 匈奴益弱 不得近西域
於是徙屯田田於北胥鞬師古曰 胥鞬[註4]地名也 胥音先餘反 鞬[註4]音居言反 披莎車之地師古曰 披分也 屯田校尉始屬都護
都護督烏孫,康居諸外國師古曰 督視也動靜 有變以聞 可安輯安輯之 可擊擊之師古曰 輯與集同
都護治烏壘城宋祁曰 烏壘下監本有孫字 去陽關二千七百三十八里 與渠犂田官相近 土地肥饒 於西域爲中 故都護治焉

至元帝時 復置戊已[註5]校尉 屯田車師前王庭
是時匈奴東蒲類王茲力將人衆千七百餘人降都護 都護分車師後王之西爲烏貪訾離地以處之


註4:

註記に 神爵二年 が正しい と ある
鞬字 正しくは [革辶聿] か
辶 と 廴 の差違が ある 鞬字 の異体字と して良いか どうか判断下せず
䢖(yù,yù,jiàn,lǜ)字 は 建(jiàn)字 の異体字 なので ケン か
鞬(jiān)字 は 犍(jiān)字 と同音なので ケン

註5:

已字 は 己字 の誤か

自宣,元後 單于稱藩臣 西域服從 其土地,山川,王侯,戸數,道里遠近翔實矣師古曰 翔與詳同 假借用耳

出陽關 自近者始 曰婼羌孟康曰 婼音兒 師古曰 音而遮反
婼羌國王號去胡來王師古曰 言去離胡戎來附漢也
去陽關千八百里宋祁曰 越本八作六 去長安六千三百里 辟在西南 不當孔道師古曰 辟讀曰僻 孔道者穿山險而爲道 猶今言穴徑耳
戸四百五十 口千七百五十 勝兵者五百人
西與且末接師古曰 且音子餘反
隨畜逐水,草不田作 仰鄯善,且末穀師古曰 頼以自給也 仰音牛向反
山有鐵自作兵 兵有弓,矛,服刀,劔,甲
劉德曰 服刀拍𩩙也 師古曰 拍音貊 髀音俾又音陛
西北至鄯善 乃當道云


鄯善國 本名樓蘭 王治扜泥城師古曰 扜音一胡反 去陽關千六百里 去長安六千一百里
戸千五百七十 口萬四千一百 勝兵二千九百十二人
輔國侯,郤胡侯師古曰 卻音丘畧反 其字從阝 阝音節 下皆類此,鄯善都尉,擊車師都尉,左右且,擊車師君各一人 譯長二人
西北去都護治所千七百八十五里 至山國千三百六十五里師古曰 此國山居 故名山國也 西北至車師千八百九十里
地沙鹵少田 寄田仰穀旁國師古曰 寄於它國種田 又旁國之穀也 仰音牛向反
國出玉 多葭葦,檉柳,胡桐,白草

孟康曰

白草草之白者 胡桐似桑而多曲

師古曰

檉柳河柳也 今謂之赤檉 白草似莠而細無芒 其乾孰時正白色 牛,馬所嗜也 胡桐亦似桐不類桑也 蟲食其樹而沫出下流者俗名爲胡桐淚 言似眼淚也 可以汗金,銀也 今工匠皆用之 流俗語訛呼淚爲律 檉音丑成反


民隨畜牧逐水,草 有驢馬 多橐它師古曰 它古他字也 音徒何反
能作兵 與婼羌同

初武帝感張騫之言 甘心欲通大宛諸國 使者相望於道 一歲中多至十餘輩
樓蘭,姑師當道苦之師古曰 每供給使者受其勞費 故厭苦也 攻劫漢使王恢等 又數爲匈奴耳目 令其兵遮漢使

# 西漢の使者及び随行員は水と食糧を現地で容易に調達出来るものと考えていたので あろうが、それは平地に川が流れて穀物が豊饒に実る黄河や長江の流域に暮らしていたから で あろう

# しかし抑々そもそも西域と言う地域は物資が乏しく飲用水は極めて貴重で あり耕地が狭小で収穫される作物は限られているため、生活水準は かなり低かった筈なので ある

# その状況で使者の往来のたびに食と水を供出させて いては、上記の彷徨える湖が あった樓蘭といえども国家国土が干上がってしまう

# されど、生まれながらの皇帝で ある武帝に とって、食と水は臣下が持って来る物 位の認識が無かったで あろうから、西域の状況を理解し切れて いなかったと思う

# 供出が無賃強制か貨幣納入で あったのかは知るよしも無いが、漢朝の銭貨をき散らされても物資の絶対量が足りていない西域では単にインフレーションが起きる だけ で あったかと思う

# ならば どうすれば良かったか と言えば、麦,粟,稗,豆と言った長期保存がく食材を輸送し物々交換を行えば、楼蘭国 官民も困窮しなかった で あろう

# 道が険阻なので輜重しちょうを送るのは手間と費用が かかるが、帰りは積荷も軽く なるし、車輌を現地で使い捨て に しても木材資源の確保に苦しむ西域では廃棄材として再利用されるので重宝がられる と思う

漢使多言其國有城邑 兵弱易擊
於是武帝遣從票侯趙破奴將屬國騎 及郡兵數萬擊姑師師古曰 屬國謂諸外國屬漢也
王恢數爲樓蘭所苦 上令恢佐破奴將兵
破奴與輕騎七百人先至虜樓蘭王 遂破姑師 因暴兵威以動烏孫,大宛之屬師古曰 暴謂顯揚也
還封破奴爲浞野侯 恢爲浩侯蘇林曰 浩音昊
於是漢列亭障至玉門矣


樓蘭旣降服貢獻 匈奴聞發兵擊之
於是樓蘭遣一子質匈奴 一子質漢
後貳師軍擊大宛 匈奴欲遮之貳師兵盛不敢當 卽遣騎因樓蘭𠋫漢使後過者 欲絶勿通
時漢軍正任文將兵屯玉門關 爲貳師後距師古曰 後距者 居後以距敵 捕得生口知狀以聞
上詔文便道引兵捕樓蘭王
詣闕簿責王師古曰 以文簿一一責之 簿音簿[註6]戸反對曰

小國在大國間 不兩屬無以自安
願徙國入居漢地

上直其言 遣歸國師古曰 以其言爲直 亦因使𠋫伺匈奴
匈奴自是不甚親信樓蘭

征和元年(前92年) 樓蘭王死 國人來請質子在漢者欲立之
質子常坐漢法下蠶室宮刑 故不遣

# 何故 利用価値が ある人質を利用価値が永久に失われてしまう宮刑に処したのか?

# どう言った罪を犯したのかは分からないが質子ちしを後継国王に据えて親漢政権を擁立すれば良かったと思うが、これは愚の骨頂と言うしか無い

報曰


註6:

簿字 を 步字と する書あり、簿字 の反切が 簿戸反 と言うのは通意しないので 歩戸反 が正しいか


侍子天子愛之 不能遣
其更立其次當立者

# これは私見では あるが、樓蘭の人質は皇帝の男色対象と されて しまったのでは無いか

# 皇帝の私生活空間で ある後宮は男子禁制で あるため、後宮に住まわせるため には男子では無い状態に変遷させねば ならない

# このため、強制的に宦官に処する事で男子では無くして しまったのでは無いか と想像している

# 以下の書には詩才ある官吏が宦官に された後に後宮に拉致されてしまった と言う実例が記載されている

#

【宦官 中国四千年を操った異形の集団】

著者: 顧 蓉, 葛 金芳
翻訳: 尾鷲 卓彦

樓蘭更立王 漢復責其質子 亦遣一子質匈奴
後王又死 匈奴先聞之遣質子歸 得立爲王師古曰 匈奴在漢前聞樓蘭王死 故卽遣質子還也
漢遣使詔新王令入朝 天子將加厚賞
樓蘭王後妻故繼母也 謂王曰

先王遣兩子質漢皆不還 奈何欲往朝乎

王用其計 謝使曰

新立國未定 願待後年入見天子

然樓蘭國最在東垂近漢 當白龍堆乏水,草 常主發導 負水儋糧送迎漢使 又數爲吏,卒所寇 懲艾不便與漢通師古曰 艾讀曰又
後復爲匈奴反間師古曰 間音居莧反 數遮殺漢使
其弟尉屠降漢 具言

元鳳四年(前77年) 大將軍霍光白 遣平樂監傅介子往刺其王


介子輕將勇敢士 齎金,幣 揚言以賜外國爲名
旣至樓蘭 詐其王欲賜之 王喜與介子飮醉 將其王屏語 壯士二人從後刺殺之 貴人,左右皆散走
介子告諭以

王負漢罪 天子遣我誅王 當更立王弟尉屠耆在漢者 漢兵方至毋敢動 自令滅國矣

介子遂斬王𡮢歸首師古曰 𡮢歸者 其王名也 昭紀言安歸 今此作𡮢歸 紀傳不同 當有誤者 馳傳詣闕師古曰 傳音張戀反 縣首北闕下 封介子爲義陽侯
乃立尉屠耆爲王 更名其國爲鄯善 爲刻印章 賜宮女爲夫人 備車騎,輜重師古曰 重音直用反 丞相,將軍[註7]率百官送至橫門外
孟康曰 橫音光 宋祁曰 淳化本作丞相將軍百官 景德監本及浙本作丞相率百官無將軍字 今越本作丞相將軍率百官

祖而遣之師古曰 爲設祖道之禮也


註7:

將軍 脱字の書あり


(続く)

公開 : 2017年11月27日
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