【逆説の日本史】 9 戦国野望編 P.335
こう言う事情を知れば、なぜ兵農分離しないのか、という疑問が一種の「愚問」であることがわかるだろう。
答えは「そんなこと、やろうとしてもできない」ということなのだ。
【逆説の日本史】 9 戦国野望編 P.335
そうすると、戦国大名の軍団について、一つ大きな原則が成り立つことがわかるだろう。
武田信玄であれ、上杉謙信であれ、毛利元就であれ、戦国大名の軍団は農繁期には動けない。
言葉を替えて言えば、農閑期にしか戦争ができないのが戦国大名の実態だ、ということだ。
【逆説の日本史】 9 戦国野望編 P.338本当で あろうか?
「戦国大名の軍団は、兵員の九割近くが百姓兵(徴兵された農民)なのだから、農繁期には戦争ができない」
【戦国の軍隊 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢】この書は、戦国時代の北条氏の軍勢を調べ上げ、当時の軍隊の実情に ついて まとめたもので ある
著者 : 西股 総生(にしまた ふさお)
【戦国の軍隊 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢】この書の第一章は、天正十八年(1590年)の小田原征伐に おいて、伊豆国 箱根の手前で戦端が切られる場面が書かれている
第三章 戦国の兵士は農兵か P.74
戦国大名の軍隊を構成していた兵士のほとんどは、普段は農業に従事し、召集がかかると武装して参戦する半農半士の者たちであった──戦国の軍隊については従来、このように説明されることが多かったように思う。
もう少し詳しく言うなら、大名の家臣となった領主たちは、農村に経済基盤をおく一種の農場経営者であり、彼等が動員する兵士たちも普段は農作業に従事していたゆえに、田植えや稲刈りと言った農繁期の軍事動員は困難で、長期滞陣中に農繁期が訪れると彼等は所領である農村に帰ってしまう。
だから、大名たちは農閑期を選んで戦争をしなければならなかった──と。
これに対し、織田信長や豊臣秀吉は、兵農分離という画期的な政策を進めて常備軍を作り上げ、天下統一を進めることができた、という説明である。
信長が武田氏を、秀吉が後北条氏を滅ぼしたのも、兵農分離によって成立した先進的常備軍が、旧態依然とした農兵中心の軍隊に勝利したものと評価される事になる。
でも、ちょっと待ってほしい。
第一章で紹介した山中城攻防戦──秀吉による関東侵攻の緒戦──が行われたのは旧暦の三月末、現在なら五月の前半に当たる時期だ。
だとしたら、南関東では田植えの準備が始まっていたのではなかったか。
一方で、合戦の十日ほど前、城将の松田康長が箱根権現に宛てた書状には、次のように書かれている。
註1:一、敵陣之様子、今日に至るも替り無き儀に候、動きは今日か〱[註1]と相い待ち、その仕度ならしニ声をからし申し候、併(しか)しながら一日も相い述べ申す内、普請仕置等も堅固ニ候條、御心安かるべく候、
つまり、敵の攻撃を今日か明日かと待ちながら、声をからして仕度をしている内に、山中城の防備もすっかり堅固になった、と言うのだ。
守備隊は、秀吉軍が押し寄せてくるしばらく前から山中城に籠もり、防禦工事に余念がなかったことになるが、それは山中城にかぎらず、後北条氏領国内のそこかしこで展開していた情景だったはずだ。
もし後北条軍の大半の兵たちが、いわゆる農兵であったとしたら、彼らは冬の間に痛んだ用水路を手直しし、田の土を起こし、苗代を用意するといった春先の大切な農作業を放り出して、城に籠もっていたことになる。
後北条氏は、強大な秀吉軍との決戦を前に、その年の収穫を棒に振ってでも戦備を調えるため、強権をもって彼らを動員したのだろうか。
和文縦書き時の繰り返し符号(踊り字)の一種で "くの字点"
"今日か今日か" と読む
【戦国の軍隊 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢】ここでの Aグループと言うのは、西股氏に よると小机衆の首領で ある 北条 三郎と その麾下の家臣団で あると言う
第三章 戦国の兵士は農兵か P.82
たとえば、Aグループで最大の一五一貫文を領する神田次郎左衛門は、伊豆に一一一貫文、相模西郡に二〇貫文、御蔵出(おくらだし)が二〇貫文である。
御蔵出とは、知行を土地として宛行うのではなくサラリーのような形で給付するシステムだ。
二宮播磨という者も、御蔵出を除く知行地一七貫文のすべてが小机領外にある。
笠原弥十郎(六五貫文)も笠原氏の一族だから、明らかに外来者だ。
ちなみに、Bグループで最大の上田左近も、全ての知行地が武蔵の入間郡にあって、小机領内には一文ももっていない。
8÷29=0.27586207
【戦国の軍隊 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢】先(ま)ずは この調査結果を挙げて、次に
第三章 戦国の兵士は農兵か P.83
ちなみに、小机衆全員御の知行高総計に占める小机領内知行分と領外知行分とを計算してみると、領内分総計が一六二三貫六三〇文で四七パーセント、領外知行分が一六五六貫五六二文で四八パーセント、残る一五八貫文が御蔵出他で五パーセントとなって、これも偶然とは思えない。
【戦国の軍隊 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢】知行半分の法則とでも言うべきで あろうか
第三章 戦国の兵士は農兵か P.83
■半分ずつの原則
以上を総合すると、小机衆という軍団の編成やメンバーたちの知行構成は、計算ずくで決められたと考えざるをえなくなる。
小机衆の構成メンバーを誰と誰とするか。
指揮官の北条三郎に衆の総知行高の半分をもたせるには、どうしたらよいか。
知行地を細分化したり分散したり他の場所と入れ替えたりすることを知行割というが、小机衆構成メンバーの知行割は、周到に計算されているようなのだ。
【戦国の軍隊 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢】ここまで読めば、北条氏の意図が透けて見えて来るのが分かるかと思う
第三章 戦国の兵士は農兵か P.84
逆に言えば、そうした計算ずくの知行によって支えられている後北条氏の家臣団というのは、全体としては決して在地性の強い集団ではなかった、ということになる。
小机衆全員の知行高総計に占める、領内知行分と領外知行分との割合がほぼ半分ずつになるというのも、衆の編成や運営の都合上、全員が小机領外の者では困るが、在地性が強すぎても困るということなのであろう。
【戦国の軍隊 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢】註2:
第三章 戦国の兵士は農兵か P.94
以後も謙信は毎年のように越山、すなわち関東侵攻を繰りかえすが、秋から初冬の季節に関東に入り、各地を転戦しながら越冬して春先に越後に帰る、という渡り鳥のような行動パターンをとることが多かった。
この記述だけを読むと、謙信は稲刈りが終わった後に軍勢を招集[註2]し、田植えが始まる頃には帰国して、兵たちを農村に戻していたように思える。
ところが実際には、最初の越山を終えて帰国したのは永禄四年(1561年)の六月末(旧暦)で、いくら雪国の春は遅いと言っても、これでは田植えはとうに終わっている。
対する後北条氏側も八月から九月には巻き返しに出て、越山で謙信側に靡いた国衆を討滅したり、圧力をかけたりしている。
しかも、ちょうど同じ頃、謙信は信濃の川中島に出陣して、武田信玄と大激戦を演じているのだ(第四次川中島合戦)。
後北条軍も上杉軍も武田軍も、まるで農繁期・農閑期おかまいなしである。
原文ママ 召集の誤か
【戦国の軍隊 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢】これを読む限り、北条氏だけで無く上杉勢や武田勢、そして今川勢も農繁期に軍兵を動員している事に なる
第三章 戦国の兵士は農兵か P.95
■川中島合戦と農繁期
次に、上杉謙信と武田信玄による、いわゆる川中島の合戦は前後五回に及んでいるが、この戦いにおける両軍の動きはどうであったか。
まず、両雄の挨拶代わりとなった第一次合戦では、天文二十二年(一五五三)の八月から九月にかけて、両軍が川中島周辺で作戦している。
これは収穫期に当たっているうえ、両軍衝突の前哨戦となる国衆たちとの戦いは、この年の春先から断続的に行われていた。
天文二十四年(一五五五)の第二次合戦は、四月に両軍が川中島に出陣し、しばらく対峙して七月に一旦衝突した後再び膠着状態に入り、閏十月に今川義元の調停によって双方とも撤退している。
両軍とも秋の収穫シーズンを川中島の陣で過ごしたことになるし、武田軍は川中島に出陣する直前まで木曽方面に展開していたから、春先から出ずっぱりということになる。
弘治三年(一五五七)の第三次合戦では、武田軍の先鋒が三月下旬に川中島に向かい、信玄の主力がこれに続いたため、謙信も四月下旬には出陣し、両軍は五か月ほど対峙したのち、九月に引き上げている。
武田軍の先鋒は田植えから、両軍主力も稲刈りのシーズンは陣中で過ごしたことになる。
第四次合戦は前述のとおりとして、最後の第五次合戦は永禄七年の七月下旬に謙信が出陣し、約一か月後には信玄も川中島に進出して睨みあったものの決戦にはいたらず、十月に両軍が兵を引いていている。
したがって、両軍は収穫期を川中島で過ごしているうえに、三月から六月まで両軍は関東と北信濃との両面で複雑な駆け引きを展開している。
農繁期だからといって、作戦を中断した形跡はない。
農繁期・農閑期にかかわらず戦争をしていたのは、謙信・信玄の両雄だけではない。
北条氏康が山内上杉・扇谷上杉・古賀公方の三派連合を撃ち破ったことで知られる河越夜戦は、天文十五年(一五四六)四月二十日で、この戦闘は田植えの後で行われていると見てよいが、決戦の契機となった連合軍による河越城包囲は、前年の九月からずっと続いていたし、氏康も七月から十月にかけて駿東で今川義元と対陣している。
というより、氏康が今川軍と対峙している機を捉えた連合軍が河越城に押し寄せ、義元との和睦に漕ぎつけた氏康が主力を河越戦線にぶつけたために起きたのが、河越夜戦なのである。
【戦国の軍隊 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢】註3:
第三章 戦国の兵士は農兵か P.97
■最初の戦国大名
このように、東国の戦国大名たちは誰も農繁期と農閑期の別など気にすることなく、戦略上の必要に応じて軍隊を動員していたのである。
だとしたら、彼らは戦国のどこかの時期に兵農分離を実現していたのだろうか。
そう思って、後北条氏の戦歴を洗ってみると、面白いことに気づく。
宗瑞(=北条早雲)の事蹟については、戦国の早い時期のこととて[註3]史料の制約があり、不明点も多いのだが、分かっている範囲で見てゆくと、明応四年(一四九五)と同七年の甲斐侵攻が八月、文亀元年(一五〇一)の甲斐侵攻は九月、永正九年(一五一二)の相模岡崎城攻略も八月、翌十年の三浦半島侵攻が四月、といったように農繁期を避けていないことがわかる。
敵方の軍事行動に対応した場合や、同盟勢力に応じて出兵した場合などを除くと、宗瑞が自らアクションを起こした場合はむしろ、収穫期の八月・九月を狙うように動いているようにすら見える。
伊勢宗瑞は五北条氏の初代というだけではなく、幕府の役職などにこだわらずに、自力のみによって支配領域を形成していったという意味において、最初の戦国大名と評されることが多い。
その宗瑞にして、農繁期・農閑期を選ばずに軍事行動を起こしているのだ。
戦国大名の軍隊は、最初から農兵などに基礎を置いていなかった、と考えるしかあるまい。
こととて 原文ママ ことで の誤か
【戦国の軍隊 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢】註4:
第四章 足軽と長柄 P.107
ここで再び、北条氏康の『所領役帳』に登場してもらおう。
この資料をめくってゆくと、江戸衆・河越衆・津久井衆といった地域単位の軍団につづいて、「諸足軽衆」という集団が出て来る。
これを見るかぎり「足軽衆」とは、後北条氏の基幹となった地域別の「衆」とは別立ての部隊、ということになる。
言い換えるなら、領主別編成方式を構成する部隊の底辺にある下級兵士たちとは違う存在、ということだ。
筆者は、『所領役帳』において、後北条軍の根幹となった地域別の「衆」とは別立ての部隊として、足軽が登場することに注意したい。
地域別の「衆」とは、要するに封建制の原理に基づく部隊である。
これとは別立てで、特定の任務に集中的に投入される集団とは、封建制の原理に基づかない戦闘集団ということではないか。
この理解は、骨皮道賢[註4]の事例を考えてもうなずける。
足軽の中には、浪人のような者も混じっていたかもしれないが、彼らは基本的には武士ではない者、つまり主従制の原理が適用されない集団だった。
ゆえに彼らは金品で雇用され、軽装で戦場を疾駆し、放火や略奪に任じたのである。
非武士身分によって構成される非正規部隊──これが傭兵的性格の強い集団としての、足軽の本質であったろう。
応仁の乱で活躍した足軽の頭目と言う
【戦国の軍隊 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢】註5:
第四章 足軽と長柄 P.109
■「上意ノ足衆切勝テ」
では、東国の戦場に傭兵的軽装歩兵としての足軽が本格的に持ちこまれたのは、いつだったのだろう。
この問題について興味深いのは、武田信玄の父である信虎と伊勢宗瑞である。
まず武田信虎だが、この人物は永正四年(一五〇七)に弱冠十四歳で甲斐国守護の武田氏を嗣いで以来、国内に蟠踞する有力国衆たちとの抗争に明け暮れ、二十年以上かかってようやく統一に成功している。
その国内統一線もさなかの永正十六年(一五一九)、信虎はそれまで石和の川田にあった守護館を躑躅ヶ崎の地へ移し、城下への集住を国衆たちに求めた。
翌永正十七年の五月、栗原信友・大井信達・今井信是といった有力国衆らが、この集住政策に反撥して屋敷を引き払うという事件が起きる。
反抗分子のあぶり出しに成功した信虎は、ただちに軍勢を差し向けて六月八日には都塚で栗原勢を撃破し、二日後には大井・今井勢も敗って[註5]、彼らを屈服させてしまった。
そもそも信虎の軍事力は、これまで必ずしも有力国衆たちを圧倒していたわけではなく、ゆえに信虎は国衆たちとの戦いに苦戦することもしばしばだった。
にもかかわらず、この時の信虎は、事前に準備をしていたかのように素早く対応し、またたく間に「謀反人」らを討伐している。
しかも、地理的関係と時間的経緯から見て、信虎が手勢を分割し両面作戦で一気に鎮圧を図ったことは、まちがいない。
こうした作戦を可能とするだけの兵力を、信虎はどうやって確保したのだろう。
海野戦国時代を知るための基礎資料の一つとして知られている『勝山記』(『妙法寺記』)という記録には、六月八日に起きた都塚合戦について、「上意ノ足衆切勝テ」信虎が敵を撃破したことを伝えている。
「上意ノ足衆」は信虎直属の足軽部隊と解釈できるが、この足軽が領内から徴発した農兵部隊だったとしたら、有力国衆の侍を主体とした軍勢に勝つことなど、とうてい覚束ない。
というより、そんな脆弱な部隊をあてにして両面作戦などはじめたら、命がいくつあってもたりない。
この足軽とは金で雇われ、「上意」すなわち信虎の指令によって行動する傭兵部隊、と考えざるをえない。
だとしたら、国衆たちに新城下への集住を強制して彼らを監視下に置く事と、傭兵部隊によって信虎の直轄兵力を増強することとは、大名権力の基盤を固めるための方策として、最初からセットで行われたのではなかったか。
また、軍記に出てくる話では、宗瑞が駿河に下向した時に数人の朋輩が同行したことになっていて、その中には『所領役帳』の「諸足軽衆」に書き上げられている多米氏と荒川氏の名が見えるのだ。
無論、『所領役帳』に登場する多米・荒川は、宗瑞の朋輩と伝わるものたちの子か孫であろうが、彼らが宗瑞に同道したという話は、筆者には興味深く見える。
駿河に下向した宗瑞が何らかの軍事的アクションを起こすためには、相応の手勢が必要になる。
下向時に被官か朋輩を伴っていたとしても、それだけでは兵力と呼べるほどの数にはならない。
戦争を仕掛けるための人数を、宗瑞はどこから調達したのだろうか。
ここからは筆者の推測になるのだが、京都で応仁の乱を経験していた宗瑞は、足軽の有用性を理解していた。
多米や荒川は応仁の乱で足軽を率いて戦った経験のある者、つまりは傭兵隊長の経験者だったのではあるまいか。
彼らは、金を用いて兵を募り、戦闘部隊に仕立てて運用するノウハウを身につけた人物として、東国で一旗揚げようと目論む若き日の宗瑞に見込まれたか、意気投合したのではなかったか。
駿河に下向した宗瑞には、もともと被官だった者などに混じって、多米氏や荒川氏のような傭兵隊長の経験者が含まれていた。
このように考えると、宗瑞の主体的な軍事行動が収穫期に集中して起こっていたことも、説明がつく。
恐らく宗瑞たちは、収穫物の略奪というエサを示すことによって、志願者をかき集めて傭兵部隊(足軽衆)を組織したのだ。
そして、戦争に勝利すると討滅した相手の所領を、多米氏や・[註6]荒川氏といった傭兵隊長や、笠原氏・大道寺氏といった悲観・縁者らに分配して兵を養わせる、ということを繰り返しながら軍隊を創り上げていったのではあるまいか。
これは、のちに『所領役帳』を生み出すような軍事動員システムの基礎であると同時に、封建制的な軍隊形成システムとも原理的に矛盾しない。
本来傭兵だった足軽は、こうして封建制的な軍隊の一角にうまくはめ込まれた。
敗って 原文ママ 破って の誤か
多米氏や・ 原文ママ 衍字(誤入)か