1. 目的
三国志 魏志倭人伝(【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳) の文面と考古学上の出土品状況を対比し確認しつつ、ついでに地勢描写も交え、女王国の所在地を読み解く事を試みたいと思う
2. 魏志倭人伝の読み解き
魏志倭人伝を読み解きを進める上で、参照する影本画像としては以下が最も見易いと思う
フォトライブラリー | 弥生ミュージアム 三国志 魏志 倭人伝
よって、上記を参考に しつつ進めて行きたい
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳
撰者 : 西晉(晋)朝 陳壽(寿)
倭人在帶方東南大海之中 依山㠀爲國邑 舊百餘國
漢時有朝見者 今使譯所通三十國
從郡至倭 循海岸水行 歴韓國 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
始度一海千餘里 至對海國 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 所居絶島 方可四百餘里 土地山險 多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田 食海物自活
ここまでは、特に考古学上の出土品とは縁が無さそう
乘船南北市糴
ここで見るべきは 市糴 の語だ
物々交換もしくは貨幣による交易が行われていたものと見て良いと思われる
では肝腎の貨幣(銭貨) の出土状況は どうか?
1) 王莽銭(貨泉,貨布)
新朝王莽が鋳造し作成した銭貨で あるが、貨泉の実物は以下の通り
フォトライブラリー | 弥生ミュージアム 吉野ヶ里遺跡出土の貸泉
貨泉の出土状況を表に したものは以下の通り
邪馬台国の会 貨泉出土一覧
大陸文化へのまなざし 展示品リスト
貨泉の出土分布図を探したが、残念ながら見付からない
中々に分かりにくいので あるが、
a) 九州
長崎県 壱岐市 原の辻遺跡 (貨泉)
福岡県 糸島市 志摩町 御床松原遺跡, 新町遺跡 (共に貨泉)
春日市 須玖坂本B遺跡 (貨泉)
大野城市 仲島 (貨布)
福岡県が とても多い
他に熊本県,佐賀県,宮崎県,鹿児島県,沖縄県で貨泉が出土している
b) 本州
大阪府 大阪市 瓜破遺跡
八尾市 亀井遺跡
東大阪市 巨摩廃寺遺跡
柏原市 船橋遺跡
京都 熊野郡 函石浜遺跡
岡山県 岡山市 高塚遺跡
鳥取県 鳥取市 青谷上寺地遺跡
富山県 (魚津市 佐伯遺跡? 現時点で確認出来ない)
他にも、愛媛県,広島県,兵庫県,石川県,長野県,山梨県,新潟県,秋田県,青森県,北海道から貨泉が出土している
関西に おける貨幣出土は大阪が多く、奈良からは出土していないのは何故か
当時の大和は、貨幣が流通する程には交易市場が成熟していなかった可能性が高いと言う事では ないか
# 時間に余裕が あれば、貨泉出土分布図を用意したい
2) 半両銭
福岡県志摩町御床松原遺跡出土……1枚(前漢BC175年以降)
福岡県志摩町新町遺跡出土 ……1枚( 〃 )
山口県下関市武久浜墳墓群出土……1枚( 〃 )直径2.2cm
山口県宇部市沖ノ山遺跡出土 ……9枚( 〃 )
和歌山県熊野市波田須出土 ……7枚の内1枚現存(秦半両、秦の統一以降)直径3cm
3) その他貨幣
吉野ヶ里遺跡出土のるゴボウラやイモガイの腕輪
上記 1),2) に より、交易の主体が朝鮮半島南岸と福岡県で あった事が分かる
尤も、これらの銭貨が貨幣として使用されたと見るのは時期尚早との論も ある
単に貴重品として扱われたのかも知れないし、また ある種の人達に とっては神秘呪術的な効力を
齎すもの(要は厄払いや お守り等) と信じられていた可能性も あろう
しかしながら、これらの銭貨が出土した地域は、交易上ないし流通上の先進地域で あったとは言えるで あろう
又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林
出土品とは縁が無さそうなので進める
有三千許家差有田地 耕田猶不足食
田地 耕田 と あるので、禾稲(稲作)の事で あろう
一大国(壱岐島)で稲作が行われていたと言う事に なる
現時点で、弥生時代に稲作が行われていた事が確認出来るのは、以下の各地で ある
佐賀県 唐津市 菜畑遺跡
吉野ヶ里遺跡
瀬ノ尾遺跡
福岡県 福岡市 板付遺跡、博多区那珂
糟屋郡 粕屋町 江辻
糸島市 曲り田遺跡、野多目遺跡
熊本県 玉名市 両迫間日渡遺跡
青森県 南津軽郡 田舎館村 垂柳遺跡
弘前市 砂沢遺跡
青森で稲作が行われていたのは意外では あるが、当時は現在よりも気候が温暖で あったのかも しれない
稲作の中心地域は一目瞭然、九州と言う事に なろう
弥生時代の関西は稲作を確認出来ないと言う事か
ちなみに壱岐では昭和,平成の世にも古代米の栽培が続いていた らしい
今も続いているので あろうか
亦南北市糴
又渡一海千餘里 至末盧國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人
山に浜するの山が どこなのか、前の人が見えない程の草原が どこなのか が少し気に なるが、進める
好捕魚鰒 水無深淺 皆沈沒取之
松浦半島は田地が乏しく、漁業に従事する者が多かった地の様で あるから、これは唐津湾辺りの海女漁の事かと思う
東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰𣳘謨觚,柄渠觚 有千餘戸 世有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐
東南至奴國百里 官曰兕馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸
東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家
南至投馬國水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸
自女王國以北 其戸數,道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
次有斯馬國 次有已百支國 次有伊邪國 次有郡支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有爲吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡
其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗 不屬女王
自郡至女王國萬二千餘里
更に進める
男子無大小皆黥面文身
一般的に男は皆、顔に入墨を施していたと言う
日本書紀には、大和朝廷が入墨者を奇異として蔑んでいたらしい記述も あるので、古代の奈良県には入墨の風習は無かったと言う事で あろう
自古以來 其使詣中國 皆自稱大夫
進める
夏后少康之子封於會𥡴 斷髮丈[註1]身 以避蛟龍之害
今倭水人好沈沒捕魚蛤 丈[註1]身亦以厭大魚水禽 後稍以爲飾
諸國文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差
註1:
文字 の誤か
蛟龍とは鮫の事で、入墨に鮫除け(サメからの捕食攻撃を防ぐ) の効果が あると考えられていたと言う事で あろう
海の無い奈良県とは対照的に、漁業が盛んに行われていたと思われる九州では、入墨の風習が行われていたものと考えて良いかと思う
計其道里 當在會𥡴東治之東
其風俗不淫 男子皆露紒 以木緜招頭其衣横幅 但結束相連 略無縫
婦人被髮屈紒 作衣如單被 穿其中央 貫頭衣之
進める
種禾稻,紵麻 蠶桑 緝績 出細紵,縑緜
これは非常に注目すべき箇所で あろう
稲作以外にも、桑を育てて蚕に食させていると言う事で ある
桑と蚕と言えば、そこから手に入る物は一つしか無い
これは、当時の倭人は絹織物を製造していたと言う事なので ある
絹の出土については以下の通り
絹のデータベース
当時の絹については、以下の書籍が詳しいと思う
Amazon.co.jp: 倭人の絹―弥生時代の織物文化: 布目 順郎:
福岡県が最多で、圧倒的で ある
上記には絹だけではなく綿(綿織物)も含まれているかも知れないが、それにしても この出土状況は重く見るべきで あろう
京都工芸繊維大学名誉教授 布目 順朗 博士が言うには、弥生時代は福岡と佐賀で絹生産技術が独占されていたらしい
福岡県 甘木市の栗山遺跡、佐賀県 吉野ヶ里が該当すると言う
生産技術の管理を行っていたと言う事で あれば、女王国の重要支配領域で養蚕が行われていたものと考えて良いのでは ないか
即ち、甘木市や吉野ヶ里は女王国の直轄地と言う事に なる
其地無牛,馬,虎,豹,羊,鵲
進める
兵用矛,楯,木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃
続いて これも、非常に注目すべき箇所で あろう
矛は銅矛および鉄矛の事で あろう
神庭荒神谷・加茂岩倉遺跡の秘密
青銅器の分布 の箇所を参照
銅矛の出土は、九州が圧倒的に多いので ある
対照的に、奈良県での銅矛の出土は全く無い
形状が近いものとして銅戈と言うものも あるが、これも九州が多い
銅矛では なく鉄矛や鉄戈で あった可能性も あるが、やはり これも九州が他を圧倒、福岡が最多
弓の下が短く上が長いと言う形状から見て、この弓は和弓で ある事を示している
和弓 - Wikipedia
弓矢の鏃(矢の先に付ける尖った刃の部分) は鉄で出来ていると言う
つまり、女王国からは鉄鏃が出土しなければ ならない事に なる
邪馬台国大研究・ホームページ / わちゃごなどう?/ 本編
(1).鉄
第234回活動記録 魏志倭人伝を読む 邪馬台国の遺物
九州が他を圧倒、福岡県が最多で次は熊本県、更に大分県と なっている
奈良県からの鉄鏃の出土は非常に少ない
所有無與儋耳,朱崖同
倭地温暖 冬夏食生菜 皆徒跣
儋耳や朱崖と言うのは共に海南島の事で ある らしいが、これらの地と風土や産物が近いと言う事で あろう
気候も温暖で あると言う事から、九州を想定し易い文面で ある
奈良県を温暖と言うのは、かなり無理が ある様に思える
有屋室 父,母,兄,弟臥息異處
進める
以朱丹塗其身體 如中國用粉也
この朱丹とは何で あろうか?
文面から見て丹砂から採った赤色顔料で ある事は分かるが、自然石か それとも水銀朱なのかは分からない
ただ、顔に水銀を塗ると爛れて大変な事に なりそうでは ある
もし これが自然石由来の物で あれば、弁柄(べんがら) の事かも知れない
弁柄とはインドのベンガル地方で産出する顔料で あると言う
と言う事は、弁柄を顔に塗ると言う風習は、南方系に近いと言えるかもしれない
弁柄色とは以下の様な色で ある
日本の伝統色 和色大辞典 - Traditional Colors of Japan
なお、この朱丹が弁柄と言う事に なると、実は産地が特定出来てしまう
熊本県 菊池郡 大津町 赤水 と言う地で 阿蘇黄土 と言う物が大量に採取出来ると言う
となると、南方系の風習で熊本県が産地と なれば、女王国の在処(ありか)は九州に傾く事に なりそうで ある
関連が あるか どうか は分からないが、出雲大社の主柱は弁柄で朱色に塗装されていた と言う
出雲大社 | Tabizuru
これが弥生時代の出雲大社を忠実に復元したのか それとも後人の手が入って改作されたものに過ぎないのか は何とも言えないが、もし弥生時代の出雲大社を後代にも姿を変えずに遺存し続けていたので あれば、大国主の国譲り神話の時点で熊本県産の弁柄が塗料として使用されていた可能性も あるかも知れない
食飮用籩豆 手食
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其死 有棺無槨 封土作冢
槨の無い棺に遺体を納め、地面を掘って棺を埋め、土を かけて墓と すると言う事に なる
この棺が弥生時代の甕棺の事で あるならば、九州と言う事に なる
奈良県および関西では、該当する墓が見当たらない様に思うのだが、どうで あろうか
始死停喪十餘日 當時不食肉 喪主哭泣 他人就歌舞飮酒
已葬 舉家詣水中澡浴 以如練沐
其行來渡海詣中國 恆使一人
不梳頭 不去蟣蝨 衣服垢汚 不食肉 不近婦人 如喪人 名之爲持衰
若行者吉善 共顧其生口,財物 若有疾病 遭暴害 便欲殺之謂其持衰不謹
進める
出真珠,青玉 其山有丹 其木有柟,杼,豫樟,楙櫪,投橿,烏號,楓香
真珠は当時九州か四国南方で しか採集出来なかった らしい
其竹篠,簳,桃支 有薑,橘,椒,蘘荷 不知以爲滋味 有獮猴,黒雉
其俗舉事行來 有所云爲 輒灼骨而卜 以占吉凶 先告所卜 其辭如令龜法 視火坼占兆
其會同坐起 父子男女無別 人性嗜酒魏略曰 其俗不知正歳[註2]四節 但計春耕秋收爲年紀
見大人所敬 但搏手以當跪拜
註2:
歳字 は 嵗字 が正しいか
しかし影本画像を見るに旁の 少字 は 小字 に見えるので、厳密に言えば どちらでも無い
其人壽考 或百年 或八,九十年
其俗 國大人皆四,五婦 下戸或二,三婦
婦人不淫 不妒忌
不盜竊 少諍訟 其犯法 輕者没其妻子 重者没其門戸及宗族
尊卑各有差序 足相臣服
進める
収租賦有邸閣 國國有市交易有無 使大倭監之
邸閣の痕跡が佐賀県 吉野ヶ里遺跡で確認されている
自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使詣京都,帶方郡 諸韓國及郡使倭國 皆臨津搜露 傳送文書,賜遺之物詣女王 不得差錯
下戸與大人相逢道路 逡巡入草 傳辭説事 或蹲或跪 兩手據地 爲之恭敬對應聲曰噫 比如然諾
其國本亦以男子爲王 住七,八十年 倭國亂 相攻伐歴年
乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫壻 有男弟 佐治國
自爲王以來 少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人給飮食 傳辭出入
進める
居處宮室樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衞
吉野ヶ里遺跡では、環濠聚落を取り巻く柵や周辺警備のため と思われる楼観の痕跡が確認されている
宮室とは卑弥呼の宮殿と言う事か
ここに卑弥呼を守る護衛兵が いると言う事に なるが、この兵は矛で武装している事が、既に記載されている
つまり、卑弥呼の宮殿からは矛が出土しなければ ならない事に なる
九州ならば矛が多数出土しているので文献と出土状況が一致していると言えようが、奈良県は矛の出土が全然無い状況なので、明らかに
適わない
女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種
又有侏儒國在其南 人長三,四尺 去女王四千餘里
又有裸國,黒齒國 復在其東南 船行一年可至
參問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連 周旋可五千餘里
景初二年 六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡
求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都
其年 十二月 詔書報倭女王曰
制詔親魏倭王卑彌呼 帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米 次使都市牛利奉汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈 以到 汝所在踰遠 乃遣使貢獻 是汝之忠孝 我甚哀汝 今以汝爲親魏倭王 假金印紫綬 裝封付帶方太守假授汝 其綏撫種人 勉爲孝順
汝來使難升米,牛利渉遠 道路勤勞
今以難升米爲率善中郎將 牛利爲率善校尉 假銀印靑綬 引見勞賜遣還
進める
今以絳地交龍錦五匹臣松之以爲 地應爲綈 漢文帝著皂衣 謂之戈綈是也 此字不體 非魏朝之失 則傳冩者誤也
絳地縐粟罽十張 蒨絳五十匹 紺青五十匹 荅汝所獻貢直
又特賜汝 紺地句文錦三匹 細班華罽五張 白絹五十匹 金八兩 五尺刀二口 銅鏡百枚 真珠,鉛丹各五十斤
絳地交龍錦(絳綈交龍錦)が どう言うものか分からないが、錦と あるから絹織物では あると言えると思う
絳地縐粟罽(絳綈縐粟罽)も良く分からないが、毛織物と言う事で あろう
蒨絳および紺青は、絹程では ないが上布(高級な反物) と言う事かと思う
紺地句文錦と白絹も絹織物、細班華罽も毛織物で ある
五尺刀とは鉄刀の事で あろう
福岡県 糸島市 上町向原遺跡で、国内最大級の素環頭大刀が出土している
伊都国 平原遺跡 <邪馬台国までの道程>: Selfpit セルフピット
諸遺物のデータベース
鉄刀の出土は九州が多く、次は中国地方
最多は福岡県と鳥取県が並ぶ
銅鏡は漢式鏡か三角縁神獣鏡で見解が別れる
私見では、魏朝側で一面も出土しない三角縁神獣鏡は仿製鏡(倣製鏡) で あろう
ちなみに、仿製鏡は当時(15年位前か)の当用漢字では表記出来なかったため、代わりに倣製鏡の語を とある Webサイトで提唱した事が あるが、今は もう充分に市民権を得ている様だ
#
尤も、実際には私の提唱とは何の関係も無く広まったのかも知れないが
鉛丹とは酸化鉛の事らしい
鏡は一旦
措くとしても、それ以外の物の出土状況は九州が非常に多い
皆裝封付難升米,牛利還到録受 牛利還到録受 悉可以示汝國中人 使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也
正始元年 太守弓遵遣建中校尉梯儁等 奉詔書,印綬詣倭國 拜假倭王 并齎詔 賜金,帛,錦罽,刀,鏡,采物
倭王因使上表荅謝恩詔
進める
其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆,掖邪拘等八人 上獻 生口,倭錦,絳靑縑,
緜衣,帛布,丹木,𤝔,短弓矢
絳青縑も絹織物らしい
緜衣とは何で あろうか、綿織物で あろうか?
𤝔の字は偏が獣偏では 無い様に見えると主張する人も いる
魏志倭人伝をそのまま読む
字が違えば当然意も異なると言う事が考えられるので、結局𤝔は何の事か良く分からない
織物が度々出て来るが、返す返す言うまでも無く九州での出土が多い
掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬
其六年 詔賜倭難升米黃幢 付郡假授
其八年 太守王頎到官
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻擊狀
遣塞曹掾史張政等因齎詔書,黄憧 拜假難升米爲檄告喻之
進める
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
卑弥呼の冢(墓)が どの様なもので あったのかも、見解が別れている
素直に読めば直径 100歩の円墳と言う事に なるが、関西説では何故か前方後円墳が該当すると している
更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
復立卑彌呼宗女壹與 年十三爲王 國中遂定
政等以檄告喻壹與
進める
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還 因詣臺獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔,靑大句珠二枚,異文雜錦二十匹
白珠とは白い宝玉の事か
青大句珠(青玉句玉) とは
硝子製の大勾玉か、もしくは硬玉製大勾玉の事で あったらしい
ガラス製勾玉
九州が非常に多い
対照的に関西は少なく、奈良県からの出土は無い
福岡県 平原遺跡から青いガラス製の見事な勾玉が見付かっている
<国宝> 福岡県平原方形周溝墓出土品 (ふくおかけんひらばるほうけいしゅうこうぼしゅつどひん) - 糸島市ホームページ
硬玉とは
翡翠の事らしい
軟玉も翡翠(に含まれる) と言われる事が あるが、考古学では軟玉を排除して 硬玉=翡翠 と呼称するとの立場らしい
島根県立古代出雲歴史博物館 硬玉製勾玉(出雲大社蔵)
第241回活動記録 謎の四世紀 成務天皇の時代
ひすい製勾玉
奈良県も少しは ある事には あるが、圧倒的に九州で出土し、佐賀県と福岡県が拮抗している
硬玉製勾玉は産地が北陸地方(越の国)で、出雲地方を介して九州や韓国に供給されていた らしい
韓国出土の勾玉は富山県 糸魚川産の翡翠だ そうで ある
異文雜錦は良く分からないが、絹製品では あろう
雑駁な倭国風模様の絹、と言う事で あろうか
3. 総括
上記に より弥生時代の出土品と魏志倭人伝を対比して見ると、どう考えても九州で あるとしか思えないので ある
奈良県は九州に比べて出土品が著しく見劣りしており、私見では女王国大和説は成立し難いと見るが、どうで あろうか
公開 : 2014年1月24日