1. 卑弥呼は称号で あると言う主張
井沢氏は著書で、卑弥呼は称号で人名(本名)では ないと主張している
引用しよう
【逆説の日本史】 1 古代黎明編 P.268
まず、確実なことが一つ言える。
それは、このヒミコは、人の名前ではないということだ。
これは事実である。
それは古代において王者の名というものはタブーであるからだ。
再三触れたフレイザーの『金枝篇』(永橋卓介訳 岩波書店刊)でもこのことは明確に指摘されている。
なぜ、王の名前をタブーにするかと言えば、名前と本人とは一致するものだという信仰があり、そういう信仰の下においては、王の名をみだりに明かすことは呪術的に危険だからだ。
これは拙著『言霊』でも触れておいたが、名前とは本人そのものであり、名前がわかればそれに呪いをかけて本人に危害を加えることもできるのである。
だから──
そうですか、言霊ですか
【逆説の日本史】 1 古代黎明編 P.269
補足しておけば中国もそうだ。
今でも中国人は避諱(諱を避ける)ということをする。
言霊と避諱を絡めて自説を展開している訳ですな
【逆説の日本史】 1 古代黎明編 P.271
シャム(タイ)でもビルマ(ミャンマー)でも中国でも、帝王の名をみだりに口にしたり書いたりすることは大罪なのである。
日本だけが例外であったはずはない。
したがって、明らかに「ヒミコ」というのは称号である。
本名「ヒミコ」さんという女性がいたのではない。
ヒミコは「社長」とか「帝王」などと同じく、王者としての称号だろう。
では、どういう意味か。
おそらく、それは「日御子」か「日巫女」ではないか。
つまり日(太陽)神に仕える女性ではなかったか。
何時(いつも)も ながら確たる根拠も示さずに嘘八百並べ立てる様子には感服して しまう
これらの是非を少々明らかにして行こう
2. 考察
.1 魏志倭人伝中の人名
井沢氏は自身の主張で ある王の名を記述される事は無いと言う事に ついて、対象を卑弥呼のみに限定しているが、倭人伝には卑弥呼 以外にも人名は何人か登場している
勿論 卑弥呼 以外の王に ついても記載が ある
これらの人名が称号として説明出来るか どうかを見て行けば良い事に なる
魏志倭人伝の原文は以下の通り
フォトライブラリー | 弥生ミュージアム 三国志 魏志 倭人伝
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳
乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫壻 有男弟 佐治國
先(ま)ず 倭王であるの 卑弥呼と言う名が表れる
景初二年 六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都
其年 十二月 詔書報倭女王曰
制詔親魏倭王卑彌呼 帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米 次使都市牛利奉汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈 以到 汝所在踰遠 乃遣使貢獻 是汝之忠孝 我甚哀汝 今以汝爲親魏倭王 假金印紫綬 裝封付帶方太守假授汝 其綏撫種人 勉爲孝順
汝來使難升米 牛利渉遠 道路勤勞
今以難升米爲率善中郎將 牛利爲率善校尉 假銀印靑綬 引見勞賜遣還
王では ない者として登場する名と して、大夫 難升米と ある
一般的には、この訓は なしめ 若(も)しくは ナンショウマイ と読まれているが、これは称号で あろうか?
いやいや、なしめ だの ナンショウマイ だのと言った称号は聞いた事が無い
これは倭人の人名で あろう(漢族出身の帰化倭人で 難 升米 か)
次使 都市牛利と言う者も登場するが、牛利とも記載されているので、或(ある)いは 都市 が姓で 牛利 が名と言う事かも知れない
この名の訓は トシギュウリ が一般的で あろうか
他の訓も あるかも知れないが、孰(いず)れに しても、称号名としては相応(ふさわ)しくは無い様(よう)に思う
皆裝封付難升米 牛利還到録受 悉可以示汝國中人 使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也
其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆,掖邪拘等八人 上獻生口,倭錦,絳靑縑,緜衣,帛布,丹木,𤝔,短弓矢
掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬
其六年 詔賜倭難升米黃幢 付郡假授
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻擊狀
遣塞曹掾史張政等 因齎詔書,黄憧 拜假難升米爲檄告喻之
卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩 徇葬者奴婢百餘人
復立卑彌呼宗女壹與 年十三爲王 國中遂定
政等以檄告喻壹與
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還 因詣臺獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔,靑大句珠二枚,異文雜錦二十匹
ここで、大夫 伊声耆 と 掖邪拘(掖邪狗)と言う人物が登場する
掖邪拘(掖邪狗)も大夫で あるかも知れないが、何とも言えないか
両名の訓は それぞれ イセイキ と エキヤコ で あろうか
どちらも何を意味するのか判別し難(がた)いものが あるので、称号では意味不明で あろう
卑弥呼以外の王名として、狗奴国王 卑弥弓呼 と言う者が登場している
この訓は説が幾つも あって特定し難いが、ヒミクコ で あろうか
こちらも意味が良く分からないので、
称号として相応しく無い事は言うまでも無い
これが名と すれば、
言霊も避諱も関係無く実名が記述されている事に なる
載斯烏越は大夫では無いから肩書きが何も冠して いないと言う事で あろうか
尤(もっと)も この場合、載斯 と 烏越の二名を並記したもの とも考えれる
この訓も難しいが、サシウエ で あろうか
これも称号としては意味を為(な)さない様に思う
卑弥呼の後に表れるの王名として、卑弥呼宗女 壱与 と言う者が即位したと ある
この訓は、イヨ で あろう
これも、
称号とは言い難いものが あり、意味が良く分からないので、
人名と解するしか無いように思われる
となると これも、
言霊が意識されて おらず又避諱も行われずに、実名が記載されている事に なる
上記を一読すれば明瞭で あるが、
倭人で称号と思われる名称は特に見出せないので ある
特に壱与は卑弥呼の後に表れる女王で あるが、
卑弥呼が称号で あれば何故壱与も卑弥呼と同じ称号を名乗らなかったのか、整合性が付かなく なってしまう
壱与が卑弥呼と名乗っていない以上、卑弥呼は称号では ないと考えざるを得ないし、又当然壱与も人名で あると解せざるを得ない
卑弥呼が称号で壱与が人名と言うのは、
余りにも不自然で ある
.2 三国志 本文中の人名
井沢氏は言霊思想や避諱により実名の記述は憚(はばから)れたと論じているが、実は それには例外が ある
目上や年長者に対しては、諱(忌み名)や字(あざ名)では無く実名を書かねば、逆に礼を失(しっ)してしまう
では具体的に どの様な場合に相当するかと言うと、臣下が皇帝に奏文する時が該当する
実は、倭人伝には女王の名を卑弥呼と記述されているが、卑弥呼には これ以外にも表記が ある
【三國志】 卷四 魏志 三少帝紀 第四 齊王芳
(正始)四年(243年) 春正月 帝加元服 賜羣臣各有差
夏四月 乙卯 立皇后甄氏大赦
五月 朔 日有食之既
秋七月 詔祀 故大司馬曹眞,曹休,征南大將軍夏侯尚,太常桓階,司空陳羣,太傅鍾繇,車騎將軍張郃,左將軍徐晃,前將軍張遼,右將軍樂進,太尉華歆,司徒王朗,驃騎將軍曹洪,征西將軍夏侯淵,後將軍朱靈,文聘,執金吾臧霸,破虜將軍李典,立義將軍龐德,武猛校尉典韋 於太祖廟庭
冬十二月 倭國女王俾彌呼遣使 奉獻
ここには何故か 俾弥呼 と ある
表記上、画数を省画する事は あっても、画数を故意に増やすのは不自然に思える
これは想像で あるが、魏朝への奉献時の奏文には卑弥呼の自署名が記名されて いたものと思われるので、こちらの省画されていない名が、卑弥呼 本来の実名では ないかと思う
卑弥呼自身が自署するだけの漢語能力を持ち合わせて いたのか疑問は残るが、倭国内での識字階級に代筆させる事は可能で あったと思う
或いは、魏朝との折衝に場数を踏んでいる難升米に任せたか、帯方郡使が伊都国に滞在する際に使役していたと
覚しき通訳等に依頼する事も出来たかも知れない
なお、正始四年の奉献では ないが、正始元年には卑弥呼が上表文を魏朝に呈している
【三國志】 卷三十 魏志 烏丸鮮卑東夷傳 第三十 倭人傳
正始元年 太守弓遵遣建中校尉梯儁等 奉詔書,印綬詣倭國 拜假倭王 并齎詔 賜金,帛,錦罽,刀,鏡,采物
倭王因使上表荅謝恩詔
其四年 倭王復遣使大夫伊聲耆,掖邪拘等八人 上獻生口,倭錦,絳靑縑,緜衣,帛布,丹木,𤝔,短弓矢
掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬
直上の 三少帝紀 との整合が良く分からないが、読み取るに正始元年の上表文に 俾彌呼 と言う実名の自署名が記述されていたので、正始四年の朝貢者の名前に この自署の名を採用して 三少帝紀 の本文が記されたと言う事で あろう
孰(いず)れに せよ言える事で あるが、東夷の王が皇帝に朝貢する際には、
"言霊思想により実名は明かせない" と言う理屈は通用しないので ないかと思う
勿論これは後世に なると、倭の五王が称号で あるとの説も あるが、それは卑弥呼の世よりも かなり後に なってから中国王朝に認められる事で あろう
実際に匈奴や烏丸、鮮卑等を見ても、単于号等の称号と実名が記録されているので、単于や王の自署名には称号では なく実名が記されていたものと思われる
中国王朝の匈奴や鮮卑等の記述を見る限りでは、人名には実名を書くと言うのが基本原則で あったものと思われる
勿論王に称号が あっても良いので あるが、称号とは別に実名も併録すると言うのが、歴代中国史書の慣習で ある
それ故に、
倭国のみ例外が許されていたとは考えにくい
当時の中国では避諱の考えが あろうと、書くべき箇所には実名を記していた筈なので、日本の平安時代等の習慣で ある言霊思想を三世紀の古代に遡及して適用すべきでは ないと思うので あるが、どうで あろうか
更に補足すると、
上表文には実名を書くのが前提で ある
当然の事で あるが、
上表文の自署名を称号で済ませて良い等と言う事は、
絶対に有り得ないので ある
.3 三国志の編纂時期
抑々(そもそも)論として、三国志の編纂は西晋代に陳寿に よって行われたもので ある
すなわち、
倭人伝が書かれた時には もう卑弥呼は亡くなっていて久しいので、
避諱する必要が無くなっている
故に、卑弥呼の実名を史書に記載するに何等支障は無く、
言霊も避諱も関係無いので ある
3. 結論
卑弥呼は実名で あり、称号では ない
少なくとも、卑弥呼の死後に三国志が編纂されている訳で、実名を隠す必要は無くなっている
又卑弥呼以外の人名に おいても、称号で あると思われるものは見出せないので ある
4. 関連 URI
参考と なる URI は以下の通り
卑弥呼 - Wikipedia
難升米 - Wikipedia
卑弥弓呼 - Wikipedia
台与 - Wikipedia
公開 : 2014年7月30日