1. 切掛(きっかけ)
1984年前後の事、ある歴史小説を読んだ
記憶が定かでは ないが、恐らく 新田 次郎 著 【武田信玄】 では なかったか
その時に思った事、それは、"武田信玄は武略軍略には優れるが軍略大綱に通じぬ" で あった
2. 武略と軍略と大綱と
自身の実父 武田 信虎 を領国より追放し、甲斐本国を押さえると、武田 晴虎(信玄) は他国への侵領を開始する
向かう先は信濃の諏訪, 高遠, 深志, そして北信濃(以降北信と略す) に進んで村上 義清に二度も撃退されてしまう
三度目に漸く村上 義清を蹴散らすが、越後に逃れた村上 義清は上杉 謙信(当時は長尾 景虎?) に縋り付き、北信奪還を願う
こうして北信領有を巡って武田と上杉は川中島合戦に突入する事に なる
しかしながら、二十年近くも武田上杉両軍が争って、それで得られたものは それぞれ如何ばかりの事で あったで あろうか
両者共に、手にしたものは多くなかった様に思えて ならないので ある
勿論、我々は歴史を知っているので、結果論でしかないと言う事では あるが
戦は目的が あって行うもので あり、その目的を実現するために遂行すると言う事に なる
また戦を すると なると、当然勝利条件が課せられる事に なる
軍略の立場から考えるので あれば、戦をして勝利し、目的を達成する事に意義が ある
川中島合戦の軍略上の目的は、北信の領有と なる
これは、軍事面で北信に おける優勢を確保し、周辺地域の統治権を維持する事により達成される
勝利条件は双方で異なるが、上杉方は北信の領有奪還、武田方は北信の領有維持と なろう
上記に従うと、上杉方は武略で優勢と なった事は あるが、軍略上は結局目的を達成する事が出来なかった事に なる
この点から考えると、軍略面では武田方に分が あると言えよう
軍略大綱の立場から考えると どうか
なお、ここまで何の説明も無く大綱の語を使用しているが、意としては
"戦を起こす前に立てる国家経略の根本方針" とでも解して貰いたい
武田の軍略大綱上の根本目的は何で あったか
思うに これは、前半は所領の獲得(領土の拡大) で あったと言う事で あろう
後半、織田 信長が上洛した後に なると、武田 信玄の心境に変化が生じ、彼も又上洛を目指したので あろうが
上洛を視野に入れた後の軍略大綱は、中々に見所が あるかと思う
結局信玄は上杉謙信との対決を避け、北条 氏政と和し、一向宗と結んで上杉勢を釘付けに した上で織田 信長と雌雄を決するために出兵する
足利 義昭 等が策した信長包囲網にも列し、要所要所で打てる策は一通り手掛けている様に見える
しかしながら前半は どうか
軍略大綱とは程遠い、言葉は悪いが "行き当たり ばったり" と言う程度の低知能武将と言う他無い
何故か
それは北信に拘り過ぎたと言う事なのである
川中島の戦い と言われるものの中で、特に大きな戦と なったのは永禄4年(1561年)に行われた第四次 川中島の戦い と呼ばれる、八幡原の戦い であろう
当時は上杉 政虎と名乗っていた謙信との戦いで、武田方が失った将は以下の通りで ある
山本 (勘助)晴幸
武田 (典厩)信繁
諸角 虎定 (室住 虎光)
初鹿野 (源五郎)忠次
三枝 守直
軍師に一門衆筆頭に信繁の付け家老に分家筋に、潔い位戦陣に散っている
これと引き換えに得たものは川中島一帯を含む北信地域のみでは、とても釣り合いが取れない
では どうすれば良かったか
上善の道は、戸石崩れ 後は村上 義清と和睦し、中山道を西上して木曽から美濃に侵入すれば良かったのでは ないかと考える
あるいは、深志から飛騨を目指しても良かったのかも知れない
もし私が当事者として事に当たっていたので あれば、あるいは甲斐 躑躅ヶ崎館を捨てて信濃 諏訪もしくは高遠、深志に本拠を移していたかも しれない
3. 関連 URI
参考と なる URI は以下の通り
川中島の戦い - Wikipedia
公開 : 2014年2月4日