1. 弥生時代人は環濠の中で のみ起居していたのか
弥生時代から出土される、聚落の周囲を堀濠で囲む聚落の形態を 環濠聚落
[註1] と呼称されている
註1:
一般的には 環壕集落 との名称が使用されているが、私見では 環濠聚落 の語が正しいと考えるが どうで あろうか
この 環濠聚落、どうも堀濠が聚落を包囲している事(のみ)が強調されている
様で、無意識下に おいて弥生人の聚落は環濠の内部に のみ存在したもの と思われている様に見受けられる
また、上記に付随する ものとして個々の環濠内の聚落数は決して それ
程多いとは言えず、聚落数の統計値は 魏志倭人伝 の戸数よりも少ないため、倭人伝の文面は誇張で あると
断ずる者も いる
果たして、弥生人の聚落は本当に環濠内のみ に存在していたので あろうか
2. 聚落の住人は身分の差違無く牧歌的に居住していたのか
環濠が設けられ その内部に聚落が存在すれば、環濠は聚落を防衛するために設けられた設備で あろうと思うのは道理では ある
思うに これは、中国の城壁都市や中世欧州の城塞都市を知る者が自然に発想してしまう先入観に引き
摺られているのでは あるまいか
弥生時代は
一先ず
措く として、その後の日本に おいては聚落を堀濠や城壁で囲むと言う発想は殆(ほとん)ど実現していない事、歴史事実で ある
少なくとも日本では、防衛拠点としての城塞は山地や丘陵に築かれた山城(やまじろ)や平山城(ひらやまじろ)に見られる
訳で あるが、聚落全体を城塞で囲む構造とは なって いない
その後発生した平城(ひらじろ)に おいても、城下町全体を堀濠と塀壁で取り囲むと言う発想は当時の日本人には稀薄で あった
勿論 小田原城 や 大坂城 等の例外は あるが、少なくとも多くの日本人に とっては聚落は堀濠で張り巡らせる対象では なかった様に思われる
更に言えば、実は環濠聚落の外側に おいても附属聚落と言うべき区域が存在している 環濠聚落 も存在している
この様に、常識に捕らわれる事無く柔軟に考えて見ると世の中には色々な考えを持つ人が いるもので ある
例えば、以下の説を読んで みて欲しい
岡本 孝之 外土塁環壕集落の性格
私自身は、横浜市そとごう遺跡の環壕を発見したことはあるが、環壕を発掘したことはない。
横浜市大塚遺跡(第1図)の環壕の外側に盛土があることは、早くから指摘されていたが、そのことの疑問は整理されていない(武井 1991)。
城郭の専門家である西ケ谷恭弘は、第2図の復元図を作成しているが、外土塁の意味を問うていないのはおかしい(西ケ谷 1992)。
吉野ケ里適跡[註2]の復元図(第3図、国立歴史民俗博物館 1991)のおかしさを指摘した久世辰男の疑問は評価できるが、外土塁の存在を否定することになってしまった(久世 1993)。
環壕の外土塁の存在は単純に考えておかしい。
防衛集落ならば、壕の内側に盛土し、柵を構築するはずである。
大塚遺跡では国史跡となって歴史公園として一部が復元され、柵が巡らされているが、防衛・防御性において劣るのではないかと思う。
また守るという意識において著しく劣るという観念に捉われはしなかったのだろうか
これは防衛の観点とは逆転している。
そうならば防衛的性格ではなく、逆転した機能が求められていたと考えるべきである。
それは集落の内側の人間を外側に出さないための施設ではないのだろうか。
内側に閉じこめた、押し込めた人々を逃亡させないための施設ではないか。
環壕集落は、捕虜収容所としての性格もあったのではないか。
註2:
吉野ヶ里遺跡の誤か
正に
逆転の発想で ある
私は上記論に
与する者では無く、又この主張の是非を本考察で述べる つもりは無いが、非常に興味深い論の見方を している事は確かで ある
上説でも触れられている吉野ヶ里遺跡に ついて で あるが、
吉野ヶ里遺跡 - Wikipedia
目下、弥生時代最大規模の 環濠聚落 として知られる この遺跡で あるが、外壕の中に更に内壕が ある構造と なっている
しかも内壕は 2つ存在していると言うもので ある
この内壕が単に防衛上の二重堀で あるならば、2つに分かれて存在しているのは何故かと言う事に なる
となると、内壕が 2つに分かれているのは何か理由が あるものと考えざるを得ない ので ある
また当然の事で あるが、
内壕に囲まれていない区域は防衛対象では ないのか、と聞かれると答えるに窮するで あろう
拠点防衛のために外堀と内堀を併設したいので あれば、もう少し効果的な構造設計を行って
然るべき で あろう
では拠点防衛の
他に どの様な理由が あるのか と言う事に なるが、注目すべきは以下の記述で あろうか
撰者 : 西晉(晋)朝 陳壽(寿)
諸國丈[註3]身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差
註3:
文字 の誤か
フォトライブラリー | 弥生ミュージアム 三国志 魏志 倭人伝
若行者吉善 共顧其生口,財物 若有疾病 遭暴害 便欲殺之謂其持衰不謹
見大人所敬 但搏手以當跪拜
其俗 國大人皆四,五婦 下戸或二,三婦
尊卑各有差序 足相臣服
上記から読み取るに、身分として 大人, 下戸, 生口 と言った区分が行われている事が分かる
弥生時代とは既に、階級制度が確立している社会で あったと言う事に なる
最早 縄紋時代の牧歌的な状況では なくなっている と言う事なので あろう
となれば これが濠の内外を識別する指針、と考えるのが妥当で ある様に思われる
つまり、内壕に仕切られた特別な空間に存在する者は上戸、上記で大人と呼ばれる様な特権階級に所属する者で あろう
内壕の外で
且つ外濠の中に居住する者は下戸、
若しくは上戸と下戸の間に位置付け される身分の者か
そして最後に、外濠の外に締め出され、附属聚落の様な区域での生活を余儀無く された者、それが下戸か或いは生口と言われる者で あったと思われる
3. 倭人伝の戸数値を誇張と断ずるのは早計では ないか
環濠聚落の起源は、外敵からの攻撃を防ぐための防衛設備で あった事は確かで あろう
但し、その後の環濠は必ずしも城塞に おける堀の機能のみ ならず、階級制度に応じた居住区域の境界、言わば身分の
間仕切として副次利用されていた可能性が ある
これが正しければ、現在は余り注目されていない 環濠附属聚落、つまり環濠外聚落は身分の低い者達の居住域として利用されていたのでは ないかと思う
なお、現在の弥生時代の人口推算値は、基本的に環濠内聚落を計数している様で、環濠外に居住していたで あろう人口を考慮していない様に思われるが、これを
計数に加算すると恐らく人口推算値は現数値の数倍に膨れ上がる事が予想される
つまり、魏志倭人伝の戸数値は必ずしも誇張とは言えないのでは あるまいか、と言う事で ある
4. 関連 URI
参考と なる URI は以下の通り
環濠集落 - Wikipedia
公開 : 2014年5月17日