壱与は親魏倭王の金印を晋朝に返上したか

1. 親魏倭王印は晋朝に返上されたと言う誤説


卑弥呼 が曹魏朝から与えられた 親魏倭王 印で あるが、これを 壱与 が西晋朝に返還したと主張する者が いる らしい

例えば以下にも少し触れられている

親魏倭王 - Wikipedia

具体的には、以下の者が主張している(故人なので主張していた、が正しいので あるが)

大庭脩 - Wikipedia

実際に引用して見よう
【考古学千夜一夜】 P.114

著者 : 佐原 眞

 もっとショッキングな解釈があります。
このあいだ、大庭おおばおさむさん(関西大学、中国古代法制史)に教わりました。
お許しを得たので紹介させていただくと、大庭さんは、「日本では見つからんと思ってるんです」と言われたので絶句しました。

 どういうこと?

 卑弥呼が死んでから、二六六年に倭の女王壱与いよが晋(西晋)に朝貢する。
王朝が代わったんだから、「このとき、親魏倭王印は返却して親晋倭王の印をもらってきてても、不思議ではありません。
冊封さくほう体制とは、そういうものではないでしょうか」──これが大庭さんの言葉です。

 中国で王莽おうもうが前漢を倒して「新」をたてたとき、匈奴は、漢からもらっていた「匈奴単于きょうどぜんうの」を受け取る。
あとで格落ちと気がついて、その印を取り返そうとしたが、破砕したあとだった、という話を思い出すな。

 大庭さんも、その話を頭において考えているのです。

【古代中世における 日中関係史の研究】 P.15

著者 : 大庭 脩

もう一つは、日本国内で、もし「親魏倭王」印が発掘され、その場所が墓であれば卑弥呼の墳墓であり、邪馬台国の場所を考える有力な物証になるのではないかと考える説についてである。

私は、二六六年(泰始二)に倭の女王の使が晋に至ったが、この使の目的は、前年に成立した晋王朝を賀する賀使であろうと推測している。
そうすると、このときに新王朝に対し当然忠誠と和親の意を表するはずであるが、そのためには前王朝より与えられた印綬を返して、新しい王朝の印綬を受けるのが冊封体制下にある諸族の守るべき礼であったと思う。
その証拠は、九年(始建国元)、王莽は漢の天下を奪うと五偉将を派遣し、国内では王侯以下、国外では匈奴、また西域をはじめ徼外の蛮夷に対し、新室の印綬を受け、故の漢の印綬を収めさせ、匈奴、西域では単于や王の扱いを一段落としたので、のちに離反を招いたという例である。

【古代中世における 日中関係史の研究】 P.37

その後、卑弥呼の後嗣壱与は魏に遣使貢献していたが、西紀二六五年、晋が魏に代って皇帝となると、翌年十月、遣使貢献した。
ここで親魏倭王の印綬は返納され、親晋倭王の印綬を与えられたものと思う。

【古代中世における 日中関係史の研究】 P.123

もとよりこの親魏倭王の印は、その姿が明らかではないが、最近人によっては、何処か日本の古墳の中から親魏倭王の印が出土すれば、その附近に邪馬台国があったと考え得るという説があると聞く。
しかし私は、親魏倭王の印は日本からは出ないのではないかと考えている。
その理由は、日本書紀の神功皇后紀六十六年の注に晋起居注を引き、

武帝泰始二年十月、倭女王遣重訳貢献

とあるが、これは晋が魏を滅ぼして皇帝となったことを慶賀する使者であると考えられる。
そうであるなら、このとき使者は親魏倭王印を返納し、代りに親晋倭王印を授けられねばならぬはずで、理屈でいえば親魏倭王印は日本では出土しないことになる。
その具体的な例としては、王莽が漢王朝を簒奪して新王朝をたてたとき、匈奴などに使を遣わして、漢の印綬を新の印綬に取り換えさせた例がある。

いやいや、そう言った事は あるまいに…



2. 曹魏朝は東漢朝が与えた 漢委奴国王印の返上を要求していない


ず明らかな事で あるが、東漢朝から禅譲を受けた魏朝は 卑弥呼 に 親魏倭王 印を与える際に、前王朝が与えた漢委奴国王印の返還要求していない
いや、要求していないか どうかは分からないが、少なくとも 漢委奴国王 印が志賀島で発見されている以上、返上していない事は明らかで ある

つまり、新たに印綬を受ける際には前王朝での賜印しいんを返納しなければ ならないと言った良く分からん条件課されて いなかった事を意味している

となれば、魏晋朝の王朝交代が行われた際に 壱与 が朝貢した時には親魏倭王印の返納要求されなかったものと予測される ので ある

ついでに書くが、魏晋朝が夷蛮勢力に授けた印が どうなったか で あるが、
【古代中世における 日中関係史の研究】 P.14

つぎに、一般に蛮夷印と総称される一群の官印があり、これは中国王朝から異民族の首長などに与えられたものであるが、多くの異民族に賜与したため遺存例が多い。

王朝があらたまった際に後継王朝に返納するのでは無いのか?
返納していたので あれば後世に遺存する筈が無いで あろうに…
自身で書いた文面を理解出来ていないのか?
【古代中世における 日中関係史の研究】 P.17

このようにみたとき、「率善」の字の入った蛮夷印があることに気づく。
最も大切なのは、一九五六年に内蒙古涼城県蕃漢山から出土した「晋鮮卑率善中郎将」の銀質駝鈕印で、難升米らの得た銀印とほぼ同じものであろう。

晋鮮卑率善中郎将 なる銀印(=銀印もどき印?) を見た事は無いが、それにしても その鮮卑は東晋朝や劉氏宋朝に返納しなかったと言う事では無いのか、と疑問に思う
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳

撰者 : 西晉(晋)朝 陳壽(寿)

其年十二月 詔書報倭女王曰

制詔親魏倭王卑彌呼 帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米 次使都市牛利奉汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈 以到 汝所在踰遠 乃遣使貢獻 是汝之忠孝 我甚哀汝 今以汝爲親魏倭王 假金印紫綬 裝封付帶方太守假授汝 其綏撫種人 勉爲孝順
汝來使難升米,牛利渉遠 道路勤勞
今以難升米爲率善中郎將 牛利爲率善校尉 假銀印靑綬 引見勞賜遣還

もし王朝が代わった際には印綬を返納しなければ ならないものと仮定しよう
そうすると、返上すべきは実は親魏倭王 印だけにとどまらないので ある
つまり、親魏倭王 印の紫綬と共に青綬銀印された以下の

1) 難升米 が青綬された 率善中郎將 印
2) 都市牛利 が青綬された 率善校尉 印


も また返還の対象と なってしまい兼ねない ので ある
いやいや、こう言ったものまで一々返さなければ ならないので あろうか?

答えは否、で あろう



3. 漢新王朝交代時の璽章交換は前王朝下賜印返上の根拠には ならない


壱与 による金印返上が行われたと する根拠として挙げられているのが、西漢朝から新王朝(国号が 新 なので ややこしい)への禅譲後に 王莽 が行った五威将による漢印綬と新室印綬の交換派遣で ある

では その交換業務が行われた一行いっこうの事績を改めて確認して見よう
原文の下に掲げているのは、以下の影本画像で ある
《武英殿二十四史》本《漢書》 (圖書館) - 中國哲學書電子化計劃
【漢書】 卷九十九中 王莽傳第六十九中

撰者 : 東漢朝 班固,班昭,馬続ばしょく

(始建國元年)(西暦紀元後9年)五威將乘乾文車鄭氏曰 畫天文象於車也 駕坤六馬鄭氏曰 坤爲牝馬六地數 背負鷩鳥之毛 服飾甚偉師古曰 鷩鳥雉屬卽鵕䴊也 今俗呼之山雞非也 鷩音鼈 每一將各置左右前後中帥 凡五帥
衣冠車服駕馬 各如其方面色數師古曰 色者東方靑南方赤也 數者若木數三火數二之類也將持節 稱太一之使帥持幢 稱五帝之使
莽策命曰

普天之下 迄于四表師古曰 迄亦至也 靡所不至

其東出 者至玄菟,樂浪,高句驪,夫餘師古曰 夫餘亦東北夷也 樂音洛 浪音郎 夫音扶
南出者 隃徼外歷益州師古曰 隃字與踰同 貶句町王爲侯
西出者 至西域 盡攺其王爲侯
北出者 至匈奴庭授單于印 攺漢印文
單于欲求故印 陳饒椎破之 語在匈奴傳
單于大怒 而句町,西域後卒以此皆畔

【漢書】 卷九十九中 王莽傳第六十九中 1

【漢書】 卷九十九中 王莽傳第六十九中 2


何の事は無い、これは回収詐欺で ある

北の方 単于庭 に向かった五威将は漢朝璽印(匈奴單于璽) を取り上げて新朝章印(新匈奴單于章) を授けた
後に なって漢語と印制が分かる匈奴の者が この章印を見て降格された事に気付いて 烏珠留若鞮おしゅりゅうじゃくてい単于 に教えたので、単于は取り上げられた漢璽印の返却を要求したが、五威将の一人 陳じょう既に破壊したと返答した
単于は これを聞いて大変にってしまい、次なる行動に及ぶ事に なる

抑々論として、何故 王莽 は回収こう態々わざわざ匈奴の単于に派遣したのか と言えば、
【漢書】 卷九十九中 王莽傳第六十九中

始建國元年 正月 朔(紀元8年12月か) 莽帥公侯,卿士奉皇太后璽韍 上太皇太后師古曰 韍謂璽之組 音弗順符命去漢號

【漢書】 卷九十九中 王莽傳第六十九中 3


天命を受けて新帝国をおこし、漢の名称を除去するので ある
何故 除去するのかと言えば、最早 禅譲が行われた以上は前王朝の利用価値は無くなっているので、邪魔な漢王朝の痕跡を一切合財がっさい排除したいので ある

孝元太皇太后 の 王政君 も国璽を投げ付けたと言うから、さぞや無念で あった事かと思う
ふつ の原義は 膝掛ひざかけ なので、転じて印璽のちゅう組紐くみひもで通して腰から下げていたと言う事か
【漢書】 卷九十九中 王莽傳第六十九中

(始建國元年)(正月か)(=8年12月)攺明光宮爲定安館 定安太后居之

【漢書】 卷九十九中 王莽傳第六十九中 4


非常に下らない、名称もてあそび の始まりで ある
邸宅の実体は何も変わらないが、名前が変わったので気分的に新しくなったように感じると言う事なので あろう
【漢書】 卷九十九中 王莽傳第六十九中

(始建國元年)(8年12月? 9年?)更名大司農曰羲和 後更爲納言 大理曰作士 太常曰秩宗 大鴻臚曰典樂 少府曰共工師古曰 共讀曰龔 水衡都尉曰予虞 與三公司卿凡九卿 分屬三公
每一卿置大夫三人 一大夫置元士三人 凡二十七大夫八十一元士 分主中都官諸職宋祁曰 或無官字
更名光祿勳曰司中 太僕曰太御 衞尉曰太衞 執金吾曰奮武 中尉曰軍正劉攽曰 中尉廢久此安得更名蓋是中壘校尉脫兩字 又置大贅官 主乘輿服御物師古曰 贅聚也 言財物所聚也 贅音之銳 劉奉世曰 贅讀如虎賁綴衣之綴 後又典兵秩 位皆上卿 號曰六監
攺郡太守曰大尹 都尉曰太尉 縣令長曰宰 御史曰執法 公車司馬曰王路四門 長樂宮曰常樂室 未央宮曰壽成室 前殿曰王路堂服䖍曰 如言路寢也 長安曰常安
更名秩百石曰庶士 三百石曰下士 四百石曰中士 五百石曰命士 六百石曰元士 千石曰下大夫 比二千石曰中大夫 二千石曰上大夫 中二千石曰卿

【漢書】 卷九十九中 王莽傳第六十九中 5

【漢書】 卷九十九中 王莽傳第六十九中 6


"名称何でも改名" で ある
要するに漢王朝の垢とみ はすべからく洗い落としたい ので ある
【漢書】 卷九十九中 王莽傳第六十九中

(始建國元年)又曰

天無二日 土無二王 百王不易之道也
漢氏諸侯或稱王 至于四夷亦如之 違於古典繆於一統
其定諸侯王之號皆稱公 及四夷僭號稱王者皆更爲侯

【漢書】 卷九十九中 王莽傳第六十九中 7

【漢書】 卷九十九中 王莽傳第六十九中 8


四夷の分際で王を称するのはしからん、侯に格下げ して しまえ!
と言う阿呆な次第なので ある

# 何だ それは、と言いたくなる状況では ある


この理不尽で下らない理由のために匈奴の単于は璽印を取り上げられて代わりに章印を受け取らされたと言う事で ある らしい
しかも今までの匈奴は一応 漢朝の敵国として遇されて来ていたと言う事も あって印文に おいても国号の前に国号をされて いなかったので あるが、新朝から与えられた章印には 新匈奴單于章 とられていて匈奴は新の属国として扱われて しまっている
これでは 王莽 の二字名廃止令に基づいてのう知牙斯ちがし から と改名した 烏珠留若鞮単于 が不快に思うのも無理からぬ事で ある

註:

敵国の本来の語義は 匹敵国 つまり対等以上に渡り合う国と言う事で あり、現代に おいて一般的に解される 敵対国 の意では無い

【漢書】 卷九十九中 王莽傳第六十九中

(始建國元年)今百姓咸言皇天革漢而立新師古曰 革攺也 廢劉而興王
夫劉之爲字 卯,金,刀 也 正月剛卯,金刀之利 皆不得行

服䖍曰 剛卯以正月卯日 作佩之長三寸廣一寸四方或用玉或金或用桃著革帶佩之 今有玉在者銘其一面曰正月剛卯金刀莽所鑄之錢也
晉灼曰 剛卯長一寸廣五分四方當中央從穿作孔以采絲葺其底如冠纓頭蕤刻其上面作兩行書 文曰正月剛卯旣央靈殳四方赤靑白黃四色是當帝令祝融以敎𧃍龍庶疫剛癉莫我敢當 其一銘曰疾日嚴卯帝令𧃍化順爾固伏化靈殳旣正旣直旣觚旣方庶疫剛癉莫我敢當
師古曰 今往往有土中得玉剛卯者案大小乃文服說是也 莽以劉字上有卯下有金旁又有刀 故禁剛卯及金刀也

【漢書】 卷九十九中 王莽傳第六十九中 9


漢朝の皇帝は劉姓なので劉字を構成する部首の 卯,金,刀 に関連ある物すら流通を禁止されてしまった
何も其処そこまで しなくても、とは思う
レ劉ノ字ルヤ、等と鯱張しゃちほこばった言い回しは滑稽ですら ある
因みに ここで禁じられている 金刀之利 と言うのは 王莽 が漢朝延命を祈願して造幣した祝銭で あるかと思うが、 劉字 の部首と 刀貨の銅銭 と言う双方の意をけた ので あろう
縁起物の御利益ごりやくが前王朝に向かって働いては革命新王朝の新朝としては困るので、造幣と流通を禁止したと言う事か

とまぁ この延長で、漢王朝が匈奴に与えた璽印は匈奴単于には過分な待遇なので位置付けが劣る章印に格下げを目論もくろんだので あろう
そのために
【漢書】 卷九十九中 王莽傳第六十九中

(始建國元年)秋 遣五威將王奇等十二人班符命四十二篇於天下

【漢書】 卷九十九中 王莽傳第六十九中 10

【漢書】 卷九十九中 王莽傳第六十九中

(始建國元年)五威將奉符命齎印綬 王侯以下及吏官名更者師古曰 更攺也 外及匈奴,西域,徼外蠻夷 皆卽授新室印綬收故漢印綬

と言う事に至ったと言う事で あるが、しかし単于は武力を持っているわけで あるし、臣下と他の種族,部族,氏族達に対する面子も あるので、当然このまま では済まず、
【漢書】 卷九十九中 王莽傳第六十九中

(始建国二年)(10年)(二月)匈奴單于求故璽不與寇邊郡殺略吏民

【漢書】 卷九十九中 王莽傳第六十九中 12


新朝領内に侵入し領民等の殺害(と略奪か) を行う様に なったと言う
まぁ言って見れば自業自得と言うしか無い

長々と書き進めているが、要するに漢新易姓革命では前王朝印綬の返上と新王朝印綬の再賜印が行われたが、これは王莽が何が何でも個人的に実施したかったので無理を通して強行されただけに過ぎず、王朝が交代する際には必ず行われると言った慣習では無いと言う事で ある



4. 印綬は棺に納供されていた


王朝が発行した印綬を持ち主の墓に副葬物として納棺していた事例が ある
例えば、
【三國志】 卷六十四 吳志十九 諸葛滕二孫濮陽傳 第十九

永安元年(258年) 十二月 丁卯 建業中謠言 明會有變
綝聞之不悅 夜大風發木揚沙 綝益恐
戊辰 鑞會 綝稱疾
休彊起之 使者十餘輩 綝不得已將入 衆止焉
綝曰

國家屢有命 不可辭
可豫整兵 令[註]府內起火 因是可得速還

遂入
尋而火起 綝求出
休曰

外兵自多 不足煩丞相也

綝起離席 奉,布目左右縛之
綝叩首曰

願徙交州

休曰

卿何以不徙滕胤.呂據

綝復曰

願沒爲官奴

休曰

何不以胤,據爲奴乎

遂斬之 以綝首令其衆曰

諸與綝同謀皆赦

放仗者五千人
闓乘船欲北降 追殺之 夷三族
發孫峻取其印綬 斲其木而埋之
以殺魯育等故也

註:

令字 は 命字 と する書あり


これを見るに、官印を授けられていた当人が死去すると墓棺に副葬される事が行われていた事が分かる
呉朝は 孫峻 に印綬を持たせたまま 墓に納めたくは無かったので墓を暴いて持ち去って処分したので あり、官印を納供したのが悪い とは言っていない

これは 258年12月 の出来事で あるが、壱与の西晋朝貢献は 266年 の事なので 僅か 7年前で ある
この短期間に副葬物の意識が変遷したとは思えないので、卑弥呼 の冢墓に納められていた と思われる魏朝から授かった金印を 壱与 が返還しなかったとしても、当時の西晋朝は特に問題とは考えなかったで あろう と思う



5. 漢新禅譲の失敗を知る司馬氏は同じ愚を犯さない


王莽 は精神論と理想論から離れられず、立て続け に失策を重ねて北狄と東夷の手綱を握れない
【漢書】 卷九十九中 王莽傳第六十九中

(始建国二年)冬 十二月 雷 更名匈奴單于曰降奴服于

【漢書】 卷九十九中 王莽傳第六十九中 13


どうして こう言う名前遊びを繰り返すので あろう
こう言う無駄な事を しても何の効果も無く、単于に伝われば不愉快に させてしまう だけ で あろうに…
【漢書】 卷九十九中 王莽傳第六十九中

(始建国四年)(12年)(夏)初五威將帥出 攺句町王以爲侯 王邯怨怒不附師古曰 邯 句町王之名也 音下甘反
莽諷牂柯大尹周歆詐殺邯 邯弟承起兵攻殺歆
先是莽發高句驪兵 當伐胡不欲行 郡强迫之 皆亡出塞 因犯法爲寇
遼西大尹田譚追擊之爲所殺 州,郡歸咎於高句驪侯騶 嚴尤奏言

貉人犯法 不從騶起 正有它心 宜令州,郡且尉安之師古曰 假令騶有惡心亦當且慰安
今猥被以大罪 恐其遂畔師古曰 猥多也厚也 被加也音皮義反
夫餘之屬必有和者師古曰 和應也 音胡臥反
匈奴未克 夫餘,穢,貉復起 此大憂也

莽不尉安 穢,貉遂反 詔尤擊之
尤誘高句驪侯騶至而斬焉 傳首長安 莽大說下書曰

廼者命遣猛將 共行天罰師古曰 共讀曰恭 誅滅虜知 分爲十二部 或斷其右臂 或斬其左腋 或潰其胷腹 或紬其兩脅師古曰 紬音與抽同
今年刑在東方張晏曰 是歲在壬申 刑在東方 誅貉之部先縱焉 捕斬虜騶 平定東域 虜知殄滅 在于漏刻
此乃天地羣神社稷宗廟佑助之福 公卿大夫士民同心將率虓虎之力也師古曰 虓音火交反 予甚嘉之
更名高句驪爲下句驪 布告天下令咸知焉

於是貉人愈犯邊 東北與西南夷皆亂云

【漢書】 卷九十九中 王莽傳第六十九中 14

【漢書】 卷九十九中 王莽傳第六十九中 15


句町王 かん を句町侯に降格し、服さぬ 邯 を詐略さりゃくめて殺害したため、報復の連鎖が起きる
高句麗侯すう厳尤げんゆう に謀殺されて しまう
ここで更に畳み掛けて高句麗 転じて 下句麗と言う国名の更号こうごう が行われてしまった
高句麗も これでは やり切れまい…

所で、下句麗は何とめば良いので あろうか?
かくり? げくり?

以下を見るに、漢音は カ と なっているので通常は カクリ と訓みたい所では ある

下 - ウィクショナリー日本語版

ただ、王莽 は高低上下の位置から国号を変更した事は明らかで あるので、上中下の位置を示す語として使用している以上 ゲクリ が妥当と すべきで あろう

ついでに書くと句町国の訓み方は くてい,くちょう の どちらでも良い
いや、正確には どちらも微妙に違っていて、字を厳密に発音すると上古音で クティン(クティング) と なる
古代の日本語(倭語)では 町字 の ティ や ン(ング) を表音するのは仲々なかなかに難しかったかと思うので、無理矢理 倭語で表現するための折衷案として漢音 テイ や呉音 チョウ がひねり出されたので あろう

罠に かけられた高句麗侯 騶 で あるが、高句麗王朝に該当人物が存在しないので、高句麗王の公侯こうこう若しくは王族の一人で あったのかも知れない
高句麗侯騶に ついては以下を参照

高句麗侯騶とは誰の事か

話が脇道にれたが、漢魏易姓革命の曹氏および魏晋禅譲での司馬氏は前例として漢新王朝交代を手本とした筈で ある
その際に 王莽 が東夷王の奉献ほうけん天命承命の瑞祥ずいしょうとして利用した事も、当然 把握していた事、確実と言って良いで あろう
そして西晋朝の革命に立ち会った宮廷人達は、景初2年(238年)に卑弥呼 の使者が親魏倭王の印綬を賜与された場面にも立ち会っていた可能性は充分に あると言える
なにせ、西晋朝 泰始2年の 壱与 朝献は 266年の事で あり、卑弥呼 の朝貢から30年もっていない

その際、西晋朝の史官と殿上人達は何を考えていたで あろうか?

そう、匈奴から前王朝の印璽を取り上げた新朝 王莽 の革命失敗で あろう

ならば時の晋朝 武帝 こと 司馬 炎 は王莽 と同じ愚繰り返す筈が無いので ある
故に、西晋は 壱与 朝献時には絶対に曹魏朝が倭国に賜与した親魏倭王印返上を要求しなかったで あろう と断言出来るので ある



6. そして残る疑問、金印は どこに?


上記 4. で官印を授受者が死去すると墓棺に埋葬されていた と書いたが、それにのっとれば 卑弥呼 の墓棺に副葬された事に なる
ただ、一般的な官印とは違い金印は国王に授けられたものなので、倭王 卑弥呼 が死去しても継嗣者が国王に即位して金印を保持し継続して使用した事も充分に考えられる

現代の我々は印と見ると印鑑を想定してしまう かも知れないが、当時の使用法は現代とは異なる
印は封泥を使って封書を封印する際に使用されるもの なので、次代の倭王で ある 壱与 に引き継がれて使われていたかも知れない
今で言えば封書の封書き や収入印紙の割り印が近いかも知れない
卑弥呼 が死去し 壱与 が倭王として共立されたのは魏朝代の事なので 親魏倭王 と書かれた金印は その後も使用出来るから で ある

その後 魏 は 晋 に禅譲を強要されて易姓革命が行われたため、親魏倭王 印は使用価値を失う事と なった
魏晋禅譲は倭国側では 壱与 の代に当たるものと思われる
そのため、あるいは この金印は 卑弥呼 の墓棺では無く 壱与 の墓棺に納められている可能性も多分に あるもの と私は考えている

公開 : 2016年4月29日
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