1. 啄木鳥戦法の是非を疑う
川中島の戦い と言われるもの の中で最も激戦と なった戦は永禄4年(1561年)の八幡原の戦い、又の名を 第四次 川中島の戦いで あるが、その導火線を担ったのが妻女山の上杉勢本陣への攻撃、所謂 啄木鳥戦法で あると伝わる
妻女山に陣取って動かない上杉謙信(当時は上杉政虎) を追い落として平地と山上から挟撃しようと言う策戦らしい
恰度(ちょうど) 啄木鳥が食餌の際に この様な行動を取るので名付けられたと言う
しかし、それは本当なので あろうか?
2. 疑義の切掛
戦(いくさ) を分からぬ者には、これが如何に馬鹿げた事で あるのか、解せぬので あろうか?
山上から追い落とされる様(よう)に駆け降りて来る破竹の勢いの上杉勢主力軍一万三千を、歩兵軍が主力の武田勢が僅か八千の兵で邀(むか)え撃とうとでも言うので あろうか
これは もう正気の沙汰では なく、兵理兵略を無視した愚の骨頂と言う他ない
もし邀え撃つに しても、山上から降りて来る兵力と同等か それ以上の兵力を置かないと、邀え撃つ所か逆に隊形を持ち堪(こた)えられずに蹴散(けち)らされてしまうで あろう事、火を見るよりも明らかで ある
通説では武田勢別働隊一万二千が妻女山に夜襲を仕掛け、待ち伏せに本隊八千を置いたと言われているが、余りに馬鹿馬鹿しくて呆れてしまう
もし私が山本 勘助で あれば、妻女山に夜襲を仕掛ける兵力を八千とし、残り一万二千を平地に置くで あろう
発想が完全に真逆(まぎゃく)なので ある
この様な戦の基本の初歩と言うべき事を分からぬ日本の歴史家達は、余りにも頭が悪すぎる
思うに、机の上で役にも立たぬ言葉遊び風情を捏(こ)ね繰り回しているのみで ある故(ゆえ)、戦と言うものを知らぬので あろう
そう、軍略の上に立って考えれば、これは上杉勢を挟撃するために策したものでは断じて ない
武田の啄木鳥戦法とは、戦の素人小人(しょうじん)共が捏造した虚妄なので ある
3. 武田勢本隊と称される軍は後詰と見做す べき
.1 啄木鳥は周り諄(くど)い食餌(しょくじ)の捕り方を行わない
抑々(そもそも)論として、啄木鳥は反対から突いて獲物を押し出す様な周り諄い食餌の捕り方等を行うもので あろうか?
アカゲラ(赤啄木鳥)のエサ捕り(秋ヶ瀬公園で見た野鳥) - HIKINO BLOG - Yahoo!ブログ
啄木鳥のえさの取り方 :: Welcome to my yard|yaplog!(ヤプログ!)byGMO
実際に啄木鳥の食餌を見る機会が あれば良く見て いただきたいので あるが、一目瞭然、啄木鳥は通説で言われている様な奇怪な習性は存在しないので ある
この時点で、武田の啄木鳥戦法は虚妄でしか ない事が判明する
.2 武田勢本陣は主力軍で あったのか
次に、各所に配された武田勢の内訳を見て行きたい
a) 武田勢本陣
武田勢本陣に配された将は以下の通りで ある
軍勢: 八千
武田 晴信 (武田 信玄)
武田 信繁 [副将]
武田 義信 (信玄 嫡子)
武田 信廉 [本陣守護]
武田 義勝 (望月 信頼) (親類衆)
穴山 信君 (親類衆) [本陣守護]
飯富 昌景 (山県 昌景) [武田四天王]
室住 虎光 (諸角 虎定) (81歳の老将)
跡部 勝資
今福 虎孝
浅利 信種
山本 晴幸 (山本 勘助) [足軽大将]
室賀 信俊
初鹿野 忠次 [足軽大将?]
何やら武田一門と足軽、そして老臣で構成されている将帥達で ある
特に
総大将と嫡子と副将が いると言う時点で、これは もう
有り得ない組み合わせで あろう
何故有り得ないのか?
それは、もし この本陣に一朝時(いっちょうじ)あって
軍勢が壊滅して しまったら どうなるで あろうか
当時は戦国の世なので ある
当主と嫡子と当主の弟達が
枕を並べて討ち死に してしまうと、その家は
滅んで しまい兼ねない事態と相成(あいな)るので ある
故に、この本陣では、
"戦が起こらない事" が想定されていた に違いない
つまり、この将兵は游軍(遊軍)後詰の兵、万が一危急の事態が起きた際に備え念のために用意していると言うだけの実戦に投入しない予備兵力に過ぎない ので ある
私は私の軍略眼に基(もと)づいて
断言するが、この軍勢は
絶対に武田勢の主力部隊では ないので ある
b) 妻女山 夜襲軍
妻女山 夜襲に配された将は以下の通りで ある
軍勢: 一万二千
馬場 信房 (馬場 信春) [夜襲軍指揮:武田四天王]
春日 虎綱 (高坂 昌信) [夜襲軍指揮:武田四天王]
工藤 昌秀 (内藤 昌豊) [武田四天王]
飯富 虎昌 (山県 昌景の兄? 叔父?)
甘利 昌忠 (甘利 信忠)
真田 幸綱 (真田 幸隆) [信濃先方衆]
相木 昌朝 [信濃先方衆]
芦田 信守 [信濃先方衆]
小山田 虎満 (小山田 昌辰)
小幡 憲重 [西上野先方衆]
小山田 信茂?
工藤 昌秀が こちらに配されていたか どうかは実は何とも言えないのでは あるが、夜襲軍の方に いたので あれば、武田の四天王が 3人も こちらに いる事に なる
別動隊に そこまで豪華な良将群を投入するで あろうか
明らかに不自然で ある
啄木鳥戦法は山本 勘助と馬場 信房が考案したと伝えるが、足が不自由な山本 勘助を本陣に置き、行動に支障の無い馬場 信房を夜襲軍に加えて実戦部隊の頭脳と したのは良い判断で あろう
実際の部隊指揮は春日 虎綱や工藤 昌秀が執(と)っていたものと思われる
さて ここで最も目を向けねば ならぬ存在が ある
誰か?
それは真田 幸綱を筆頭とする信濃先方衆(さきかたしゅう) で ある
先方衆とは、主に新参の者が最も過酷な最前線に配(はい)される将達の事で ある
信濃先方衆とは信濃方面軍の最先鋒部隊で あるから、先方衆が集中投入されている こちらの夜襲軍の方が、武田勢の主力軍なので ある
.3 妻女山夜襲の意図は何で あったのか
これは もう簡単明瞭、八幡原の戦い の前年に行われた 桶狭間の戦い(桶狭間山の戦い) の再現なので ある
これが頭の固い(頭の悪い) 歴史家大先生方には解し得ぬので ある
愚かなるかな已(や)んぬるかな、と言うしか ないが
八幡原の戦い(第四次 川中島合戦) の戦場は長野県で あり、暦は永禄四年(1561年)9月10日で ある
そして 桶狭間の戦い は永禄三年(1560年)5月19日で あり、場所は愛知県で ある
尾張-三河-信濃と場所が近い事も あり、戦の詳細を山本 勘助は知り得ていたものと思われる
# 因(ちな)みに三河は山本 勘助の生誕地と されている地で あり、地の利を知る地で あった事が予想される
そう、これは桶狭間山に本陣を置く今川 義元を討ち取った戦に倣(なら)い、上杉 謙信を一挙に屠る事を目的とした妻女山 直撃戦なので ある
4. 結論
上記の通り、啄木鳥戦法とは戦を知らぬ歴史家風情共の妄言の類、捏造された虚構で あろう
5. 関連 URI
参考と なる URI は以下の通り
川中島の戦い - Wikipedia
真田幸隆 - Wikipedia
公開 : 2014年2月4日