鳥羽伏見戦役の勝敗因は武器の優劣か

1. 鳥羽伏見の戦い に おける勝敗因は何か


鳥羽・伏見戦役で幕府軍が薩摩軍に敗れたのは保有火器の優劣にる と言う誤説が何故かまかり通ってしまっている
いわく、幕府軍は古式ゆかしい火縄銃を使用し薩摩勢は英国から購入した銃を戦闘に投入したので幕府軍の敗北は必至で あった と

ほかにも、幕府軍の戦闘術式や戦闘形態が戦国時代を踏襲していた旧態で あったためで あるとか、あるいは 錦の御旗 がひるがって幕府軍は薩摩勢を攻撃出来なかった と言った言説も ある

しかし私は言っておきたい
銃や戦闘術式の優劣は戦局を決するものでは ない



2. 戦闘し得ぬ組織の幕府軍と喧嘩上等の薩摩勢では将兵の覚悟が違う


以下の番組は当時の状況を鋭くえぐり出していて、大変興味深い

明治維新150年スペシャル「決戦!鳥羽伏見の戦い 日本の未来を決めた7日間」 - NHK

これを見る限り幕府軍の敗因は、

1) 行軍の主唱者で ある大目付 滝川 具挙ともたか/ともあき は軍隊の指揮統帥者としての器では なく、この程度の小人に軍を任せるべきでは なかった

2) 部隊指揮官が馬上で指揮をる幼稚さ

3) 戦時には将帥が裁量権を行使しなければ刻々と変動する戦局に対処し得ない


と言う所で あろうか

鳥羽伏見戦役に おいて 滝川 は馬上から指揮を執ろう としたが乗馬が銃砲声や喊声に驚いて疾走(失踪?)して しまった と言う
戦国時代に おいても将帥は床几に座って采配を振っていた かと思うが…
恐らくは絵物語にでも書かれていた武将の姿を幼少期に見て それを自身になぞらえて夢想妄想していた事が あったので あろう
状況 変転して "討薩表" を掲げて進む自身の境遇に投影し、稚気に任せて過去に憧憬した馬上指揮の情景に自己陶酔していたのか
戦時の馬は銃声にも慣れされて おいてから戦場に引き連れていた筈で あるが、そう言う戦時の常識も 滝川 は把握していなかったので あろう

そして戦場に恐慌脱走したのは馬だけにとどまらず、陸軍奉行 竹中 重固しげかた は衆卒を放置して戦線を離脱してしまった と言う
どちらも戦時に おける軍隊指揮官としては目を覆う しか無い致命的な失態と言わざるを得ないわけで、その場を見ていた兵士.従卒に どのような心境を抱かしめたか は想像するに余りある
それだけでも十二分に士気は低下したか と思うが、或いは脱走者があらわれていた かも知れない

これ以外にも、歩兵奉行並 佐久間 信久 は騎乗で善戦中に狙撃されて前線から後退し後に戦没している
鳥羽伏見戦役の一年半前に起きた第二次長州征討(1866年) で幕府軍は長州軍の散兵戦術にって指揮官が散々狙撃されているが、幕軍首脳は何も思う事が無かったので あろうか?
少なくとも 滝川 は第二次長州征討に参加していた筈で あるが、鶏頭の記憶力しか備えて おらず学習能力が無い見做みなされても反論出来まい…

大体 大目付 は部隊指揮職では無いので、大目付 が兵卒を率いて行軍する と言う時点で誤人事誤任命で あろう
滝川 は能吏官僚として経歴を積んでいた様で あるが、将帥としての経験は無さそう では ある
大目付 を江戸から大阪の 徳川 慶喜 のもとに派遣せしめたのは江戸在府の幕閣首脳で あったか と思うが、滝川 とは別に戦闘経験ある者か軍事鍛錬を充分に習得した者を介添え にしておき、行軍統率は その者に任せるべき で あった
大目付 に兵卒を任せた江戸幕府は本来は軍人政権で あった筈で あるが、江戸時代は泰平の世久しく、平和け で戦時に おける軍隊指揮官に要求される資質と言うものが何で あるか を忘れてしまっていた ので あろう
まぁ 滝川 は銃に銃弾を装填していなかった と言う事なので、そもそも戦闘には ならない と言う思い込みが あったのかも知れないが…
いずれにせよ、思い込み で行動を決してしまう者には絶対に軍兵を任せては ならないもの なので ある

所で上記を見るに不思議に思うので あるが、滝川,竹中,佐久間 と言えばかつて の 織田 信長 家中や 豊臣 秀吉 の軍師の苗字が思い浮かぶ
佐久間 信久 は 佐久間 信盛 の子孫で あり 竹中 重固 は 竹中 重治 の子孫で ある と伝えられるが、滝川 具挙 は 滝川 一益 の子孫では無い
どうやら 具挙 は 一益 の娘婿 滝川 雄利 の子孫で ある らしい
もっとも、三家共に家名は江戸時代の幕藩体制内に存続していたので確認出来るが、血統途絶に よる家名断絶を避けて養嗣子を迎える事は多々あった筈で あり、本当に血縁関係が あったか どうかは分からない



3. 幕府軍は武装や兵器で薩摩軍に劣っていなかった


幕府軍の武装は旧式で薩摩長州軍に武器兵器で劣っていた と言う事が良く言われてしまっていて、確かに幕府軍全体で見れば旧態依然とした武装と戦闘術式を保持していたと言う事は あったか とは思う
ただし、幕府軍 伝習隊はフランス製シャスポーChassepot銃と言う銃弾元込め型銃を 500挺用意されていて、フランス人指揮官を招いて戦闘訓練を受けていた と言う
鳥羽伏見の戦役で動員された薩摩軍は 4千人程度らしいので、素早く連射を行える 500挺の新式銃は薩摩勢に とって大きな脅威で あった筈で ある

更に幕府海軍にはオランダ製造軍艦 開陽丸 が配備されていて大阪湾を游弋ゆうよくしていて、制海権は完全に幕府側が押さえていた

もっともシャスポー銃は天候が温暖湿潤な日本では整備不良を起こしやすくて使いにくく実用向き では無かったらしく、また 開陽丸 は戊辰戦争では北海道まで航行させたものの大砲の過積載が原因で風浪座礁し沈没してしまう と言う事で何とも不運にして惨憺たる状況では あるが…

しかし いずれにせよ、幕府側は決して武器兵器に おいて薩摩長州側には決して劣っていなかった と言う点は判然としている事が分かる



4. 軍事に おいて勝利の女神は積極性にまさがわに微笑む ものなのだ


これは鳥羽伏見戦役に限らず戦争一般に ついて言えるので あるが、勝利の女神は勝戦意欲に燃え積極的な行動を採る側に肩入れ する事が多いので ある
革命を起こす側の薩摩勢は戦闘に勝利しなければ政権中枢に存在し続け得ないので、死に物狂い で幕府軍から勝利を力く でぎ取らざる を得なかった ので あるが、幕府側は永年 政権側に安住し今後も継続される事を当然と考えていた筈なので、行動に積極性がともなわなかったので あろう
勝利の女神はハングリー精神にむ側の味方を する と言う事か

(続く)

公開 : 2017年9月28日
戻る
pagetop