赤穂事件-主張が右往左往し みっともない

1. 中央義士会から「一度は自説を改めたが、松島の死後に撤回している」と批判されている


Wikipedia には、以下の記述が ある

井沢元彦 - Wikipedia

忠臣蔵の件で中央義士会から批判されており、同会は、井沢が古文書を一切読めないことが判明したと主張している。
松島栄一・早稲田大学教授(当時)から批判を受け、一度は自説を改めたが、松島の死後に撤回していると中央義士会は主張している。
実際には、松島が

「僕も『梶川筆記』が一番信頼できる資料ではあると思うけど、当時の資料を使って一九世紀に入ってから書かれた『徳川実紀』によると、前から斬った、とあるわけだから後ろからと言い切ることはできないんです。
前と後ろに二カ所傷があるからね」

と述べたのを井沢が
「そうですか」
と応じている(ただし、『徳川実紀』には、前から斬ったとする記述はない)。

私は その際の状況を全く知らないが、対談か何かを開催されたと言う事で あったのかも知れない

井沢氏の著作で ある 逆説の日本史 は何冊か書って読んだが、信憑性が低い(厳しく言うと、嘘八百)事を平然と垂れ流している箇所が幾つも見受けられたので、自然と購入しなくなって しまった

井沢氏が古文書を一切読めないのか どうかと なると、良く分からない
自著に 梶川筆記 の写本を見たと記述しているので、幾つかの文書は直接目にして いるのかも知れない

ただ、私が著書を読んだ限りでは、確かに漢文は全く読めないと思う

特に中国文献を引用する場合は、必ず誰か別の人の読み下し文を引っ張って来て、原文とは趣旨が違ってしまっている読み下し文を基に持論を展開している事が ある
当然の事で あるが、読み下し文が原典から文意が乖離してしまって いるので あるから、結論が不可解なものと なってしまうのも無理からぬ事では あろう
少なくとも、古代中国に おける屈指の文献で ある三国志、或(ある)いは漢書や後漢書と言った中国史書を原文で読解すると言う古代史を研究する上で必須と なる作業を、井沢氏は絶対に行っていないと思う

ついでに言うと、日本語史料に おいても、誰かの著作から活字と なっている文章のみを読んで済ませ、原典を見ずに引用したり論説したり している箇所が ある(よう)に思う

例えば長篠の戦い等に関する井沢氏の著作を見ても、長篠合戦図屏風 の全体図を本当に見た上で論説を主張しているのかと、疑って しまう
信長公記 等も、誰かが活字に した出版物は読んで いるのかも知れないが、活字に なる前の書物の、写真なり画像なりは自身では見ていないと思う

つまり、史料の原典や写本を直接見ておらずに出版物に なったものだけを読んで、ラクを して それで済ましているので あろう

また、引用文の後段は井沢氏が 浅野 長矩 をバカ殿と主張する際に非常に重要な箇所で あるが、これを松島 早稲田大学教授に批判され、自説に とって都合が悪く なって しまった事を指しているので あろう
それでも なお自説が正しいと考えていたので あれば、反論すれば良いだけの事で ある(そのための対談なので あろうと思われる)
しかし反論せずに引き下がって しまったので あれば、相手の見解に同意したものと捉(とら)えられても、文句は言えないので ある

とまぁ、書き出しで長々と述べて しまったが、以下粛々と井沢氏の主張を批判して行く事と する



2. 考察


井沢氏は著書で、浅野 長矩 は卑怯なバカ殿で、吉良 義央 は被害者に過ぎないと主張している
引用しよう
【逆説の日本史】 14 近世爛熟編 P.12

浅野は壮年、吉良は老人である。
その老人を浅野は卑怯にも背後から不意打ちした。
もちろん殺すつもりだったのだろう。
しかし、相手の不意を突き、しかも合計四回も斬りつけられるという絶対有利な条件であったにもかかわらず、殺すことができなかった。

要するに、浅野は、老人を不意打ちするような卑怯者で、しかもそれだけ卑怯な手を使ったのに、老人一人殺せなかったダメなヤツということになる。
これが町人ならば、人を殺せなくても恥ではないが、浅野は武士であり、武士団の長である大名でもある。
やはり殺せなかったことは大きな恥辱だ。

【逆説の日本史】 14 近世爛熟編 P.43

要するに「主君の無念を晴らす」と吉良邸に討ち入った大石内蔵助すら、主君浅野内匠頭が、なぜ吉良上野介に刃傷に及んだか、すなわち刀で一方的に斬りつけたか、本当の理由は分かっていなかったのである。

何か支障があって伏せたのだろう、という考え方をする人がいるかも知れない。

しかし、よく考えてみればそんな考えは成立しないことがわかるだろう。

というのは、大石が討ち入りをする以前は、浅野内匠頭長矩という殿様は世間一般にどう思われていたか? まずそれを考えてみればいい。

答えは「バカ殿の中のバカ殿」である。

自説に誘導しようと する意図が感じられるのは、私だけで あろうか?

浅野 長矩は 松の廊下 で吉良 義央を見て逆上し、遺恨を果たそうと したので あろう
こう言う状態で あれば、卑怯だの何だのと言う正常な判断を行う事が難しい事も あるかも知れず、致し方無い様にも思う

確かに浅野 長矩が斬り付けた理由は、現在に至るも、良く分かっては いない
しかし、浅野 長矩がバカ殿か どうかと、浅野 長矩が吉良 義央に斬り付けた理由とは、特段 相関関係は無いと思うが
浅野 長矩が どう言った人物で あれども、浅野側(赤穂藩側)に都合が悪いか若(も)しくは恥や醜態と なり兼ねない事由で あれば、浅野 長矩や 大石 良雄 も敢えて公開しようとは思わないで あろう

つまり、浅野 長矩が果たそうと していたと思われる遺恨が、長矩自身若しくは赤穂藩に とって外聞を憚(はばか)る内容で あったから隠されたと言う事は、充分に あり得るかと思われる

赤穂事件は 元禄14年(1701年) に起きているが、もう戦国の世は遥か以前に終わり、武士が武士を殺害する時代は終焉して久しい
この時代は、例え武士で あろうとも人を殺害する機会は もう殆(ほとん)ど無くなっていたので ある

となれば平和に慣れてしまった元禄の武士は、人を効率良く殺害する術(すべ)と言うものを忘れてしまっていた ので あろう

しかも、浅野 長矩は大名で あるので、尚更自ら刀を ふるって人を殺傷すると言う経験は それまで一度も無かったものと思われる
当時の時代状況を鑑(かんが)みれば、四回斬り付けても尚 致命傷を与えられず、と言う事態も、決して不思議では無いと思う

加えて、この赤穂事件の前には 徳川 綱吉に よって貞享元年(1684年)に 服忌令(ぶっきりょう) が公布され、貞享4年(1687年)には 生類憐れみの令 も出されている

これは つまり、"武士で あろうと殺生するな" と言う時代状況を 徳川 綱吉 が作り出している訳(わけ)で ある
尚更 武士が武士への殺生を忘れる状態に牽引されている ので ある

ならば、人の殺し方を知らない大名が いても、致し方無いと思う
これを以(もっ)て浅野 長矩をバカ殿呼ばわり するのは、短絡に過ぎると言わざるを得ない

それに、世間一般からバカ殿と評されていたと言うが、それを裏付ける史料上の根拠を、井沢氏は充分に提示していない
井沢氏が示しているのは、
【逆説の日本史】 14 近世爛熟編 P.44

事件直後に広まったという狂歌に次のようなものがある。

(しょ)を斬り 二手(にて)を突かぬ不覚さよ

(いわ)が穴をあけて見するに

同じ綱吉の時代の一六八四年(貞享(じょうきょう)元)。といっても浅野の刃傷より十七年も前だが、やはり殿中(江戸城内)で若年寄(わかどしより)稲葉石見守正休(いわみのかみまさやす)が待労堀田筑前(ちくぜん)守正俊に刃傷した時のことを踏まえて、浅野を揶揄(やゆ)した歌である。

これだけで ある
本当に これだけ なので ある

いやいや、これだけでは当時の世間から浅野 長矩がバカ殿と見做(みな)されて いたのかは、とても判断し切れない

狂歌と言うのは ある種の極端な見解を主張していると言う事が あると思うが、それで当時の世論がバカ殿一辺倒で あったかと なると、材料が足りな過ぎて判定し得ないと言う他(ほか)無い
もっと確実な、その当時の武士や町人、幕閣や大衆の見解が反映された史料を示さければ なるまい
これでは余りに根拠薄弱で、話に ならない感が ある

少なくとも、赤穂事件当時に おいて浅野 長矩がバカ殿と評されていたか どうかは、不明としか言い様が無い

それに、人を殺害出来るか否かで、バカか そうで無いかを判断されてしまっては、本当に かなわない
言うまでも無い事で あるが、バカか どうかは もっと別の手法で判断するべきで あろう

確かに吉良 義央に斬り付けて おきながら殺害し切れなかったと言う点に おいて、詰めが甘いと言う感は あるが、バカ殿と酷評される程(ほど)の事では無いと思う
【逆説の日本史】 14 近世爛熟編 P.45

この刃傷は「成功」した。
稲葉は堀田を殺したのである。
なぜ「成功」したかというと刀(脇差(わきざし))で斬らずに突いたからだ。

殿中では大刀を帯びることは出来ない。
脇差(小刀)だけである。
大刀なら斬って致命傷を与える事ができるが、小刀では急所(喉頸など)を狙わねば難しい。
それよりも突いた方が確実に殺せる。
「小刀は突くもの」というのは、武道の常識といってもいい。
その常識を(先例もあったのに)知らずに、斬り付けただけで殺せなかった浅野は「不覚」だった、と言っているわけだ。

だからこそ前にも述べたように、幕末維新から明治へと活躍した乃木希典大将は「自分なら斬るのではなく刺す」と浅野を批判したのである。

物事を冷静に適確に判断する人なら、「浅野はバカ殿」という結論に異論はないはずだ。

成功と言えば成功では あるが、実は この時も、相手を刺突(しとつ)したが その場では殺害には至らなかった ので ある
どうやら堀田 正俊の自邸に運び込まれた時点では、未だ生きていた らしい

因(ちな)みに、この 堀田 正俊 殺害事件(旧暦8月28日)は上記に ある服忌令が公布された年でも ある
服忌令が公布されるより以前の武士で あれば、未(ま)だ戦国の荒々しい気風が遺存していたため、武士が武士を殺害しても特にすると言う事に対して特に忌避感を抱かれ無かったのでは無いかと思う

しかし赤穂事件は服忌令が公布されて 17年経過している訳で、"武士と雖も武士を殺しては ならない" と言う時代背景が出来ていたのでは無いかと思われる

このため、浅野 長矩は遺恨に より吉良 義央に対して殺意を抱いたかも知れないが、同時に徳川 綱吉の "生類を無闇に殺しては ならない" と言う政策が浅野 長矩の頭に痼(こびりつ)いて しまっており、そのために "吉良 義央を殺害しては ならない" と言う考えが頭を擡(もた)げて しまい、これが ために自縄自縛と なって行動を制約され、無意識の内に手加減して しまったと言う可能性も あろう

また、浅野 長矩が脇差で吉良 義央 を刺突しなかったのかは不審では あるが、遺恨ある者を見て殺意を抱いたと言うのは、精神面に おいて異常亢奮(こうふん)状態に陥(おちい)っている状態で あると言える
精神的な異常状態に ある人間は、時として道理に合わない突飛な行動を取る事が ある

現代に おいても、傷害事件を起こした犯人は、冷静に考えれば不合理としか思えない行動を何故か取って しまったと言う事は、枚挙(まいきょ)に遑(いとま)が無い
【逆説の日本史】 14 近世爛熟編 P.47

「浅野はバカ殿」。
それが討ち入り以前の彼らの主君に対する世間の見方というものであった。
常識と狂歌一首がそれを示している。

示せて いないと言う他無い
常識と あるが、これは単に自身の思い込みを読者に訴えかけているだけに過ぎず、狂歌一首では当時の状況を明らかにするための材料としては、余りにも少な過ぎる
これでは根拠が薄弱と判断せざるを得ず、残念ながら説得力が伴わないで あろう
【逆説の日本史】 14 近世爛熟編 P.47

実はなぜ「浅野が名君」になってしまったかといえば、昔から「赤穂(о)(о)崇拝者」というのがいて、強力に世論を誘導してきたからなのだが、そうした人々は「いや、それは将軍綱吉や側用人(そばようにん)柳沢出羽守吉保(よしやす)の秘密に触れる部分があったからだ」などという強引な論理を展開する。
仮にこれを認めたとしても、吉良のことは書けるはずである。
しかし実際には吉良のイジメについて一言も書いていないのである。
これから当人を殺そうというのだから、そういう事実がカケラでもあれば書いておけばいい。
大義名分になるし行為の正当化ができる。

だが、それでも大石は書かなかった。
いや、何も無いから書けなかったのである。

これは論理の飛躍で あろう
或いは、論理の摩(す)り替(か)えと言うべきか

事実として確認出来るのは、大石 良雄が吉良 義央に受けたかも知れない行状が書かれていない、と言う一点のみで ある
それを、

書かれていない → 無いから書けなかった


と決め付けている訳で ある
書かない事と行状の有無は、完全に別の次元の話で あろう
井沢氏は、自説に都合が良い様に強引な論理展開を行い、読者を誘導しようと している様に思えてしまう

それに、大石 良雄は赤穂事件当時は江戸に いなかったと思われるので、遺恨と なった行状を把握し切れて いなかった可能性も ある
遺恨が あったとは聞いていても、実際に見聞きして いないので書けなかった、と言う事は充分に あると思える

付け加えるならば、吉良 義央に受けたと思われる遺恨の行状が、浅野 長矩自身若しくは赤穂藩に とって恥と捉えられ兼ねない内容で あれば、大石 良雄も、流石に書けなかったで あろう

と言う訳で、

a) 大石 良雄は遺恨の行状を把握し切れてなかったので、書きたくても書けなかった

b) 大石 良雄は遺恨の行状を明らかに したかったが、浅野家側の醜聞を曝(さら)け出す事に なってしまうかも知れないと考え、書き残せなかった


の双方の可能性が あると言う事を、考慮するべきで あろう
【逆説の日本史】 14 近世爛熟編 P.48

つまり。仮に「義士崇拝者の言い分」をすべて認めたとしても、吉良の「イジメ」の事実はまったく証明出来ないし、大石すら把握していなかったということなのだ。
事件当日彼は江戸にいなかったが、筆頭家老である以上、当日現場に立ち会っていた藩士たちからも様々な報告を受けていたはずだ。
その大石が「わからない」と言っている。
しかも、生命を賭けた文書の中で、である。

これはどう考えても、吉良のイジメなるものは初めから無かったと考えるのが、最も論理的な結論ではないか。

事実確認として、ここに登場する藩士と やらは、松の廊下に立ち合って いたので あろうか?

いや、その様な事は無いと思う

恐らく赤穂藩の関係者で 松の廊下 に入れたのは、浅野 長矩 の一人だけでは無いか と思う

何が言いたいか と言うと、当日赤穂事件の現場に立ち合った赤穂藩士は存在しないと言う事で ある

つまり、大石 良雄 が筆頭家老で あろうと無かろうと当時の事件状況を正確に把握出来て いなかった余地が多分に あると見て良い
故に、浅野 長矩 の遺恨の行状を単に大石 良雄 が把握し切れていなかっただけ、と言う可能性が ある

少なくとも、事実として確認出来るのは遺恨の行状が あったか どうかでは無く、大石 良雄 が書き残していない、と言う一点だけで ある

それに、実は 浅野 長矩 自身が、遺恨が あって 吉良 義央 に斬り付けたと白状しているので、遺恨を抱く行状が存在したものと考えるのが最も論理的な結論で ある
【逆説の日本史】 14 近世爛熟編 P.48

浅野と吉良がもしも争っていたとしたら、それは吉良の方が被害者だとすら考えることも出来る。
というのは、浅野が吉良に献上した進物(いわゆる賄賂と呼ばれているもの)は本当に粗末なものだったと当時から言われているからだ。
これは賄賂ではない。
高家という幕府の儀典係でありながら吉良は四千二百石しかもらっていない。
この少ない禄高で諸大名と交際し、今日の公家たちにも進物しなければならない。
それが将軍生母の従一位昇進への運動費だったとしても、領収書をもらって清算というわけにはいかないのである。
そういう時は自腹を切る、いや副のために封禄(給料)をもらえているのだ、というのが昔の考え方だ。
吉良が大名から国宝級の美術品を貰ったとしても、その多くは「運動費」として右から左へ流れた可能性もある。
一方、浅野は一度この役をつとめている。
だから前の「メモ」があって一々指導を受ける必要はない。
だから「ソフトの再使用料」を値切ったと考えることも出来る。
歴史家明石(あかし散人さんじん)氏もこの点に注目して、現代に例えれば浅野はソフトの「無料提供」を吉良に強要した社長のようなものだとし「浅野と吉良の人気が、完全に逆転するまで、日本人は結局ソフトが何であるか理解しないのではないだろうか」と述べている。

どうして吉良が被害者なので あるのか、全く理解に苦しむ所では ある

進物は 浅野 長矩 が妥当と判断して差し出されたので あろうが、それで 吉良 義央 が不満に思ったとしても、別に 吉良 義央 が被害者とは言えまい
これは明らかに論理の飛躍で あろう

それに、吉良 義央 は他家から儀典の伝授料を受け取る権利が認められて いたのでは あろうが、飽(あ)くまで権利で あって、被伝授者側の義務では無いと思う
勿論 金額等は何かしらの相場と言うものが あったとは思うが、別に講習代金の定価が あって その額を納入しなければ ならない訳でも あるまい
この進物の多寡が どうで あろうが、それと 吉良 義央 の交際費が どうこうと言うのは、別の次元の話で ある

仮に 吉良 義央 が交際費を自前で工面(くめん)しなければ ならないと しても、それは吉良 義央の側の都合に過ぎない
それを 浅野 長矩 が負担しなければ ならない謂(いわ)れは無い筈で ある

それに、井沢氏は唐突にソフトの使用料が どうこうと言い出しているが、儀典進物とソフトが どう関係付けられるのか、まるで分からない
まぁ、井沢氏本人の脳漿(のうしょう)の中には何らかの関連付けが あるのかも知れないが、何も説明せずに いきなり 儀典進物料とソフトの使用料を同じ土俵に乗せて良く分からない勝手な主張を されても、読者は付いて行けないで あろう

ソフトと言うのは何かしら取得したい内容が あって それを使用し その代金を支払うもので あると、私は思う
しかし、吉良 義央は儀典の高家で、その内容を既に受講済で あれば、受講料を何度も支払う必要は無い様に思える
故に、儀典進物とソフト使用料は、格別の関係性は見出せないものと判断せざるを得ない

ついでに言うと、吉良 義央側が期待する進物料と浅野 長矩が妥当と判断した進物料で、見解の齟齬が生じていた可能性は ある
この場合、吉良 義央は浅野 長矩に対して、進物料の増額を要求したかも知れない
しかし それでも浅野 長矩側が応じないと なれば、吉良 義央は

進物を疎(おろそ)かに するとは、慮外の吝嗇(りんしょく)、器の小さい小身者め

等と思うに至ったかも知れない
いや、思うだけでは済まさずに、浅野 長矩本人を批難する事態を招いたと すると、どうなるか
浅野 長矩はこれを、侮辱や罵倒と認識して根に持って しまったと言う事は考えられないか

無論、これは証拠が ある訳でも何でも無く、単に私の想像でしか ないが、これを浅野 長矩が遺恨に思ってしまったと言う事は、あり得るのでは無いかと思う
ただ、口にした側の吉良 義央は そのまま忘れて しまい、遺恨に思われているとは考えて いなかったかも知れない

そして これが重要なので あるが、この進物料に関しては、浅野 長矩および赤穂藩が吝嗇や小身と捉えられ兼ねないので、公(おおやけ)に したくは無かったので隠し通したと言う可能性は、あると思う
【逆説の日本史】 14 近世爛熟編 P.49

松の廊下近くの別の場所(丶丶丶丶丶丶丶)で、浅野内匠頭は吉良上野介に斬りかかり、梶川与惣兵衛に取り押さえられた。
その後、大勢の人々が駈けつけてきて、浅野は城中の(てつ)の間まで連行され、目付衆の取り調べを受けた。

その後、取り調べにあたった目付の一人(かど)伝八郎重共(しげとも)が詳細な記録『多門伝八郎筆記』を残している。
実は「忠臣蔵」それも明治以降の「実名」での「忠臣蔵」はこの『多門筆記』が重要なタネ本になっている。

まず重要なのは、この時「なぜ刃傷に及んだのか?」という問いに対する浅野の答えである。

(かみ奉対たいしたてまつりいささかのうらみ無之これなくそうらどもわたくしこん有之これあり)、一己之宿意ヲ以前後忘却仕可打果と存候ニ付及刃傷候、此上如何之御咎被仰付候とも御返答可申上筋無之候、乍去(さりながら)上野介を打損し候義いかにも残念ニ奉存候(『多門伝八郎覚書』東京大学総合図書館藏所収 『忠臣蔵』三巻赤穂市発行)

これに ついても、時代の流れを読み取る事が出来る
武士が武士を殺しては ならないと言う気風が江戸城全体に染み渡っていた事を意味している

17年前の堀田 正俊殺害事件では、これを刺突した稲葉 正休は その場で周囲の武士達に刺突されて刺し傷塗(まみ)れの嬲り殺しに遭い、その場で成敗されている
これを考えれば、浅野 長矩が生きたまま拘束されたと言う事態が、平和な時代に移行した元禄と言う世の状況を物語っていると言えよう
戦国の気風に則(のっと)るので あれば、下手人は その場去らさず討ち殺すのが、常道なので ある

引用は更に続くので あるが、
【逆説の日本史】 14 近世爛熟編 P.50

実はこれだけなのである。

吉良に対する恨みは確かにあると言っている。
ところが、では具体的に何をされたのか、なぜ遺恨を抱くようになったかについては全く答えていないのだ。

既に上記で述べている事では あるが、浅野 長矩 と赤穂藩に とって公開したくないと思っていたので あれば、遺恨の行状を秘匿しようと するで あろう
当然の事で あると思うが、この人は何を世迷い事を書き連ねて いるので あろう
答えたく なかったから、答えなかったので ある
【逆説の日本史】 14 近世爛熟編 P.51

もう一度念を押しておくが、浅野と吉良は当日多くの人間の目に触れていた。
何しろ重大な儀式の「進行係」だったからだ。
その間もし吉良の「イジメ」があったとしたら、目撃者が必ずいる筈だ。
しかし、そういう人間は一人もいない。

遺恨の行状が、その場の事では無いと すれば、当日何も無くても、顔を見た際に遺恨の事を思い起こし、激情已(や)むに止まれず斬り付けたと言う事は あり得るで あろう
何と無くで あるが、当日の出来事に必要以上に拘(こだわ)り過ぎている様に見受けられる
【逆説の日本史】 14 近世爛熟編 P.51

一方、吉良は尋問に対し「浅野から恨みを受ける覚えは一切ない」と答えている。
この問答は、従来は「大悪人」吉良が白々しく嘘を言ったのだ、とされてきた。

本当にそうだろうか?

これも上記で少し触れたが、吉良 義央は本当に記憶に残っていなかったと言う可能性も あろう
一般的に見て、きつい口調で言われた側は その事を その後も覚えていたりする もので あるが、言い放った側は直(す)ぐに忘れてしまい、忘れてしまう もので ある

別に嘘を吐(つ)いた訳でも何でも無く、単に忘れてしまっていたと言う事も、考慮して良いかと思う
【逆説の日本史】 14 近世爛熟編 P.62

「名君」徳川綱吉が時代のパラダイムを全く変えてしまおうと発した二つの法令こそ、「生類憐れみの令」と「服忌令」である。

そして確かに綱吉は歴史を変えた。

戦国時代以来の「人を斬ることが当たり前」の社会が「動物の命さえ重んじる優しい」社会へと変わった。
宗教ではなく政治の力で、こんな事を実現した人物は、世界史の中でもそんなにいないはずである。

井沢氏は非常に危殆(きたい)な事を記述している事に、気付いていないので あろうか
生類憐れみの令 と 服忌令 を持ち出してしまうと、自身の主張が二重基準、端的に言うと二枚舌(にまいじた)状態に陥ってしまう事に なり兼ねない
と言うのも、
【逆説の日本史】 14 近世爛熟編 P.63

さて第一次赤穂事件、すなわち浅野による吉良への刃傷が起きたのは、服忌令施行から数えても十数年が過ぎていた時点のことだ。
すなわち当時の日本人は、少なくとも大名をつとめるような将軍に近い人間は、将軍の政治姿勢を十分に認識し、「血を流さない社会」の実現に全力を挙げていることが、わかったはずだ。

少し前でも触れているが、服忌令施行から数えても十数年も経過しているので、浅野 長矩は "生類を無闇に殺しては ならない" と言う幕府の政策を、充分に理解していたものと思われる
だからこそ、吉良 義央 に遺恨が あって殺意を抱いたとしても、"吉良を殺しては ならない" と言う思考が無意識の内に働いてしまい、殺害し切れなかったのでは無いかと思われる

つまり、吉良 義央 を怪我で済ませて しまった原因は 浅野 長矩 がバカ殿と言う事では無く、服忌令 の存在で あったと言う事で ある

歴史に "もしも……" を持ち込んでは ならないが、或いは、服忌令 が施行されて いなければ、浅野 長矩は吉良 義央を殺害していた可能性も あろう

ついで書くが、後の世の新撰組(新撰組)では免許(免許皆伝)を許された凄腕の隊士が他藩浪士等との斬り合い や違反隊士の介錯で尻込み する者が いたらしい事が分かっている
免許と言う肩書き が ある以上、試合では さぞかし剣術,槍術の腕が立ったので あろう
ただし それは平時の殺戮殺生が行われない時世での事で あり、例えば切腹した者の首の骨を横から斬り落とすと言うのは実際に何度か経験を積んで いなければ おいそれ と出来るものでは無い
介錯を効率良く一太刀で行えずに切腹隊士に無用の苦痛を与えてしまう免許皆伝剣士が いても、その者を "バカ侍" と呼ぶのは酷と言うもの で あろう
単に、時代が平和で人を殺害する機会が余り無かっただけ、と言う事に過ぎないので ある
【逆説の日本史】 14 近世爛熟編 P.63

これが「バカ殿」でなかったら、一体誰がそう呼ばれるというのだ。
当時の人間が浅野をどう考えていたかは、服忌令などを併せて考察することによって、初めて結論が下せる問題だが、その結論はやはり「浅野は極め付きのバカ殿」なのである。

この時の 浅野 長矩 は 吉良 義央 を見て感情を激昂(げきこう)させている状態と思われるので、時として道理に合わない異常な行動を取ってしまう事が ある
それを、単純にバカ殿呼ばわりして済むかと言えば、それは違うのでは無いかと、私は考える
【逆説の日本史】 14 近世爛熟編 P.68

それは「人が何の理由もなく(丶丶丶丶丶丶丶)人を殺そうとして場合に、その原因は何であるか?」と、いうことなのである。

浅野 長矩 自身が遺恨に よる刃傷で あると自白しているのに、敢えて それを無視し、自説を押し通そうとする態度は、何とも滑稽に過ぎる
この人は頭が おかしいので あろうか
【逆説の日本史】 14 近世爛熟編 P.68

■「浅野は統合失調症だった」──精神医学が明らかにした殿中刃傷事件の真相

浅野 長矩 は統合失調症で あったと主張している訳で ある
勿論私は浅野 長矩 が精神的な病気で あった可能性を強く否定するものでは無いが、別に浅野 長矩を病気に仕立てずとも、当時の状態は ある程度は推測し説明出来るものと思われる
【逆説の日本史】 14 近世爛熟編 P.69

「あ、そうか」とこれを読んで初めて私も気がついた。
烏帽子の実物も見たはずだが、その時は集中力を欠いていたのであろう。
それにしてもこの指摘は重要である。
つまり、これは現代で言えば、ヘルメットをかぶっている人を「殺す」つもりで、わざわざヘルメットの上から斬りつけたというのと同じだからだ。

言うまでもなく冷静な人間はそんなことはしない。
では興奮した、いわゆる「かっと来た」人間はどうか? それでも殺したいのに「ヘルメット」を狙ったりはしないだろう。
その意味で「浅野内匠頭(長矩)が一時的に発症したという説」は事実である可能性が高いのである。

事実で ある可能性が高いものと思い込んでいるのは、恐らく井沢氏だけ なのでは あるまいか?

普段は性格的に穏やかで精神を病んでいる訳では無くても、何らかの条件が重なる等の不幸な状況下で、傷害事件を惹き起こて しまう不幸な人間は現代でも いる
そう言った現代での傷害加害者の心理状態等は、事件毎に検証されてから裁判が行われて刑科を定めるもので あろう
傷害加害者は、事件の際に非合理的で不可解な行動を取ってしまう事は多々あると思う

道理に合わない行動を取った傷害加害者は統合失調症で ある と主張してしまうと、傷害加害者は統合失調症だらけに なってしまい兼ねない のでは ないか
いやいや、その様な馬鹿な事は無い

ついでに言うと、井沢氏は烏帽子を身に付けた者に斬り付ける筈が無いと主張しているが、別に敢えて烏帽子を狙って斬り付けた訳では あるまい

私見では あるが、思うに 浅野 長矩 は 吉良 義央 の顔を見て それで以前の遺恨を思い起こし、咄嗟(とっさ)に抱(いた)いた殺意の衝動を抑えられず刃傷に及んだもの か と考える
この時、吉良 義央 を象徴付ける対象は何かと言えば、当然吉良 義央の顔で ある
つまり、浅野 長矩 は 吉良 義央 の顔を見て憎いと思ったので、その顔を攻撃し排除しようと言う激情に捕(と)らわれたので あろう
そう、浅野 長矩 が狙ったのは烏帽子でも何でも無く、単純に吉良 義央の顔で あったので ある
実際に 吉良 義央 は眉の上を斬り付けられて傷を負っている点から見ても、浅野 長矩 は始めから顔を狙っている事は明らかで あろう
ただし、吉良 義央 も咄嗟に頭を下げて顔への直撃を避けたので、その際に結果として烏帽子が顔に対する防壁として機能して しまい、遂に 浅野 長矩 は 吉良 義央 を討ち果たす事 叶わなかったものと推測する ので ある

それと、井沢氏は仮に集中力を欠いて いなかったと しても、自身では烏帽子が顔や頭へ防壁となる事は思い付かなかったで あろうと、私は思う
こう言っては何で あるが、井沢氏は それ程 頭は宜しくないもの と お見受けする
他人の著書を読んで気付いて後から負け惜しみを言っているだけ の小人にしか見えない
【逆説の日本史】 14 近世爛熟編 P.72

統合失調という症状によって最も影響されるのは、対人関係である。
複数の人間の話し合う内容が、いったい何を目指しているのか、その場の流れがどうなっているのか、自分はどう振る舞ったらよいのか、ということが分かりにくい。
そのために、きちんとした応対ができなかったり、時に的はずれな言動をしたり、後になってひどく疲れたりすることがある。
また、ある一連の行動を、自然に、順序立てて行うことが苦手となる。
着替えをする時の順番を忘れたり、料理が得意であった人が、その手順を思い出せなくなったりする。

この病気の原因は十分明らかにされておらず、単一の疾患であることににさえ疑いが向けられている。

しかしながら、何らかの遺伝的な脆弱性と環境的な負荷、とくに対人的な緊張が重なって発病に至る事は、ほぼ認められている。(統合失調症とは何か「日本精神神経学会ホームページ」より)

この文章を読んでいると、まさに元禄十四年三月十四日、刃傷事件の当日の浅野の姿が目に浮かぶような気がするのは私だけであろうか。

その通り、井沢氏だけで あろう

何やら他者の Webページから援用し、さも自説を支持しているかの様に引用し記述しているが、実は そうでも無い様で ある
再度引用するが、
【逆説の日本史】 14 近世爛熟編 P.48

一方、浅野は一度この役をつとめている。

若し この症状が正しいと言う事で あれば、赤穂事件の前に既に失敗していても良いのでは無かろうか?

まぁ、こう書けば恐らく、

いや、この時点では未だ発病して いなかったのだ

と返って来そうで あるが、それならば何時(いつ)の時点で発病したので あろうか?

それに、赤穂事件後、浅野 長矩 は身柄を取り押さえられた上で尋問を受けているので あるが、上記引用に ある様な症状が、何か確認出来るで あろうか?
少なくとも、私には日本精神神経学会が公開している統合失調症の症状は何も見出せないので ある

となると、浅野 長矩 は統合失調症と やらで ある可能性は、どうも低いのでは無いかと思われる
【逆説の日本史】 14 近世爛熟編 P.73

「遺伝病ではない」が「脆弱性」つまりその病気に弱い体質は遺伝するのである。
総合的に考えれば、私がどう結論を出したか、もうおわかりだろう。
すなわち、「浅野は統合失調症だった」である。

実は私は、浅野 長矩 が統合失調症では無い事を積極的に主張したいのでは無い
ただ、統合失調症で あると主張するには根拠が足りないと考えるので ある

少なくとも現時点で言える事は、統合失調症で あった "可能性が ある" と言う事に過ぎないので ある
【逆説の日本史】 14 近世爛熟編 P.83

しかし、ここでそういう先入観を捨てて考えてみよう。
彼らは見たままを言っているのではないか。
つまり「乱心に見えたから(同情ではなく)乱心と言った」だけのことではないか。
「同情的」という「考え方」の中には「これは一方的な刃傷ではなく喧嘩」であり「浅野は吉良にイジメられていた」、だから「可愛想だ」という「見方」がある。
だがそれは「忠臣蔵錯覚」なのである。
それを排除して考えれば、つまり「誰が見ても浅野はヘンだった」ということではないのか。

浅野 長矩 が本当に乱心で あれば、梶川氏筆記 や 多門伝八郎覚書 に、乱心と記述されている筈で ある
しかし、私には乱心と見受けられる記述を見出す事が出来なかった

さすれば、赤穂事件の現場では 浅野 長矩 は乱心とは見做されて いなかったと見て、概(おおむ)ね良いと思われる

では何故 浅野 長矩 乱心に傾(かたむ)いたかと言えば、乱心と して片付ける事が出来るので あれば当日の関係者達に とって都合が良かったと言う事かも知れない
幸い にして死者が出ていない以上、乱心という態(てい)を取れば赤穂藩は存続出来る余地が残る
赤穂事件の関係者達は、浅野 長矩 のみ処断して事を落着させて しまおう と図った可能性は あると思う

別に同情が どうこうと持ち出さずとも良く、単に当事者達の都合により処理されようと しただけの様にも見える
と言う訳で、
【逆説の日本史】 14 近世爛熟編 P.83

「浅野乱心説」の方が「遺恨(正気)説」よりはるかに説得力があることが分かっていただけたと思う。

そうで あろうか?
寧(むし)ろ私は、殆(ほとん)ど説得力を感じないので あるが

浅野 長矩 自身が遺恨に よるものと自白して おり、事件後の取り調べでも特に精神面での異常が記録されて いないので、これを乱心と決め付けて しまうのは危険で あろう

何度も言うが、私は乱心を強く否定しているのでは決して無い
ただ、乱心との判断を下すには、尚根拠が繊弱(せんじゃく)に過ぎると言っているので ある
【逆説の日本史】 14 近世爛熟編 P.93

そして、もう一つ、これは大石だけの胸の内にあったことかもしれないが、この刃傷事件について浅野長矩への処置は不公平ではないが、長広に対する処置は明らかに不公平であると言う事だ。
この辺やはり「大切な儀式をぶちこわしにされた」という怒りが先行し、老中たちの「乱心による所業として扱ったらどうか(そうすれば赤穂浅野家自体は残る)」という配慮を無用のものとし、ただちに切腹させた。
このあたり調べにあたった人間も、「忠臣蔵」では「乱心であるまいか」と情をかけたが本人が否定したので「正気だった」ということになっているが、実際は「乱心」に見えたのに州軍の意向で「正気」ということにさせられてしまった、つまり真実は逆である可能性も大いにあるのだ。

ここまで読んで いただいた方々に問いたい
以下の様な問答が、常識に鑑(かんが)みて、あり得ると思うであろうか?

浅野 長矩:

吉良に遺恨が あり、果たそうとした次第

取り調べ目付 多門伝八郎:

乱心して斬り付けたので あろうな?

浅野 長矩:

乱心に あらず、遺恨に ござる

本当に乱心(=発狂か何かか?)した様子が見える人間に、"乱心だよな" と念を押す馬鹿が いるで あろうか?
否、いないで あろう

つまり、多門 伝八郎は、浅野 長矩が冷静に話が出来る状態で あると見て取って、"乱心で あったと言えば赤穂藩は存続するよ" と匂わせたので ある
しかし、そこは浅野 長矩の意地で、遺恨で あると繰り返し述べたので あろう

梶川氏筆記 には、取り調べを受けた浅野 長矩が繰り返し繰り返し遺恨が あって果たそうと したと述べている情景が記録されている

夫より内匠殿をば、大廣間の後の方へ、何れも大勢にて取囲み參り申候。
其節内匠殿申され候は
「上野介事此間中意趣有之候故、殿中と申し、今日の事かたヾヽ恐入候へども、是非に及び申さず打果し候」
由の事を、大廣間より柳の間溜り御廊下杉戸の外迄の内に、幾度も繰返しゝゝゝ被申候。
其節の事にてせき申され候故、殊の外大音にて有之候。
高家衆を始め取囲み參り候衆中
「最早事濟み候間、だまり申され候へ。

あまり高聲にて如何」

と被申候へば、其後は申されず候。

と言う訳で、事件関係者は乱心では無い(が乱心と した方が都合が良い)と見做して いたものと解した方が妥当で あり、徳川 綱吉の判断は正しいもので あったと思われる



3. 結論


上記考察を まとめると、以下の通りと なる

1) 浅野 長矩は吉良 義央に遺恨が あったと繰り返し述べているので、何らかの遺恨が あったと見た方が自然で ある

2) 遺恨の内容は現時点で不明で あるが、儀典伝授の進物が僅少と言う事で、両者に諍(いさか)いが生じていた可能性は あるやも知れず、これを吉良 義央に批難されたと すれば、これの意趣返(いしゅがえ)しを果たそうとしたのかも知れない

3) 遺恨の内容は浅野 長矩および赤穂藩に とって外聞を悪くする恐れが あって秘匿された可能性が ある

4) 吉良 義央は遺恨の覚えは無いと言っているが、単に過去の行状を忘れていただけと言う可能性も ある

5) 服忌令が定められて久しく年月が過ぎ、時代背景には武士としての気風が失われて しまっていたので、武士が武士を殺害する術を忘れ、浅野 長矩は吉良 義央を殺害し切れなかったのでは無いかと思われる

6) 刃傷後の取り調べを確認しても、浅野 長矩に精神面での異常は特に監督出来ないので、何らかの病気で あったとは認定しにくい




4. 関連 URI


参考と なる URI は以下の通り

元禄赤穂事件 - Wikipedia
浅野長矩 - Wikipedia
吉良義央 - Wikipedia
徳川綱吉 - Wikipedia
服忌令とは - コトバンク
生類憐れみの令 - Wikipedia
稲葉正休 - Wikipedia
逆説の日本史(忠臣蔵の謎)への反論、批判

公開 : 2014年11月12日
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