1. 関ヶ原は主戦場では無い と言う不思議な説
関ヶ原合戦の主戦場は 関ヶ原 では無く 山中 で あると
唱えている学者が いる
別府大学 白峰 旬 と言う教授で ある
この論者の主張は以下に記載されている
関ヶ原の戦いにおける石田三成方軍勢の布陣位置についての新解釈 -なぜ大谷吉継だけが戦死したのか-
以下は私なりに簡約した事項を列記する
1) 主戦場は関ヶ原の西に位置している 山中 で あった
2) 開戦は 午前8時 では無く 午前10時 で あり、12時に終わった
3) 西軍先鋒は 大谷 吉継 一人で あり、緒戦で壊滅した
根拠としては
1) 当代史料に 山中 との記述が ある
2) 関ヶ原 からは戦闘の痕跡が無い
山中の東 不破関 からは火縄銃弾が出土している と言う
3) 江戸時代と明治時代で布陣図が異なる
現在に おいて描かれる事が多い 関ヶ原 布陣図は明治時代の陸軍省が編纂した 【日本戰史】 を基に しているが、これは江戸時代に書かれた布陣図史料とは異なっているので現在 流布されている布陣図は信憑性に欠ける と言う
4) 神戸 五兵衛 覚書には西軍先鋒が 大谷 吉継 で あると書かれている
と言うもので ある
しかしながら、私見では白峰論説に幾つか疑問を覚えているので、以下にて述べる
2. 白峰説の是非
上記論述の是非に ついて、以下に考察を加える
先ずは 神戸五兵衛覚書 について であるが、白峰説が自説の根拠として挙げている箇所を以下に引用する
【神戸五兵衛覚書】
一、九月十四日夜入候てより大柿御打立、夜中ニ関ヶ原へ御着被成候、夜明候へハ東国衆大谷刑部殿陳ニかゝり、六七度之合戦有候之処ニ、上之山より筑前中納言白旗をさゝせ横入仕、大谷殿人数壱人も不残打取申候、
夜明けに 大谷 吉継 が攻撃されたと書かれているが、その後 午前10時 に東軍が接近しているので開戦は明らかに 午前10時 よりも前で ある事が分かる
何分 東西両軍合わせて十数万人の軍勢が会しているので、必ずしも全員が一斉に戦端を開始した とは限らない
夜明け から行動を起こして戦闘に及んだ部隊も あれば午前10時 前後に なって敵部隊との接触に至った将兵も いたかも知れず、それを考えれば ある武将が午前10時 前後から戦闘行為を行っていたから と言って会戦が その時間に始まった と言う根拠には ならない筈で ある
また、西軍先鋒が 大谷 吉継 で あった と言うのも
肯んじ
難い
どちらか と言えば 大谷 吉継 は兵站を
手掛けて来た官吏の
様な武将で あり、しかも この時点での 大谷 は
癩病に罹患していて輿に乗って移動していたので、前線に出て戦闘を行うには不適な要員で あったか と考える
西軍には(西軍にも) 若くて強壮な武将は沢山いた筈で あるが、
選りに選って どうして病人が先鋒を任される のか、全く もって理解に苦しむ次第で ある
もし 大谷 が先鋒を任されたので あれば、血気盛んな武人連は むしろ不満に思うのでは無いか?
例えば 宇喜多 秀家 は当時 20歳代で あったし、
他にも 小西 行長 は朝鮮出兵では 加藤 清正 と先陣を競った と言われているので、先鋒を任せるに足る武将には困らないと思う
白峰氏は学者に過ぎないので、
戦と言うものを根本的に理解出来ていない のかも知れない
なお、戦役に おける主な武将の中で敗死者が
大谷 のみ で ある事を根拠に 大谷 が先鋒で あった と主張する事も出来ようが、しかし これも輿での移動者が 大谷 のみ なので敗戦時に 大谷 のみ が
逃げられずに捕捉されてしまった が ために唯一の討死者と なった
だけ
かと思われる
(続く)
公開 : 2017年9月28日