和同開珎は和同開珍では無く和同開寳

1. 和同開珎を和同開珍と読む奇異感


小学校の教科書で あったか、日本で初めて発行された貨幣は 和同開珎 で あったと記述されていた
勿論 現在では例えば以下の記述に ある通り最初の貨幣は 無文銀銭(むもんぎんせん と読む らしい) で あり、有文銭(ゆうもんせん) つまり銭貨に文字が鋳上(いあ)げ られた貨幣は 富夲銭[註1] で ある事が分かっているが、当時は 無文銀銭 の存在は確認されて いなかったか もしくは銭貨で あるとは見做(みな)されて いなかった
【金属が語る日本史 銭貨・日本刀・鉄炮】 P.14

著者 : 齋藤 努

日本の金属貨幣の製造は、七世紀後半の文銀銭もんぎんせん本銭ほんせん[註1]から始まる。

註1:

富夲銭 は 富本銭 と表記されている事が多い
夲字 は 本字 の異体字として使用されているものと する見解が現時点で定説と化(か)して しまっているが、本来両字は別字で あり、正字,異体字の関係には無い
これは文献伝写時等に伝写者が 本字 の異体字として誤認し写本を作ったりしているので、それ等の写本を目に した文献研究者等の知識階級が 本=夲 で あると誤認した ものと思われる
夲字 の表音は トウ(tāo) で あり、何故か"ホン も字音に含まれる" と誤記述を行っている もの も あるが、異体字と誤認した上での循環論法に嵌(は)まって いるに過ぎず、本来 ホン の表音は存在しない
また、例えば以下には訓読み に "もと" と あるが、これも誤認した上での訓に過ぎず、夲字 の訓読み に "もと" は存在しない
夲 - ウィクショナリー日本語版


それに しても当時 不思議に思ったのは、和同開珎 を "わどうかいちん" と読む者が いた事で ある
当時と書いたが現在は これが定説に なってしまっている らしい
例えば、

【金属が語る日本史 銭貨・日本刀・鉄炮】 P.148
7 「和同かいほう」か「和同かいちん」か

読者はこれまで本書の「和同開珎」という語をどう発音してこられたであろうか。
「かいほう」であろうか、「かいちん」であろうか。
実はこの銭文の読み方については、江戸時代以来の論争がある。

長く多岐にわたる論争であるが、最低限の要点だけを言うと、「かいほう」説は、「珎」の字を「寳」の字の省画とするもので、「和同」を年号「和銅」の省画とみなし、同じように「寳」も省略されたのだとする説で、古く江戸後期の考証学者狩谷棭斎によって発案されたといわれ、明治になって、劇作家、『朝野新聞』主筆として名をなし大収集家でもあった成島柳北らによって主張されたものである。
これに対し「かいちん」説は「珎」は「珍」の異体字であり、当然「ちん」であるとするもので、「和同」は「和銅」とは必ずしも結びつかない吉祥語であるという意見は、「珎」を「寳」の省画とみなす根拠を崩し、「かいちん」説に有利に働く。

近年「寳」字と「珎」字の用例を検討しつくされた栄原遠男氏の検討はこの問題に決着をつけ、「かいちん」説を不動のものとしたかのごとくである。
最新刊行の『岩波日本史辞典』(一九九九年)はこれを「わどうかいちん」の項目で解説し、「かいほう」説があることさえ言及しない。
栄原氏によると、「寳」に代えて「珎」が用いられた確実な例は、年代がやや下る東大寺伎楽面の「天平勝」四年(七五二)墨書一例を除いて他にはないという。

私は その当時(30年以上も前か?)から "わどうかいほう" が正しいと考えていたので あるが、何とも奇異な事で あった



2. 和同開珎は和同開寳の省画


和同開珎 は 唐朝の貨幣 開元通宝(寳)[註2] を基に鋳造されたもの と考えられている

註2:

開元通宝 は実は 開通元宝 が正しいのかも知れない
本来は 開通元宝 で あったが 開元 と言う元号が使用されてからは 開元通宝 と誤記された もの と考える
文献上も 開元通宝 と記録されているが、これも史書の伝写者が

原史料には 開通元宝 と あるが、これは恐らく 開元通宝 の誤記で あろう

と勝手に解釈され改竄された と言う経緯も考えられる
いや まぁ、当人は改竄の意志は無く訂正したもの と認識していたのかも知れないが


さて 和同開珎 の 和同 は佳字かじを選定されたのかも知れないが、開珎 の 開字 は 元通宝 の 開 にならったで あろう事、誰にでも察し が付く
ならば 珎字 は どこから持って来たので あろうか?

この基本的かつ単純極まる疑問に、和同開珎 は 和同開珍 で ある と主張する論者は回答に窮するのでは無いか
答えは以下の通り で ある

開元通宝

画像の赤枠囲み は私が勝手に書き入れた もので あるが、これを見れば 寳字 の中に 珎字 が収められている事、誰の目にも明瞭で あろう
加工前の画像として、以下を利用している

KaiyuanTongbao - 開元通宝(開通元寳) - Wikipedia 開元通寳

この画像は銅の緑青色で少し見づらいかと思っていたが、以下の見易い画像を見付けたので追加で掲載する
こちらも画像の赤囲み は私が勝手に書き入れている

金開元通宝
( Photo by (c)Tomo.Yun )

加工前の画像として、以下に公開されているものを利用している

ゆんフリー写真素材集
ゆんフリー写真素材集 金開元通宝

漢字は画数が多く筆記が面倒な特殊な言語なので、むを得ず省画が行われてしまう
直ぐに思い付く省画字は以下のような もので あろうか

漢字の省画
省画前 缺,闕
省画後 [註3] [註4] [註5]

註3:

古代鏡の銘文で 銅(青銅) を 同 と省画している箇所が ある
具体的には王氏作竟群や陳氏作竟群の三角縁神獣鏡に鋳上いあげられた以下の銘文群で ある

a) 王氏作竟甚大好 出徐州刻鏤成

b) 王氏作竟甚大眀 出徐州刻鏤成

c) 王氏作竟□青同 上有仙人不知 君宜高官 保子宜孫 □□

d) 陳氏作鏡用青同 上有仙人不知老 君冝高官 保子冝孫 長壽

註4:

甘露五年右尚方師作獣首鏡

註5:

厳密に言えば 罐字 と 缶字 は字義が異なるので省画の関係では無いが、現代では省画として使用されている


これ等を考えれば 寳字 が 珎字 に省画されて使用される と言うのは ありそうな事に思える
加えて 和同開珎 以降に鋳造された貨幣を見るに、どうも一定の法則が存在していた らしい事が読み取れる
【金属が語る日本史 銭貨・日本刀・鉄炮】 P.15

その後、八世紀になると中国・唐の開元通宝をモデルに同開珎どうかいちんが発行され、一〇世紀半ばの乾元大宝
けんげんたいほう
まで、「こうちょうじゅうせん」(古代官銭)と呼ばれる十二種類の銭貨が作られる(図1)[註6]

註6:

図1 には 神功開宝 等の貨幣が並べて掲載されている


もし可能で あれば是非共 引用元の図を参照して いただきたい ので あるが、一応 以下でも目視出来る

皇朝十二銭と関連銭貨

比較するので あれば、以下の表を見る だけ でも良いかも知れない

和同開珎 および関連銭貨
発行順 銭文銘 銭文訓 発行者年 画像
1 開元通宝(寳)/開通元宝(寳) かいげんつうほう/かいつうげんほう 唐朝 武徳4年(621年) 開元通宝(寳)/開通元宝(寳)
2 和同開珎/和開同珎 わどうかいほう,わどうかいちん/わかいどうほう,わかいどうちん 元明朝 和銅元年(708年) 和同開珎/和開同珎
3 万(萬)年通宝(寳) まんねんつうほう 淳仁朝 天平宝字4年(760年) 万(萬)年通宝(寳)
3' 開基勝宝(寳) かいきしょうほう 淳仁朝 天平宝字4年(760年) -
3" 太平元宝(寳) たいへいげんぽう 淳仁朝 天平宝字4年(760年) -
4 神功(㓛)開宝(寳) じんぐうかいほう 称徳朝 天平神護元年(765年) 神功(㓛)開宝(寳)
5 隆平永宝(寳) りゅうへいえいほう 桓武朝 延暦15年(796年) -
6 富(冨)寿(壽)神宝(寳) ふじゅしんぽう 嵯峨朝 弘仁9年(818年) 富(冨)寿(壽)神宝(寳)
7 承和昌宝(寳) じょうわしょうほう 仁明朝 承和2年(835年)> -
8 長年大宝(寳) ちょうねんたいほう 仁明朝 嘉祥元年(848年)> 長年大宝(寳)
9 饒益神宝(寳) じょうえきしんぽう/にょうやくしんぽう 清和朝 貞観元年(859年) 饒益神宝(寳)
10 貞観(觀)永宝(寳) じょうがんえいほう 清和朝 貞観12年(870年) 貞観(觀)永宝(寳)
11 寛平大宝(寳) かんぴょうたいほう 宇多朝 寛平2年(890年) -
12 延喜通宝(寳) えんぎつうほう 醍醐朝 延喜7年(907年) -
13 乾元大宝(寳) けんげんたいほう 村上朝 天徳2年(958年) 乾元大宝(寳)

これの写真画像群を見れば 和同開珎 以外の銭貨は全て銭文の末尾に 宝(寳)字 が添えられている事、誰にでも把握出来る
もう見事な までの統一美とでも言うべきか、貨幣鋳造師の強いこだわり を感得 出来る と思う

ここまで述べれば もう 和同開珎 が 和同開珍 で あるなどと言う奇怪な主張が道理に合わない事は明白で あると思うが、それでも 和同開珎 = 和同開珍 説を固持強弁する者が いるので あれば聞いて みたい
開元通,万年通,神功開,隆平永,富寿神,承和昌,長年大,饒益神,貞観永,寛平大,延喜通,乾元大と 続く貨幣の中で何故 唯一 和同開珎 のみ 和同開 なのか?

この問いに対して万人が納得するに足る回答を示せぬので あれば、和同開珎 = 和同開珍 説論者は自ら をじ入る べき で あろう

ここで、皇朝十二銭では 寳字 の省画で ある 珎字 を採用しなかったのか に ついての私見を書き記して おきたい
和同開珎 の鋳銭者は 寳字 の省画として 珎字 を銭文に鋳上げたが、これを 和同開珍 と誤読する者があらわれたので以降は誤読の余地を生じさせぬために 珎字 ではなく 寳字 を銭文に鋳上げる事と したのでは ないか と考えている



3. 無文銀銭は前王統が発行した貨幣なので抹消された


そもそも 富夲銭 は何故発行されたのか?

思うに、前王統(前王朝かも知れないが)が発行した貨幣で あったので流通を止めて廃棄したかったので あろう
前王統の貨幣と新王統の貨幣を一時的に兌換させて旧貨幣を回収したのか、それとも強引に旧貨幣を無価値と見做して取引を禁止したのか は今と なっては分からない
ただし その契機と なりそうな候補は幾つか ある

例えば、

1) 武烈天皇の王統断絶と継体天皇の新王統 開朝


一応 血縁関係は ある らしい が、別王朝の開基かいき開朝かいちょうに近い と言う遠い親戚で あろう
ただ、これだと少し 富夲銭 が出土する年代よりも古過ぎるか

新王統と までは言わずとも、平穏では無い王位継嗣も候補として挙げて良いと思う
つまり、

2) 天武天皇の王統簒奪


天武天皇 が 弘文天皇 をたおして王権を奪取したわけで、一種の簒奪と言って良いと思う
もし 天智天皇,弘文天皇 の治世を示す貨幣が あった と すれば、天武天皇 は これを抹消したく なったのかも知れない

公開 : 2017年4月9日
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