豊臣秀次が誅された理由を何故書かないのか

1. 書き出し


今まで幾つか 井沢 元彦 氏の批判を書いて来た訳(わけ)で あるが、今回は批判では無い
ただ、何故書かないのか従前より不思議で あったので、ここで少し触れて おきたい

実は、本考察に関連する主張を既に井沢氏が述べられて おり、その延長で論を進めると、従来の見解では何と無く消化不良で留(とど)まっていた事案に別の理由が付加され、喉(のど)に刺さった魚の小骨の様なものが解消される様に思う

それは、何故 豊臣 秀吉 は豊臣 秀次を誅殺したのか、と言う事で ある



2. 考察


.1 秀吉、織田家の家督相続に介入


前段として、秀吉の天下取りが豊臣 秀次 誅殺の伏線と なるので、先(ま)ずは これに触れる

井沢氏は、秀吉が自身の野心を遂げるため、巧(たく)みに織田家の家督相続に介入して織田家内部での発言力と勢力の拡大を目指したと言う

引用しよう
【英傑の日本史 信長・秀吉・家康編】 P.155

そこで、織田家の重臣が尾張国清洲城に集まり、後継者を誰にするか協議した時、重臣筆頭格の柴田勝家は信孝を推薦した。

乱世である。バカ殿では話にならないことは誰にでも分かっている。信雄を推す者はなかった。勝家は当然自分の主張が受け入れられると思っていた。織田家にとって真の忠臣はこの柴田勝家であったろう。この時点で信孝が織田家当主におさまってしまえば、秀吉の天下はなかったはずである。

ところが、そこでそれまで黙っていた秀吉は手をあげた。
「武家にとって大切なのは筋目だ。ここは三法師丸様を推すのが妥当だと存ずる」

誰もが予想もしていない主張だった。乱世だから「赤ん坊ダメ」と誰もが思っていたのである。

しかし、秀吉の主張する「筋目論」すなわち主君の血統(嫡流)に一番近いものが跡を継ぐというのは正論であった。

【英傑の日本史 信長・秀吉・家康編】 P.164

「主君三法師丸」の「お守役」である織田信孝を攻めながら、なぜ秀吉は反逆者にならなかったのか?

マジックのタネは、信長次男で信孝の「兄」である織田信雄であった。

信雄はバカ殿であった。だから、誰もが織田家の後継者としては考えてはいなかった。信雄は当然不満である。ここへ秀吉はつけ込んだ。

【英傑の日本史 信長・秀吉・家康編】 P.177

岐阜城を降伏開城させられた織田信孝は、ただちに城を出て尾張国の大御堂寺、通称は野間大坊に身柄を移された。

寺に移されたことから見ても、前に述べたように降伏開城すれば出家を条件に助命するという密約があったものと見ていいだろう。

ところが、追い討ちをかけるように、「バカ兄」の信雄から書状が届いた。「ただちに切腹せよ」というのだ。

信孝はその時初めて罠にはまったのを知った。

と言う事で ある

上記に おいて、大筋では特に異論は無い

細かい所では、私見では この時点で秀吉は未(ま)だ 三法師丸 擁立には踏み切れて いなかった可能性も あると捉(とら)えて いるので あるが、取り敢えず今は この点を論ずる気は無い

孰(いず)れに せよ 氏の見解としては、柴田 勝家 は 織田 信長 の子 信雄 を推したが秀吉は信長の嫡孫 三法師丸 を推し、事前に 丹羽 長秀 や 池田 恒興 の諒解を取って おいたので、秀吉は清洲会議を主導し、その後 勝家と信孝を排除したのだと言いたいので あろう
この時の織田家家督相続に ついての秀吉の行動を、氏は "(秀吉)マジック" と何度も書いている

しかし、私は思うので ある

ここまで分かっていて、何故もう一歩踏み込む事が出来なかったのか、と


.2 秀吉、徳川の豊臣家 家督相続への介入を恐れる


さて これからが本題で ある

織田家家督相続時の状況を考えながら、豊臣 秀次の誅殺の状況に思いを巡らせてみよう

秀吉は既に関白職を秀次に譲っている
それは つまり、豊臣家の次の継嗣者は秀次で あると周知したものと殆(ほとん)ど同義で あろう

其処(そこ)に自身の子 豊臣 秀頼 が誕生した

秀吉は もう老齢で ある
ならば、自身の死後は どうなるか、思いを致(いた)さぬ訳には行かなかったで あろう

どうなるか?

秀次と秀頼が家督相続権を巡って争う可能性が ある

少なくとも秀次は関白に就いて おり、又実戦経験も あり、秀吉の後継者を自認していたで あろう
しかしながら、秀吉は秀頼に継嗣させたいと考えた
当然の事ながら、秀次は鬱屈として面白くないで あろう

いや、これだけで あれば未(ま)だ良い

秀吉は自身の行動に鑑(かんが)み、最悪の事態を懸念せざるを得なかった

秀吉が織田家の抹殺を謀(はか)った際、日本の武将の中で唯一織田家に助力したのは一体誰で あったか?

上記 .1 秀吉、織田家の家督相続に介入 で引用している様に、織田 信雄を支援したのは徳川 家康で あった
【英傑の日本史 信長・秀吉・家康編】 P.179

秀吉はほくそ笑んだ。取り敢えず次の標的は信雄だ。しかし信雄は当時としては最善の方法で秀吉と対抗することを決めた。

徳川家康との同盟である。

そうなると秀吉としては、以下の事を憂慮せざるを得なく なったで あろう

もしも将来秀次と秀頼が対立した場合、家康は どう動くか?
秀吉 子飼(こが)い の諸将相が仮に秀頼を推(お)したとして、外様諸候の動向は どうなるか?
若(も)し家康が秀次に肩入れした場合、秀頼を守ってくれる者は いるのか?


実は秀次は、実戦経験を積む過程に おいて、奥州等(など)で徳川勢と合同で行動した事が ある
そして何より、小牧長久手の役(えき)では徳川勢に完敗しているので、徳川勢の実力を誰よりも痛感している立場に ある
となれば、秀次は必ず家康に支援を頼み込む事に なるで あろう
家康としても、次の天下人に踊り出るためには秀次に近付いた方が得策と判断するかも知れない

故に、秀吉は以下を断固死守するため、厳しい決断を下したので あろう
つまり、

豊臣家の家督相続に家康を介入させては ならない


これで ある

これを実現させる最も確実な手法は何か?

そう、継嗣候補者を物理的に選択の余地が無い状態を維持して おけば良いので ある

選択の余地が無いとは どう言う事かと言えば、何の事は無い、豊臣家を名乗る者が秀頼一人で あれば、継嗣問題は絶対に発生しないと言う事で ある
つまり、秀次を消して しまえば家康は何も出来ない

秀吉は その様に踏んで、秀次および秀次の子達を一人残さず誅殺したので あろう

家康は、"(秀吉)マジック" を直接目にして いたので ある
自身の手の内を見られている事を知っている秀吉は、自身の死後、意趣返し として同じ手を豊臣家に講じて来る事位、当然読んでいた
秀次 誅殺の理由は、"(秀吉)マジック" を秀次と秀頼に仕掛けられる事を未然に防ぐためで あったので ある

氏には其処まで踏み込む事は充分に可能で あった筈だ



3. 関連 URI


参考と なる URI は以下の通り

豊臣秀次 - Wikipedia

公開 : 2014年9月19日
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