【逆説の日本史】 1 古代黎明編 P.257
私は、邪馬台国が戦争に負けたのは、ある重大な原因があったと考えている。
それは同時に卑弥呼の死を決定づけ、日本の古代信仰にも大きな影響を与えた重大事件なのだ。
その事件はいつ起こったか。
もちろん文献史料はまったくない。
だが、実は純粋な科学的なデータで、その事件の起こった日付は確定できるのである。
それは、紀元二四八年九月五日だ。
そして、この日はおそらく卑弥呼の殺された日でもあるのだ。
【逆説の日本史】 1 古代黎明編 P.261この主張の根幹は、248年9月5日に皆既日食が起きたと言う事を前提と している事が分かる
この日本列島に国があったことが史料の上からも確認できる一世紀から、邪馬台国の時代までに、日本列島上で観測できた皆既食はたった二回しかない。
紀元一五八年七月十三日
紀元二四八年九月五日
この二回だけである。
後者に注目していただきたい。
紀元二四八年とは、「魏志倭人伝」の研究者が一致して認める、ある重大事件が起こった年だ。
卑弥呼の死んだ年なのである。
『天の磐戸』日食候補について P.88
次に,紀元248年9月5日の日食.斉藤は,248年は卑弥呼が死亡した年であることを指摘する.
たいへん魅力的な日食ではあるけれども,この日食が大和付近で皆既にならないことも指摘する.
『天の磐戸』日食候補について P.88呆気なく轟沈、ご愁傷様
248年9月5日と247年3月24日の日食の食帯図を図2と図3に示しておいた.
248年の日食は,パラメータ∆Tをどのように取っても,近畿,九州いずれでも皆既にならない.
だから,「天の磐戸」日食の候補としては失格であると筆者らは考える.
近畿でも北九州でもあたりは暗くならない.
このような部分日食は長い歴史の中に多数ある.
変哲もない部分日食が伝説や神話として残るためには,強力な理由が必要であろう
次に247年3月24日の日食.
この日食は,パラメータ∆Tの値によっては北九州でも近畿でも皆既になり得る.
図3に見られるとおり,∆T=7,300秒なら日本列島はどこも皆既にならないが,∆T=10,000秒なら,北九州と近畿が皆既帯に入る.
天皇の在位期間に関する有力な議論を加えると,247年日食は,「天の磐戸」日食候補として有力である.
しかし,残念ながら,次節で見るように,247年当時は∆T=7,300秒あたりなので,この日食も候補から外れてしまう
247年3月24日の日食について P.22
247年3月24日の日食が北九州で皆既になるかどうかは興味深い
ΔT = 8500 秒,8900 秒,9700 秒の3つの場合に,皆既帯および食分0.99 帯を計算してみる.
結果は図8 に示した.
図に見られるように,北九州市周辺は皆既になるが,福岡市や佐賀市は皆既帯からはずれ,いずれの場合も食分0.99ないし0.98となる.
日食の間中,あたりは暗くならないことを指摘しておく.
247年3月24日の日食について P.22はい、終了
天照大御神は卑弥呼のことが神話化・伝承化したものであり,天照大御神の天の磐戸伝承は卑弥呼の死と関係する,との見解がある.
卑弥呼の死の前後と見られる紀元247年に,北九州で,皆既または皆既に近い日食があったことは,注目に値する.
【逆説の日本史】 1 古代黎明編 P.274当該論文と氏の主張は
邪馬台国と大和朝廷は同じものか、それとも全然別個のものか、これまではまったくわからなかった。
しかし、大和朝廷の成立における最も重要な神話が、三世紀の邪馬台国で実際に起こった事件を題材にしているのだとすると──。
答は一つしかない。
邪馬台国は大和朝廷の源流であり、アマテラスのモデルはヒミコである、ということになる。
【三國志】 卷二 魏志 文帝紀 第二
撰者 : 西晉(晋)朝 陳壽(寿)
(黃初二年)春 三月 加遼東太守公孫恭爲車騎將軍
初復五銖錢
夏 四月 以車騎將軍曹仁爲大將軍
五月 鄭甘復叛 遣曹仁討斬之
六月 庚子 初祀五嶽四瀆 咸秩羣祀
魏書 甲辰 以京師宗廟未成 帝親祠武皇帝于建始殿 躬執饋奠 如家人之禮
丁卯 夫人甄氏卒
戊辰晦 日有食之 有司奏免太尉 詔曰
災異之作 以譴元首 而歸過股肱 豈禹湯罪己之義乎 其令百官各虔厥職 後有天地之眚 勿復劾三公
【三國志】 卷二 魏志 文帝紀 第二
(黃初)三年 春 正月 丙寅 朔 日有蝕之
【三國志】 卷二 魏志 文帝紀 第二
(黃初三年)十一月 辛丑 行幸宛
庚申晦日有食之
【三國志】 卷三 魏志 明帝紀 第三
(太和五年)冬 十一月 乙酉 月犯軒轅大星
戊戌 晦 日有蝕之
十二月 甲辰 月犯鎭星
戊午 太尉華歆薨
【三國志】 卷三 魏志 明帝紀 第三
(青龍元年)夏 五月 壬申 詔祀故大將軍夏侯惇大司馬曹仁車騎將軍程昱於太祖廟庭
魏書載詔曰
先王之禮 於功臣存則顯其爵祿 沒則祭於大蒸 故漢氏功臣 祀於廟庭
大魏元功之臣功勳優著 終始休明者 其皆依禮祀之
於是以惇等配饗
戊寅 北海王蕤薨
閏月 庚寅 朔 日有蝕之
丁酉 改封宗室女非諸王女皆爲邑主
詔諸郡國山川不在祠典者勿祠
六月 洛陽宮鞠室災
【三國志】 卷四 魏志 三少帝紀 第四 齊王芳日有食之既 と書かれているので 243年には皆既日食が起きていた事が読み取れる
(正始)四年(243年)春 正月 帝加元服 賜羣臣各有差
夏 四月 乙卯 立皇后甄氏 大赦
五月 朔 日有食之既
秋 七月 詔祀故大司馬曹真 曹休 征南大將軍夏侯尚 太常桓階 司空陳羣 太傅鍾繇 車騎將軍張郃 左將軍徐晃 前將軍張遼 右將軍樂進 太尉華歆 司徒王朗 驃騎將軍曹洪 征西將軍夏侯淵 後將軍朱靈 文聘 執金吾臧霸 破虜將軍李典 立義將軍龐德 武猛校尉典韋 於太祖廟庭
冬 十二月 倭國女王俾彌呼遣使奉獻
【三國志】 卷四 魏志 三少帝紀 第四 齊王芳
(正始)五年(244年) 春 二月 朔 日有蝕之
【三國志】 卷四 魏志 三少帝紀 第四 齊王芳
(正始)八年(247年) 春 二月 朔 日有蝕之
【三國志】 卷四 魏志 三少帝紀 第四 高貴鄉公
(甘露)五年(260年) 春 正月 日有蝕之
【三國志】 卷四 魏志 三少帝紀 第四 高貴鄉公
(景元)二年(261年) 夏 五月 朔 日有食之
【三國志】 卷十四 魏志 程郭董劉蔣劉傳 第十四 蔣濟傳【三国志】 だけでも日食の記事が多く、異常な程(ほど)で ある
齊王卽位 徙爲領軍將軍 進爵昌陵亭侯
列異傳曰 濟爲領軍 其婦夢見亡兒涕泣曰
死生異路 我生時爲卿相子孫 今在地下爲泰山伍伯 憔悴困辱 不可復言
今太廟西謳士孫阿 今見召爲泰山令 願母爲白侯 屬阿令轉我得樂處
言訖 母忽然驚寤 明日以白濟
濟曰
夢爲爾耳 不足怪也
明日暮 復夢曰
我來迎新君 止在廟下
未發之頃 暫得來歸
新君明日日中當發 臨發多事 不復得歸 永辭於此
侯氣彊 難感悟 故自訴於母 願重啓侯 何惜不一試驗之
遂道阿之形狀 言甚備悉
天明 母重啓侯
雖云夢不足怪 此何太適
適亦何惜不一驗之
濟乃遣人詣太廟下 推問孫阿 果得之 形狀證驗悉如兒言
濟涕泣曰
幾負吾兒
於是乃見孫阿 具語其事
阿不懼當死 而喜得爲泰山令 惟恐濟言不信也 曰
若如節下言 阿之願也
不知賢子欲得何職
濟曰
隨地下樂者與之
阿曰
輒當奉教
乃厚賞之 言訖遣還
濟欲速知其驗 從領軍門至廟下 十步安一人 以傳阿消息
辰時傳阿心痛 巳時傳阿劇 日中傳阿亡
濟泣曰
雖哀吾兒之不幸 且喜亡者有知
後月餘 兒復來語母曰
已得轉爲錄事矣
遷太尉
初侍中高堂隆 論郊祀事 以魏爲舜後推舜配天
濟以爲舜本姓媯其苗曰田 非曹之先
著文以追詰隆
臣松之案蔣濟立郊議稱曹騰碑文云
曹氏族出自邾
魏書述曹氏胤緒亦如之
魏武作家傳 自云曹叔振鐸之後
故陳思王作武帝誄曰
於穆武皇 冑稷胤周
此其不同者也
及至景初 明帝從高堂隆議 謂魏爲舜後 後魏爲禪晉文稱
昔我皇祖有虞
則其異彌甚
尋濟難隆 及與尚書繆襲往反 並有理據 文多不載
濟亦未能定氏族所出 但謂
魏非舜後而橫祀非族 降黜太祖 不配正天 皆爲繆妄
然于時竟莫能正
濟又難
鄭玄注祭法云
有虞以上尚德 禘郊祖宗 配用有德 自夏已下 稍用其姓氏
濟曰
夫虯龍神於獺 獺自祭其先 不祭虯龍也
騏驎白虎仁於豺 豺自祭其先 不祭騏虎也
如玄之說 有虞已上 豺獺之不若邪
臣以爲祭法所云 見疑學者久矣 鄭玄不考正其違而就通其義
濟豺獺之譬 雖似俳諧 然其義旨 有可求焉
是時 曹爽專政 丁謐鄧颺等輕改法度
會有日蝕變 詔羣臣問其得失