1. 謙信は武田本陣に単身 斬り込んだと言われるが…
川中島の戦いと言われる戦(いくさ)に おいて最も人気のある場面、最大にして最後の山場が この上杉 政虎(謙信) の武田勢本陣への単騎斬り込みと言って良いで あろう
三太刀七太刀の軍配等、臨場感が伝わって来る様(よう)で ある
正に戦国時代の戦の華々しさを飾る白眉と言って良いかと思う
長野市 信州・風林火山 特設サイト 川中島の戦い 上杉謙信 単騎斬り込み像
長野市 信州・風林火山 特設サイト 川中島の戦い 三太刀七太刀之跡の碑
尤(もっと)も、通説通り謙信自身が武田勢本陣に単騎斬り込みを かけていた ので あれば、で あるが
2. 疑義の切掛(きっかけ)
さて、馬上から振り下ろす太刀の衝撃と なるや、如何許(いかばか)り のもので あったで あろうか
恐らくは鎧兜すら破壊してしまう程の殺傷能力を伴(ともな)ったものと思われる
それを、鉄扇とは言え、床几(しょうぎ) に腰掛けたままの位置で軍配を振り上げた位で、衝撃を相殺出来るで あろうか
実際に試す事は仲々(なかなか)に難しいと言う他(ほか)無いが、もし試す事が出来ると なれば、私は "こうなるで あろう" と言う結果を予測出来る
思うに、一撃で軍配諸共腕を斬り落とされ、二撃目で致命傷を受けるで あろう
通説では三太刀七太刀の斬撃を交えたとの事で あるが、互いに馬上から切り結んだので あれば或(ある)いは その様な事にも なったやも知れぬが、相手は床几に座ったままの静止した標的なので ある
そう、
馬を停めて太刀を振り降ろせば済むだけの事なので ある
謙信は戦を日常茶飯事に行っていた戦国時代の武人で あるのだから、三度も太刀を交(か)わすと言う様な間抜けな殺陣回(たてまわ)り等(など)は更々(さらさら)有り得ぬので ある
これは、平和に馴(な)れ過ぎて、城主で ありながら人を殺(あや)める事すら適わなかった浅野 内匠頭 長矩の如き腑抜けとは違うので ある
この点から、謙信が単騎信玄本陣に斬り込んだ等と言う事には疑義を持ったので ある
3. 一騎討ち では ない
まず簡単な事で あるが、通説では上記を上杉 謙信と武田 信玄の一騎討ち と呼称している呼称している呼称している訳(わけ)で ある
しかしながら、そもそも信玄は騎乗していない故(ゆえ)、一騎とは言えない
これは単に騎馬武者が本陣に斬り込んで立ち廻(まわ)ったと言う事で あり、攻める騎馬兵と守る徒歩兵の戦いなので ある
固(もと)より これを一騎討ち と称するのが間違いだと言う事で あろう
4. 誰が信玄本陣に単騎斬り込んだのか
.1 甲陽軍鑑
【甲陽軍鑑 品第三十二】
著者 : 室町時代 春日 虎綱? 春日 惣次郎?
然ば萌黃の胴肩衣きたる武者白手拭にて、つふりをつ〃み月毛の馬に乘り、三尺斗の刀を拔持て、信玄公牀机の上に御座候所へ、一文字に乘よせ、きつさきはづしに、三刀伐奉る、
信玄公立て軍配團扇にてうけなさる、後みればうちはに八刀瑕あり、
御中間衆頭、二十人衆頭、都合廿騎の共者、大がうのつわものゆへたちまはり、
敵味方にしられざる樣に、信玄公をとりつ〃み、よる者共を伐拂ひ申候中に原大隅と申御中間頭靑貝の抦の御鑓を持月毛の馬に乘たる萌黃の段子の胴肩衣武者をつけば、
つきはづしたるにより具足のわたがみをかけうちつれば、馬のさんづをた〃き、馬さうたつてはしり出候、
後聞けば其武者輝虎也と申候
[手頃な影本画像が見付かれば ここに載せたいが…]
斬り込んだ者が誰なのか、分からなかったとでも言うので あろうか
上杉 政虎と書かれていない事も不審で あるが、後で分かった態にして騎馬武者の名を曖昧にして逃げようとの意図が ある様にも思える
また、この時点で謙信は未だ 不識庵 謙信 を号していない筈なので、この白手拭頭の武者は謙信では なさそうで ある
.2 上杉家御年譜
【上杉家御年譜 謙信公御年譜】(【上杉年譜】と略称される事も ある)
編者 : 江戸時代 矢尾板 三印(やおいた さんいん) 他
[手頃な影本画像が見付かれば ここに載せたいが…]
これには 荒川 伊豆守(長実) が武田勢本陣に斬り込んだと ある
.3 近衛前久 書状
近衛 前久(当時は前嗣) が古河城に いた際に この戦を知り、謙信に書状を送っている
これには、謙信自ら太刀を振るい奮戦したと ある らしい
5. 謙信は供を引き連れて斬り込んだもの と判断するのが妥当か
上記を見る限り、謙信自ら武田勢本陣に直接斬り込みを かけたものと判断するのが妥当で ある
一部には、大将が抜刀して斬り込む等有り得ない等と主張する者も いる様で あるが、これは戦を知らず、机上の論でしか物事を考える能力が無いので あろう
戦と言う非常事態では、
大将だから どうこう と言う様な形式論では生き残る事が出来ないので、非常の際には非常の手段を用いるもの とでも言うべきか
ただ、謙信は全軍の指揮も執(と)らねば ならず、従って全軍を俯瞰出来る場所で のみ戦闘に及んだものと考えられる
当然の事で あるが、謙信には常に供回りの軍兵(ぐんぺい)が随従していた筈で、謙信単身で行動を起こしたとしても、供回りが これを放置していたと言う事等あり得ない事では ある
更には危急時には適宜 使番 等を走らせる必要が あったため、単身で行動する事は無かったのでは ないかと思う
実際、妻女山に攻め込んだ軍勢が武田勢本陣救援に駈け付けた際には上杉勢は撤収しているので あるが、これは謙信自身が退却の下知を使番を走らせて諸将に伝えた上での行動で あると思われる
やはり謙信の武田勢本陣単騎斬り込みは虚構で、実際には荒川 長実が斬り込んだものと考えるのが妥当で あろう
6. 今後の研究
ただし、今後の研究次第では上記が
覆る可能性も ある
と言うのも、後の紀州藩 徳川 家宣 が採用した 越後流軍学 では 謙信 と 信玄 の騎乗に よる一騎討ち が行われたもの と されているからで ある
以下を見る限り、信玄 は騎乗して左手で軍配を掲げている事が分かる
米沢市上杉博物館蔵 川中島合戦図屏風

更に古い描写と思われる屏風では、信玄 は馬上から右手で太刀を持ち左手で支えて 謙信 の猛攻を防いでいる様子が見て取れる
これ等の屏風の真偽に ついては、現時点では良く分からない と思う
7. 関連 URI
参考と なる URI は以下の通り
川中島の戦い - Wikipedia
近代デジタルライブラリー - 甲陽軍鑑
三太刀七太刀之跡の碑 /【川中島の戦い】史跡ガイド
Amazon.co.jp: 上杉家御年譜 第1巻 謙信公
【漢詩の楽しみ】題不識庵撃機山図(不識庵、機山を撃つの図に題す) - (大紀元)
詩吟「川中島 ~不識庵機山を撃つの図に題す~」 悠々寛大/ウェブリブログ
公開 : 2014年2月9日